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異聞・妖刀百物語  作者: 痴れ者ラボ
サムライ×フロンティア ~前日譚~
42/76

LordBullet◎2




 時刻は午後二時を回った頃、どこかのどかな晴れた日である。


 サンフランシスコはチャイナタウンの一画、高い壁に囲まれた清国調の豪邸にあって、壮観な庭に面したテラスにて。

 一人の老女が白いガーデンチェアに腰掛け、薄い視界で庭を眺めながらバーボンを楽しんでいた。

 老女の名はソン・ホンファ(宋・紅花)。

 サンフランシスコのチャイナタウンを裏に表に取り仕切る、ソン家の元当主である。

 彼女が腰掛ける椅子と同じく、設えられた丸いガーデンテーブルは白く、その上にはバーボンの瓶と一通の手紙が置かれていた。

 手紙は既に読み終えられたのか、開封された封筒と中身であったらしい数枚の便せんが無造作に置かれ、心地よいそよ風にその端を揺らしている。


「シーラン(十郎)。聞こえて? 私の声が。届いていて? 私の心が」


 問いかけは誰に向けてのものか。

 同じ空に居る筈の人物なのか、それとも庭の向こうに見える追憶の先の人物にむけてのものか。

 老女は自身が発した問いかけに、何かしらの答えを見出したように微笑んでバーボンが入ったグラスを傾けた。

 白いが皺だらけの喉の奥、燃えるような液体が流れ落ち、芳醇な香りが鼻に抜ける。

 香りも味わいも間違いなく最高の酒であるのだが、しかし。


「不味いわ、シーラン。――貴方のせいなのよ? あの日以来、私はこのお酒だけは美味しいとは思えなくなったのだから」


 呟いて、コトンとグラスをテーブルに置く老女。

 眼差しは寂しげで、心地よいはずの酔いは“嫌い”な酒の味に呼び起こされる記憶と共に全身へ広がる。

 同時に老女の心は少女であった頃のように輝き始め、奥底に深く遠く沈めていた想いが浮かび上がって行く。

 ――そして彼女は思い浮かべるのだ。

 あのおぞましい刃の、白く清廉な輝きを。



「ちょっと、聞いてるのシーラン? 君はいい加減、ボクの言う事を聞くべきなんじゃないか?」


 ホンファが港の路地で悪漢に襲われてより、二週間が過ぎたとある日。

 彼女は己の窮地を救った、行き倒れの男と共に、サンフランシスコの港はとある古い桟橋の上に在った。

 時刻は昼も過ぎた午後二時、晴れた日である。

 波は穏やかで、海にせり出した桟橋の先に“元”行き倒れの男はどっかと座り、釣り糸を垂らしていた。

 男は隻眼でその左目は常に閉じられ、身なりは国際都市であるサンフランシスコであってもかなり珍しい。

 出で立ちは腰に二本、鞘に納まった刃物を帯び、服装もホンファに初めて声を掛けられた時と同じ黒いローブのようなものを身に纏っている。

 ただ、洗濯だけはきちんとしているのか、あの路地で臭ったすえた不潔な体臭はせず、潮風に吹かれる後姿はこざっぱりとしていた。


 その背後にホンファはムスっとした表情で仁王立ちして、腰に手を当てながら“元”行き倒れの男――臼木陣十郎を見下ろす。

 足に怪我を負っていた為、つい先日まで杖をついていたホンファであったが、今はもう必要無いようだ。

 ふくらはぎに刺さったナイフは小振りであったからか、若いホンファの回復力が強かったからかは不明であるが、まだ痛みはあれど歩く分には問題無いらしい。

 二人が居る桟橋は小舟用なのだろう、係留された船はどれも小さい。

 また遠くに見える外洋航海用の船の為の桟橋のように、周囲には作業に従事する人の姿は無かった。


「嬢ちゃん、ちと黙っていてくれんか? 魚が逃げちまう」

「大事な話をしているんだから誤魔化さないでよ」

「大事な話?」

