絵怪ノ四.尋ね人
そして深夜、八ツ時を少し過ぎたかという頃。
月夜となった空は明るく、しかし酷く冷え込む夜。
場所は日本橋室町三丁目・三井越後屋の前を過ぎた辺りにある書物問屋『松屋』が庭。
庭は武家の屋敷と比べるまでも無い程広くは無かったが、かといって狭くも無く、その中央にはうずたかく薄い書物や紙が積まれていた。
米俵ほどの大きさになろうかという紙の山は、陣衛門の言葉通りに『松屋』の主善兵衛が屋敷中からかき集めた書画の類である。
その一番上には善兵衛の娘おかるが病に伏せるようになった原因と思われる役者絵が置かれており、少し距離を置いて只一人庭先に出ている陣衛門がそれをじっと見つめていた。
「宇喜田様。本当に後はあのお侍様一人で大丈夫なのでしょうか?」
「う……む、案ずるな善兵衛。陣衛、立花殿はああ見えて“こういった事”には手馴れておる」
「ああ、おかる……」
庭先に一人佇む陣衛門を部屋の内、閉じた障子の隙間から折り重なるようにしてみていた善兵衛は、不安を隠せず同じようにして外を見る宇喜田につい問いかけていた。
当然と言えば当然でやはり方々手を尽くした後だけに、陣衛門に言われるまま“絵怪”をどうにかする準備を行ったものの、確たるものが無く不安だけが膨らむのである。
それは善兵衛の妻も同じようで、先程から数珠を手に同じ部屋に寝かせたおかるの枕元で念仏を唱え続けて居た。
時折娘の名を呟かせるのは、その身を強く案じる母の心であろう。
「む?」
「あ!」
障子にへばりつくようにして外を見ていた宇喜田と善兵衛の声が同時に上がり、善兵衛の妻が唱える念仏が一際高くなる。
庭にうずたかく積まれた紙の山の下、書画の中から見覚えのある人物が立ち上がってきたからだ。
月明かりの下薄く照らし出された男は紛れもなく、鶴屋与一である。
陣衛門は与一がゆっくりと立ち上がる姿を見ながら、ゆっくりと鯉口を切り、少しだけ腰を落とした。
「出たか」
「ふふ、これは面白い。昼間見た鶴屋与一よりも“こちら”の方が幾分か優男じゃのぅ」
張り詰めるような冷たい空気の中、清廉な空気を濁すかのような艶めかしい声。
何時の間にそこに居たのか、陣衛門の背後から艶やかな着物を着た女が現れ、嘲るようにそう言ったのだった。
書画の山の下から現れた鶴屋与一はその女を見るや、驚愕を表情に張り付かせ目を開く。
しかしすぐに憎々しげに顔をしかめ、“なにか”をしようと腰を落とした。
――が。
鶴屋与一の“絵怪”と同じように、陣衛門の背後から現れたタキの美しい姿に目を奪われ、また鶴屋与一が姿勢を低くしたと同時に瞬きをした善兵衛は、次の瞬間に信じられぬものを目の当たりにした。
「ぐ!」
「ほほ、旦那様。今宵は大層、猛っておいででございますなぁ」
楽しげなタキの言葉を背にうけながら、陣衛門は姿勢を低くしたまま、ゆっくりと鞘を滑らせ刀身を中へ収めた。
立つ位置は先程の場所では無く、数間(数メートル)離れた鶴屋与一の背後。
陣衛門は善兵衛が瞬きした刹那に抜刀し、鶴屋与一を斬りながら脇を抜け、切っ先を鞘の中へ導いていたのだった。
その早技は神速を言っても差し支えない。
しかし鶴屋与一は斬られた脇腹を押さえながら、立っていた書画の山に膝を突きつつ、む、む、と苦悶したがすぐに不気味に笑い始めた。
「ふふ、く、くく、はは、馬鹿め」
「……浅かったか」
「言っておくが俺を斬っても意味はないぞ? なにせ――」
「身代わりに本物の鶴屋与一が怪我を負うからであろう?」
“絵怪”の言葉を遮ったのは妖婦である。
