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異聞・妖刀百物語  作者: 痴れ者ラボ
怪談長屋騒動記
58/76

高女ノ七.女難




 実の所、徳丸五平は怪異の類を信じるだけの信心を、持ち合わせていた。


 いや、正確には怪異の実在を信じ切れるだけの経験をした事がある、と表現すべきか。

 切っ掛けはおよそ、一年前。

 とある役人と結びつき、『たつみ屋』を乗っ取って徳丸一家の勢力を大いに強めていた時分だ。

 大きな根城を得、やくざ者の宿命か日々命の危険を感じていた五平は、ある日とうとう用心棒を雇う事にしたのである。

 勢力を――それも人々の生き血を啜るような方法でのし上がった五平には敵が多く、それは当然の成り行きであっただろう。

 果たして、目を掛けていた口入れ屋が連れてきた数人の浪人者の内、その奇妙な侍が混じっていた。


 その侍は他の浪人者とは違い妻帯者で、初顔合わせの席で何を考えてか、報酬は半額でよいと申し出てきた。

 そのかわり、女房諸共に当時根城にしていた屋敷の離れに住まわせて欲しい、と願い出てきたのだった。

 五平にしてみれば破格とも言える旨い話であったが、破落戸共の巣に妻を住まわせるなど浪人者の申し出は、あまりに常軌を逸している。

 もしや官憲の密偵であるのか――

 そうも考えたが、しかしそれにしてもやはり不自然な程、突飛な申し出だ。

 用心深い五平は一端返答を保留した後、浪人者を紹介した口入れ屋に二人の背景を探らせ、程なく信憑性の高い話を入手する事ができた。

 どうやら浪人者の女房は身分が有り、浪人者と駆け落ちでもしたのか人目に触れるのを極端に嫌う性質であるらしいのだ。

 それを知った五平は大いに得心して、浪人者の条件を受け入れそれどころか離れでの生活が窮屈にならぬよう、手下にあれこれ生活用品を用意させては、近寄ることを禁じたのである。