「そうさ、シーラン。君はボクの言う事をもっと聞くべきで、でも今君はボクの言う事を聞こうとしていないじゃないか」

「んー、それは違うんではないかの」


 陣十郎は心ここにあらずといった調子で、じょりじょりと無精髭を摩りながら背後の少女にそう答えて、しかし振り向きもしない。

 だからか、ホンファは益々苛立ちも露わに、今し方の陣十郎の言葉を否定するつもりなのだろう。

 やや声を低くしながら、改めて陣十郎に質問をなげかけた。


「何が違うのさ?」

「だって、ほれ。わしぁ、このとおり嬢ちゃんの親父殿との約束はきとん守っておるで」

「ボクの言葉も、お父様の言葉のように受け止めるべきだとおもわないのかい?」

「何故だ?」

「ボクはソン家の一人娘だからさ」

「だがソン家とやらを取りしきっとるのは、嬢ちゃんの親父殿だろう?」

「そりゃ――そう、だけど。ボクだってソン家の一員なんだし。使用人は使用人らしく、ソン家の者の命令をだね」

「むふ、残念だがわしゃソン家の使用人になった覚えは無いぞ。親父殿には一宿一飯の恩返しに、怪我をして寝込んでおる娘の『用心棒』の代役を申し出はしたがな」


 少したどたどしい英語で言いながら陣十郎は可可と笑い、釣り糸を上げてエサが無くなっていることにありゃ、と声を漏らす。

 その背をホンファは睨み、背を蹴り海に落としたい衝動を抑えつつも、思考の中から効果的な反論を探した。

 眼前の中年はホンファにとって、まごう事なき命の恩人である。

 だが当のホンファには感謝の気持ちよりも、思い通りに動かぬその態度に苛立つ気持ちの方が大きかった。

 そも、なぜホンファは命の恩人である陣十郎が思い通りに動いてしかるべきだと主張しているのか。

 理由を語るには、彼女と陣十郎の邂逅の顛末まで遡らねばならない。


 ――あの日。

 路地裏でホンファは間違いなく陣十郎に操と命を救われたのだったが、血河を作り出した当の本人は直後、再び倒れ伏していた。

 結果満足に動けるのは衣服を破かれたホンファ只一人となり、彼女は気丈にも路地を出て助けを呼ぶ羽目になったのである。

 この行為は当時の価値観から鑑みても、相当勇気を必要とするものだ。

 事の真実はともかく、女性が衣服を破かれて路地から出てくるなど、どの様な噂が立つか想像だに難くない。

 それがサンフランシスコでも有名な、チャイナタウンに居を構える名家の令嬢ならば尚更である。

 ホンファ自身衆目を憚らずに助けを求める行為について、その影響を考えなかった訳ではなかったのだが。

 それ以上に背にナイフを刺され倒れたままの、忠実な護衛の命を救うことがホンファにとって何より優先すべき事であった。


 幸い近くの港には多くのソン家縁の清国人が荷揚げ作業に従事しており、彼らの殆どがホンファの事を知って居たようで、直ぐに五、六名の男が助けを求めるホンファに応じて集まって来る。

 程なく、背にナイフを刺されたダードゥと意識を失った陣十郎を、あられも無い格好のホンファと共にチャイナタウンに居を構える医者の元へ担ぎ込んだのは騒動から三十分も経った頃だった。


 不幸中の幸いか、駆けつけた港湾作業人夫の中に応急措置に秀でた元船乗りがいて、ダードウの背のナイフを抜かず適切に止血を行ったのが良かったらしい。

 彼は一命を取り留め、ホンファは胸をほっとなで下ろした。

 同時に、そこで初めて彼女の命の恩人に意識が向かう。

 ホンファは足の痛みも忘れはっとして、医者に一緒に担ぎ込まれた男について尋ねたのだったが、果たして医者は男は単なる疲労と極度の空腹で倒れて居ただけだと答えた。

 それから医者は、ダードゥの傷の処置中にあの男に簡単なスープを呑ませて置くよう助手に指示を出したところ、男はアッサリ意識を取り戻したので、今はソン家に運びこんで療養させている、と続けたのである。


