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異聞・妖刀百物語  作者: 痴れ者ラボ
怪談長屋騒動記
55/76

高女ノ四.悋気




 陣衛門が立ち去って程なく、船宿『えぼしや』は再び修羅場と化していた。


 女主である梅吉が陣衛門の所用の邪魔にならぬよう頃合いを計り、適当な用事を見繕って出かけたのが裏目に出たか。

 戻って来てみればあの朴念仁な浪人者は、既に宿を発った後であった。

 加えて番頭から、自分の留守中に徳丸一家の破落戸が押しかけてきて、小半時(三十分)も前に陣衛門が彼らを引き連れどこぞへと宿を出て行ったというではないか。

 梅吉は何故無理にでも引き留めなかったと番頭を叱り飛ばし、急いで後を追うべく身を翻す。

 が、店先から躍り出るよりも早く、幾人かの男達がのそりと宿へやってきて梅吉の足を止めたのである。


「これは梅吉じゃねえか。俺をわざわざ出迎えに?」


 梅吉が足を止め、決して客に見せぬ嫌悪に顔を歪ませて出迎えたのは、徳丸一家を取り仕切る徳丸五平である。

 年の頃は五十、小柄ながら白髪が交じる髪と痩けた頬は精悍に見えたが、細い眼から漏れる眼光は邪な印象を見る者に与える風貌だ。

 徳丸一家はここの所深川界隈を中心として急激に勢力を伸ばしている、破落戸の集団として名を売っていた。

 一家は昔こそ借金の取り立てや、スリ師などの上前をはねる小悪党の集まりであったが、ある時官憲と結びついたのか急激に力を持ったらしい。

 今日ではおおっぴらに地上げや大店を強請りはじめたのが、約一年程前の話である。

 如何なるまいないを使っているのか、彼らの被害者は役人に訴え出ても解決はせず、故に近隣の住民達は見て見ぬふりをするようになって現在に至る。

 徳丸五平はそんな一家の首領であるが、そんな力の絶頂期に年甲斐も無く入れ込んでしまったのが辰巳芸者・梅吉であった。

 五平は最初こそ普通に船宿『えぼしや』へ通い詰め、あの手この手で梅吉を口説いてはいたものの、靡かぬと知るや徐々にその手口は脅迫まがいのものとなり、とうとう拐かしにまで発展したのが昨夜の出来事であったのだが。


「……そこを退いてくんな、五平親分」

「はは、相変わらずつれないねぇ。こちとら、“昨夜”の事で謝罪しに出向いたというのに」

「ふん、どの口がいうか。あっしは今取り込み中だ」

「まぁまぁ、いや、この通り機嫌を直してくれないかい? 昨夜の“行き違い”は、俺の事を心配した手下が勝手にやった事なんだ」

「知らないよ、そんな事。さあ、とっとと退いてくんな!」

「おお、怖い。だが梅吉、そういう所も俺ぁ好きだぜ。どれ、話してみな? 俺が力になってやろう」


 五平は梅吉の前に立ちはだかったまま、そう言ってにやりと笑みを浮かべた。

 本来の梅吉は五平への恨み辛みが山程抱えている筈なのだが、この時は陣衛門の事がどうにも気がかりとなり、食ってかかる所か相手にする気も起こらず、無言でこれを睨みつける。

