LordBullet◎4
サンフランシスコ市議会議員、デニス・トライアン・クーリッジはその夜、苛立ちも露わにバーボンを煽っていた。
クーリッジ家は約二十年前、金鉱を掘り当ててより鉱山経営による莫大な利益を得た資産家であった。
近年ではその資金力を元に、サンフランシスコの政界にも影響力を伸ばしつつある一族でもある。
クーリッジ家の家長・デニスは一代にしてそこまでの成功をおさめた人物で、サンフランシスコの政界・財界においては今最も勢いのある人物であると言えるだろう。
初老の域に達しようかというとしであるが、濃い色の金髪はよく手入れされ白髪は目立たない。
体付きもやや肥満体型ではあるが、休日の度に自前の牧場で馬を駆ったりしているので、下半身はよく引き締まっていた。
数年前に建てた広大な屋敷は、贅を尽くした豪華な造り。
若く、美しい今の妻は三人目。
離婚した二人の前妻の内、最初の妻との間にだけ息子が一人。
デニスが成功をおさめる前からの子供で、親権はデニスが持つ。
貧しい思いをさせた時期もあってか、金を得てからはいくらでも好きに使わせ放任して育てた結果、傲慢に成長してしまった。
そのせいで度々トラブルを起こすのだが、それでも血の繋がりのある息子は愛おしく、つい、甘やかしてしまう優しい父親という側面を持つ。
彼が初めてサンフランシスコの市議会議員選挙に出馬し、見事当選したのが十年前。
そんな成功者が、豪奢なリビングで最高級の酒を楽しむ夜の安らぎの一時、不機嫌そうにグラスを傾けている。
家庭内に問題は無い。
政治家としての仕事も順調である。
家業である鉱山経営も、かわらず安定した利益を出していた。
半分は趣味である牧場経営も、今ではかなりの規模と成って所有する良血統の馬も三十は下らない。
にもかかわらず――
「くそっ、スクラフのマヌケめ。チーノ※の小娘一人、何を手間取っているのだ」(※清国人を指す、差別語)
「だから言ったじゃ無いか、父さん。裏家業の連中ももっと知恵が働く奴を使わないと」
デニスの向かいに座り、苛立つ彼を宥めているのは彼の息子であるレニアスだ。
こちらは二十代も半ば程か、大柄で逞しい体躯と金髪が印象的な青年である。
顔立ちからはデニスの印象が伺えるが、どちらかと言えば厳つい印象を与えるデニスとは違い、どこか狡猾な光を帯びるブルーの瞳は彼の雰囲気を柔らかくもしている。
こちらは特に苛立った様子は無く、ゆっくりとバーボンが入ったグラスを傾けては美酒の香りを楽しんでいるようだった。
「ふん。なまじ半端な知恵が働く奴を使うと、後でどのように強請られるかわからん」
「逆だよ。知恵が働くなら、強請って得る金と信頼されて得る金のどちらが大きくなるか、わかるもんさ。それこそ、ソン家みたいにね」
「あんな猿の破落戸、そんな知恵が働く奴などいるものか」
「居るからフォーブズは儲けているんじゃ無いか。おかげでサンフランシスコに流れ込んでくるチーノどもは、皆あいつの手下みたいなもさ」
レニアスが口にしたフォーブズ、というのはデニスと同じ市議会で議員を務めている、マードック・フォーブズという人物の事を指す。
彼もまた鉱山経営者であり、ソン家と繋がり安い清国人の労働者を大量に雇用する事によって近年急速に事業を拡大している人物だ。
強欲なデニスにとってフォーブズは、正に政敵であり商売敵でもある。
「父さんの考えは古いんだ。腕っ節や度胸だけの奴は“政治”には向かない。今は精々、使い捨てにするのが関の山だよ」
「そうはいうが、倅よ。そのような輩こそ、使い捨てにしなければ多少は知恵が回るようになるし、使い勝手だって良くはなってくるものだ」
「だからって、バカで良いはずは無いよ。聞けば、父さんは見せしめにソン家の娘を攫ってこいって言ったのに、いきなり殺してから見せしめにしようとしたみたいじゃないか」
「む……それは初耳だが、誰から聞いた?」
「僕も僕で目端の利く奴を飼っているからね、チーノ共やバーバリコーストの破落戸どもの失敗談位、いくらでも調べられるよ」
レニアスはそう言って、肩をすくめて見せた。