鶴屋与一の形をしたそれは、怪訝な表情を浮かべ視線を女に向けた。
表情に苦痛が残るのは、陣衛門に斬られた部分が痛むからか。
「ほう? 知って――」
「残念じゃなあ、名も知らぬ“あやかし”。お主が斬られたのは、只の刀でなく旦那様の魔剣ぞ」
くふふ、と上品な女の笑いが庭に沈む。
その言葉の意味を探るように、鶴屋与一の形をとった“絵怪”は苦痛に顔を歪めたまま、しばし黙り込んでしまった。
が、それも束の間の事で、陣衛門がとどめを刺すべく今度はゆっくりと刀を抜き放った時、“絵怪”は人のそれとは思えぬ雄叫びを上げ横に跳ねた。
「おおおおお! おのれ!」
「ふふん、気が付いたか? そうじゃ、お主が斬られたのは“因果送り”の力じゃ」
「お前か! お前が――」
台詞は全て続かない。
恐らくはタキに向かい何か罵倒の言葉を浴びせようとしたであろう“絵怪”は、一息で間を詰めた陣衛門に気が付く事無く、斬り伏せられていたのであった。
“絵怪”はそのまま呆気なく倒れてしまい、『松屋』の庭先に静寂が戻る。
その、あまりに呆気ない幕切れに、屋内の障子の隙間から成り行きをうかがっていた善兵衛と宇喜田は胸をなで下ろしたのだが。
しかし陣衛門は剣を収めようとはせず、うずたかい紙の山に倒れ込んだ“絵怪”にむけその切っ先を向け続けて居たのだった。
そして――
「――やはり、そうくるのだな」
低い声で呟く陣衛門。
鋭いその視線の先、鶴屋与一の“絵怪”がそうであったように、紙の山の中から幽鬼のように立ち上がる人の姿があったのだ。
今度は侍のようである。
それも二人。
ただ、彼らの出で立ちは尋常とは言えなかった。
一人は痩身背が高く、既に抜き放たれている刀は野太刀であろうか、刃長が三尺(約1メートル)を越えて長い。
もう一人は宇喜田程ではないががっしりとした体躯の侍で、先の者が持つ野太刀よりも更に長く太い木剣を持っている。
「陣衛門!」
流石に形勢が不利と見て取ったのだろう。
宇喜田が抜刀して障子を開け放ち、陣衛門に加勢するため庭へ降りてこようとした。
瞬間、木剣を携えていた方の侍が驚くべき速度で身を返し、横薙ぎの斬撃を宇喜田に加えたのである。
宇喜田と木剣の侍の距離は、通常の刀であるならば間合いの外であった。
また長大な木剣は人の膂力で振るうにはあまりに大きく、其処に宇喜田の油断が“人の世の理”を固めてしまったらしい。
果たして斬撃は宇喜田の意思の外から浴びせられ、その頭蓋をまるで豆腐を叩いたかのように砕くはずであった。
が、理の外からの一撃はやはり理の外からの力によって、虚しく空を斬るのである。
「ぬお?!」
「これ、宇喜田様。旦那様より手出しは無用とあれ程言われていたではありませぬか。ほほ、もう少しで脳漿を撒き散らす所じゃったなぁ」
「た、タキ殿?!」
木剣が宇喜田の頭に触れる刹那。
鬼というものが実在するならば、このような力を発揮するであろうとも思える強い力で襟首を引かれ、気が付くと飛び出した部屋に尻餅をついていた宇喜田であった。
そんな彼を見下ろし上品に笑うのは、つい今し方庭にいたはずのタキである。
宇喜田は一瞬無碍に襟首を引かれた事に怒りを覚えかけたが、タキの言葉を噛みしめ、己が危うい所を助けて貰ったと理解して生唾を呑んだ。
「――かたじけない、タキ殿」
「なんの。っふふ、宇喜田様はほんに謙虚よな。並のもののふならば、女に恥をかかされたとなれば烈火の如く怒ろうに」
「いや、面目ない。しかし……あの者らは一体」
「ほほ、宇喜田様とあろう者がわからぬかえ? 一人は長剣、一人はそれよりも更に長い木剣を持ち、それぞれが恐ろしい手練れときておるのに」
