表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
倭国は輝いていた  作者: 讃嘆若人
プロローグ
2/11

第二話 敏達天皇の即位

年代については、定説とは異なる部分が多数あります。

また、フィクションの部分も当然のことながら、多々あります。

 皇太子殺害事件を受けて、倭国内部では粛清の嵐が吹き荒れた。排仏派が徹底的に弾圧され、多利思北孤(たりしほこ)が実権を握った。581年には、倭は年号を「鏡當(きょうとう)」と改元し、多利思北孤は摂政となって急速に仏教化政策を推し進めた。


 そのころ、中国大陸では、大変動が起きていた。

 中国の三大帝国の内、最強だった周が、いよいよ斎を滅ぼしたのである。以前、周が斎を滅ぼそうとした際には、名将・斛律光(こくりつこう)が防戦し、逆に周に攻め込むという強い反撃を受けたが、既に斛律光は粛清された後であったので、周は難なく斎に圧勝したのである。

 577年、斎は滅亡し、周に併合された。

 一方、周の内部では、法律の厳罰化が進み、人心の離反が高まっていた。あまりにも法が厳しいので、多くの国民は逆に政府や法の権威を信じなくなった。周の貴族であった楊堅は、この状況を奇貨ととらえた。

 14歳のころから着実に実績を上げて権力を握っていた楊堅は、宮中の官僚に食い込み、皇位簒奪のチャンスを狙っていたのである。

 そして、581年、ついに楊堅は周の皇帝から位を奪い、「隋」を建国、自ら皇帝となった。後に文帝と呼ばれる。

 文帝は、周の皇族を皆殺しにした。そして、これまでの周のモンゴル族的な政策を一掃し、より中国的な支配体制を築いた。文帝自身もモンゴル人の血が入っているはずであったが、そのような記録は抹殺され、彼も中国人であるということにされた。

 科挙の制度や中央集権制度など、秦・漢の時代をモデルにした統治システムが導入され、中国統一の準備を整えつつあった。


 朝鮮半島では、百済がそれに素早く反応した。

 威徳王・余昌は、隋にさっそく朝貢した。隋が仏教重視の国であったことも、百済にとっては都合がよかった。一方、木刕(もくら)の強い圧力を受けて、引き続き陳にも朝貢を続けることとなり、行き当たりばったりの余昌の外交政策は国際社会の失笑を買うことになった。

 日羅は、そうした百済の現状を見て、還俗(げんぞく)し再び政治の世界に戻ることを決めた。倭が仏教重視の姿勢を鮮明にしたことにより、百済と倭は友好関係を深めつつあり、日羅が政治の表舞台に復帰する環境は整っていた。

 だが、百済と同様、倭の朝貢国として扱われていた新羅は、こうした流れに不満を持っていた。すでに倭の属国である任那を事実上併合した新羅は、倭国本土をも支配しようと考えていた。

 583年、新羅の軍隊が筑紫(福岡県)を襲撃、倭国の軍隊が「神護石(こうごせき)」と呼ばれる山城に籠城したと見るや、今度は瀬戸内海を東に進み、守りの弱い播磨(はりま)を攻撃、播磨平野を焼き討ちにした。倭国軍の反撃を受けた新羅は、補給路を断たれたこともあり、やがて撤退したが、一時的とはいえ、新羅が倭国の首都を襲ったうえに、瀬戸内海の奥まで進攻したことは、特に実際に戦った九州王朝と吉備王朝の関係者に衝撃を与えた。

 当時の倭国は、九州王朝を中心に、吉備王朝、出雲王朝、琉球王朝、大和王朝、毛野(けぬ)王朝(関東王朝)、日高見王朝(東北王朝)、伊予王朝による連邦制国家であった。これらを統括するのが、九州王朝の天王を中心とする「筑紫朝廷」であった。

 筑紫朝廷は、この事件を受けて、連邦の統制を強めることとした。






 583年4月3日、大和では、後に敏達天皇と呼ばれることになる、沼名倉太珠敷命ぬなくらのふとたましきのみことが大王に即位した。通称、他田大王(おさだのおおきみ)池田大王(いけだのおおきみ))と呼ばれた。

