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異聞・妖刀百物語  作者: 痴れ者ラボ
怪談長屋騒動記
50/76

絵怪ノ三.妖婦の酌




 陣衛門の問いに、鶴屋与一は美人であると答えた。


 宇喜田には陣衛門の質問に込められた意図が理解できよう筈は無かったが、その答えは陣衛門にとって予想を裏付けるものであったらしい。

 面食らったかのような表情を浮かべ質問に答えた与一を尻目に、陣衛門は満足げに頷いて一言そうか、と言葉を残した。

 それから何事も無く踵を返し、開け放たれたままであった入り口を潜る。

 どうやら用事はそれで終えたのであろう、陣衛門はそのままこの場を後にするつもりのようだ。

 そんな彼の背に、まったく理解が及ばない宇喜田の焦ったような質問が飛ぶ。


「おい?! 陣衛門?」

「大体、見当は付いた。『松屋』へ戻るぞ、宇喜田」

「おや、旦那様。何やら、やけにやる気でございますなぁ」

「妙な思い込みはお前の悪い癖だ、タキ。行くぞ」

「へ? もう、用事はお済みで? お役人様?」

「む……いや、親爺。拙者にもなにがなんだか……」

「ま、まってくだせぇお侍ぇ様! “女の幽霊”は……」

「宇喜田、詳しくは戻る道すがら話す。――与一、もしかしたら今日は“出る”やもしれんが、明日からはもう大丈夫だろうから、安心して良いぞ」

「本当ですかい?!」

「ほほ、嘘など旦那様がつくものか。――、ちょ、旦那様? タキめを置いて一人行かないで下さいまし」


 厳ついながらも怪訝な表情を浮かべる宇喜田と縋るような与一に、陣衛門は背を向けたままうむ、と短く答えた。

 そのまま長屋を後にした陣衛門が向かった先は、再び日本橋室町三丁目にある書物問屋『松屋』である。

 時刻は暮れ六ツ、日も傾いた頃。

 本来ならば日も高い時分に戻って来られた筈であったが、与一の長屋を後にした後からタキの機嫌が悪くなった為、しばし周辺の寺社や通りを巡る江戸見物を行い道草を食ったが為に、このような時刻となってしまったのだ。

