LordBullet◎6
空に赤い月、地には白刃が煌めくその夜。
桟橋の上、前に銃を掲げた男達、背後にはナイフを取り出した清国人を置いて陣十郎はそこにいた。
腕の中にかつての許嫁と同じ年頃の娘を抱き、一方の手の中にあるのも又、許嫁と同じ銘の長脇差しだ。
大刀を抜かないのは、それが祟り刀であったが為である。
陣十郎自身、抜かばどのような“祟り”が起こるのか見当もつかないが、ただ一つ。
ソレを受け取った時から開かなくなった左目が、確かに神威がそこにあるのだと証明し続ける。
「な……、なんだてめぇ!」
突如闖入し、瞬く間に大男二人の首を刎ねた小男に誰かが凄んだ。
しかし陣十郎は応えず、自身の胸に飛び込んできて泣きじゃくる少女の背をさすってやるばかり。
その光景はまるで父親が娘をあやすように見えて、首が飛び血が流れる修羅場には似つかわしくない静穏さであった。
また、無数の銃口が既に陣十郎に向けられてはいたが、未だ火を噴く様子はない。
男達がただの破落戸ではないのもあったが、何よりこの場に居あわせたデニスとレニアスのクーリッジ親子が勝手な発砲を制していたのが大きいようだ。
デニスらにしてみれば、ホンファを死なせると計画に狂いが生じるのである。
それに不意打ちを許したとはいえ、相手はただ一人。
剣術の手練れである事はうといデニスでさえ見て取れたが、こちらは数の上では勝っている上皆銃を既に抜いているのだ。
慌てる必要など、どこにも存在しない。
――その、はずだった。
「う、が――」
うめき声は陣十郎の背後に居たリュウのもの。
ホンファを腕の中に抱き、一方の手で剣を抜いて背を向けていた陣十郎の隙を見て得意のナイフを投げようと“思った”瞬間である。
なんの予備動作も無く陣十郎はいきなり手にしていた脇差しを背後に投擲して、リュウの顔面に突き刺したのだ。
一瞬の出来事にリュウは何をされたのか理解するよりも早く後ろに倒れ、そのまま絶命してしまった。
陣十郎の早業はその場に居た男達を大いに驚かせたが、約二名、クーリッジ親子だけは驚きよりも苛立ちと怒りを募らせ陣十郎を睨みつけていた。
苛立ちは、陣十郎の早業にやや浮き足立っている部下達にむけられたもの。
怒りは、リュウを殺し計画を大幅に狂わせたみすぼらしい闖入者にむけてのもの。
状況は未だ圧倒的にこちらが有利ではあるが、後々ソン家の“トライアド”と渡りをつけ、代理の者を選ばねばならないだろう。
土壇場で計画の修正を余儀なくされるのは、デニスやレニアスにとってあまり好ましいものではない。
余計な手間を増やしやがって。
さっさと殺して、この苛立ちをあのチーナの娘にぶつけてやる。
怒りと苛立ちを募らせながらも、己の圧倒的優位を再認識し、凶暴な笑みを浮かべるデニス。
大勢の部下が既に銃口を敵に向けている。
対し敵の武器は、腰に帯いたままのサーベルのみ。
相手が如何に早業の持ち主であるとはいえ、こちらの部下達もそれぞれに銃の名手と呼べるような者を選りすぐってある。
これ以上は遅れを取ることは、まず無いと言っていいだろう。
――その、はずだったのだ。
「さて。どうなるか見当もつかんが……嬢ちゃん、わしの後で大人しくしておれよ」
何を思うてか、陣十郎は未だ腕の中で震えるホンファを自身の背後に押しやって改めて前を向いた。
銃口をこちらに向けている男達の数は十は下らない。
その押し殺した殺気から、彼らがコレまでの破落戸共とは違いそれなりの使い手であることが伺える。
全て斬り伏せるどころか、背後のホンファを守り逃がす事すら困難な状況であろう。
だが――
この時、陣十郎には確信があった。
何故そう思えたのか、根拠などは無い。
しかし腰の大刀に手を伸ばした時から、或いは百合の面影を時折思い出させる少女を護ると決めた時から、確信は覚悟を伴って陣十郎を突き動かす。
即ち、祟り刀を抜かば必ずその神威は敵を滅ぼすであろうという確信。
即ち、祟り刀の神威は必ず自身に返り命を落とすであろうという覚悟。
そんな覚悟と確信に、陣十郎は迷い無く抜刀して見せた。
――キン。
清廉な金属音が鳴る。
デニスやホンファには知る由は無いが、日本刀を抜くにしても本来ならば決して鳴る筈のない音だ。