「あいや、タキ殿。だから見たままを言われ申して……も!?」
言いながら宇喜田は目を大きく見開いた。
陣衛門や自分が今この時に対峙しているのは“絵怪”である。
先の鶴屋与一はあの絵の中から現れた。
そして、目と鼻の先の庭には書物問屋『松屋』にあった、様々な書画がうずたかく盛られているのだ。
「やっと気付きなさったかえ?」
「まさか……そんな……」
「新免武蔵に佐々木小次郎。“あやかし”め、中々面白い事をするのう。あの中に巌流島の決闘かなにかの絵が混じっていたようじゃ」
「陣衛門!」
悪戯っぽく含み笑いをしながら古の剣豪の名を口にしたタキとは対照的に、宇喜田は状況を正確に理解して思わず陣衛門の名を叫んだ。
だが皮肉にも、丁度佐々木小次郎と対峙していた所へ武蔵が加わり、じりと間合いを開こうとしていた陣衛門は、宇喜田の叫びにわずかな気を削いてしまう。
瞬間、庭の土を跳ね上げて動いたのは佐々木小次郎である。
烈火のごとく突いてきた“物干し竿”は稲光を思わせる程疾く、宇喜田が佐々木小次郎が陣衛門に対して突きを放ったのだと認識した時、既にその動作は終えられていた。
――しまった!
佐々木小次郎の突きはどう考えても避けられるような代物では無く、宇喜田は先程の叫びにより陣衛門の気を削いでしまった事を後悔してしまう。
それから、宇喜田が哀しみも早々に“勝つ”事を諦め、相打ちでどちらか一人だけでも始末しなくては、と素早く覚悟を決めた時。
意外な声が、すぐ側から耳の中へ転がり込んでくる。
「宇喜田、いきなり叫ぶな。気が散る」
「陣衛門?!」
「ほほ、旦那様。今のは危のうございましたなぁ」
「相手が相手だからな。突きを避け、武蔵殿の前を駆け抜ける時など肝を冷やした」
「ご無事で何より、じゃ」
「からかうなタキ。武蔵殿の獲物があの木剣でなければ斬られていた」
驚く宇喜田を他所に、何時の間にか宇喜田の側にまで移動していた陣衛門とタキはいつもと変わらぬ調子で会話を交わしている。
恐らく陣衛門は、先程鶴屋与一に見せたあの速度で必殺の突きを躱し、ここまで移動してきたのだろう。
昼間であれば幾分か見えただろうが、今は月の光があるとは言え夜である。
実際は目で追えぬほどの動きではないだろうが、宇喜田や善兵衛が“消えた”と思える程の動きを陣衛門は発揮しているのだろう。
――タキの場合は陣衛門と少々違うようであろうが。
「陣衛門! これでは流石に分が悪い。助太刀を致す!」
僅かに混乱を残す思考を押し込め、宇喜田は再び立ち上がる。
視線は庭に在る、二人の剣豪。
彼らは仇敵同士であったが、この場は争わず悠然とこちらを見据えて来ている。
その眼光は月光を反射してか、夜目にも爛々として殺気というよりも妖気に近い恐ろしさを纏っていた。
「必要ない、宇喜田」
「しかしだな、相手はあの武蔵と小次郎だぞ?! 先の一撃を避けられたのは偶然やもしれぬではないか!」
「だからだ。あれ程の手練れ、お主ではその偶然も拾えぬ」
「侮るな! 拙者とて、命を投げださば――」
「落ち着け、宇喜田宗虎。あの二人、確かにみてくれは新免武蔵と佐々木小次郎であるが、その実は“絵怪”の偽者に過ぎぬ」
「だからどうした?!」
「あれが本物ならば俺の命など、とうにない。つまり、あの二人は本物よりも遥かに劣るというわけだ」
陣衛門の説明に、宇喜田は言葉を呑み込みながらもう一度庭の方へ視線を投げた。
その先では二人の剣豪が、紙の山を守るように立って相変わらずこちらを見ている。
どうやら積極的には斬りかかっては来ないらしい。