 果たして『松屋』の主・善兵衛は、昼前に来訪した時には居なかった陣衛門の美しい連れに戸惑いながらも、自ら三人を出迎えていた。


「お帰りなさいまし、宇喜田様、立花様。――あの、そちらの美しい女性にょしょうは……」

「立花殿の妻でタキ殿と申す。今宵の“怪退治”の手伝いとして必要なのでな、同行願ったのだ」

「宇喜田様! それでは……」

「善兵衛、喜べ。件の“絵怪”をどうにかする目処が立った」


 宇喜田の言葉は善兵衛を大いに感激させたらしい。

 善兵衛は喜色を満面に浮かべ、宇喜田と側に立つ陣衛門、そしてタキの手を交互にとりまるで念仏のように何度も礼を口にしながら頭を下げた。

 それから『松屋』の主は詳しい話を聞くべく、早速三人を客間に通したのである。

 陣衛門は鶴屋与一の長屋から『松屋』に戻る道中、宇喜田に説明してやった内容をそこで改めて一通りの説明を善兵衛に話してやった。

 程なく弾むような女中を呼ぶ善兵衛の声が屋敷の中に響いて、店じまいも早々に、奉公人達は慌ただしく蔵と屋敷を行き来するようになる。

 その様はまるで大晦日の掃除のようであり、唯一客間に在った宇喜田と陣衛門、そしてタキは、悠然と善兵衛の指示により供された豪華な夕餉の膳に向かって箸を立てていた。


「む。これは鰹か。……善兵衛め、気が利く」

「ほほ、良いのかえ? 宇喜田様。武士に青魚は御法度でしょうに」

「そうは言うが……そら、陣衛門も食うておるではないか」

「旦那様は宮仕えをしておられぬ身。好きな物を食い、好きな時に寝て、おなごだけはタキめを愛でておれば良いのだから」

「勘弁してくれ、タキ殿。武士とて日頃食いたいが食えぬものの一つや二つ、あるのだ」

「タキ、そう宇喜田を苛めてやるな」

「まぁ、旦那様。これでもタキはまだ、旦那様の事を『小汚い浪人者』と申しました、宇喜田様を許してはいないのじゃが?」

「タキ殿、拙者が芝居見物代を出した事、お忘れか?」

「うふ、そのような事、とうに忘れてしもうた」


 言ってタキは楽しげに妖しく笑い、陣衛門にしなだれながら手にしていた猪口に手酌で酒を注いだ。

 当然陣衛門と宇喜田の膳にも猪口は設えられていたが、伏せられたままである。

 白い頬はほんのりと桜色に染まり、赤く薄い唇へ猪口を運ぶ仕草は思わず見とれてしまうほど凄艶だ。

 いや、目に見えるのでは無いかと思えるほど匂い立つ色香は、着崩れした着物から首筋から鎖骨にかけて覗く白い肩とはだけたふくらはぎのせいなのだろう。

 タキの振る舞いはまるで遊女のようであり、宇喜田は甚だ目のやり場に困り、タキとのやり取りも心ここに在らずといった調子で助けを求めるかのように陣衛門へ視線を送ったのだが。