 敏達天皇(他田大王)は、仏教を嫌っていた。仏法などという異国の宗教は、迷信である、と言って相手にしなかった。

 一方、倭国の中心王朝である九州王朝は、仏教を重視していた。他田大王即位のうわさを聞いた倭国政府では、彼が大和において大規模な廃仏(仏教弾圧)を行うのではないか、との危惧が広まった。

 果たして、他田大王は物部守屋(もののべのもりや)を従来通り、大連として重宝する、と発表した。当時の大和では、大連と大臣の二人が大王を支える、という体制を取っていた。物部守屋は九州王朝の血を引く豪族ではあるが、彼については仏教嫌いであるとのうわさが存在した。

 ところが、まもなく、筑紫朝廷へ朗報がきた。他田大王が蘇我馬子(そがのうまこ)大臣(おおおみ)に任命した、というのだ。

 蘇我氏は、九州王朝とも関係の深い豪族であった。筑紫朝廷は、この報告を聞いて安堵した。

 池田大王――敏達天皇は、仏教等に関する自分の持論を封印し、九州王朝と融和的な政治を行うことに決めていた。それが、大和の大王としての、責務であると考えていたからだ。

 584年、倭国は年号を「勝照」と改めた。この年の5月、(こし)(今の石川県から新潟県)に高句麗からの使者がやってきた。

 通常、海外の使者は倭国を代表する政府である筑紫朝廷に使者を派遣するのが通例であるが、大和は敏達天皇の前の欽明天皇の時代から、密かに越で高句麗の使いを迎えていたのである。そして、高句麗の使者を大和で接待し、密かに高句麗と日本海を越えて独自に友好関係を築いていたのだ。

 だが、池田大王(敏達天皇)はそのようなことをすれば、九州王朝との関係が悪化すると判断した。池田大王は、筑紫朝廷に対して「高句麗から、人が漂着してきた」と報告したうえで、彼らの身柄を吉備王朝に送った。吉備は歴史的に大和と仲が良いため、良いように処理してほしい、ということであった。

 吉備側も、大和の意図を理解できたので、筑紫朝廷には「私共が、高句麗からの漂流民を責任をもって送り返します」と報告したうえで、船を出して高句麗からの使者を乗せた。そして、船を出してしばらくたってから、高句麗からの使者を全員、海に投げ飛ばした。

 筑紫朝廷に対しては、「無事、漂流民を送り返しました」という、デタラメの内容を報告した。報告に行ったのは、高句麗の使者殺害の実行を指揮した海部直(あまのあたい)難波(なにわ)であった。


「官僚たちの間では、海部直(あまのあたい)難波(なにわ)の報告はどうも怪しい、という声が上がっています。」

 多利思北孤は、そう、斗玉(ますたま)天王に報告した。

「さて、どうしますか?このまま、返しますか?」

「君は、どう思うのかね?」

 天王は、訊き返した。

「私も、彼の報告を信じる訳には、行きません。まず、大和の支配地に来た漂流民を、吉備が送り返したという、その話からして不可解です。大和側が送り返しても何の問題もありませんし、仮に大和に漂流民を送り返せない事情があるとしたら、それは筑紫朝廷の仕事であって、吉備王朝の仕事では、ありません。」

「では、どうして、吉備王朝はそのような真似をしたのかね?」

「漂流民を高句麗に送り返すことができない事情が大和にあり、かつ、そのことが我々にばれるのは避けたかった。そこで、大和は吉備に協力を依頼し、吉備もそれを了承した、ということでしょう。」

「その、事情とは?」

「それは、陛下もよくご存じのはずですが?」

 大和王朝が高句麗と関係を持っていることは、筑紫朝廷でも公然の秘密であったし、それに関して蘇我氏からの情報提供もあった。ただ、九州王朝としても新羅との戦いで国力を消耗していたため、大和との無用な対立を生む余裕はなく、政治的判断で見逃していただけだ。