たしかに、これが本物であれば先の一撃で陣衛門は斬られていただろうし、今この瞬間も悠長に待つような真似はしないだろう。
だが、しかし。
かといって、先程目にした佐々木小次郎や新免武蔵の一撃は、それでも尚達人の域にあるものだ。
陣衛門の不利には違いない。
「陣衛門、武蔵の方は任せろ。命に替えてでも俺が仕留める」
「……だから、お主では無理だ宇喜田」
「この後に及んでまだ侮るか!」
「違う。お主が斬った所で、あの“絵怪”は消えぬ、と言っておる。よしんば武蔵と差し違えた所で、今度あの紙の山から出てくるのは伊東一刀斎か、それとも塚原卜伝か。古今、剣豪の絵などいくらでもあろうしな。どちらにせよ、犬死となるぞ」
「ぐ……む……」
「押さえろ、宇喜田」
「しかし、だな。なればどうするのだ? 彼らを斬ったとて、次々と剣豪が現れるならば手の施しようがないではないか」
「確かにな。こういった場合、“怪”の大元を叩くのが筋ではあるが……なに、手がない訳ではない。タキ、来い」
そう言いながら、陣衛門は再びゆっくりと庭の方へ降りて行く。
その姿を確認した剣豪二人は、それまでの悠然とした佇まいからそれぞれの長獲物を青眼に構え、迎え撃つ。
陣衛門は庭に降り立ち、しかし一歩も前に出ず――
不意にその背に、女が覆い被さった。
タキである。
タキは嬉しそうに、しかしそれまでとは違い不気味に笑い、背から覆い被さった陣衛門の首筋をぺろりと舐め上げた。
「くふ、くふふ、久しぶりじゃな、旦那様」
「ああ。タキ、俺は相手に不足は無いがお前はどうだ? “喰いで”があるか?」
「いんやあ、今一つじゃな、旦那様。絵は朽ちるのが早い故、意外と余命は少ない。この前の辻斬りの方がマシであろう」
「すまんな、タキ」
「――が、旦那様の頼みとあらばまずい飯も馳走じゃ。さて、そろそろ」
「征くか」
同時に、陣衛門の背に覆い被さっていたタキの体が青白く燃え上がった。
火は瞬く間に炎となり、陣衛門の全身を包む。
宇喜田と善兵衛は腰を抜かして驚き、言葉も無くただ成り行きを見守った。
炎は鬼火の類であるのか、燃え上がる程に毒々しい青の光を放つ。
だがその勢いはすぐに収まり、後には黒焦げた陣衛門の遺体が残るはずであったのだが。
しかし、陣衛門は体どころか服さえ無傷で、ゆっくりと立ち上がったのである。
「参る」
呟きに、白い息ではなく青白い火が見えた。
どうやら、陣衛門の身を焼いたように見えたタキの炎はその体内へと移動したらしい。
宇喜田がそう判断して何が陣衛門の身に起きたか、見極めようとした時。
信じられない事に、瞬きする間もなく新免武蔵がその木剣ごと斬り伏せられ、青く燃え上がっていた。
「一つ」
小さく呟いた、陣衛門の言葉である。
声と同時に深く息を吐いたのか、白い息の代わりに青白い鬼火が膨と音を立てて口から広がり、月の光を蝕んで夜の闇を照らす。
鬼火は熱を持たないのか、それとも陣衛門のみに危害を加えないのか、触れているはずの頬や髪を焦がしている様子は無い。
残る佐々木小次郎は陣衛門の豹変ぶりに、あるいはその剣速に狼狽えるようにして間合いを空け、“物干し竿”を構え直す。
が、本物では無いとは言え、達人の域にあろうその動きも今の陣衛門にとっては鈍重以下であるらしい。
「う、ぐ――!」
「二つ」
今度は文字通り“目にも止まらぬ疾さ”である。
陣衛門は佐々木小次郎の“絵怪”の脇をすり抜け様に斬り伏せ、やはり青く燃え上がりながら倒れ込む“絵怪”もそのまま、宇喜田と善兵衛が居る屋敷の方へ振り向くや、手にしていた妖刀“傾国”を投げた。