 が、ここで対峙していても何かが解決するはずもなく、梅吉はすぐに五平から顔ごと目を逸らし、店の外へ出ようとした。


「おっと、姐さん。どこに行こうってんです?」

「そこをどきな、三下!」

「しかし親分の話はまだ終わっちゃいやせんぜ?」

「てめぇら、女将に何してやが――うが!」

「亀さん!」


 五平に続いて手下達が、店の出口を塞ぐようにしてぞろ入ってきていたせいか。

 手下の一人が強引に店の外へ出て行こうとする梅吉の前に立ちはだかり、そこへ番頭の亀次が騒ぎを聞きつけやって来て、割って入ろうとした所をいきなり殴り付けられた。

 不意打ちに頬を殴られた亀次はどっと土間に尻をついて、慌てて助け起こそうと駆け寄った梅吉と共に怒りの視線を五平とその手下へ向ける。

 一方、徳丸五平はというと悠然と構えて、真正面から烈火のような梅吉らの怒りを受け止め、膝に手を添えるようにして屈み梅吉の顔を上からのぞき込んだ。

 それから聞き分けの無い子供に言い聞かせるように、静かに、しかし本性が色濃く混じった言葉をかけたのだった。


「梅吉、いい加減にしねぇか。お前が聞き分けねぇから、番頭の亀さんが殴られちまうんだ」

「てめぇ……」

「亀さん! ……あっしのことはいいから、手を出さないでおくれ」

「しかし女将!」

「――親分。あんた、一体、あっしに何の恨みがあってこんな無法をなさるんで?」

「恨み? とんでもねぇ。俺ぁ、お前さんを嫁にしてぇと考えているだけさ」

「……親分は嫁を、嫌がる女を手下を使ってかどわかすんですかい? それが、徳丸一家をまとめる親分のやり口ですかい? なんとまあ、随分とセコい真似をなさるもんだね」

「なにを! このクソアマ、親分が下手にでてりゃ良い気になりやがって!」

「怒鳴るな、八太。……なあ、梅吉。もう、いいじゃねえか。諦めて俺のオンナになれ。な? こんな小さな船宿をやるより、余程いい生活をさせてやるよ」

「はん、だれが! 腐ってもこの梅吉、辰巳芸者の端くれさ。女一人口説くのに手下をつかうような“タマナシ”にだれが靡くってんだい。まして、人の道を外れた文字通りの外道なんざ、死んでも御免だね!」