 なぜ医者が自身の診療所ではなく助手にソン家へと連れて行かせたのか。

 その理由は、単純に“栄養”を取って療養するにはソン家の方が良いと判断したからだ。

 無論、診療所に担ぎ込まれた、すべての行き倒れの人物をソン家へと送るわけではない。

 事の大まかな顛末をホンファから聞いていたからこそ、気を利かせた医者が一人娘の危機を助けた“恩”を重んじるであろうソン家に男の療養を申し出たのだ。

 少なくとも、お世辞にも儲かっているとは言えない診療所よりも、ソン家で歓待を受けていれば“栄養”には事欠かないはずだ。


 一方、これに人知れず顔を青ざめさせたのはホンファである。

 今更ながらに騒動の大きさを認識し、いずれ求められるであろう事態の説明に考えが至ったからだ。

 つまり、職務とは言え自分の勝手な振る舞いでダードゥが死にかけ、わけの判らぬ男に大きな“貸し”を作り、挙げ句ソン家の令嬢が恥も外聞も無くあられもない格好で、衆目のある港で助けを求めた顛末の説明を、他ならぬ自身の口から両親にしなくてはならないのだ。

 オマケに、何よりも優先すべき“恩人”に付き添ってソン家に戻るならいざ知らず、彼には目もくれず使用人であるダードゥの身を案じて一顧だにしていなかったのだから、義理を何より重んじる父親の怒りは容易に想像出来る。

 ――間違いなく、ボクは無期限の外出禁止を命じられる、だろうね。

 ホンファは肩を落としながらそう予測し、数時間後にはそれは現実の物となった。


 この日以降陣十郎は最重要の客人待遇でソン家に長期滞在する運びとなったのだが、一週間を過ぎた頃から何故かソン家の家中で使用人のような真似を始めたのである。

 どのような経緯があったのかは不明だが、未だ傷の癒えぬダードゥの代わりにホンファの外出時における身辺警護のような真似事を、陣十郎が請け負うようになったのだ。

 ――いや。

 正確には父親の厳命により外出出来ぬホンファが、例外的に陣十郎に“付きそう”場合に限り外出を認める、という沙汰が下されたのが丁度一週間程前での事。


「大体、お父様もお父様だよ。ダードゥ程ではないけれど、家中の使用人の中にだって沢山腕利きがいるのに」

「む、そうなのか?」

「そうだよ」

「そりゃ、悪い事をしたのぅ。わしゃ単に、あのでっかい兄ちゃんの代わりをしてやろうかと申し出ただけだったんだが……仕事を奪う結果になったか」

「そもそも、ボクより少し背が高い程度のシーランにダードゥ代わりなんて……」


 無理に決まっている、と言いかけて口をつぐむホンファ。

 目前の中年が持つ剣術の腕前は得体が知れない代物であれど、文句のつけようも無い程高い事を思い出したからだ。


「むふ、思い出したか。わしはこう見えて、剣の腕には些か自信があるでな」

「……それでも、銃を前にしたら達人も素人もかわらないよ。結局は、その時に“盾”になれるだけの忠誠心があるかどうかさ」

「ああ……それを言われると、わしでは不安かもしれぬな。だが、あのでっかい兄ちゃん――ダードゥというのか? あの兄ちゃんみたいにソン家の“腕っこき”は皆その身を盾にして嬢ちゃんの代わりに銃弾を受けてくれるのか?」

