常世
天之麻早苗は、物心がついた頃から怪異と共にあった。
特に彼女自身、“神威”(しんい)と呼ぶ怪異に対しては一般的な人々よりも知識と経験は遥かに豊富であり、同時に抱くべき恐怖は薄い。
また彼女が怪異との遭遇に慣れていた理由には、その生い立ちと家柄に大きく起因すると言えよう。
一つ、生を受けたのが天之麻神社という古い神社で、代々“いわく”憑きの品を祓い生計を立てて来たという天之麻家に生まれた事。
二つ、血の成せる業と言うべきか、彼女自身“そのような”素養と縁に恵まれ、怪異との遭遇は頻繁では無いにしろ普遍であった事。
三つ、両親を含む家族とその交友関係の中、周囲はすべて彼女以上に怪異との“縁”が強い人々であった事が、天之麻早苗の形に大きく影響を与えた事。
以上の理由から天之麻早苗は十四になった現在、怪異との遭遇は日常であり苦にもならない事象と言えたのだが、そうであっても時に酷く悩む事もある。
「ん……」
冬の終わりにしては暖かな、しかし春と呼ぶには寒いある朝。
天之麻早苗に与えられた和室の、カーテンが掛かる窓から差し込む柔らかな朝日は清廉とした快晴を予感させる。
そんな光に惹かれるように、甘く呻きながら目覚めた乙女はのそりと上体を起こしながら掛け布団を押し上げた。
それから、傍らに置いていた愛用のスマートフォンを手に取り徐にスリープ状態から復帰させて、トロンとした眼のまま画面を確認した。
映し出されているのはシンプルな壁紙と、デジタル時計。
三月四日、午前七時五分。
「……ダメかぁ」
鼻から抜ける気怠げなため息は、寝息の余韻に熱を持つ。
独り言はどの様な意図が込められているのか、天之麻早苗はそれ以上意思を体外に吐き出さず、寝間着代わりに着ていた青いジャージを脱いで黒いセーラー服に着替え始めた。
いつもならば寝間着のまま顔を洗い、歯を磨いて朝食をとってから着替える彼女のささやかな“抵抗”である。
三月四日、午前七時十分。
今日も一日、天之麻早苗に神威が降りかかる。
◆
切っ掛けは同日、夜の十一時三十分を回った頃。
もっぱら同年代の学友からは、クラスは元より学校一の美少女という評価がなされる天之麻早苗であるが、その生活は意外なほど質素であった。
美男美女というものは、そうでない者から見て必要以上に誤解を受けやすい一面がある。
理想的な交友関係、映画のような恋愛、星の数程もある衣服が全て似合うが故の選択肢。
しかし天之麻早苗の場合は、これといった華やかな話題には縁遠い。
素敵なカレシが居るでもなく、可憐な容姿とその特殊な境遇を除けばごく普通の中学生と言って差し支えは無いだろう。
趣味も読書と就寝前に行うインターネットサーフィンで、華やかな外見とは反比例するように、その中身は地味であるとさえ言い表せるのかもしれない。
その日も天之麻早苗は部屋着兼寝間着代わりのジャージ姿で、少々年期が入ったデスクトップ型のパソコンの前に座り、いつものようにインターネットサイトを巡るネットサーフィンに勤しんでいた。
彼女位の年代ならばパソコンでなく携帯電話兼パーソナルコンピューター――所謂、スマホ(スマートフォン)というものを買い与えられてはいたのだが。
家計がそうさせたのか、それとも高速通信回線が未だ利用出来ない田舎だからなのか、天之麻早苗がもつ携帯電話は旧式のソレでありとてもでは無いが快適にネットを楽しむような代物では無い。
さりとて情報化社会への適応手段としてのネット接続が必要ない訳では無く、勉学の為とういう口実もあって入手したのが現在所有している、親戚から貰った中古のデスクトップ型のパソコンである。
回線は未だADSL並の速度しか出ないケーブルTV用ネットワーク回線であったが、それでも彼女が持つスマートフォンを利用するよりかは遥かに快適で早い。
「うー、この最新型スマホ、いいなぁ」
椅子に胡座をかき、青いジャージ姿で背を丸めながら天之麻早苗はため息を吐いた。
――ややくすんだ色のモニタが映し出すのは、この日発売が発表されたばかりの、某携帯電話会社の鮮やかな赤のスマートフォン。
画面には携帯電話会社の広報を担当する男性と、CMに抜擢されたタレント・瓜生キリコが新製品を手にニッコリと笑っている姿が表示されている。
「あーもう。これ、ほしーよー。宗兄ぃのお下がりの、こんなボロっちぃパソコンじゃなくて新しいスマホほしーよー」
独り言は誰に聞かせるでも無く、自然に口から漏れ出たもの。
同様の台詞は幾度となく両親に直訴されてはいたが、検討すらして貰えていない。
――天之麻早苗が携帯電話の高速回線を利用出来ないのは、偏に住まう天之麻神社がある場所が辺鄙で契約している携帯電話会社が設定する、高速回線網の「エリア外」である為だ。
故に、いくら携帯電話を最新の品に買い換えても彼女のネットライフには一ミリも寄与しないのだが、しかし乙女の物欲はそのような事実をものともせず膨らんで行くばかり。
「むー、発売は来月かあ。お年玉で買い換えちゃおうかなあ……。でも、契約は母さん名義だし。……勝手に機種変は、無理、だよね」
呟きながら、天之麻早苗はマウスを操作して別のサイトへのリンクを選択し、今度は服のショッピングサイトを開いた。