無数の銃口に体を晒しながら抜き放った白刃は、赤い月に照らされて禍々しくも妖しく煌めいている。
刃長二尺六寸(約七十九センチメートル)、重ねは厚めで反りは古刀であるらしく浅い。
銘は刻まれてはいないが鬼目一“蜈蚣”(おにのまひとつ“むかで”)と呼ばれ、来歴もはっきりとはしないほどの古より在った、百振りの“祟り刀”最後の一差し。
同時に、ずっと開こうとしても開かなかった陣十郎の左目が開かれる。
祟り刀に捧げられたその左目に瞳孔は無く、代わりに血の色をした百足がとぐろを巻いて蠢いていた。
「へ?」
「痛っ」
そして、それは唐突に始まる。
瞬きをするような間、ホンファが陣十郎の背後に移動したことによりデニスがいよいよ射殺を命じようとした刹那。
何の予備動作も無く陣十郎は十ヤード程はあろうかという男達との距離を一瞬で縮め、神威の刃を振るったのだ。
刃は前に居た二人の男のそれぞれ腕と脚を掠めるに留まり、一目で致命傷には程遠いとわかる。
だからか、デニスを含め男達は人間離れした陣十郎の動きに驚愕しつつも取り乱しはせず、一斉に銃口の向きを変えて引き金を引こうとした。
しかし陣十郎はそれより疾く狭い桟橋の上にひしめく男達の中に飛び込んで、コレを押しのけるようにして反対側へと駆け抜けるのだった。
「バカが、とんだマヌケ野郎だ! 殺せ!」
叫んだのはデニスの息子、レニアスである。
大の男の首を二つ同時に斬り落とした手腕や、リュウを殺し一瞬で十ヤードの距離を縮めてくるその動きは確かに達人のそれであろう。
加えてこれだけの人数と銃を相手取り、逃げるどころか距離を詰めてくる所など実に狡猾で理に適った戦い方だ。
銃は近距離――例えば、刀剣類が届く間合いではどうしてもアクションが多い分遅れを取りやすいが、この場での“狡猾さ”はそういった意味では無い。
桟橋の上で密集していたが為、距離を詰める事によって同士討ちを意識させて発砲を封じ込め、一方的に攻撃を加えるという状況を指す。
だが、折角の有利を陣十郎は二つのミスにより手放した。
一つ、銃口を前にして萎縮してか、幾度か繰り出した斬撃が毛筋程の傷しか与えてなかった事。
二つ、どういう訳か密集する男達の間を駆け抜け、一度距離をとってしまった事。
レニアスの叫びはそこまで分析をした上でのものであった。
――それは、正しい分析である。
相手が世の理の中に居る限り、であるが。
「うわ、わあああああああああああああああ!」
「ひぎいいいいい! た、助けて!」
「ぎゃああああああああああ!」
「うわっ、な、なんだ!」
発砲よりも早く、恐怖に濡れた絶叫が木霊する。
周囲の者が驚いて見ると、最初に傷を付けられた者をはじめ陣十郎が駆け抜けざまに斬りつけていた幾人かがその場に蹲り、悲鳴を上げているのだ。
いずれも何処から湧いたのか、血のように赤い無数のムカデに集られて。
ムカデは小さな傷口から湯水のように湧き出てうぞうぞと蠢き、その数を増やして憐れな犠牲者の体を覆うや、あっという間に骨も残さず喰い尽くすと跡形も無く消えていった。
「ひっ、な、なんだ!? 何が起きたんだ?!」
「アイツだ! アイツに斬られた奴が“こう”なっちまったんだ!」
「ひっ、ま、まさか俺も――」
「馬鹿野郎! 傷を負ったかどうかは後回しだ! さっさとアイツを殺せ! また突っ込んで来るぞ!」
やや焦りの色をみせながらも、今一度上がったレニアスの叫びに男達は一斉に反応を示す。
幸い、銃口を向けた先にはいまだ敵が棒立ちとなていた。
距離は先程のそれと同じ位か、約十ヤード。
あわせて二十ヤード強の距離を神速で駆け抜けた計算になる為、息が上がってしまったか、あるいはそれ程の速度故に体勢が整わなかったのか。
ともあれ男達はその好機を身逃さず、一斉に引き金を引いた。
轟音と発火炎が辺りをうめつくしてゆく。
――と同時に、陣十郎の周囲に銀閃が幾重にも煌めいて、金属音と火花を散らした。
やがて夜の桟橋はギギン、と最後の銃弾を弾く音を残し静寂を取り戻す。
「う……そだろ?!」
「馬鹿な……ありゃ、バケモンだ!」