 啖呵は必要以上に大きな声。

 店の外、恐らくは騒ぎを聞きつけ再び集まっているであろう野次馬に聞かせる為である。

 江戸っ子の気風からして、梅吉の台詞は大いに同調しやすく、野次の一つでも出れば事態を打開する糸口になり得たからだ。

 つまり梅吉は、気風の良い啖呵に野次馬を呼応させて、騒ぎを更に大きくし役人を呼び込もうと考えていた。

 しかし梅吉の目論見は外れ、外から野次は飛んでこず緊迫した空気が細い肩に重くのしかかってくるばかり。

 どうやら五平は梅吉が思っていたよりもずっと周到であったようで、外にも手下がいて野次馬を追い払っているらしい。

 否、そうでなく、徳丸一家の悪名はこの近隣の住民にはよく沁みており、見物すれど野次を飛ばして関わり合いになる事を怖れさせるほどのものであるのかもしれない。

 兎にも角にも、梅吉の目論見は外れ、啖呵は只の否定の言葉と成り果てて事態は悪い方へと転がってゆく。


「こいつは困った。気っ風を売る辰巳芸者ってのは強情でいけねぇ」

「……わかったんなら帰んな。こちとら、忙しいんだ」

「さて、どうするか」


 五平はニヤつきながら、屈んでいた腰を伸ばし背後の手下どもを見渡す。

 釣られて梅吉もそちらへ目を向けると、皆下卑た笑いを浮かべ、あろう事か蔑むような眼差しでこちらを見ている事に気が付く。

 ――それが、梅吉には耐え難い屈辱であったらしい。

 次の瞬間には本人すら考えもしなかった事を口走ってしまい、皮肉にもそれが事態を大きく変える事となる。


「――、どうするか、じゃねえ! とっとと帰れ! さもないと、昨日の晩のようにてめぇら全員、たたっ斬られちまうぞ!」

「あん?」

「……親分、例の侍の話」

「ああ。……そういや、その侍は……宿にはいねぇようだな。太助どもに始末しとくように言いつけたんだが、上手くやったようだ」

「そんな事はあるか! 今頃立花の旦那にてめぇの手下はなますにブった斬られてる頃さ。そら、もうすぐ旦那が戻って来る!」

「ふふ、そんときゃあ、うちの用心棒の先生にお出まし願うまでだ。丁度今日、一緒に来てもらっているからな。おおい、先生?」


 突いて出た言葉は、何の根拠も無いものであった。

 当たり前だ。

 立花陣衛門は先程宿を後にしたと、番頭の亀次より聞かされていたばかりなのだ。

 それをわかっていながらも、追い詰められつつあった梅吉は半ば願望を口にしてしまうのであった。

 そんな、梅吉の妄言を信じてか、それともハッタリと見破ってか。

 五平は店の外へ声をかけ、やがて一人の侍がぬっとすっかり狭苦しくなった宿の中へ入ってくる。

 侍は身なりこそ質素であったが、痩身長躯で只ならぬ空気を纏っていた。

 切れ長の目はどこか神経質そうな印象を見る者に抱かせ、口元に縦に一筋、恐らくは刀傷を思われる斬り傷が一層凄味を与えている。

 用心棒の糸目の奥、冷たい眼と目があった梅吉は、その剣気というか気迫のようなものを感じ取り、背筋に寒気を走らせて全身から冷や汗が出る思いで生唾を飲み込んだ。


 ――なんて、暗い目なんだ。

 あっしにはわかる、わかるとも。

 何十、何百もお座敷で人を見てきたからこそ、よくわかる。

 この侍は、人を平気で斬り殺すような奴だ。

 あの刀を抜いて、振り上げて、肉を断つのに、微塵も躊躇しない。……そんな奴だ。

 初めて“人斬り”を間近で見た、梅吉の感想である。

 辻斬りや拐かし、押し込み強盗や放火が横行する江戸は、生き馬の目を抜くとも言われる場所でもある。

 しかし、明らかに人を幾人も殺めているとわかるような、例えるならば血臭漂うような人間はやはりおいそれと遭遇するような代物では無い。

 故に、梅吉は隠そうともしない男の禍々しい剣気に知らずあてられ、一時恐怖に我を失いかけていた。

 同時に、思い浮かべるのは一人の男。

 つい昨夜までは縁もゆかりも無かった、一人の浪人者。

 その侍にしてみれば偶々であったのだろうが、当の本人でも気付かぬ内に大きく膨らみ、神格化さえされている存在。

 ――助けて、立花様。

 他に頼れる者は無く、梅吉は恐怖と己の無力感にその名を思い浮かべる。

 だがそれは、梅吉の精一杯の虚勢が剥がれ落ちた事を意味して、途端に辰巳芸者からただの女の顔に成り下がってゆく。

 徳丸五平はそんな梅吉の表情を身逃さす、残忍な笑みを浮かべながら内心では勝ちを確信していたのだった。


 ――丁度、その時である。


「ふふん、良いザマよな」


 ざらりとうなじの辺りを舐めるような、艶めかしくもおどろおどろしい女の声がその場に居る全ての者が聞き取った。