“傾国”は宇喜田と善兵衛の間を翔び、いまだおかるに向かって念仏を唱える女将の頭上を通過して、床の間に飾ってあった掛け軸へと突き立った。
同時に、ぐええとおぞましい叫び声が上がり屋敷中に響く。
「な、なんだ?!」
「これ……は?」
まるで巨大なヒキガエルの断末魔のような叫びの後、取り戻した静寂の中で、宇喜田と善兵衛は恐る恐る陣衛門が投げた刀が突き立つ掛け軸へと歩み寄った。
掛け軸は善兵衛が数年前に購入した品で、大変古い作ではあるようだが作者不明であり、立派な、しかし得体の知れない文字が描かれている。
――いや、それだけではない。
剣が突き立つ掛け軸は、まるで狐か狸の変化であるかのように、穿たれたその場所からだらりと血を流していたのだった。
「……親爺、この掛け軸は?」
「へ、へえ。これは数年前、長崎は出島で明(当時の中国)からの書画をまとめて買い付けた品の中にありまして。作者はわかりませんし、漢字も唐土特有のもので何を書いてあるのか、売り主もわかりませんでしたが、品は古く大層気になったので売り物にせず、手前で楽しもうとここに……」
「文字、ではない」
ぎょっとして振り向く宇喜田と善兵衛。
何時の間に上がってきたのか背後には陣衛門が居て、壁に突き立つ剣を取り、一息に抜き放ったのであった。
陣衛門が剣を抜くと血は更に吹き出て、部屋中を汚し、しかし次の瞬間に傷口から青い鬼火が燃え広がりやがて掛け軸を燃やし尽くしてしまったのである。
鬼火は飛び散った血からも発生し、しかし不思議と他の物は燃やさず、ただ怪異のみを跡形も残らず消し去って、火事を心配した善兵衛と宇喜田の胸をなで下ろさせた。
「これもまた“絵”だ。恐らく、描いた者は文字を書いているようで、その実何かしら強い念を込め“絵”を文字のように表現したのだろう」
「む……たしかに、優れた書は絵にも見えるが……」
「じゃ、じゃあこの掛け軸が……」
「“絵怪”の正体、じゃの。大方、年頃の娘とまぐわう内に精を溜めこむ“あやかし”でも憑いておったのじゃろ。遥か唐土の彼方からやって来るとは、中々物好きな“あやかし”じゃな」
陣衛門の説明を聞いて呆気に取られる二人を、何時の間にか姿を現したのかタキがそう言って笑った。
その身なりは相変わらず派手で、口に手を当て笑う様は上品であり、凄艶とした色気が漂ってくる。
一方、宇喜田と善兵衛は互いの顔を見合わせ、何が起きたのかと視線を交えながら無言の内に困惑の言葉を交わしていた。
――チン
唐突に響いた、小さな清廉とした音は、陣衛門が刀を収めた音である。
鞘に納まった妖刀“傾国”は、質素な設えも相まって取り立てて目を引く要素は無い。
しかし宇喜田は不思議と、まるでタキを見るかのように視線を奪われて、思わず頭を振るのであった。
「……おっとぅ?」
声は低い場所から。
若い女の声である。
「おかる?!」
「おおお! おかる! わたしがわかるかい?!」
「……おっかぁ?」
「う、宇喜田様! おかるが……おかるが目を覚ましました!!」
「うむ。……良かったな、善兵衛」
「お侍様――いや、立花様! ありがとうございます! ありがとうございます!」
目を覚ましたおかるを見て善兵衛は、酷く取り乱したように喜び身分を忘れ宇喜田と陣衛門にすがりつくようにして礼を口にした。
また、女将もむせび泣きながら娘に抱きついて、痛がる娘の抗議に決して離れようとはしない。
そのような歓喜はしばし続き、宇喜田と陣衛門が善兵衛から解放されたのは、東の空が白む頃であった。
◆