「なんだ、あいつ! なんなんだよ、あいつ!」
呻くように漏れる言葉は、絶句するレニアスとデニスの耳にも届いた。
無理も無い。
剣で銃弾を――それも何十発もの弾丸を打ち落とすような芸当は、既に人間業では無いのだ。
否、男達の目に陣十郎は既に、人の形をした悪魔かなにかに見え始めていた。
白刃は赤い月光を受けながらも白く輝き、対照的に陣十郎はと言えば黒い闇を浴びたように表情が伺えぬほど濃い影を纏う。
足下には浴びた返り血が滴るように、ぽたりぽたりと血が滴って、死を運ぶ魔人のような不気味さを一層引き立てた。
しかし実際の所、陣十郎はまったく返り血を浴びては居ない。
ただ相手に毛程の傷を負わせ祟り殺しただけなのだが、滴る血は陣十郎自身のものである。
負傷は流石に全弾は弾くことができず、受けても致命傷にはならない銃弾を“選んで”被弾したが為のもので、しかしその事実を恐慌状態に陥りつつあった男達は気付くことができずにいた事が彼らの不幸なのであろう。
「……そうか。これは、このような神威の形をもつのか」
ボソリと日本語で呟いて陣十郎は、改めて男達を見る。
久しぶりに両目で見る景色は、月夜にも関わらず昼間よりもよく見えた。
開かれた左目のお陰などではなく、そこに宿った神威の為でなのだろう、対峙する彼らの殺気や動揺までもハッキリと感じ取れる。
当然だ。
先程など、個々の引き金を引く動きや銃弾の軌道までも読み切れて、飛んでくる銃弾を“目で見て”確認し、取捨選択をおこなう余裕まであったのだから。
およそ人間の範疇を遥かに越える力は間違いなく、鬼目一“蜈蚣”が陣十郎に与えた神威である。
同時に、開放された祟り刀は陣十郎に向かって語りかけてくる。
その無念を撒き散らす為に。
少しでも多くの人間に恨みと怒りをぶつける為。
我を手に取り、姫を守れと。
お前が憎いと。
「生憎、護るべき姫君はここには居ないが、の」
そんな事を考えた瞬間、剣を握る手にゾゾと何かが這う感触がした。
目を落とすと、刀の柄のあたりから手の甲にかけて幾匹かの百足が這っている。
どうやら手の中の祟り刀は相当荒ぶっている様子で、次の犠牲者が待ちきれぬようだ。
もしくは、護るべき姫君がここに居ないと悟った以上、早々と憎い男を喰らうつもりであるのか。
どちらにせよ、手に這う百足の数は徐々に増えつつあって、陣十郎に残された時間は少ない。
抜かば持ち主ごと周囲に破滅を撒き散らす故に、祟り刀として祀られ生贄を差し出してきたのである。
抜く瞬間まで形は知らねど、都合良く相手だけを殺せるような生易しい神威では無い事は、臼木家で育った陣十郎がよくわかっていた。
「さっさと済ませるか。ダードゥはともかく、嬢ちゃんにルェイの骨を清国に送ってやるよう頼まねばならんからの」
避けられぬ死を前に、陣十郎はくっと苦笑いを浮かべ脚に力を籠める。
負傷しているにも関わらず、体は羽根のように軽く動いた。
間延びした時間の中、反撃に撃ち出された銃弾をかいくぐって陣十郎は剣を振るう。
勝負はたったそれだけで、決着を見るのだった。
数瞬後、すぐに獣じみた絶叫が残された男達の数だけ木霊して、月下の桟橋に地獄絵図を作り出す。
百足の神威はクーリッジ親子にも等しくふりかかり、野心、権力、傲慢さごと彼らを生きながらに貪り、跡形も無く喰らい尽くした。
そして静寂の中、陣十郎とホンファだけが残される。
全てが終わった後、陣十郎はゆっくりとホンファに近寄った。
ホンファはその姿に安堵――ではなく、恐怖を感じて息を飲みその場にへたり込んでしまう。
一方で陣十郎は何も言わず、やがてホンファの前に立った。
手には抜いたままの鬼目一“蜈蚣”。
ホンファの目の前に晒される白刃は、白く清廉な輝きを放っている。
対照的に、その柄を握る腕から肩にかけて、夥しい数の蟲が蠢いて居た。
おぞましい事にそれらは全て赤い百足である。
「大丈夫か? 嬢ちゃん」
優しい声に、ホンファはやっと我に返った。
見上げる陣十郎の表情がいつものそれであり、声には殺気は一欠片もこめられてはいない。
場の異様さに自身でさえ斬りつけられると勘違いしたが、冷静さを取り戻して見ればそうで無いことは瞭然であろう。