 ――徳丸五平は決して味方と確信を持った人物に対し、気前が良くなる性質ではない。

 まして試しに用心棒同士で腕試しを行った際、実直そうな件の浪人者が圧倒的に強かったからといって過分な待遇を施す人物でもない。

 この浪人者の女房が、それまで見たことも無い程圧倒的なまでに美しかった為、五平の気前は天井知らずに良かったのだ。

 つまり徳丸五平がこの浪人者の条件を受け入れ、雇う事を決めさせた背景には、浪人者の女房への下心があったのである。

 およそ隙を見てこの女房に言い寄り、愛人にしてしまおうと考えていた五平には、血迷わせるに十分な確信があった。

 何せ“駆け落ち”は立派な罪と成り、そうでなくとも見つかった場合身分がある者となれば、家中の者か縁者によって殺されていた時代。

 二人は十中八九“駆け落ち”であると踏んだ五平は、女房を手籠めにした後、この辺りを言い含め男だけでも助けてやろうと脅す心積もりであったのだ。


 一応の注記を施すならば、本来ならいくら無法を商う徳丸五平とて、身内の者の女房に手を出す不義は犯さない。

 悪党にも悪党なりの通すべき筋というものがあるし、そんな事をすれば折角高めた自身の威厳が地に落ちてしまう。

 しかし生まれて初めて見る本物の貴人の女――それも吉原の上等な遊女や花魁すら霞むような美女を前にして、持ち前の獣性を押さえきれなかった五平だった。

 それから間もなく五平は悪巧みを実行に移し、浪人者が適当な理由を付け外出させた後、女の居る離れに押し入ったのだが。


 そこで怪異は、唐突に現れた。

 待ちきれぬとばかりに股間を滾らせながら、離れの障子を開け放った時である。

 生暖かい風が室内から外へ吹き抜け、“それ”の声を五平は確かに聞いた。

 “それ”は間違いなく、女が発した声であった。

 女は離れの部屋の中、上座に凛と座り闖入してきった五平を見据えて、確かに言ったのだ。

 ――これは俺のものだ、と。

 この世のモノとは思えぬ、怨嗟が込められた男の声。

 あまりにおぞましい憎悪に面食らい混乱した五平は、思わず叫び声を上げるも言葉は出せず、その場にへたり込んでしまった。

 生まれて初めて遭遇する人ならざる者の憎悪は、悪党で鳴らした男であっても恥も外聞も無く失禁させてしまう程におぞましい。

 ただ幸運だったのは、この時五平は障子を開け放ちはしても敷居を跨がなかった事だろう。

 やがて五平の叫び声に異変を見た手下らが数名駆けつけてきて、へたり込む五平に何事かと囲うのである。


 瞬間。

 離れの敷居をまたいでしまった二人の男らが、どこからともなく現れた巨大な人の腕によってわしづかみにされ、部屋の中へ引き込まれてしまった。

 突然の事にその姿を追うと、手を広げれば人一人掴めそうな程巨大な腕は上座に座り続ける女の背後、女の影の中から二本生えているではないか。

 腕は筋骨隆々とし、イノシシのような体毛が指にまで生えて、その爪は伸び赤黒く変色している。

 その、異形の腕がそれぞれに一人ずつ、五平の手下を人形のように掴み取り――徐に豆腐のように握り潰し、引き裂きはじめた。

 男らの獣の様な断末魔はすぐに途絶え、暫くはゴキリと骨を折り砕く音と、肉を裂く音が離れの中から漏れ出て行く。

 程なく腕は、肉塊に変わり果てた彼らを影の中に引きずり込み、くちゃり、ゴリゴリと咀嚼する音だけが部屋に残ってゆく。

 その間、浪人者の女房は――奇妙な事に巫女装束を纏ったまま、微動だにせず座り続けていた女房は、美貌を一切崩さぬ無表情で五平が開けた障子の外を見つめ続けて居たのである。