「う……た、多分」

「多分か。なら、その点わしの方が優れておるだろうな」

「なんでさ?」

「何、相手が引き金を引くより速くその腕を斬り落とせばよいじゃろ?」

「……距離があったら?」

「嬢ちゃんを担いで逃げる。間合いの外ならそうは当たらん」

「……ボクとも距離があったら?」

「そうだな、その時は銃弾でも叩き落とすか。ちと、しんどいかもしれんが」


 冗談とも本気ともとれぬ口調で陣十郎はそう宣言し、可可ともう一度笑った。

 他の者が聞けば全て冗談だと受け取るだろうが、生憎ホンファは片鱗であれど陣十郎の業を目の当たりにしていたからか。

 流石に銃弾を剣で叩き落とす事は不可能であろうが、目の前の男はそれ以外の事はやってのけるような気がするホンファである。

 だからこそ、なのだろう。

 ホンファはそれ以上陣十郎が護衛役に不適格であるとは主張せず、否、むしろ自分の“命令”を聞かないからこそ父親は彼の申し出を快諾したのだと理解したのだった。


 兎にも角にも、元々用がなくとも外出が好きなホンファにとって陣十郎の外出は唯一の機会である。

 同時に、現在の外出は不自由で不本意な“散歩”にしかならぬ事が不満でたまらない。

 せめて命令――は無理でも自分の“用心棒”として“お願い”を聞く余地が生まれれば、と考えて説得を試みはしたものの、こちらものらりくらりと避わされてしまう。

 勿論父親の言いつけなど無視して一人で好きな場所に行く事も出来たが、先日の一件を思えばそれは無謀を通り越して自殺行為であろう。

 いやむしろ破落戸が自分を狙って蠢動している状況下、陣十郎に同行する形でなら、という条件付きで外出を認められた事自体が奇跡に近いのかも知れない。


 結果、ホンファは気晴らしにはなれどただ陣十郎に付いて歩くしか出来ず、晴れぬ不満だけが膨らんでいたのだった。

 陣十郎への感謝の気持ちが無い訳ではなかったが、若さがそうさせるのか、奔放に育てられた生い立ちがそうさせるのか、どうしても我を優先してしまうホンファである。

 ――だから、なのかもしれない。

 ホンファは不意に眼前の中年男に興味が沸いて、ほんの暇つぶしのつもりで幾つか質問を投げかける事にした。


「ねぇ」

「あん?」

「そういやシーランってさ、どうしてあんな所で野垂れ死んでたの?」

「こりゃ、勝手に殺すな。わしゃ、このとおり死んどらん」

「“吹毛求疵”、そこはどうでもいいと思うけど」

「チュイ――なんだ? 英語にしては妙な発音だの」

「英語じゃ無いよ。清国のことわざ。韓非子ってわかる?」

「いんや。わしゃ武家の出じゃが学問そっちのけで剣を振っとったで」

「“細かい事はきにするな”って意味さ」

「……わしにとっちゃ、細かくないんだが」

「いいから」


 陣十郎の至極真っ当な主張に、ホンファは面倒臭そうに話を進めるよう強要した。

 その態度からは、幼い頃より使用人達にかしずかれチヤホヤとされて育ってきた者特有の傲慢さが見て取れる。

 そこに命の恩人への感謝や特別な心情は見て取れず、陣十郎はふと故郷で何度かまみえた貴人と表現すべき高い身分の者らを思い出すのだった。


 ――まあ、皆が皆“こう”では無かったが……十五になろうかという娘じゃ。仕方なかろ。

 心中でやれやれとため息を一つ。

 元よりやや無礼なホンファの態度であっても気にする陣十郎ではない。

 が、こと年頃の娘であれば“もし”自分が釣り合うだけの若さであったなら、もう少し態度も違ったであろう――と寂寥を噛みしめるだけの“若さ”は残っていた。

 ホンファと陣十郎では親子ほども年が離れており、生まれた国すら違う。

 価値観おろか、互いを見る異性としての目すら違いすぎる為、陣十郎の寂寥は分不相応なものだ。