「私が摂政としての権限を行使すれば、今回の事件を機に、大和と吉備の反朝廷勢力を一気に粛清、と行きたいところですが、恐らく、陛下はそれには反対でしょう。」

「その通りだ。今回の件も、見逃してやれ。」

「わかりました。ですが、海部直難波を吉備に返しは、しません。」

「どうしてかね?」

「しばらく、朝廷で働くように命じて、彼に関する情報を収集します。何かが起きそうな予感がします。」

「わかった。あまり、強権を使いすぎると反発を生むから、気を付けるように。」

「ええ。仏教以外の件では、もう、強権を発動はしません。」


 585年5月5日、再び越に高句麗からの使者がきた。

 大和では、端午の節句――当時は菖蒲の節句と言ったが――の日が祝われていたころだ。百姓の家では女性が家にこもって身を清め、田植えの前に(けが)れをはらう儀式を行っていた。そのタイミングでの、越からの知らせは大和に若干の動揺を与えたが、池田大王の判断は明確であった。

 今回は、筑紫から海外から客が来た場合は、「仮に漂流民であっても」筑紫朝廷へ連れていくように命令が出ていたので、池田大王も彼らを筑紫へ送ることにした。

 物部守屋は「もしも彼らを筑紫に送ったりすれば、筑紫朝廷からこれまでの行為を裁かれるかもしれない」と述べ、今回も以前のように殺してしまうように主張していたが、蘇我馬子は「筑紫朝廷も今さら、前の大王の時代の行為をとがめる気はないでしょう」と進言し、それを採用したのである。


 こうした、大和と筑紫朝廷との駆け引きも、朝鮮半島の諸国には筒抜けであった。

 彼らは、激しい諜報合戦を行っており、満洲から朝鮮半島北部を支配し、中国とも戦っていた高句麗、それに対抗する朝鮮半島南部の百済に新羅も、それぞれ国家の存亡をかけて、強固な諜報網を築いていたのである。


 朝鮮半島における諜報合戦は、かなり激しいものであった。『日本書紀』にも度々、倭へやってきた半島のスパイを摘発した記事が掲載されているが、日本列島ではありえないほど、多くのスパイが半島にはいたのである。

 当然、スパイの歴史はなかなか記録には残らないが、中には歴史に残る大きな手柄を立てて、史書に残った者もいる。




 ――約百年前、高句麗には「道琳(どうりん)」という大物スパイがいた。

 彼は、無実の罪で国を追われて、百済に亡命した。無論、これは自作自演である。道琳のことを、百済が信じるように、わざとそうした話をでっち上げたのだ。

 さらに、道琳は官僚ではなく、一介の僧侶にすぎなかった。僧侶と言えども、当時は国家権力に組み込まれているのであるが、官僚と比べると、疑われにくい。

 当時の百済の国王は、賭博が好きであった。当時の百済では、囲碁の勝負に金を()ける博打(ばくち)が流行していた。道琳は、賭博はしなかったが、囲碁は得意であったので、百済に亡命すると、王宮の門番の者にこう言った。

「私は幼少のころから碁を学んで、たいへん上手になりました。王様は囲碁がお好きだと聞いております。どうか、王様の側近の方に申しあげて下さらないでしょうか?」

 この話を聴いた王の側近が、試しに道琳と囲碁を取ってみると、果たして、中々の名手であったので、汪に紹介することとした。王は道琳をかなり気に入って、上客として丁重に扱い、時間があれば道琳と囲碁を取ることにした。

 かなり、王が道琳と懇意となったある日のことである。

 王は、道琳の前でくつろぎながら、碁を打っていた。

「君も、くつろぎたまえ。」

 そう、王は道琳に語る。道琳も姿勢を少し崩したが、どこかぎこちない。

「道琳よ、何か、気になることでもあるのかね?」

 王は、気になって道琳に尋ねた。

「いえ、申し訳ございません。少し気になることがあっただけですが、王様には申し上げないほうがよろしいでしょう。」

「何を言うのか、私と君はこうして毎日のように囲碁を打つ仲ではないか、気になることがあれば、何でも言いたまえ。」

「しかし、王様が不快になるかもしれない話であります。」

「私の政治に何か、問題があるとでもいうのかね?」

「そういうわけではございません。王様は本当に素晴らしい方であります。・・・ただ、それに近い問題ではあるのですが――」

「何かね?遠慮せずに言ってみよ。」

「わかりました。しかしながら、私は、異国の人間なので、もしかしたら、大きな勘違いをしているかもしれません。そのことで、失礼があったとしても、お許しください。」

「いいとも。何でも、正直に言いたまえ。」

「この国は、四方には素晴らしい景観の山や、海に川に恵まれていて、誠に素晴らしい国です。しかし、にもかかわらず、王様の住んでいる宮殿は、私の故国の高句麗の王の宮殿と比べても、見劣りするのであります。私は高句麗を追われて百済の者となりました。百済こそが、私の本当の祖国であると思っております。にもかかわらず、その百済の王宮が、高句麗の宮殿よりも見劣りするのは、本当に残念なことであります。」