 そんな事があってか、日も経たぬ内に浪人夫婦は屋敷を出て行く事となった。

 翌日の朝、浪人者が“悪いが用心棒を辞めたい”、と申し出てきたのだ。

 件の女房は夫に何があったのかを話した様子は無かったが、手下達の離れに対してあまりの怯えように浪人者は何があったかすぐ悟ったらしい。

 五平としても彼の腕前は惜しかったものの、あまりに不気味なあの女房と同じ屋根の下で暮らすのはぞっとしない。

 故に五平は快くこれを受け入れ、『たつみ屋』の内情を漏らさぬ為の口止め料と称し、多額の金子を浪人者夫婦に渡してこれを送り出したのだった。


 ――その時だ。

 徳丸五平が“蠱惑魔の面”を手に入れたのは。

 面は浪人者が多額すぎる報酬に対し、よく妻の面倒をみてくれた礼だと称して置いて行った品だ。

 これを被ると一度だけ、何か一つ妖術が使えるようになる品だと言い残し置いて行った物であったが、当然五平は気味悪がりしばらくは放置していたのである。


 やがて時が経ち、おぞましい離れでの一件おろか浪人者夫婦の名すら忘れた頃。

 ある酒の席で五平はふと面のことを思いだし、度胸試しと称して新入りの男にこの面を被らせる事にした。

 男の名は平吉へいきち

 縁日などで売られる面を作る職人くずれで、つい先日一家に加わったばかりの何処にでもいるような破落戸である。


「面を付けたあと平吉の野郎、まるっきり人が変わりやがって――ひぃいいい!」

「案ずるな。その平吉とやらの事を話している間はしっかり、護ってやる故」


 部屋の隅、追いやられる様にして固まる五平はいつもの矜持はどこへやら、情けなく悲鳴を上げた。

 五平とにじり寄る面を付けた手下共の間、陣衛門の脇をすり抜け匕首を握った人の腕が飛んで来た為だ。

 しかし陣衛門は一瞬身を翻し、これを難なく打ち据え手の甲を両断し、すんでの所で五平の身を護るのである。


「おのれ、この化け物どもめ!」

「ほほ、“蠱惑魔”に操られているとはいえ仲間にえらい言い様じゃなぁ」

「黙れ女怪!」


 一方、反対側の部屋の角ではタキと栗生清太郎が追い詰められていた。

 清太郎はタキを背に護るようにしながら、折れてない方の腕で懸命に剣を振っている。

 否、タキを護る為でなく、どういう訳かタキが清太郎の背後より怪異と化した手下の攻撃を防いでやっているようだ。

 その証拠に、先程から切断された手足や頭部が“飛んでくる”際、タキが手を翳したものについては糸の切れた人形の様に地に落ちている。

 栗生清太郎が陣衛門に片腕を折られて尚戦えたのは、偏にタキの援護があっての事だろう。


「ごぉあ」

「いぎっ」


 何度目か、陣衛門や清太郎に腕を、胴を、足を、首を斬られ仮面の奥苦悶の声を挙げて倒れる手下達。

 しかし彼らは手近な場所に転がっている手足を傷口に“くっつけて”は、ゆっくりと立ち上がり再び緩慢な動作で襲いかかって来ていた。

 更には“くっつく”先の無い手足や首は、時折蛍のように宙に浮いては、矢のように飛んでくるのである。

 これに陣衛門やタキにとっては打つ手が見当たらないのか、それとも何か思う所があるのか――

 斬れば斬るほど不利になる状況下、陣衛門もタキも特に有効な手立てを行使出来ず、必然一同は徐々に後退し、部屋の隅に押しやられる格好となっていた。

 そんな折、陣衛門は何を考えてかタキではなく五平を背に護ってやりながら、“面の妖術師”について尋ねたのがつい先程の事。

 徳丸五平は恥も外聞も無く、面と妖術師について知りうることを叫んでいたのである。


「くそ、くそくそくそ、あの野郎! まさか俺ごと旦那を殺そうだなんて……ひぃ?!」

「それで五平親分。その平吉とやらはどうなった? 何処にいる?」

「ひ、ひ、くそ……あの野郎、面を付けた途端人が変わったかのようにえらそうな口をききだしやがって……突然、面をよこせなんて言い出しやがった」


 ギィン、と金属音が響く。

 誰かが投げたらしい匕首を、陣衛門が弾いた音だ。

 はじき飛ばされた匕首は天井に刺さり、追って血しぶきがその柄を紅く染める。

 周囲の壁や床は赤一色。

 人数ではなく、細切れに成りながらも“数”で押し寄せる“蠱惑魔”の面に魅入られた手下達は、既にその大半は五体満足では無い。


「親分、早くせねば護りきれぬ量になるぞ」

「あ、あ、あとは……戯れに仮面を渡してやったら野郎、その仮面にまじないをかけて他の奴に被せたんだ! そしたら、被った奴は人形みてぇになったり、力士みてぇな力持ちになったり、色々だぁ!」

「それを“裏”の仕事に利用したのか?」

「そうだぁ! 畜生、こんな事になるなら辞めときゃよかったんだ!」

「して、その平吉とやらは?」

「死んだよぉ! 一枚目の面を作った後、今被ってる面はなるべく人気の無い離れに安置しておけって言い残してな!」

「ばかな。では他の面はどうやって用意したと言うのだ?」

「普通の面を買ってきて離れに一晩置いとくと、模様や形が変わってモノノケが取り憑くんだ! おらぁ、そいつを手下共に被させて危ねぇ仕事を請け負ってたんだ! 本当だ、信じてくれ!」