 陣衛門はそんな宇喜田の窮状に気が付かず、あまつさえ勘違いしてしまう。


「あまり宇喜田を困らせるな、タキ。鰹位、目を瞑ってやれ」

「まぁ。タキめは鰹が好物である旦那様の為に、宇喜田様を責め立てているのじゃが?」

「またそのような浅ましい真似を。猫じゃあるまいし」

「良いではないですか、猫で。妾はいつも、こうして、猫撫で声で、旦那様に、お情けを強請っているというのに」

「わ、わ、わかった! タキ殿! いや、陣衛門! これを其処元に進ぜよう! な?! タキ殿!」

「あら。うふ、中々、気が利くの、宇喜田様」


 酒が入っているからか。

 タキは何時にも増して大胆に、宇喜田の目の前で文字通り猫なで声を上げ、寄りかかる陣衛門の耳に甘く囁きはじめていた。

 途端、淫靡な空気が『松屋』の客間に満ちて、たまりかねた宇喜田は向かい合う形で膳を並べていた陣衛門に、皿ごと炙り鰹を差しだしたのだ。

 それまで無愛想にタキをあしらっていた陣衛門は、そこで初めて宇喜田の戸惑いの正体に気が付き、困ったような表情を浮かべたのである。


 宇喜田とて一応は妻帯者である為、決して初心ではない。

 が、吉原の花魁も及び付かぬと思える妖婦が、目の前でしなを作り、蛇のようにねっとりと男に絡む様を目の当たりにしたのだ。

 およそ“正常”な男ならば、赤い唇からちろりと見え隠れして蠢く深紅の舌に、どれ程理性を保てようか。

 この場合、そのような状況下で平然としている陣衛門の方がどうかしていると言えただろう。


「……すまぬ、宇喜田。思い違いをしてしまった。タキ、少し控えろ」

「あら、つれない旦那様」

「いや、こちらこそすまぬな、陣衛門。いくらお主の事を知る拙者とて、流石にタキ殿の“ソレ”は落ち着かぬ」

「ほほ、これ位、吉原で身をひさぐ女共ならば朝飯前であろ」

「いやいや、タキ殿の“ソレ”はそのような代物とは比べようもない」

「おんやぁ? 宇喜田様、随分とまぁ、断定した物言いじゃなぁ? くふ、堅物に見えて中々、おなご遊びもいける口じゃったとは」

「な?! い、いや。いやいやいや、タキ殿! それは違う! 違うぞタキ殿!」

「何が違うのかや? なに、あわてなくとも、あの怒ると恐ろしげな御内儀には話はせぬ故。ねぇ、旦那様? 今宵は無礼講といきましょうぞ」

「いや! だから――、陣衛門!」

「……タキ。宇喜田をあまりからかうな。それに宇喜田。鰹はいらんし、食った事を誰にも言うつもりも無い。だから安心して早く引っ込めろ。さっさと食ってしまえ」

「あーいー」

「う、む。かたじけない」


 タキは陣衛門に少し強い声色で咎められ、おざなりに返事をしながら頬をぷっくり膨らませて、やや拗ねてしまった。

 一方、ようやくタキの責めから解放された宇喜田はほっとした表情を浮かべて、差しだしていた皿を自身の膳に戻すのである。

 が、それでも宇喜田はふて腐れて手酌を始めるタキをちらりと盗み見してしまう当たり、安堵はしていないようであった。

 宇喜田はどうにもタキに弱いらしい。

 否、妻が居るとは言え、宇喜田も男である。

 美女に逆らえず、意識を向けてしまうのが男の性なのかもしれない。


「失礼します。熱燗のおかわりと、水菓子(果物の意)をお持ち致しました」


 少しだけ気まずい空気の中、締め切られていた客間の障子の向こうから女中が声を掛けてきた。

 どうやら頃合いと見て、酒の追加と食後の菓子を運んで来たらしい。

 水菓子、という言葉に宇喜田は厳つい顔をぱっと明るくしかけたが、タキの悪戯っぽい視線に気が付いて慌ててしかめ面に戻り、咳払いを一つ。

 それから、背筋を伸ばし入れ、と低く言ったのだった。


「……蜜柑か」

「へぇ。紀州の蜜柑です。大旦那様から宇喜田様は甘味が好物だと聞いて、番頭さんが用意しました。あと、こちらは――」

「おお、金時(大角豆を甘く煮た菓子)か! それも、この包み紙、『山屋』ではないか!」

「へぇ。よくご存じで」

「知っておるもなにも、『山屋』の金時と言えばなかなかには手に入らぬ人気の品であるからな」

「あ、俺はいらん。金時は苦手でな。胸が焼けて仕方無い。俺の分は宇喜田にやってくれ」

「へぇ、かしこまりました」


 柄に無く興奮を隠さぬ宇喜田とは対照的に、陣衛門は至って冷静にそう言った。

 そんな陣衛門に宇喜田は喜色と驚愕をその厳めしい顔に張り付かせて、本当か?! といわんばかりにじっと見つめてくる。

 いや、その表情はどちらかと言えば、真偽を問うのではなくもはや正気すら疑ってかかるものであると見て取れた。

 彼にとって『山屋』の金時はそれ程の品であるようだ。

 ――武士であるならば、他者からの施しは恥である。

 が、宇喜田のような下級武士でそれも庶民に近しい同心である場合、往々にして誇りと実利の折り合いはつくものであった。

 先程の鰹もそうであるように、宇喜田の驚愕は決して、誇りを傷つけられたとかそういった類の物では無い。

 只純粋に、彼自身の価値観でもって『山屋』の金時を他人に譲るという行為が信じられぬのである。


「良いのか?! 陣衛門! 『山屋』だぞ?! “金時一粒豆板銀”の『山屋』の金時なんだぞ?!」

「いらぬよ。如何に高価であろうと、また美味であろうと、苦手なものは苦手だ。それにこの後、俺は働かねばならん。焼けた胸が原因で不覚をとっては叶わんからな」

「む、そうか。いや、それもそうだな……。そういう事ならば、拙者も」


 とはいえ、宇喜田もまたやはり武士である。