「そういうものかね?」

「はい。高句麗に負けないぐらいの豪華な宮殿をに、王様には住んでほしいと思っております。」

「そうか。」

「王様の住む宮殿の立派さは、国家の威信にもかかわります。憎き高句麗の王よりも、自国の王が貧乏であると知ると、国民も悲しむでしょう。」

「なるほど、わかった。考えてみる。」

 こうして、百済の国王は道琳のアドバイスを聞き入れて、自分の王宮を豪華なものに改築した。それにかかった費用は、国家の財政が傾くほどの者であったので、国民の王への不満は高まっていた。

 百済の財政が悪化した情報は、道琳から高句麗へと報告された。


 475年、高句麗は百済へ総攻撃としかけ、首都を占拠し、一時期、百済を滅ぼす大圧勝となった。

 今の百済は、その後、再建された国である。一時的とはいえ、諜報戦での敗北が国を亡ぼすことを知った各国は、さらに諜報合戦を繰り広げることとなった――




 大和に高句麗がたびたび使者を送ったのも、高句麗の情報戦の一環であった。

 大和と吉備が共謀して、高句麗の大使を暗殺したことも、高句麗は百も承知であった。だからこそ、このタイミングで大和に再び使者を派遣したのである。

 同様の情報は、百済にも入ってきていた。すでに木刕(もくら)は高齢により引退していたが、彼が築いた情報網は、まだ生き残っていた。

 倭国の貴族の家に産まれた日羅も、当然、この問題には関心を払っていた。

 7月15日、一旦出家したものの、再び政治の世界に戻った日羅は、国王が仏教好きということもあって、重宝されるようになっていた。威徳(いとく)王・余昌は、日羅を呼んで彼の意見を聞くこととした。

「高句麗の使者は、一体、どうなっているのだろうか?」

「5月5日に大和王朝の支配地である越についた彼らは、もうそろそろ、筑紫に着いていると思われます。」

「速報が知りたいものだが・・・・。」

「さすがに、海を越えてリアルタイムで倭国の情報を知ることは、無理ですね。だいたい一カ月、早くても数日は()たないと、情報はやってきません。」

「それは、当たり前だ。別にそういうことを言いたいのではなくて、私が知りたいのは、倭国と高句麗が手を組むか、だ。」

「失礼。それはわかりませんが、高句麗が倭を敵に回したくはないのは、事実でしょう。何しろ、今の高句麗の最大の仮想敵国は、隋です。」

「全く、私が王になってから、大陸では帝国が2つも滅んで、隋なる国が誕生し、驚いておるが。」

「王様、それは、素晴らしいことではないですか!歴史の転換点に、私たちは立っているわけですよ?ここで百済を発展させるのも、滅ぼすのも、王様次第。いずれにせよ、王様は我が国の歴史に残る王となるのです。」

「そうはいってもだな・・・・。」

「王様には、歴史に残りたい、という野心はあまりないのかもしれません。しかし、今の状況はチャンスです。そして、一歩間違えると国を滅ぼします。王様の責任は、重大なのです。もはや、陳にも未来はないでしょう。我が国は、倭と隋の両国の間に立って、半島キャスチング・ボートを握るべきです。」

 そこまで言っても、余昌は中々、首を縦には振らなかった。

「我が国は、去年の十一月にも陳に朝貢の使節を送ったし、今年の初めにも陳へ朝貢したばかりなのだが。」

「王様、倭国も陳へは朝貢を行っておりません。他の国々も、次第に陳を見放しつつあるのですよ?」

「わかったよ。考えておく。」

 今一つ、煮え切らない態度の余昌の言葉を聞いて、日羅は退室した。

「どっちつかずの態度はなぁ。」

 誰にも聞こえないように、日羅はぼやく。日羅の想像以上に、余昌は外交の素人であった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