 しかし年甲斐も無い陣十郎のそれは、故郷に残してきた許嫁もまた同じ年頃であったからか、知らず意識にのぼってきたもので、仕方の無い事なのかもしれない。

 そんな己の無意識などつゆ知らず、陣十郎は“子守”も恩返しの一つと割り切り、視線を動かぬ竿の先に乗せたまま、さして面白くも無い話をぽつりぽつりと語り始めた。


「……そうだの、簡単に説明するとな?」

「ん」

「世を儚み海に出て死のうとしとったわしを、“たまたま”アメリカ行きの船に拾われての。船乗り達の話を聞く内にわしはこの国を見聞してみたくなった、というわけじゃ」

「なにそれ。それがどうしてあんな港のすぐそばで行き倒れるのさ?」

「それがなぁ……」


 言葉を濁すように、すこし困ったような声を出す陣十郎。

 一方、初めてみるその態度に嗜虐心を刺激されるホンファ。

 ――もしかしたら、恥ずかしい、みっともない話が聞けるのだろうか。

 もしそうであるならなんとか聞き出して、後でなにかとそれをネタにからかってやろう。

 ホンファは陣十郎が背を向けていることを良いことにニマリと笑みを浮かべ、声だけは平静を装い、話が途切れぬよう言葉を紡いだ。

 なにより、話術は彼女の得意とするところである。


「もしかして、何か酷い事をされたとか? お金を盗まれたとか。それともその、“閉じたままの左目”をくり抜かれた、とか?」

「いんや。路銀は元々もっとらんし、この左目は“もとから”じゃ」

「じゃあ、どうして?」

「むぅ、なんと言うべきか……」

「奴隷として売られかけた、とか? ――いや、それだと武器とかは取り上げられちゃうか」

「いや、違うが……いやいや、それに近いのか?」

「どういう事? 太平洋を渡って来たんなら、清国からの船……あ! もしかしてインド経由のイギリス船籍の船に乗っちゃってたとか?」

「どこの船かまではしらん。言葉を多少覚えた頃にここに着いたで」

「ウチが扱ってる清国籍の船じゃないのは確かだね。奴隷貿易はしてないから」

「だから、奴隷として売られそうになったワケではないとゆうとろうに」

「じゃあどういう事なのさ?」

「……無理矢理、船乗りにされそうになったのだ」

「船乗り? ……ああ、やっぱりイギリス船籍だよ、それ。シーラン、運がいいんだかわるいんだか」

「どういう事だ?」


 肩越しにちらりとホンファの方を見る陣十郎に、ホンファは口の端を結んで呆れたようにスン、と鼻から息を抜いた。

 それから、欧州船籍――とりわけ、イギリス船籍の船は船員の確保を半ば人攫い同然に行う事が多いのだと、眼前の中年に説明してやるのである。

 事実、イギリス――とりわけ海軍の船員達を取り巻く環境は大航海時代から二十世紀初頭まで、長らく劣悪極まりない代物であった。

 士官となる貴族や軍人の家系にある者はともかく、一般の船員達は長時間の重労働を強いられていた。

 その上労働が終わっても、今度は狭い船倉の中、共用のベッドで身動ぎ出来ぬほど詰め込まれるのが普通だったのだ。


 故に船乗りの需要はあれどなり手などそう多くは無い。

 奴隷貿易とは別に人買いが跋扈し、詐欺、拉致、身売り、または囚人を集めて船乗りは確保されていた時代である。

 当然、そういった“非合法”な方法で船員を集めた船では、まともな賃金が支払われる事はまず無いと言っていい。

 恐らくは陣十郎を助けた船というのは、丁度病死か反乱かによって船乗りの数を減らした船だったのだろう。

 だから十中八九、陣十郎を“船乗り”として助けたのではないか、というのがホンファの見立てであった。

 ホンファはそう看過しながら説明し、陣十郎によく逃げ果せたね、と肩をすくめた。


「成る程なぁ。いや、この港に着くなり仲良くなっておった船乗り――トムと言ったか? こいつがわしに英語を教えてくれたんじゃがの。そいつが早く船を下りるよう急かすもんで、慌てて船から逃げ出したっちゅうわけだ」

