まず私、高嶋凜子という女について
振り返ってみると、小柴という男に振り回され続けた二ヵ月でした。間違いなく私の医師人生で、いえ、私の全人生においても重要なターニングポイントになることでしょう。それだけ小柴は難解な相手でしたが、結果的には私の凝り固まった知識とプライドをほぐし、自分を見つめ直すきっかけをくれました。
小柴とのやりとりを記録していく前に、まずは私の人となりについて述べておいた方が良さそうですね。何事にも原因があって結果があります。彼への治療を難解なものにした原因は、つい昨日までの私に原因があったのです。彼とのやりとりを「治療」と称すのも、いま思い返すと大変おこがましいのですが、医師として、人間としても未熟だった自分への戒めとして、今日に至るまでの過程を包み隠さずこの場に公開していくことにします。
自分で言うのも何ですが、私はたいへん恵まれた環境で生まれました。謙遜したところで逆に反感を買うでしょうし、これは隠しようもない事実です。ただし、育ち方が恵まれていたかと言うと、そうではありません。この点は多くの方からも理解が得られるはずです。
私の父、高嶋友晴は現在、飛来大学病院の院長をしております。あえて記録することではないのかもしれませんが、総合病院としては地元の愛知県下だけでなく、質量共に国内でもトップクラスを誇る施設と言えるでしょう。特に心臓外科の実績においては世界的にも名が通っているはずです。つい先月も心臓に難病を抱えていた七歳のカナダ人エイケイくんが来日し、飛来大で手術を成功させたことがメディアで話題になりました。そのような大学の院長に上り詰めた父を持つわけですから、金銭的にも、社会的立場としても、私が恵まれた環境にあったのは間違いありません。
では何故、育ち方が恵まれていなかったか。それは父にとって私が唯一の子供だったからです。仕事モードのスイッチを切ると必要以上のことを話そうとはしない父なので、これは母から聞かされたことなのですが、父は最初から子供を一人しか望んでいなかったらしく、結果、生まれてきたのが女である私でした。公言こそしていませんが、父のことですから自分の後を継いでくれる男の子を願っていたことでしょう。
しかし、私が女だからということで父の気持ちが変わることはありませんでした。我が子を徹底的に教育し、自身が持っている全権力、全精力を注ぎ込んで医者にする。これは苦学の末、奇跡的にも現在の地位を手にした父の独善的な野望だったのだと思います。そこに、ただでさえ物静かな母が入り込む余地はありません。ただ一つだけ、私の名前の「凜子」だけは母の希望が通ったそうですが。
父の教育は哀しくなるほど体温を感じないものでした。私の躾はすべて母任せで、学業に関しても家庭教師、進学塾と、基本的に他人任せなのですが、進むべき方向性だけは自分が決める。もちろん仕事が多忙だったこともあるでしょうが、極端に会話の少ない親子関係でした。それは今も変わりません。
こんな弱音を告白するのはもちろん、文章にして綴ることすら初めてなのですが、父が整えた教育環境はあまりに完全すぎて逃げ道がなく、私にとって苦痛以外の何ものでもありませんでした。ロボットです。与えられた課題を機械的に淡々とこなす冷たいロボット。子供らしい遊びをした覚えもありません。だからと言って、父に刃向かうなんてことは……、今なら何でもことですが、当時の私には到底できることではありませんでした。
幼稚園から始まって小中高も一貫して飛来学園を歩み、大学だけは国内最高峰の学歴を求めて学園を離れ、上京することになります。この方針も当然、父によるものでしたが、父のもとから離れられるという一心で私も受験勉強に熱が入り、幸運にも父の希望する最高学府への入学を果たしました。そこでようやく自立した人間らしい生活が始められる。そんな希望を抱き、医師になるための第一歩を進み始めるのです。
しかし考えは甘かった。よくよく考えれば、父が私に自由を与えるはずがなかったのです。東京での一人暮らしを考えていた私に父より宛がわれたのは、母でした。私からしたら母は父のスパイも同然。それは幼少の頃から変わらない認識です。
実際に、母の監視下にあった私は周りの学友たちのように学生らしい生活は送れませんでした。医大生として比較的時間のある一年生でもアルバイトをすることすら許されず、余程の理由がない限り友人と夜遅くまで外食をすることも禁止でしたから、付き合いの悪い私に心から本音を話せるような友人ができるはずがありませんよね。当然、恋人だってできません。そもそも異性への興味に関しては、それこそ幼少の頃に母から根こそぎ奪われていたのです。
当時の私にとって唯一の楽しみ、つまり将来の希望や期待は、遠回りすることなく医師免許を取って一日も早く独立し、開業医になることでした。それが本当の意味で父から自立することになると思っていたからです。だからこそ、心を許せる人もいない寂しいロボットであることを自覚しながらも頑張れたのだと思います。
書き漏らすことのできない拠り所がもう一つだけありました。医学生時代の私には極めたい学問があったのです。それこそが精神医学でした。今まさに私が開業している高嶋メンタルクリニックこそ、長年の鬱屈と忍耐の結晶と言えるでしょう。両親に対する憎しみの捌け口とも言えますね。反抗する勇気も気力もなかった分、勉強にすべてを注ぎ込むことができたのです。医師を目指すしかなかった私が自ら熱中できるような学問に出会えたことは極めて幸運で、恵まれていたと思います。
精神医学に関心を持ったきっかけは、当時、私自身が陥っていたダウンな精神状態について医学的に考えてみたときでした。何故、私は両親に言われるがまま、従順に育ってきてしまったのだろうと。本格的な鬱状態にこそなりませんでしたが、中高、特に高校生のときは、限りなく鬱に近い精神状態にありました。そんな過程で精神医学を志したわけですから、そのきっかけを胸を張って他言することはできなかったのです。
一方で学業に関しては特に挫折することもなく六年で医大を卒業すると、国家試験を合格して晴れて医師免許を取得し、研修医となってからの二年間で私の気持ちがはっきりと「精神科医になる」と固まります。
研修医時代は人間の労働とは思えないほどの扱いで診療科をたらい回しにされ、経験だけは数多く積ませてもらいました。その二年間で私は、人命を救うことに何の魅力も感じなかったのです。精神科医も結果的に人命を救うこともありますが、直接手を下して生身の体をどうにかするという治療ではなく、私は人間の心、つまり深層心理にしか関心がなかった。人命を救うという以前に。
最低ですよね。こんな私が精神を病んで頼って来てくださる方たちの話を善人面で耳を傾け、治療するなどとのたまってクリニックを開業しているのですから。しかしその身勝手な強情さが私から迷いを拭い去り、ぶれることなく精神科医という天職を選ぶことに繋がったのだと思います。
ここまで私の経歴を簡単に紹介してきましたが、細かい人となりについては必要に応じて本文中にも挟み込んでいくことになるでしょう。いかにこれまでの私が愚かな医師で、また愚かな女だったのかがこの記録からよくわかるはずです。ただし、論文以外にこれまで長文を書く機会などなく、また、診療後に必ず残している些細な記録をはじめとした粗雑な日誌を基に記憶を蘇らせていくため、駄文拙文になるのは必然とは思いますが、暫しの間、お付き合いくださいますようお願い致します。