 声は宿の奥、二階の客間の方から。

 本能がそうさせるのだろう、その場に居た全員が視線を向けると声の主は音も無く、ゆっくりと『えぼしや』の二階から降りて来る所であった。

 ――女だ。

 それも、目を見張るほど美しい――

 破落戸、用心棒、芸者、番頭、奉公人ら無数の視線の先、まだ昼下がりであるというのにやけに暗く感じる宿の二階から、その女は現れたのだ。

 女はまるで何処ぞの姫君かと思えるような威風とやや華やかな着物を纏い、いまだゆっくりと階段を降りてくる。

 僅かに見える手の甲と同じく、青白い顔はこの世の物とは思えぬ程美しく、血のように紅い唇は妖艶な笑みを浮かべていた。

 しかし。

 その場にいた全ての者は、凄艶な女の美貌など見てはいない。

 確かにいくつもの目は女に向いていたが、そこに映し出されていたモノは決してただ“美しい女”などではなかったのだ。


「――じゃが、妾の溜飲を下げるにはちと足らぬ」


 女は柔らかに笑んでいるはずであるが、声は更に冷たくなってゆく。

 ――何者か。

 その場に居るすべての者が抱いた疑問であり、誰一人として口にすることの出来ぬ疑問であった。

 見目麗しい女。

 もしかしたらやんごとなき身分の女であるかもしれない。

 ――何者か。

 外見から見て取れる答えは、疑問を打ち消すに足りなかった。

 なぜならば、女を見たこの場に居る全ての者が抱いていたのは本能的な“恐怖”であったからだ。

 恐怖は、獰猛な犬に吠えられ脚が竦んでしまう幼子のそれや漆黒の闇と同じく、鈍く体を強ばらせる。

 例えるならば怪異。

 見れば死期を早める百鬼夜行や、暗がりから突如現れる魑魅魍魎を幻視して感じる恐怖に近い。

 いやもしかしたら本当に、永代橋の界隈で一時期有名になった“高女”が化けて出て来たのかも知れない。

 強く男を恨み死んだ怨霊が集まり妖怪となった“高女”が、梅吉の強い怒りに引き寄せられたとしたら、あり得ぬ話ではないのかもしれぬ――

 『えぼしや』の宿内はそのような混乱が尋常と成る程に、女の姿は浮き世離れして居合わせた者達を攪惑していたのだった。

 そんな中、やがて女はしゅるりしゅるりと衣擦れの音を響かせて階段を降りきり、三和土の手前で立ち止まりスンと鼻をならして梅吉を見下ろしたのである。

 視線は先程の声色よりもずっと冷たく、明らかに読み取れる禍々しいまでの敵意は殺意より先、強烈な怨念に近いのかも知れない。


「な……なんだい、あんた。一体どこ――」

「なんだお前さんは?」


 女の尋常ならぬ迫力に完全に気圧された梅吉の、呻くような問いかけを掻き消すように尋ねたのは徳丸五平だった。

 梅吉を庇う為では無い。

 女が纏うあまりに異様な空気に、破落戸としての本性がそうさせたのか、たまらず威圧してしまったのだ。

 五平の問いかけはドスの聞いた低いもので、流石はヤクザ者の親分といえるような迫力があったが、しかし女は見向きもせずにただじっと梅吉を見下ろし続けるばかりである。

 そのまましばし不気味な静寂が続いて、誰しもが息苦しいほど重い空気に喘ごうとしはじめた頃。

 恐らくはこの場で最も胆力を持つであろう、先程姿を現した徳丸一家の用心棒がつい、と前に出た。


「女、邪魔をするな。怪我をしたくなくば失せろ」


 低く、氷のように冷たい声。

 先の五平とは違い、冷徹な声色には動揺など存在しない。

 同時にその台詞は“お前など如何様にも痛めつけることができる”という確信も聞き取れて、初めて女の興味を梅吉以外へと向けさせるのであった。


「ほう? そなた、妾の邪魔立てをするのかや?」

「知らん。邪魔をしているのはお前の方だ」

「ほほ、中々剛毅な物言いじゃの。赦す、身逃してやるからどこぞへと去ね」


 女はそう言って、再び梅吉の方へ視線を戻した。

 その、貴人のような物言いからは言葉通りに用心棒――否、この場に居る全ての者が何をしようが気にも留めぬ傲慢さが聞き取れる。

 一方、用心棒の男は女の反応をどう受け取ったのか、しばしその様子を見ていたかと思えば一閃。

 瞬きをするかしないかの刹那に突如腰の大刀だいとうを抜き放ち、すぐさま鞘に納めたのだった。


「次は腕を斬り落とす」


 文字通り、目にも止まらぬ剣閃の後。

 静かに呟くような宣言は、脅しでは無い。

 言葉の意味は、女の袖の一部がはらりと落ちる事により皆合点が行って、その早業に誰もが生唾を飲み込む。

 いや、一人だけ。

 いきなり斬りつけられた女だけは驚くでもなく、ちらと床に落ちた右の小袖に目をやって、あろう事か蔑むように笑った。