それから、ここには居ない誰かを軽蔑するようにハンと一笑して、持っていたグラスを口に運ぶ。
「何にせよ、アイツやその手下どもはもうダメさ。使い勝手が良くなるどころか、すっかり良い気になってこっちの指示を“自分達がやりたい事”に変えて受け取ってしまうんだから」
「クソッ、あの野郎……だが、どうする? ソン家のような連中がフォーブズの下に付いている限り、このままでは奴に資金力で追い越されてしまう。かといって、スクラフの替わりが勤まりそうな奴は、バーバリコーストにはおらん」
「まぁ、たしかにね。あいつ、汚れ仕事を喜んでやるような奴を集めてくるのだけは上手いから」
「だがそれが無能ばかり集めてくるのではな。くそ、このままでは再来年の市長選で、フォーブズの奴に先を越されかねんぞ!」
ぐい、と一気にグラスを傾けるデニス。
彼の焦燥混じりの苛立ちは、その才覚故にある程度の未来を予測できるからだった。
そんな彼を持ってしても痛恨とも言えるミスは、ソン家を先にライバルであるフォーブズに押さえられた事にある。
というのも、当時アメリカ横断鉄道の開通に象徴されるように、鉱山などでの単純労働力において清国人は非常に重要な存在であった。
南北戦争の終結に伴い黒人奴隷は開放されたとは言え、その事実は人種差別や平等博愛を謳う人権問題の解決からは程遠い。
それまで黒人奴隷が担っていた作業を、夢を求め出稼ぎにやってきたアジア人やメキシコ人、プエルトリコ人や中南米人が担うようになっただけの話でしかない。
特に清国人労働者は気軽に“使い捨てられる”ような、非常に安い賃金で雇う事ができる為、多くの経営者にとって利点となりえた。
また、彼ら外国人労働者には黒人のように市民権も無いので、選挙対策に福利厚生などに気を掛ける必要も無い。
皮肉な話として奴隷開放のイメージが強いアメリカの南北戦争終結は、黒人奴隷の代用として“外国人労働者”という新たな奴隷を作り出したにすぎないのである。
その構造は二十一世紀を迎えた現在でも、克服できているとは言い難い。
デニスがソン家の重要性に気が付かなかったのは、彼に差別意識が強かったからだ。
かつて奴隷だった黒人よりも下、市民権すら与えられない人語を喋る家畜。
そのような認識であったからこそ、フォーブズに先を越されるまで清国人労働者の元締めなど、白人の破落戸の親分と同等以下と断じ、相手にしなかったのである。
その結果が、フォーブズ家の台頭だ。
今はまだ良い。
資金力も、事業の規模もまだクーリッジ家の方が上回っている。
が、十年――否、五年先はどうなっているかわからない。
デニスをそのように焦らせる程、ソン家を初めとした清国人労働者の組織化は脅威となりつつあった。
「僕に考えがある」
それだけ言ってレニアスは、今一度、ゆっくりとグラスを傾けた。
そんな息子をデニスは不機嫌に睨み、空になったグラスに酒を注ぎながら、話して見ろとばかりに顎をしゃくる。
「“トライアド”って知っているかい? 父さん」(※トライアド=三合会。反清漢民復権を謳う秘密組織であり香港系マフィアの源流)
「なんだそれは」
「チーノどもの地下組織みたいなものらしい。王朝打倒だの、漢民族がどうだのとよくわからない事が目的らしいんだけど」
「それがソン家の連中だとでもいうのか?」
「いや、逆だよ。チーノにも色々と種類があって、ソン家とはまた別のチーノだそうだ。それも、仲の悪い、ね」
「っは! 猿どもが、アメリカじゃなんの関係も無い話だ」
「所がそうでも無いんだ。連中、ソン家の内部にも幾人か潜り込んでいるようなんだけど、どうもソン家を追い落としたいらしくてね」
「……ほう?」
「表向きはともかく、ソン家の持つサンフランシスコにおける権益が欲しいらしい。勢力はまだまだだけど、僕はその連中とはちょっとしたコネがあってね」
レニアスはあとはわかるだろう? とばかりにニヤリと父親に笑いかけた。
勿論、デニスも息子の言わんとする所を正確に読み取る。
「旨く利用すれば、フォーブズからチーノ共を丸ごと奪える、という事か」