 陣衛門が酒を断ち、これから“何”に挑むのか、そこに思いを馳せると自分だけ舌鼓を打つわけにもいかなくなるのである。

 しかし、未練は確実に残って、宇喜田は目の前に盛られた蜜柑と金時を見下ろして、巨躯を小さく折りたたんだ。

 その様はお預けを食った野良犬のようで、哀愁が目に見えて陣太郎とタキ、そして給仕に来た女中ですら笑いを誘った。

 先程とは違い、只一人宇喜田だけが哀しみを抱いてはいるが、声にならぬ笑いが『松屋』の客間に満ちる。

 そんな雰囲気は日頃無愛想な陣衛門にとって、たまらないものであるらしい。

 珍しく肩から指先まで震わせながら陣衛門は宇喜田に二度目の助け船を出した。


「い、いや。きにするな、宇喜田。恐らく今夜は宇喜田には出番が来ないだろう。従って、存分に美味を味わうといい」

「ほ、本当か陣衛門?!」


 がば、と勢いよく顔を上げ、縋るような顔。

 表情はいかつい、仏頂面である同心の物では無い。

 どちらかと言えば、白州に引き出され詮議を受け慈悲を請う咎人のそれに近いものだ。

 喜色よりも不安が色濃く見て取れるのは、降って湧いた言葉に縋るには幸福が大きすぎるのだろう。

 そのような様子の宇喜田に、陣衛門は笑みを殺しながらもつい、意地悪な悪戯をしてみたくなってしまった。


「本当だとも。なんだったら酒も飲んで構わんぞ? タキ、酌をしてやれ」

「あーいー」

「あ、いや。タキ殿の酌は……」

「ほほ、何を焦っておるのかや? 心配せんでも、旦那様以外には媚びたりせぬ故。よもや、御内儀は千里眼の持ち主であるとは言うまいなぁ?」

「いや、そうではなくてだな――」


 果たして陣衛門の予想通りに慌てる宇喜田である。

 タキも陣衛門の意図を良くくみ取り、そそくさに宇喜田の隣へと移動し、言葉とは裏腹にいつも陣衛門にそうするようにして宇喜田の大きな体によりかかった。

 たまらないのは宇喜田で、好物の菓子とは違う、なんともいえぬ甘い芳香が鼻をくすぐり体を強ばらせてしまう。

 二の腕に感じるタキの頭の重さはなんとももどかしく、良き夫であるはずの宇喜田を大いに惑わせた。

 また、あまい芳香だけではなく隣から聞こえる衣擦れの音、くく、という愛らしい笑い声、何よりぞっとするほど整った女の顔は宇喜田の“男”を知れず刺激し始めていた。


 妖婦。

 正にその言葉が似合う、立花陣衛門の妻・タキである。

 宇喜田は早い頃からタキの妖しい色香に抗うべく、必死で妻・ハツの顔を思い起こしていた。

 が、それも逆効果でタキの芳香がそうさせるのか、脳裏に浮かべた妻の顔はすぐにあられも無く、寝物語に乱れた時のそれに変じて逆効果となった。

 ――陣衛門の奴、よく、こんな状況で冷静で居られたな。……よもや、あ奴、男色か不具なのか?

 友に心中でそう呪詛を吐きながら、宇喜田はやおら目の前にあった蜜柑を手にとって、皮ごと齧り付く。

 折角の甘味は渋い皮の味により台無しとなったが、見た目以上にもはやそれどころでは無くなった宇喜田であった。


「それでは、失礼致します」

「ああ、まて。善兵衛殿は?」


 そんな宇喜田とタキの痴態をどう見てか、女中は口元を押さえ笑いを隠しつつ退室しようとした所、陣衛門は女中を呼び止めた。

 口ぶりから、いくつか聞きたい事があるらしい。

 あるいは、女中にものを尋ねるにあたり、嫉妬深いタキをあえて宇喜田にけしかけたのかも知れない。

 その証拠と言えるのかどうかは定かではないが、鼠を嬲る猫のように、タキは半ば夢中で宇喜田の痴態を楽しんでいるようである。

 陣衛門の真意は何処に在るにせよ、事実としてゆっくり女中と会話をしても邪魔は入らない状況となっていた。


「はい、番頭さんや奉公人達に指示を出して、屋敷中から絵を集めておいでです」

「そうか。どの位かかりそうだ?」

「そうですねぇ……。うちはなにせ書物問屋ですから。美人画だけでも、蔵を開いて漁ってさあ、どうでしょう。あと一刻(二時間程)はゆうにかかるかと」

「わかった。ああ、娘御はもう移動させたか?」

「へぇ。真っ先に。広い庭に面した部屋ということでしたので、大旦那様夫婦の部屋に移動しています」

「問題はなさそうだな。いや、引き留めて悪かった」

「それでは、ごゆっくり」


 会話はつつがなく終わり、女中は客間の障子を締めて去って行く。

 僅かに早い足音は、面白い見世物を見て早速誰かに話す為なのだろう。

 ――あと一刻か。

 その間、どうするか。

 酒を飲む訳にはいかぬし、飯や菓子を食うにも限度がある。

 かといって、宇喜田と将棋を指すには……気が猛りすぎであろう。

 ……まいった。


 眼前でタキにからかわれ困る宇喜田を尻目に、陣衛門もまた、些か暢気な雰囲気ではあるが困り果てていた。

 陣衛門が説明し、屋敷総出で取りかかっている“絵怪”をどうにかする準備はまだ終わりそうに無い。

 にもかかわらず、時間を潰す手段が見当たらないのだ。

 ――まいった。

 もう一度、今度は小さく呟いた陣衛門であった。

 唯一、有効に時間を潰せそうなのは宇喜田との会話であったが、生憎先程鎌首をもたげた悪戯心によって、妖婦の生け贄にしてしまっている。

 陣衛門は己の軽率を後悔しながらも、タキに優しい声を掛ける事にした。

 それはそれでまた別の後悔を呼び起こす結果となるのだが、背に腹は替えられぬ陣衛門である。


 この日、こうして夜は更けて、怪異と対峙する三名であった。





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