同時にホンファは陣十郎に起きている異変に改めて意識が行き、焦燥が彼女を支配した。
「シーラン! その、その腕!」
「気にするな。この刀は抜けば“こうなる”。まぁ、わしも今初めて知ったのだが、もはやどうしようも無い」
「バカ! 早くその刀を海にすてるんだ、シーラン!」
「捨てようにも手から離れぬでな。それよりも、――“ホンファ”」
膝を突き、へたりこんだままのホンファに陣十郎はずいと顔を寄せた。
思いがけず真剣な声色で名を呼ばれ、その上顔をこうも近寄せられたホンファは思わず言葉を飲み込んでしまい、息を飲む。
修羅場の後にも関わらず、一瞬だけ今生の別れにキスでもされるのかと考えてしまったのは、恋する乙女故。
「頼む。屋敷にルェイの遺体があるが、彼女の遺骨を清国の親元へ帰してってやってくれ」
「え、あ――」
「ダードゥのは屋敷の外にある。丁重に弔ってやってくれ」
「い、嫌だ! シーラン!」
「すまんな、ホンファ。お前がくれた酒は実に旨かった」
「シーラン!」
思わず縋ろうとするホンファを避けるように、陣十郎は一歩後ずさりながら立ち上がる。
その姿を見て、ホンファは直感的に陣十郎が海に飛び込むつもりなのだと理解した。
恐らくは、あの不思議な百足を生む刀をこれ以上人目に付かせぬ為に。
その呪いが、他ならぬ自分自身に及ばぬようにする為に。
ホンファはそう理解するや、弾かれたように背後のリュウの死体の元へ行って、その顔面に刺さったままの刀を引き抜いた。
それから、その切っ先を陣十郎へと向ける。
「シーラン! その腕を出して!」
「……なんじゃ」
「その腕を斬り落とすんだ! その手放せない刀ごとね!」
「……無駄だよ」
「無駄なものか!」
叫ぶと同時に、頬を伝っていた先程よりも大粒の涙が辺りに散った。
「ボクは諦めないぞ! シーランを、ここで死なせはしない!」
「ホンファ」
「さあ、腕を出して!」
言うや陣十郎の返答を待たずホンファは駆け出す。
脇差しとはいえ、慣れぬ刀の重さに体をふらつかせながらも少女は、そのままの勢いで刃を陣十郎の二の腕に突き立てた。
しかしぎこちない斬撃は、陣十郎の腕を落とすには遥かに足りない。
結果ホンファはたたらを踏んでよろけてしまい、陣十郎の脇に倒れ込んでしまう。
「ホンファ……」
「――っ、もう一度だシーラン! ボクは絶、対……」
今一度、言葉を飲むホンファ。
だがその表情は驚きに彩られ、その意味を陣十郎が察するまでに時間は掛からなかった。
何故ならば。
「百足が……あんなに居た百足が、全部消えている?」
「む……これは……」
呆気にとられるホンファを余所に、しげしげと自身の右腕を眺める陣十郎。
袖をめくると腕に小さく無数のかみ傷が残っていたが、確かに赤い百足の姿は綺麗に消え去って居る。
「どういう、こと? シーラン」
「わからん。……“百合”で斬りつけた故に天之麻の姫を求める神威が消えた、のか? いや、これはそんな生易しい祟りではないが……」
「と、ともかく! 百足は消えたんだ! 助かったんだよ、シーラン!」
「痛っ! こりゃ。いきなり抱きつくな、海に落ちたらどうする」
「シーラン! シーラン! シーラン!」
突如消えた神威に訝しがる陣十郎に、ホンファは抱きついて再び泣き始めた。
口を付いて出るのはただ一つ、愛しい男の名ばかり。
そこにあるのは名家の令嬢の矜持などなく、むき出しの年相応な少女の慕情であった。
陣十郎はガッチリと腰に手を回し胸の中で泣きじゃくるホンファにため息をつきつつも、下げ緒を解き腰の鞘を抜いて、彼女の頭越しに鬼目一“蜈蚣”を収める。
キン、という清廉な音が、抜いた時と同じようにした。
無論武士である陣十郎が納刀の際、音を立てるような不作法を行った結果では無い。
鍔鳴りは神事のごとく、神威を鎮める意図をもって祟り刀が発しているのだろうかと陣十郎はふと考えた。
――ふむ。
案外、この祟り刀は融通がきくようだの。
先の腕に纏わり付いておった百足どもも、消えたには理由があろう。
……古来、百足は人の唾液を嫌うという。
先程叫び散らした際、百合の刃に嬢ちゃんの涙か唾でも付着しておったからか?