「うふ。いの。このような“軽業”を披露して悦に入るとは、なんとも愛らしいこと」

「なに! 俺の剣が軽業だと?!」

「そうじゃあ? 妾の知る剣技に比べれば、そなたのそれは“軽業”と変わりない。否、“芸”と評せるか」

「おのれ!」

「ほほ、次は腕じゃったか? そら、斬ってみぃ。もっとも、そのようなハエも留まりかねんような“軽業”であるならば、妾でも白刃を取ってみせようぞ?」


 言って女は袖が落ちた右手を挙げついと手の平を上に向ける。

 その拍子に斬られた袖口から肘までがはらりと垂れ下がり、細く白魚のような腕が露わになった。

 腕は真っ直ぐに用心棒の男へと伸びて、生気の無い爪先から肘までの造形は、何故か男女問わず見る者を強く魅了する。

 只一人、己の剣を愚弄され怒りに腹を滾らせる男を除いて。

 破落戸の用心棒に身をやつし、獣心染まり天道を顧みぬ所まで堕ちたとて、習得した剣の矜持だけは残っていたのだろう。

 用心棒の男の怒りはそれまでの冷たい雰囲気をがらりと変え、猛々しい殺意と剣気でもって女が支配しつつあった場の空気を塗り込める。

 ――恐らくは一瞬後。

 用心棒の男の剣が奔り、血しぶきと共に女の腕は“落ちる”。

 誰もがそう確信し、だが誰もがそうはならぬかもしれない、と言い知れぬ不安も抱えていた。

 不安の根は女が発する、なんとも言い難い怖気走る空気にある。

 果たして、女は人として腕を斬られるのか。

 それとも、人ならざる者として目にも止まらぬ用心棒の白刃を取って見せるのか。

 どちらの結末を望むのか、それまでとは違う心を削すような緊張が極限まで膨らんだ瞬間。


「御免」


 何とも緊張感の無い、男の声が女と用心棒の間に割ってはいったのである。

 集まる視線の先は五平達が塞ぐ船宿『えぼしや』の入り口の向こう、呆気にとられる手下らをかき分け入って来た臼木陣衛門に注がれた。


「立花の旦那!」

「おや、まあ。――旦那様」


 同時に二つの女の声が重なる。

 陣衛門はのっぴきならぬ五平ら破落戸共など目もくれず、二人の反応に少し困ったような表情を浮かべるばかりであった。

 それから、気のせいか先程のおぞましい気配を更に濃くする女――陣衛門が妻・タキに向かって、まるで子供をあやすように話しかけたのである。


「駄目では無いか、タキ。家で伏せっていなくては」

「……どの口がそれを言うのかや?」

「怒っているのか?」

「怒ってないとでも?」


 女の威圧感が更に増大し、用心棒の殺気など霧散させて行く。

 居合わせていた『えぼしや』の、気の弱い女中の一人が思わずひっと声を挙げるほどのそれは、まごう事なき激しい怒気だ。

 いや、ここまで濃いとそれは既に怨念であると言えよう。

 その気配は鉄火場に慣れた徳丸一家の者達すら脂汗を浮かべさせるもので、胆力のある五平や用心棒の男ですら、口の端に力を籠めさせる。

 だがその怨念を只一人ぶつけられている当の本人はというと、相変わらず少し困ったかのような表情のまま、何事もなかったかのように口を開いたのだった。


「“永代橋の件”ならば仕方ないではないか」

「他の場所ならばともかく、“橋”の上で花を胸に招いておいて、仕方ない、で済みましょうや?」

「だからといって、梅吉殿に当たるのは良く無い。タキ、そうであろう?」


 “永代橋の件”とは、恐怖と安堵から陣衛門の胸に飛び込んだ昨夜の件の事を示すのだろう。

 只一人梅吉は二人の会話を理解し、同時に陣衛門から目を逸らすようにしてこちらを再び睨み降ろしてくる女――タキに恐怖した。

 瞳は人斬りと看破した徳丸一家の用心棒よりも更に暗く、おぞましい程濃い闇色のまま敵意だけがこちらに向いていたからだ。


「……知りませぬ。妾が“このような”性であるのはなにより旦那様がご存じの筈」

「だからこそ、こうして止めに来た」

「ほう? 旦那様、“このように”なった妾をどうお止めに? 先に申し上げておきますが、妾は言葉で怒りを鎮める気は毛頭ありませぬ故」


 言い終わると同時に、確かに『えぼしや』の中をぞわりと不快な風のようなものが、タキを中心に吹いた。

 それまでのような、相手が発する空気を感じ取るといった次元では無い。

 明らかに“風”という現象を伴って、タキの怒りは外界へ噴き出したのだ。

 瞬間、梅吉や徳丸五平は勿論、この場に居合わせた全ての者が悟る。

 ――この女は人では無い、と。

 なれば、人で無い女に“旦那様”と呼ばれ怒りを向けられるこの浪人者は、如何様にして場を鎮めんと考えるのか。

 正鵠を射る認識は改めてタキの姿を恐ろしいものと捉えられ、その圧は姿を一廻り大きく見せる。