「旦那様。そろそろ……」


 部屋の反対側から、タキの声が掛けられる。

 声には焦りはないものの、いつもの余裕は感じられない。

 見ればあちらは陣衛門らよりもさらに形勢が悪く、栗生清太郎の振るう剣は見るも無惨に雑な物となっていた。

 ともすれば一刻もしない内に命を奪われてしまいかねない状況である。


「もう少しだ、タキ。……親分」


 しかし陣衛門は力強く斬り込んできた首と片腕の無い、手下だった男の斬撃を受け押し返し、背後で震える男に問い続けていた。

 彼にとってタキはともかく、栗生清太郎を助ける義理はない。

 困って居る他人に手を差し伸べてしまう程情に厚く見えたかと思えば、襲いくる破落戸を躊躇無く斬れる程、酷薄な面も持ち合わせているのが立花陣衛門である。


「その浪人者の……夫婦の名は覚えているか? 面を置いて行った」

「ああ、ああ! 覚えているとも! た、た、助けてくれ!」

「言えば助かる」

「う、臼木、臼木陣三郎って侍だ! にょ、女房の名は譲葉ゆずるはって名前の、離れの中じゃいつも巫女装束の女だった!」


 絶叫のような五平の言葉を合図に、刹那、すべての音が消えた。

 既に人の形を整えてはいない者どもが、一斉にその動きを止めたからだ。

 だが――

 室内に満つる不快な気配は先程よりもずっと濃く深く、粘り着くようにあらゆる者に怖気を与えていた。

 気配の名は殺気。

 あるいは、触れるだけで嘔吐を催させるような憎悪、憤怒、剣気、敵意。


「そうか」


 地の底より湧き出るかのような声は、立花陣衛門のもの。

 まごう事無く室内を満たす気配の主である。


「タキ、思いがけず“俺の”手がかりを見つけたぞ」

「……はい、旦那様」


 轟、と風が吹く。

 先程自身を囲っていた手下達を斬った時よりも、更に強く、凶暴に。

 ただそれだけで、部屋の中蠢く者は誰一人として居なくなった。

 部屋中の天井から飛び散った血の雨が滴る中、何時の間に移動したのか中央には剣を納めている陣衛門とタキの姿。

 それを、五平と清太郎は歯を鳴らしながらただ、見つめている。


「陣三郎……やっと」

「“蠱惑魔”の面、処理して参ります」

「いけ」


 明らかに纏う雰囲気を変えた二人は、そのようなやり取りを残し今度はゆっくりと動き始めた。

 タキはそれまでの傲慢で不遜な態度をすっかり消して、しずしずと部屋を出ては離れの方へ歩いて行く。

 一方陣衛門はゆっくりと部屋の隅で震え上がる五平の元へ近寄り、人が変わったかのような恐ろしい空気を湛えたまま、口を開いたのだった。

 ソレまでとは違う、低く負の感情が色濃く伺える声色で。


「臼木陣三郎の行方を知っているか?」


 しかし五平は首も千切れんばかりに横に振り、かつて味わった恐怖を遥かに凌ぐ圧にくぐもった声で唸るばかりである。


「……そうか」

「戻りました」

「……早かったな、タキ」

「所詮は付喪神と変わらぬ器物故。先程の騒動が精一杯の抵抗だったのでございましょう」

「腹は膨れたか」