むふ、もし次の機会があれば試してみるのもいいかもしれん。
そんな事を考えつつも陣十郎は、血と少女の涙に塗れながら、夜空を見上げた。
空に浮かぶは、赤い満月。
いつか許嫁にせがまれ、月夜に散歩をして見たそれとはまるで違う。
が、不思議と懐かしさを覚えて、男は腕の中の少女の背をさすってやりながら何時までもその月を見上げていたのだった。
臼木陣十郎がソン家から姿を消したのは、それから三日後のことである。
◆
二十世紀初頭、アメリカは西海岸のサンフランシスコ。
チャイナタウンの一等地、異国の地にあって清国の豪邸にある庭と変わらぬ景観をもつ宋家にて。
庭に面した部屋、ゆったりとした椅子に腰掛け一人飲茶を楽しんでいた元女当主であるホンファは、読み終えた手紙をテーブルに置いた。
手紙はやっと掴んだ、“ある男”の消息を伝えるものである。
男はかつて唯一、老女がかつて燃えるような恋をした相手だった。
そして唯一、老女の全てを否定した相手でもある。
莫大なソン家の財も、差し出した少女の青い肉体も、炎のように身を焦がす想いも、何一つ受け取らずに男はある日突然消えたのだ。
いや、ただ一つ。
請われて用意していた、バーボンだけを受け取って男は東に旅立ったのである。
「大体、肌にも触れて貰えなかったなんて、ソン家の恥さらしも良い所じゃない。その癖、あちこちで他の女には手を出すのだもの。これじゃ、死んでも死にきれないわ」
独白となって口を付いた恨み節に反し、老女は優しい笑みを浮かべる。
男のその後を調査した手紙を読み、改めて未だ鮮烈な過去の記憶を手繰った結果、ある結論に達したからだ。
長い年月を経て老女が達したその結論は、これまで新聞や調査を通じて燃やした嫉妬からくる彼女の溜飲を、著しく下げたようである。
「でも、やっとわかった。シーラン、あなた、怖かったのね。あなたの誰よりも大切な、許嫁の影を見せた私が」
ホンファはそう呟いて、再びテーブルの上に置いたグラスを手に取り、バーボンを注ぐ。
琥珀の液体が注がれたグラスは、目の前に翳すとまるであの日見た夕暮れのような色をしていた。
「ふふ。まったく酷い人。どうせ“彼女”の替わりにはなれないもの、他の女達のように抱いてくれた方が余程“傷”は浅かったわ」
微笑んでホンファはバーボンが入ったグラスを傾けた。
白いが皺だらけの喉の奥、燃えるような液体が流れ落ち、芳醇な香りが鼻に抜ける。
香りも味わいも間違いなく最高の酒である。
「――美味しい。これは勝利の美酒、ね。ねぇ、シーラン。私は今日、やっと理解したの。ずっと調べてきたけれど、あなたがアメリカに来て手を出さなかった女は私だけ。それが私が、唯一あなたの大切な人の代わりになれたかも知れないから、でしょう?」
問いに応える者は居ない。
心地よい昼下がり、見上げた空は青く潮風が雲を運んですがすがしい陽気である。
先程逃げた小鳥が戻って来たのか、チチチとさえずる声が聞こえて来た。
老女は椅子に腰掛け、空になったグラスを抱えてしばし目を閉じる。
瞼の裏に浮かぶのは、あの月夜に見たおぞましい刃の、白く清廉な輝き。
そして、それを振るう逞しい小男の背中。
海の向こう、アルカトラズ島を臨む夕暮れ。
次々と浮かぶ情景は、老女の心を何時までも照らす街灯のようでもあった。
やがて強い酒の影響か、ホンファに心地よい眠気が訪れる。
「シーラン」
呟きは既に寝言となっていた。
コトリ、と手にしたグラスが床に落ちる。
中身は既に飲み干されていたが、使用人が拾いあげるまでにはまだ時間が掛かるだろう。
室内にのどかな潮風が吹き込んで、バーボンの香りを散らしてゆく。
それはどこか、老女がかつて愛した男の匂いのようでもある。
ホンファはかつて男が使用していた部屋に在り、幸せそうに目を閉じたまま一つ深呼吸を行った。
男の匂いを体の内と外に満たそうとするように、深くゆっくりと。
微笑む老女の死に顔は、だれよりも幸せそうであった。