「まぁ、ね。ソン家の当主の補佐をやってる男なんだけど、もしこの当主に“何か”があった場合、後を継ぐであろう娘の補佐として彼がソン家の一部を仕切る事になってる」
「その男が“トライアド”とやらの一員か。……なるほど、もしそうなれば徐々に仲間を組織の中に呼び込んで、乗っ取る事もできるな」
「ついでに、娘を妻にでもしておけばそう時間もかからないだろうね」
悪い手では無い。
デニスは内心そう考え、思考を巡らせた。
これまではフォーブズ弱体化の一環として、ソン家の娘を誘拐させ、様々な要求を突き付けた上でソン家の当主にはフォーブズの関与を伺わせる事が目的であった。
しかしレニアスの手に乗るならば、フォーブズの戦力を丸ごとこちらの懐に入れる事ができるのである。
やってみる価値はあるだろう。
あとは、実行するにあたりどの様な障害があるのか、そしてその障害は排除できるのかの問題だ。
「だが、その為にはあの用心深いソン家の当主に“何か”を起こさねばならんだろう」
「だからさ。最初の目的どおり、例の娘を誘拐しておびき寄せるんだ」
「だがそれは……」
「大丈夫。今度は僕のコネを使って、“トライアド”のチーノどもを使う。きっと成功するよ、父さん」
「ならば、誘拐などせんでも直接親玉を狙えばいいではないか?」
「だめだよ。それだとソン家の中で裏切り者を徹底的に探し始めるだろうし。“トライアド”の連中があぶり出されたら元も子もないじゃないか」
「それもそうか……」
「それにね、誘拐は“トライアド”にソン家を乗っ取らせる為の布石でもあるんだよ」
「ソン家のボスを黙らせる以外になにかあるのか?」
「うん。情報によれば、ソン家の娘には婚約者がいるらしいんだけどね。この娘がさらわれて、アヘンを吸わされながら壊れるまで犯されてたなら、どうなると思う?」
ニタリ、とレニアスは笑う。
笑みは悪魔的で、下衆めいた台詞も父親の前で息子が口にできるようなものではない。
だがデニスもまた、どこか好色な笑みをうかべくっくと含み笑いでもって息子の非道を受け入れるのだった。
「面白い。そんな娘、だれも嫁にしたいとは思わんだろうな」
「当たり前だろ。いくらチーノだって、そんなのを妻にしたがるもんか。それをあえて妻にしようとするんだ、反対する奴なんてまずいない」
「はっは、ちがいない。私だったら、売れ残りの娼婦かインディアン娘と結婚した方がマシだね。ま、ソイツも頃合いをみて愛人でも作るんだろうがな」
「いいかい、父さん。僕の計画はこうさ。件の娘をさらって、ソン家の当主を呼び出し始末する。その後、例の補佐役に娘を救出させるんだ」
「うむ、言いたい事はわかるが……そう簡単にいくかな? 報告では娘にはそれなりの護衛が付いていると聞いておるが」
「何も力尽くでさらうんじゃ無い。ちょっと、公権力を使えば良い」
「と、いうことは……デン・スミス判事か!」
デン・スミスという人物は、かねてよりデニスが“懇意”にしている裁判官の名である。
デニスの資金力にものを言わせた影響力は、警察や裁判所全般には及ばぬものの、ここぞと言う時に使えるだけの範囲には届く仕組みがあった。
例えば、息子の若気の至りからくる強姦や暴行罪といった“ちょっとした犯罪”を揉み潰すだとか。
例えば、自身の汚職の証拠を嗅ぎ回る記者に鉛の弾で“警告”を行った、ボディーガードの刑期を五十年から三日に変えるだとか。
「そう。何でも良いから微罪で捕まえて、デン・スミスの法廷で裁くんだ。それも、相手が弁護士を立てるより早くね」
「なるほど。彼ならば私の影響力が行使出来るな。……ふふん、倅よ。どこでソン家の当主を始末するか、わかったぞ。アルカトラズ島だろう?」
「正解。あそこの所長も父さんの手が届くからね。ついでに、そこで娘を“壊して”おくんだ。面会に来た父親が取り乱して貰わなきゃ」
「憐れ、取り乱した父親は警備の者に射殺されてしまう、というシナリオか。なかなか良い手だな」