 いじましくも荒れはてた室内の外、廊下に傅き手を突いて報告するタキに問いかけた言葉は、既にいつもの陣衛門が纏うそれとなんら変わらない。

 妖婦は顔を上げ、一瞬陣衛門と視線を交わした後。

 柔和な笑みを浮かべ、はい、とだけ返事をした。


「では戻るか」

「あい、旦那様」


 短く言葉を交わし、夫婦はそのまま何事も無く部屋を出て行く。

 未だ血の雨が降り人の原型を留めぬ死体が転がる地獄絵図の中、しかし。

 生き残った徳丸五平と栗生清太郎は深い安堵を覚え、しばし呆然としてしまうのだった。


 『たつみ屋』に騒ぎを聞きつけた役人達がやって来たのは、それから半時も経ってからである。



 後日、怪談長屋。


 昼過ぎ、陣衛門が居を構える部屋に来客があった。

 同心・宇喜田宗虎である。


「今朝、斉藤様に呼ばれてな。高原藩の件、『たつみ屋』で騒動があってより面をした賊の侵入はピタリと止んだようだと仰せになっておった」


 そう言って、しゅるると音を立て一口、湯気立つ湯飲みに口をつける宇喜田。

 宇喜田宗虎は上がり框に腰掛け、借り住まいではあるが主の陣衛門と対峙して、安堵の表情を浮かべていた。

 二人の間には盆が置かれ、珍しく茶の入った湯飲と小皿に盛られたきんとんが二つ、並んでいる。


「では?」

「うむ。『たつみ屋』での件、これ以上お咎めの詮議がお主に向かぬよう、更に手を回してくださるようだ」

「それは良かった」

「ほほ、当たり前じゃ。誰のために旦那様が手ずから動いたと思うとる」

「タキ」


 陣衛門は背にしなだれている妻の名を、たしなめるように呼んだ。

 しかしタキは陣衛門の背からひょっこり顔を出し、宇喜田を睨みつけてぷくりと肩頬そ膨らませては、ぷいと横を向いて反抗の意思を示した。

 武士の妻として来客を迎えるには、あまりにはしたない行為である。

 徳丸一家の根城に乗り込んでより約十日。

 以来タキはずっとこの調子で、じゃれるように甘えて来ては幼子のように反抗する事が以前よりも多くなっていた。


「いんえ、旦那様。言わせてくださいまし」

「タキ殿。物事には限度というものがござる。一夜にして徳丸一家の名うてが殆ど斬り殺されれば、如何に斉藤様とて朝夕に庇いきれるものではござらん」

「宇喜田の言う通りだ、タキ」

「ふふん、連中は薄汚い下郎ではないかや。むしろ、そのような者らを放置しておった公儀にこそ、咎めがなくてはの」


 そう言いながら、タキは再び陣衛門の厚い背に頬を埋め、スリスリと頬ずりをした。

 まるで甘える猫のような仕草だが、タキ程に妖艶な女が行えばそれだけで妖しげな空気が見る者に見えてくる。

 だからか、流石の宇喜田宗虎も目のやり場に困り、咳払いを一つして会話を強引に推し進めた。


「――当然、今回の一件で徳丸一家と通じておった同心や岡っ引きらにも詮議の手は伸びておる。……既に三名、腹を斬ったしな」

「そうか。それは奉行所の方も大変だな」

「ああ。与力の方までは賂を受け取ってはいなかったが、その家臣が受け取っていたとあらばなんらかの責は取らねばなるまい」

「宇喜田は大丈夫だろうな?」

「当たり前だ! 滅多な事を言うな陣衛門」