「……そういやシーランの英語ってなんか、おかしいけど結構通じるよね」

「むふ、わしはこう見えて頭もいいで」

「そのわりには港から近い所で行き倒れてたじゃない」

「む……それは……仕方無いだろうが。“東”に行くに、先立つものが無いとな」

「あー、それで。旅の資金を貯めるのに港で働き口を探してる内、どこも雇ってくれなくて行き倒れたんだ?」


 指摘に陣十郎の肩がぴくんと動く。

 それから無言のまま、いそいそと釣り道具を片付け始める陣十郎。

 どうやら図星らしい。

 ホンファは半ばあきれながら、半ば勝ち誇ってその様子を眺め、同時にこの日の“散歩”はこれで終わりであろうと予感した。


「さて、そろそろ帰るとするか」

「痛い所を突かれたから釣りはもうヤメかい?」

「まあ、な」

「まったく。いいよ、教えて上げる。シーラン、この港で働きたければ最低限の“信頼”が必要なんだ。たとえば、ソン家の仲介とか、ね」

「うむ。それは身に沁みて理解しておるよ。それこそ、“死にかけた”からの」

「そうかい? じゃあシーラン」

「む、なんじゃ?」


 手早く器用に糸と針を糸巻きに巻き、竿を担ぎながら立ち上がり踵を返した陣十郎に、ホンファはずいと顔を近付ける。

 互いの鼻先が触れるのではと思える距離で見る、陣十郎と同じ十五になる少女の黒瞳は大きく輝いていた。

 陣十郎は不覚にも心の奥底にしまい込んだ筈の記憶を呼び覚ましてしまい、鼻をくすぐる乙女の甘美な体臭はそれを鮮明に体中へ運んで行く。


「あのねシーラン。君はボクの言う事をもっと聞くべきだと思わないかい? ヤン家の一人娘であり次の当主でもある、このソン・ホンファ(宋・紅花)のね」


 悪戯っぽく笑うホンファはそういいながら近付けた顔を離し、腰に手を当て先程とは違う自信に満ちた仁王立ちになった。

 仕草は間違いなく、故郷に在って陣十郎の心を占める少女とは似ても似つかぬものだ。

 が、異国の地で見る黒髪黒瞳の、“彼女”と同じ年頃の美しい少女は捨てた筈の慕情の味を思い出させるには、十分であったのかもしれない。

 ――こりゃ、早い内にここを出て行かねば、未練に捕らわれるな。

 言葉をもう少し覚えて、いくばくかの路銀と地図を用意したかったが。

 ……何。

 どうせ、わしは“死んだ”生贄じゃて。

 あても無く彷徨って野垂れ死ぬも、目指し探す地にたどり着くも変わらんか。

 心中でそう考えて、陣十郎は少女に不覚をとった心を鎮めたのだった。


「……やれやれ。残念だが、その手にはのらんよ」

「あら。旅の資金が必要なんじゃないかい?」

「わしゃあ、確かに今はソン家に雇われてはおるがな。だがあくまで、わしと嬢ちゃんの親父殿との間の話じゃ」

「む。……じゃあ、こうしよう。ボクの言う事を聞いてくれた分、余分にお金を払うよ」

「その金は誰が出すんだ?」

「ボクさ」

「……嬢ちゃんが払う金は、元を辿れば親父殿の金なんじゃないか?」


 今度は陣十郎がホンファの図星を突く番であるらしい。

 ホンファはむぐ、と言葉を飲み込んで黙り込んでしまった。

 薄い唇を真一文にぐぐ、と結ぶ少女の仕草は愛嬌があれど、上気する頬は羞恥と屈辱に濡れている。

 しかし陣十郎にはその様が好ましく見えたらしい。

 やや感心したように一つしか開いていない目を見開いて、じょりじょりと無精髭を掻きながらニヤリとした。


「むふ、嬢ちゃん、見所あるな」

「なっ、なにがだよ?」


 思いもよらぬ陣十郎の言葉に、つい声を荒げるホンファ。

 自滅してしまったとは言え、今以上に辱めを受け耐えるだけの度量は十五の少女には備わってはいない。


「いやな、金の価値が正しくわかっとると感心しておるのだ。自由になる金を持っておるとて、それが親父殿の金だと理解しておるのは中々どうして、立派だよ」

「ばっ、バカにしてるのかい?!」

「褒めてんだよ。まあ、今度あれだ……バーボン、というのか? あの酒を差し入れてくれれば、ちっとは考えてもいいかの。……さて、帰ろうか」

「まってよシーラン!」


 可可と笑いながら、顔を赤くし噛みつかんばかりに睨みつけてくるホンファの側を通り過ぎる陣十郎。

 桟橋を陸の方へ戻って行く足取りは軽く、ギ、ギ、と鳴る床板とその下の潮騒がなんとものどかだ。

 ホンファは苛立ちながらその背を追わんとし、しかし急に立ち止まった陣十郎にぶつかって勢い尻餅をついてしまった。

 本来の彼女ならば尻餅などつかないが、流石に怪我が癒えきらない足では踏ん張りが効かなかったからである。


「痛! ちょっと、シーラン。急に――」


 言いかけて見上げた陣十郎の背が一瞬、山のように盛り上がる。

 同時に何処からか銃声が聞こえ、陽光か、水面か、いずれにせよ“何か”に反射した光が走って、次いでギィン、と耳をつんざくような金属音が当たりに轟いた。


「え? なに?」

「嬢ちゃん。そのまま座っとれ。“連中”、今度はわしが目当てのようじゃ」


 陣十郎の言葉に、ホンファはその脚の間から男の向こう、桟橋が架かる岸の方へ視線を向けた。

 そこに居たのは、先日自分を襲ったような、一目でわかる破落戸の男達。

 ホンファが一見して彼らがバーバリコースト地区の連中だとわかったのは、サンフランシスコの往来で白昼堂々と銃の引き金を引く無謀さと理由があるのは彼らだけだと知っていたからだ。

 果たしてホンファの予想は当たっており、ソン家を初めとした清国人を目の敵にしているバーバリコースト地区の無法者、数にして五人。

 内一人は銃を抜き、硝煙を立ち上らせて呆然とこちらを見ている。

 ――あいつらは……また性懲りもなく!