モニタに映るのは携帯電話のサイトと同じ、ここの所人気が爆発的に上がっているタレント・瓜生キリコ。
――無論、目的は彼女が着ている“商品”である。
「んー、やっぱいいなぁ。何度見ても可愛いよねえ、これ」
呟きながらブックマークから別のサイトを選択し、ジャンプする天之麻早苗。
声に出して物欲を確認するのは、どれも手が出せぬ故の代償行動であるのかもしれない。
天之麻早苗はそれからも幾つかのサイトを開いてはなにやらブツブツと呟き、別のサイトを開く、という行動を繰り返していた。
見ようによっては“残念な美少女”に映るが、天之麻早苗にしてみれば放っておいて欲しい所であろうし、何より一人きりの時間に意味も無く奇行に走る行為は誰しもがやっている事とも言えよう。
――不意に。
その、天之麻早苗の日課ともなっている彼女の奇行が、突如として止まった。
モニタに映し出されているのは、普段見る事もないとある電子掲示板である。
つい先程まで収集している本の新刊をチェックしていて、そのサイトのリンクを利用しようとした所、間違えて他のリンクをクリックしてしまったらしい。
天之麻早苗は別段、パソコンの操作が苦手と言うわけでは無かったがリンクの選択ミスをしてしまう事は珍しくもない出来事だった。
が、彼女はいつものようにブラウザバックボタンを選択するわけでも無く、何を感じたのか掲示板に並ぶ話題となるスレッドのタイトルを一つ、選択したのである。
3897 タイトル だれかこの呪いを解く方法を知らないか?
1 NAME:名無し [sage] 投稿日:20xx/03/04 08:32:33.02 ID:ASDqwE0i
頼む、だれか助けてくれ。
信じられないと思うだろうけど、俺は何度も「今日」という日を繰り返しているんだ。
「今日」は今日で七回目。
こうやってスレ立てして助けを求めるのは三回目。
どうしてこうなったかは心当たり無い。
過去に呪いや祟りを受けるような事は身に覚えが無い。
スレッドを立てたであろう人物の書き込みには、既に数百件の返信があった。
だが荒唐無稽な内容である為か、どれも真面目な内容では無い。
にも関わらず、天之麻早苗はブラウザバックを行うでも無く、そのスレッドを最後まで読んでしまっていたのである。
怪異が身近に在る生活を送り、オカルトめいた話も好きであったからか。
「……案外、こういう所で見るオカルト話って面白いかもね」
天之麻早苗はスレッドを読み終わった後そう評して、思いがけず発見した新たな巡回先をブックマークしたのだった。
それから時計を見て日付がまだ変わっていないことを確認し、もう少し夜更かしをしようと決め、改めてブックマークリストを開いた。
同時に視界が霞み、整った顔がだらしなく弛緩してあんぐりと口が開く。
「ふぁ……、んっ、んん! っふぅ。うー、ねむぅ?」
大きなあくびを一つ、伸びをしてやや艶っぽい呻声が漏れる。
彼女を知る同年代の男子達が耳にすれば色々と邪な妄想をかき立てそうな声だったが、無論自室に一人という状況では気を付ける必要など無い。
心地よい眠気は彼女が待ち望んでいたものだ。
結局天之麻早苗は夜更かしは辞める事にして、その日は就寝すべくパソコンの電源を落とし布団の中に潜り込んだのだった。
そして、翌朝。
昨日と同じ、冬の終わりにしては暖かな春と呼ぶには寒い日。
新たに始まった一日に、天之麻早苗が異変を感じ取ったのは学校に着いてからだ。
“信じられない事実”に気が付いたのは一時限目の授業が始まった折。
その日は確かに数学であったはずが、どういう訳か国語の教師がやって来て、そのまま授業を始めたのである。
それも、昨日と全く同じ授業内容で、だ。
早苗は大いに困惑し思わず周囲を見渡したが、意外なことにクラスメイト達は誰一人としてその“異変”を指摘する者おろか動じている者は一人も居なかった。
――そういえば。
自分以外の者達が当たり前に状況を受け入れて居るのを目の当たりにし、天之麻早苗はふとある事に気が付く。
朝、両親とのやりとり。
登校中にすれ違った乗用車と、一緒に登校すべく合流した友人の台詞。
風邪で休んでいる、クラスメイト。
遅刻して教室に駆け込んできた男子生徒。
それからこの、一時限目の授業。
よくよく思い出してみると、“すべて昨日体験した一日と同じ”ではないか。
「……ねね、リエちゃん」
「ん? なに、サナちゃん」
「今日、何日だっけ?」
「何日って、黒板の隅に書いてるじゃない」
「アレ、昨日の日付のままじゃない?」
「まさか。今日はわたしが日直だし。自分で書いたんだから間違うわけにゃーでしょ?」
「……そっか、ありがと」
授業を進める教師に見つからぬよう、前の席の友人と声をひそめてのやり取りであったが、天之麻早苗には友人の返答が落雷のような音量で聞こえたことだろう。
早苗はやっとの思いで礼を口にした後、生唾を飲み込みながら背を伝う冷や汗に全身を震わせた。
自身が“神威”と呼ぶ怪異の存在を身近に感じて生きてきた彼女が、今正にその渦中にあると認識したからだ。
それもただの神威では無い。
原因もわからずその気配すら掴めぬ飛び切り厄介な神威に、である。
――どうしよう?