「すまん。だがそう怒るな。わかっておるから聞いたのだ」


 温厚な偉丈夫が珍しく見せた怒りに陣衛門は微笑みで返しながら、徐に湯飲みを手に取り啜った。

 それからこれでも食えとばかりに、きんとんが乗った小皿を宇喜田に一つ押してみせるのである。

 宇喜田はむっと唸りつい声を荒げた事を後悔して、気を取り直すべく竹さじに手を伸ばしきんとんをすくった。

 一口。

 瞬間、宇喜田の表情が驚きに彩られる。

 濃厚な甘みと芳醇な香りは、それまで口にしてきたきんとんとは一線を画すものであったからだ。


「そういえば、徳丸五平は捕まったのか?」

「む、ぐ……う、うむ。しかし、表立っては捕まった事にはなっておらん」

「ほう?」

「斉藤様の計らいでな、極秘裏に面の妖の首謀者として高原藩の手の者に引き渡したのだ」


 話し終わって、一口茶をすすり、改めて匙を口に運ぶ宇喜田。

 先程よりも少ない量をすくっているのは、それで十分なほど濃い味だからか、それとも一掬いでも長くきんとんを愉しむ為か。


「なんとそれは……公儀にしては随分と思い切った事をしたな」

「大名家の縁者の名が出てきても不思議では無いからな。ともすれば……正室の名が出るやもしれんのだ」

「臭いものには蓋、というわけか」

「おんや? もう一人、生き残りがいた筈ですが……」

「む。そうだったな、タキ」

「あの軽業師はどうなったのでしょう、宇喜田様?」

「軽業師?」

「徳丸一家で用心棒をしておった者だ。たしか……栗生と名乗ったな。こと抜き打ちは中々の使い手だ」

「うふ、しかし利き腕を旦那様にヘシ折られました故、もはやあの軽業は望めますまい」

「いや……『たつみ屋』で捕縛したのは徳丸五平只一人、と聞いておる。恐らくは逃げたのだろう」

「そうか。まあなんにせよ、これで『えぼしや』の梅吉殿のように徳丸一家に泣かされる者はいなくなるな」


 陣衛門の台詞に、隙を見て茶を啜りきんとんを口に運ぼうとしていた宇喜田がぐふとむせる。

 およそ友人とは結びつかぬ有名人の名が出て来て驚いた為だ。


「『えぼしや』の梅吉殿――て、陣衛門。お主、何時の間に“あの”深川随一の芸妓と知り合いになったのだ?」

「なんだ宇喜田、知らなかったのか。斉藤様の命で高原藩の者と落ち合ったのが『えぼしや』でな、梅吉殿はそこの女将だ」

「……拙者は寝込んでおった故」

「そうか、何も聞かされてはいなかったか」

「うむ」

「何、行きずり上徳丸一家とのいざこざに巻き込まれてな。少々“身の回りの世話”をしてやったのだが……先方はそれをいたく喜んで、何かとこちらの世話を焼いてくれるようになったという訳だ」

「……ほんとうに“あの”梅吉なのか?」

「む? 深川には何人も“送り後家”と揶揄される梅吉が居るのか?」


 宇喜田宗虎は陣衛門の問いに絶句でもって応えた。

 江戸には幾人か、当世一と呼び声の高い美女達が居る。

 それは大名家の姫君であったり吉原の花魁だったり、深川の芸妓だったり果てはどこぞの茶店の某小町であったりなのだが、深川芸者の梅吉と言えば遊び事には疎い宇喜田ですら知る有名人であった。