 怒りがホンファの血を一瞬で滾らせたが、思考はそこで“もっとありえない”事実に行き当たり、驚愕に染まっていった。


「ちょ、シーラン?」

「心配すな。連中、わしらがここで釣りをしておった時からずっとこちらの様子を伺っておった。ま、数が揃うまで仕掛けてこなんだが……」

「いや、そうじゃなくて、さ?」

「話を最後まで聞け。その間、連中の殺気はすべてわしに向いておったのだ。恐らくは、この前斬った連中の仲間で、復讐の機会をうかがっておったんじゃろ」

「いや、いやいや、そうじゃなくて。ねえ?」

「鈍いの、嬢ちゃん。連中は今日の所はわしが目的らしい、ということだ。とりあえず、嬢ちゃんには弾は飛んでこんよ」

「そうじゃなくて! シーラン! 今! 銃弾をその剣で打ち落とした?!」


 再び声を荒げるホンファ。

 対する陣十郎は顔の左半分、僅かに後へ捻った。

 その“左目”は“閉じたまま”、ニヤリとして見せた陣十郎はやはりホンファには信じがたいことを口にしたのだった。


「ああ、打ち落とした。人間、やってみるもんじゃな。まさか、出来るとは」

「……は?」

「まぐれか、そうでないか。さて、それを確かめる羽目に陥る前に、泡喰っておる連中を片さねば。――ここを動くなよ、嬢ちゃん」


 そう、言い残して陣十郎は脱兎の如く駆け出す。

 ホンファはしばし陣十郎の言がどこまで本当で何処まで冗談なのか理解出来ず、制止するのも忘れてその背を見送った。

 やがて陣十郎の神業に自失していた破落戸は、白刃を振りかざし迫り来る男に我を取り戻し、いくつもの引き金を引いて応戦を始める。

 銃声は複数。

 応戦するように空を斬る白刃は、先程のような音を奏でず、代わりに陣十郎から血煙が上がった。

 その様を見て、ホンファはやっと陣十郎の言葉の意味を理解し、思わず声を上げるのだった。


「シーラン!」


 叫びはその背に届かない。

 銃弾は間違いなく、陣十郎の体に食い込んでいるようだ。

 どうやら、先程陣十郎が見せた神業は偶然の産物であるらしい。

 ――当たり前だ。

 どこの世界に銃弾を刃物で叩き落とせる人間がいるものか。

 ホンファはそう結論付けて、刃物で――それも、腰に二本ある内“短い方”の刃物を振りかざし、ガンマンに挑む男の背を見ていた。

 結果は明白――かと思いきや、幸運にも最初の一撃を偶然剣で弾いたことが有利に働いていたらしい。

 驚きのあまりしばし自失した破落戸達は、その僅かな間で敵の接近を許してしまい、二射目以降は有効に撃てず、一人、二人と懐に潜り込まれ、同士討ちを怖れ躊躇する内に呆気なく全員斬り伏せられてしまった。

 無論、陣十郎の行った行為は言葉で表すほど容易い事では無い。

 どちらかと言えば無謀を通り越して自殺行為に等しいが、屍が転がる中一人立つ陣十郎は、血を滴らせながらもその場に立って俯いていたのである。

 桟橋にへたり込むホンファはそんな陣十郎の姿をみて、先程までの飄々とした空気とは似ても似つかぬ苛烈な一面に、言葉を失う。

 一方、陣十郎はと言えば立ち尽くしたまま動かず、どうやら致命傷は負っていないようだが、怪我は決して浅くは無いようだ。

 白刃を汚す血は陽光にぬらぬらと煌めき、破落戸達の血なのか、陣十郎本人の血なのかは判別出来ない。

 陣十郎の姿は遠目にも痛々しかったが、この時のホンファをそれよりももっと他の感情に支配されていたのだった。


 この時少女はその刃を美しいと感じていたが、後年思い起こすようになる“それ”を見るのはもう少し先の話となる。





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