「その為にも娘は余計な事を喋らないよう、キッチリ壊しとかなくちゃならないけどね。父さんもどうだい? 偶にはチーノの素人娘で“遊ぶ”のも悪く無いと思うけど。大切に育てられてるはずだから、最初の内は楽しめるはずだよ」
「殺さなきゃいいのだよな?」
「勿論」
息子の即答に、デニスは好色な笑みを浮かべた。
いくら財と権力を手に入れたとはいえ、その辺を歩く女性を攫い好きにできるような力は無い。
例えそんな事を実行し、自身の息がかかった裁判を行ったとて、高い地位故に必ずや世論に攻撃され最終的には追い詰められてしまうだろう。
内地の方では未だインディアンの娘を“狩猟”の対象にしているという話も聞くが、誇り高いインディアンは必ず報復をしてくるし、黒人奴隷が開放された作今、女性を集団で嬲るような娯楽は混沌が残る当時のアメリカであっても、既に相当リスキーであった。
それこそ、このような犯罪を実行する必然性を持つ人物以外は。
何よりデニスは、危ない橋を渡るなら最大限の利益を求める強欲さを持っている。
故に、その際に発生する“ささやかな娯楽”に対して食指が動いたのも当然の成り行きであった。
「面白そうだ。偶にはあそこの所長にも便宜を図らせてやらんとならんし、久しぶりに私も息子と遊ぶとしようか」
「よし、決まりだ。その後の事はわかるよね? 例の補佐の男に貰い手の無くなる程汚された娘を“忠義心”から妻に迎えさせて、ソン家を乗っ取らせる。後は気が付くとソン家はクーリッジ家のものになっているという寸法さ。どうだい?」
「それで行こう。はは、こりゃ私の引退も思ったより近くなりそうだ」
「父さんはその内政治の方に専念するようになるからね。僕も家業とか色々、できるようにならないと」
「それは頼もしい。レニアス、お前は私の誇りだ」
二人のグラスが同時に空になる。
話が纏まったタイミングで、どちらとも無くグラスの中身を一気に煽ったからだ。
デニスはバーボンのボトルに手を伸ばし、空になった息子と自分のグラスになみなみと酒を注ぐ。
そして二人は示し合わせたようにグラスを掲げ、計画の成功を祈願した。
憐れな生贄となる娘の側に、どのような素性の人物が居るのかを知らぬまま。
◆
「本当によろしいのですか? ホンファ小姐」
ホンファが海辺の夕暮れの中、陣十郎の頬を打った日より二週間。
その夜、ホンファの部屋にはいつものようにとある女性が訪れていた。
陣十郎の世話を担当する、ルェイジーというメイドである。
「……しつこいよ、ルェイジー」
「しかし……ミスター・ウスキは明後日にはお屋敷を発つのですよ?」
「いいったらいいんだ! 君は余計な事を喋らず、いつも通りに報告してくれればいい!」
清国式の寝台の中から、ホンファは言葉をささくれ立たせながら使用人を叱咤した。
言葉にトゲが含まれるのは、嫉妬と焦燥が混じっているからだ。
思いの丈をぶつけたあの日、少女が初めての失恋をしたあの夕暮れ。
ホンファは家に戻るなり、自室に引き籠もって以後陣十郎をはじめ誰とも会おうとしなくなっていた。
そのまま二週間が過ぎ、いまだ状況は変わらない。
ただ一人、ルェイジーにだけ入室の許可を出していたのは、ある理由から。
理由とは、その日一日陣十郎がどの様な事をしていたのか報告をさせる為である。
あからさまに未練が残る行為であるが、それでも頑なに一歩も部屋の外に出なかったのは、意固地になっていたが故。
本音を言えば諦めきれぬ恋心を惜しみ、体を焦がすような陣十郎への想いは捨てるに忍びない。
傷心の少女が身の回りの世話を突如陣十郎の担当であるルェイジーを選んだのも、夜、寝る前にはかならず自分の部屋に訪れさせる事によって、彼女が陣十郎と情を交わさないよう、せめてもの抵抗をしたからだ。
「……今日もいつも通り、です。ミスタ・ウスキは朝起きると剣術の稽古をなさい、朝食を摂られました。それから一時間程置いて、もう一度剣術の稽古を。昼食後、午睡を三時間程。起きたら海の方へ散歩し、戻って来たら夕食まで剣術の稽古をなさいました。夕食後はお酒を嗜み、先程就寝されたばかりです」
「ボクの事はなにか言ってなかった?」
「いいえ、何も」