 しかし陣衛門は先の用心棒の男のように気負うでもなく、呆気なくタキの問いに答えを示したのだった。


「すまん、タキ。俺が悪かった。油断しておったのだ、赦せ」


 声色は淡々として、読み取れる感情は薄い。

 言い訳や説得おろか、言葉すら届かぬと思わせるタキに対して、まさかの物言いだ。

 これには流石の当人も困惑したようで、一瞬視線を泳がせて言葉に詰まるのだが。

 淡泊な謝罪の言葉は思いの外効果があったようで、タキが発する威圧は僅かに和らいだ。


「……旦那様、言った筈です。妾は言葉で怒りを鎮める気は毛頭ありませぬ、と」

「そこを曲げて頼む」

「曲げませぬ」

「お前の“病”を治したいのだ、大人しく頼まれてくれ」

「だからといって、赦されるとでも?」

「うむ」

「何故そうお思いに?」

「悔いはあれど、俺の心にやましいところは無いからだ」

「そのような……口ではどうとでも言えましょうなぁ」

「まだあるぞ。タキ、お前の心根は優しい」


 信じられぬ事が起きた。

 場を塗り込めていた異界のような空気がふっと消え去り、昼下がりの暖かな物へ変わったのだ。

 徳丸五平をはじめとした徳丸一家の来訪に、『えぼしや』は修羅場となっていた筈である。

 それが人ならぬ女の出現により怪異の気配が支配する場所となった後、みすぼらしい浪人者の出現によってあっさりと日常へ戻ったのだ。

 梅吉は気の抜ける音を耳にしながらタキを見上げ、その表情を確認して顔を引きつらせた。

 タキのソレは先程までの怨念と怒気が裏に張り付いた冷たい美貌から、困惑する乙女のような初々しい意地が垣間見てとれる。

 美貌は相変わらずであるが、その質はまったくの別物であった。


「……誤魔化さないでくださいまし」

「それでも怒りが収まらぬなら、俺にぶつけるといい」

「それをしたくないから、こうしているのではありませぬか」

「悪いのは俺だ。だが梅吉殿に八つ当たりをするのは、良く無い」

「旦那様、その物言いはまるで妾が悪いようではありませぬか?」

「そうか? それはすまん。互いに腹が減って気がたっておるかもしれぬな。――梅吉殿、済まぬが昼飯を食わせてくれぬか?」

「えぅ、え? あ、え?」


 陣衛門に当然のように話を振られ、奇声をあげて戸惑う梅吉。

 つい先程まで五平に凄まれ用心棒の侍に戦慄していた彼女だが、番頭の亀次を助けようとしゃがんだまま、わけのわからぬ成り行きについてこれないようだ。

 気が付けば場の毒気はすっかり抜けて、梅吉は反射的にいいですとも、と答えてソソクサと立ち上がり、えぼしやの奥へと消えていった。

 それに続くようにして、居合わせた幾人かの奉公人が後を追い、やがて場に残ったのは徳丸五平とその手下、番頭の亀次と陣衛門、そしてタキとなったのである。


「番頭、立てるか?」

「え? あ、は、へぇ。立花、様?」

「家内が迷惑をかけたな」

「い――、いえ」

「ついで、といっては厚かましいが、昨夜の部屋を使わせてもらえるか? 今日は女房も一緒だが」

「そ、そりゃあもう! し、しかしその……」


 慌てて立ち上がった番頭の亀次は言葉尻を濁しつつ、タキを盗み見した後、呆気にとられている徳丸一家の面々をみやる。

 しかし五平の他徳丸一家の破落戸らは、一人胆力の違いを見せつけた用心棒の男も含め、いまだ我を取り戻せず神妙な顔つきのまま忙とするばかりだ。


「何、気にするな。タキの怒気にあてられ、その上一部を“喰われて”はな。暫くは“ふぬけ”になっているしかないだろうさ」

「へ、へえ」

「とくに“面”の妖気に日頃から触れておらば、神威に削り取られる妖気に、かなりの正気を持って行かれても不思議では無い」

「……あっしには理解出来ませぬが、こいつらはこのままにしておいてよい、という事ですか? 立花様」

「うむ。今の内に番所に役人を呼びに人をやればいいだろう。ああ、外にも手下が居たようだから裏口から出た方がよいぞ?」

「へえ、ご忠告ありがとうございやす。そうさせていただきやす」

「さて――と。タキ、飯にしよう。昨夜の礼に何でも好きな物を食わせてくれるらしい」


 言って、『えぼしや』に上がりゆったりとタキに向き直る陣衛門。

 対するタキは、片頬をぷくりとやや膨らませ、隠すようにぷいと明後日の方をむいた。

 それから出て来た時と同じ方向、『えぼしや』の二階を昇って行くのである。


 すれ違い様に“知らない”とタキが口にした事は、陣衛門だけが聞き取れていた。





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