 曰く、その美貌は深川随一、立てば芍薬座れば牡丹歩く姿は百合の花、しかし男には決して靡ぬ気風は江戸っ子の鏡と評されている。

 故に宇喜田には、自身よりも更に“疎い”陣衛門が梅吉と懇意になるなど、想像もつかぬ事態と言えよう。

 そのような時、宇喜田には甘味と暖かな茶は有り難い。

 武士に肝要な平常心を取り戻す為、茶を一口、それからきんとんを一掬い。

 芳醇な味わいが口内に広がり、友人の意外な“釣果”への驚きなど一気に霧散する。

 ――うまい。

 これはやはり格別だ。


「ところで陣衛門。このきんとんは旨いな。どこで手に入れた?」

「これか? これは先日宇喜田が言っていた『かちや』のきんとん……らしい」

「な、なに?!」

「『えぼしや』の梅吉殿がな、お主の事を話したら是非共に食ってくれと先日手ずから持って来てくれたのだ」

「な、んと……」

「改めて今度一緒に遊びに来てくれと言われておるっが?!」

「……旦那様。妾の前で、他の女の話など……ゆるしませぬ」


 拗ねたような、女の声が陣衛門の背から聞こえて来る。

 梅吉の話が続く二人に気を悪くしたのか、タキは陣衛門の首筋に歯を立て強く噛んだのである。

 それから、他の女の話などするなと釘を刺し歯形のついた首筋に舌を這わせて、再び陣衛門の後に戻って頬を固い背に押し当てた。

 果たして目のやり場がないのは宇喜田であるが、いつもとは違う、まるで小娘のような嫉妬が見え隠れするタキの甘え方にふと――


「どうした宇喜田」

「い、いや。以前タキ殿が言われた、“女難”とやらがどのようなものかわかった気がしてな」

「む」

「宇喜田様。言わぬが華、でございましょう」


 陣衛門の背からぴしゃりと言い放つ、タキの台詞に宇喜田の考えは確信へと変わった。

 どうやら辰巳芸者・梅吉に懸想する相手ができたらしい。

 それを思えば、タキの態度にも納得がいく宇喜田である。

 ――否、今はそれよりも話題を変えた方が良さそうだ。

 宇喜田は先日タキの怒りを買い寝込んだ事を思い出し、これ以上刺激しない様内心慌てながらも話題を変える事にした。


「そういえば……陣衛門」

「なんだ」

「斉藤様よりこのような書状を預かってきた」


 忘れていた訳では無かったが、去り際に置いて行こうと思っていた書状を懐から取り出す宇喜田宗虎。

 それを陣衛門に手渡し、きんとんの最後の一掬いを口に放り込んで入り口の方を向いた。

 この場を立ち去るには良い塩梅である。

 が、陣衛門は受け取った書状を開く前に、そんな宇喜田の袖を引いて盆の上、ついと自分のきんとんが乗った小皿を押した。


「まあ、ゆっくりしていくがいい。これも食っていけ」

「や、しかし」

「仕事中ではあろうが、ここへこの書状をもってくるのも仕事だろう? 俺がこいつを読み終わるまで位なら構わぬさ」

「……そ、そうか。なれば」


 遠慮がちな言葉とは裏腹に、宇喜田は嬉々とした指先で竹さじを操り、陣衛門のきんとんを一つすくう。

 味わう甘味は極上。

 この上ない至福が宇喜田を満たしていった。


「……ふむ。これは高原藩の御家老からの書状だな」

「む、そうなのか?」

「どうやら今回の件での礼状の代わりらしい。口止めを兼ねて、な」

「……そうか。ご正室・芳の方が黒幕などという、噂話も昇っていたからな」

「うむ。その辺りが有耶無耶になったまま解決できて、胸をなで下ろしているのだろう……む?」

「どうした、陣衛門」

「……いや」

「うふ、おぞましい面の妖について、鶴姫様が話を伺いたく一度顔をだせぬか、と書いておりますなぁ」

「タキ?」

「タ、タキ殿?!」

「ほほ、大方引き渡された徳丸五平より、旦那様の事とあの日の怪事が漏れたのでしょう」


 陣衛門の背後でゆらりと立ち上がる、タキ。

 その姿は艶やかであったが、絵巻物で見る“高女”の如く嫉妬の炎を纏っている。


「そっ、それではこれにて。御免!」


 その姿を見た瞬間、宇喜田宗虎は巨躯に似合わぬ素早さで陣衛門の部屋を後にしていた。

 多く食べ残した陣衛門のきんとんが後ろ髪を引くが、背に腹は変えられない。

 何より、人の身で怪異と対峙するのは極力避けるべきなのだ。

 怪異を斬る友を持つからこそ、その恐ろしさは身に沁みている宇喜田宗虎である。

 果たして翌日、長屋の住人から陣衛門が珍しく寝込んでいる事を聞いた宇喜田は、決して陣衛門の所へ見舞いには行こうとはしなかった。

 何があろうとただひたすら、毎日入り口の木戸の所で陣衛門が回復し起きているのかを長屋の住人に尋ねては、怯えたように部屋の入り口を確認するばかりだ。


 その様はまるで“高女”か何かに怯える若旦那のようで、一時期怪談長屋では笑い話の種となった。





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