そして朝、明け六ツ(およそ午前六時三十分頃)の鐘が鳴った頃。
陣衛門と宇喜田は書物問屋『松屋』の店先にて盛大な見送りを受けていた。
見送るのは善兵衛を始めとした『松屋』で働く全ての奉公人達である。
娘のおかると女将だけ居ないのは、大事をとってまだ床に伏せているからであろう。
善兵衛はこの日、一日店を閉めて皆で娘の快復祝いにささやかな酒宴を開くべく朝から準備に励む心づもりで、陣衛門と宇喜田にもう一晩『松屋』に逗留するよう願い出ていた。
しかし陣衛門は兎も角宇喜田は妻帯者であり、役目もある。
一晩ほぼ寝ずに明かした事もあり、流石に申し出を断った二人であった為、このような大仰な見送りとなっていた。
ちなみに、宇喜田にはたっぷりと菓子が、陣衛門には善兵衛秘蔵の酒が手渡されている。
「立花様、宇喜田様。本当にありがとうございました」
「いや、なんの。拙者こそ、殆ど何もしてはおらぬのにこのような事をしてもらって」
「ほんに。旦那様があれ程頑張ったというのに、手土産がこれっぽっちの酒一つとはの。宇喜田様は抱えきれぬほどの菓子をもろうとるし」
「これ、タキ」
「いえ、いえいえ! 立花様、勿論、酒はそれだけではございませぬ。生憎うちは書物問屋故、今はこれで精一杯ですが後日改めて酒を……そうですな、樽ごと持ってお礼に伺います」
「ほほ、わかっておるなぁ、ご主人」
言ってタキは品の良い笑い声を上げた。
どのような判断か、あるいはいつ着替えたのか、その身なりは先程とは違い町娘のそれと変わらぬ質素なものである。
多くの奉公人を抱える『松屋』にて、タキの艶やかな姿を見た者は案外少ない。
見る者によって違って見えるのか、それとも善兵衛のように“怪異”を目の当たりにし、タキの事を問うのは無粋と感じているのか、ともかくこの場に追求するような者はいないのであった。
いや、単に多くの奉公人達はタキの美しさに目を奪われ、衣服の変化など些末な事柄であったのかもしれない。
「……いや、主人。酒はこれだけでよい」
「いやいやいや、立花様。それは困ります。今回の一件、一番の恩人である立花様にそれでは……」
「まあ、焦るな。代わりと言ってはなんだが、一つ頼みがあるのだ」
陣衛門はもっと欲を張れと抗議しかけたタキを制しながら、善兵衛にそう言った。
勿論、端から申し出を引っ込めるつもりはない善兵衛は、内心では後日、いや今日にでも江戸一番の酒を陣衛門に届けた上で、頼み事を聞き届ける決意を固めるて相槌を打つのである。
「それはもう、立花様の頼みとあらば」
「助かる。実は、俺は先日ある人物を探しに江戸へ出て来たばかりでな」
「へぇ。それはまた……江戸は人が多うございますし難儀な事でしょうな」
「うむ。そこで、商売ついでにその人物の噂など聞いたら知らせて欲しいのだ」
「それはもう一も二も無く引き受けさせて頂きますが、なんだったら奉公人を使って探しても構いませんよ?」
「いや、そこまではしなくて良い。相手に俺が探していると悟られたくはないのでな」
「はぁ、左様で。して、その御方のお名前は?」
善兵衛は陣衛門の口ぶりから深くは詮索すまいと考えながらも、その人物の名を尋ねた。
陣衛門は善兵衛の質問に一拍置いて、その者の名を答える。
声色は低く陣衛門にしては珍しく様々な感情が込められて、隣に居た宇喜田ですら少し驚くような声であった。
また、後に控え善兵衛の土産である酒徳利をぶら下げていたタキは、陣衛門の心中を察してか、少しだけ寂しそうな表情を浮かべその名を確認するのである。
「侍だ。臼木……臼木陣三郎という侍だ」