「……何でもいいんだ。どんな様子だとか、いきなり殴って何を考えているだとか。悪口でも構わない。なんでも、いいんだ」
「……何も、質問はされませんでした」
「……お酒」
「はい?」
「シーランは、どんなお酒、飲んでた?」
「以前ホンファ小姐が送った、バーボンです。ことのほか気に入られたようでしたわ」
ルェイジーの報告にホンファは思わず寝台の上で横になったまま、右手を抱くようにして体を丸め目を瞑ってしまった。
日々少しずつ膨らみ続ける胸の奥が、仄かに熱を帯びそして苦しく感じる。
贈った酒をそのように喜んで貰えたという事実は、予想外に大きく膨らんでゆく。
落胆で深く深く沈んでいた筈の心が、ほんの僅かな事で一気に熱を帯びた。
今の自分はきっと、体中の血液が顔面に集まり、だらしなくにやけているのだろう。
意地を張っている手前それが判るからこそホンファは、喜んでいる事をルェイジーに悟られぬようにしたかった。
その、他愛も無い喜びはそれまでの彼女の人生の中で一度も味わった事の無い、甘美な感情である。
同時にその恋は既に終わりを迎えており、それだけに歓喜に震える全身はどこまでも悲しい。
だからこそ、嬉しい感情と同時にどうしようも無いほどの悲しみがこみ上げてきて、彼女に涙を流させる。
程なく、抵抗も虚しくズ、ズズ、と鼻を啜る音が薄暗いホンファの部屋に漏れ出した。
これまでルェイジーから伝え聞いていた陣十郎の状況はと言うと、ホンファとは違い大きく変わっているらしい。
ホンファの護衛を通じて得た賃金はそこそこのもので、旅の支度として必要な物も既に揃っているようだ。
また言葉も大分不自由しなくなりつつあって、遂に昨日、ソン家の頭領である父に四日後に発つ駅馬車に乗る為、ソン家を後にする旨が伝えられていた。
一方、ホンファの父は当初、陣十郎を強く引き留めた。
幾度も娘の命を救った恩人というだけでなく、その強さは内戦が終結したばかりのアメリカにおいて得がたい資質でもある。
驚いた事に先日からのホンファの様子から、ソン家の主は陣十郎を愛娘の婿に迎えても良い、とすら思うようになっていたようだ。
ホンファとしては願っても無い、夢のような話だった。
だが陣十郎は一晩続いた別れの宴の中でこれを固辞し続け、ついにはソン家を後にすることが決まってしまったのである。
固辞した理由として、この身は既にある乙女に捧げているからだ、とだけ。
だが、ルェイジーは抱いたではないか。
宴の席でそう食い下がられ、陣十郎はこう説明したらしい。
――あの娘は、似とるのだ。わしの最も大事なものに、な。
だから、陣十郎はホンファを抱かなかったのだろうか。
だから、喧嘩したその日から只一度きりとて様子を見に現れないのだろうか。
ホンファには陣十郎があの夕暮れの中で語っていた、故郷に居るであろう姫君の話を思い出して、唇を噛む。
――きっと自分は、女として見られていないのでは無く、自分の中に“故郷”を垣間見てしまうから相手にされないんだろう。
シーランにとって“故郷”とは、彼の“姫君”の事だ。
その事実を抱えたまま婿になるというのは、あるいはこの身を抱くというのは、男の愛を求める自分にとって不幸でしか無い。
わかっている。
自分とて、そこまではバカではない。
シーランの大切な物に自分が似ているからと聞けば、男の拒絶は自分の事を想ってのものだと理解位、出来たはずだ。
でも。
そうであっても。
「ホンファ小姐。差し出がましいことを申しますが、ミスター・ウスキと和解された方がよろしいかと」
「しつこいったら! ルェイジー、君は何時主人に意見できるほど偉くなったのかい?!」
「申し訳ございません。……しかし、このままでは確実にホンファ小姐は後悔なさいます」
「どうしてさ!」
「私も、清国を発つ際に父と喧嘩したままでしたもので。二月程前、その父が死んだとの報せが届いた時は……とても辛かったですから」
思いがけぬ話にホンファは開いていた口を結んでしまった。
身分の差があるとは言え、使用人の不幸を気に掛けず気持ちを踏みにじるような行為を是とするほど、ホンファは人として未熟では無い。
「そう、なんだ。……よかったの? 客人の“相手”をする事もある仕事を回して」
「大丈夫です。嫌だったら断れるよう、最初に配慮はいただいておりましたし。……それに、あの方の魅力はホンファ小姐が一番良くご存じでしょう」
「う……」
「ホンファ小姐。ひとつ、まだ報告していない事が」
「なんだい?」
「ミスタ・ウスキはバーボンを煽りながら、明後日の出発までに無くなったらどうしようかと、真剣にお悩みになられておりました」
沈黙。
言葉にはでないが、ホンファの様子がやや柔らかな雰囲気となる。
まるで、難しい難問の突破口を見つけたように。
「如何でしょう? 明日ミスター・ウスキと今一度お出かけになられては。その際、仲直りの印として上等のバーボンを贈れるよう、私が今夜の内に手配しておきます」
「でも……」
「本当かどうかはわかりませんが、ミスター・ウスキの旅は宛ての無いものと聞き及んでおります。ですのでその旅の途中、贈られたバーボンを飲む度にホンファ小姐の事を思い出すでしょう。なれば、再びサンフランシスコに戻って来る事も、考える日が出てくるかも知れませんよ?」
ルェイジーの希望的観測に満ちた提案は、寝台にうずくまるホンファの上体を勢いよく起こすに足るものであったらしい。
涙の跡も真新しく、潤んだ睫毛もそのままにホンファはガバと跳ね起きて、まじまじと入り口の所に発っていたルェイジーを見つめた。
ソン家の娘として、女として酷い顔であったが、その瞳には見る間に彼女本来の生気が漲ってゆく。
そんなホンファの顔を見て、ルェイジーは優しく微笑み主の意図を汲み取った。
「では早速手配して参ります。明日のお召し物の支度は他の者に伝えておきますので後程。湯浴みは……早朝でよろしいでしょうか?」
「……ううん、すぐに用意して。それと、着替えも。バーボンは湯浴みをしたら、ダードゥと一緒にボクが買いに行くよ。ボクがシーランに贈りたい品なんだし」
「かしこまりました、ホンファ小姐。ではダードゥに声を掛けてまいります。ついでにミスター・ウスキには私の方から明日予定を――」
「それも、ボクがする。正直な話、ルェイジーにはもう、シーランに……近付いて欲しくないし。ダードゥには用意して何時もの場所で待つよう伝えておいて。」
俯き唇を尖らせながらそう言ったホンファの台詞に、ルェイジーはまぁ、といった驚きの表情を浮かべた。
初めて見る年頃の乙女らしい嫉妬は初々しく、日頃の彼女を知る者にとってまるで別人である。
恋とはこうも人を変えるものか。
微笑ましい光景は、知らずルェイジーの心を温める。
やがてルェイジーは一礼を残し、ホンファの部屋を後にしたのだった。
足早に廊下を進むのは、命じられた任務を速やかに果たす為。
ただし、向かう先はダードゥの元でも、ホンファ付きである他のメイドの元でも無い。
ホンファの父、ソン家の主を補佐する使用人頭の元へ、である。
そしてルェイジーは使用人頭の部屋の前にたどり着いた時、それまでの朗らかな心地とは真逆に、苦しげに俯いて自身の左肩を掴む。
普段は白粉などで隠している、三角形の入れ墨※が胸の内と同じ位痛む錯覚を覚えたからだ。(※三合会のシンボル)
使用人頭の部屋のドアをノックできないのは、彼女が個人的にはホンファの味方をしたかったからであるのだが。
しかし、父の死を告げる手紙に書かれていた母の容態の内容が、彼女に決断をさせたのである。
何よりもう一度、母に遭う為に清国へ渡るには、相当な金が要る。
病床の母の治療費まで考えるならば、今まで貯めていた貯金では話にならないのは明白だ。
先程まで口にしていたホンファへの思いやりに、嘘偽りは無い。
手紙に母の事が書かれていなければ、組織への忠義よりも愛らしい花を咲かせようとしている少女の味方になっていただろう。
だがそれ以上に、故郷の母への想いはルェイジーにとって他の何をも優先するに値した。
「……申し訳ございません、ホンファ小姐」
絞り出すように呟いて、ルェイジーは目の前の裏切りの扉にノックをしたのだった。