どういう訳かはわからないけれど、今日は「昨日」のようね。
……いつも遭うような神威なら、原因があって結果としての神威だったり、その気配は感じるんだけど。
原因に心当たりが無いし、気配は感じないって事は……私が祟られている、というより神威の渦中に知らず迷い込んでしまった?
ううう、これ、厄介な奴だよ、多分。
父さんに相談……はダメ、絶対。
母さんかお爺ちゃんに相談……も、ダメかも。
お爺ちゃんは今居ないし、母さんだってせめて神威の形がわからないとただ巻き込むだけになってしまうかもね。
あああ、どうしよう。
ホント、どうしよう。
何?
何が原因?
教科書を立てその内側に体を隠すようにして頭を抱え込む天之麻早苗。
結局、降って湧いた彼女の悩みは放課後になっても解決せず、そのまま夜を迎えるのであった。
勿論その間に悩みが解決する事は無かったが、一つだけ――
天之麻早苗は思い当たる節を見つけて、“その時”まで“昨日”と同じように今日を過ごす事にしたのだった。
夕食の時間、家族団らんの一時。
たまたま家を空けている父の代わりに、祖父と母親が古くなった社務所を改築するかどうかを相談し合った内容。
その後に見たTV番組の内容、風呂の用意が出来た時間、祖父がさっさと入れと母親に叱られた時間。
それら二度目の日常を改めて記憶しながら、天之麻早苗は極力“昨日”と同じように振る舞い、午後十時三十分を迎えたのである。
「たしか……このサイトのリンクから飛んで……あった。この掲示板だ」
対峙するのは自室にある、親戚から貰った中古のデスクトップ型のパソコン。
早苗は逸る気持ちを抑えながらも、“昨日”見つけたスレッドのリンクをクリックした。
3897 タイトル だれかこの呪いを解く方法を知らないか?
1 NAME:名無し [sage] 投稿日:20xx/03/04 08:32:23.02 ID:ASDqwE0i
頼む、だれか助けてくれ。
信じられないと思うだろうけど、俺は何度も「今日」という日を繰り返しているんだ。
「今日」は今日で八回目。
こうやってスレ立てして助けを求めるのは四回目。
どうしてこうなったかは心当たり無い。
過去に呪いや祟りを受けるような事は身に覚えが無い。
内容を確認した瞬間、心臓が激しく打つ音を聞いた天之麻早苗である。
タイトルや文面は記憶にあるものと同じだ。
が、その中でスレッドを立てる回数だけが“昨日”よりも増えていることに気が付いて、頭から血の気が失せていくのを感じる早苗であった。
早苗は深呼吸を一つして逸る気持ちを鎮め、マウスのホイールを回して“昨日”よりも注意深くスレッドを読み進めて行く。
スレッドを立てたであろう人物の書き込みには、“昨日”と同じく数百件の返信があった。
だが、荒唐無稽な内容である為かどれも真面目な内容では無いのも“昨日”と同じ。
しかし前回よりも注意深く読み進めてみると、いくつか“新しい”情報が見受けられ、天之麻早苗は自身が巻き込まれた“神威”におぼろげながら近付くことに成功するのである。
「……やっぱ、これ、だよね。多分。私がこんな“神威”に巻き込まれるような心当たりは、“今日”の中には他にないもの」
呟いて天之麻早苗はメモ帳ソフトを起動させ、スレッドを立てたであろう人物の書き込みを中心にコピーし、メモ帳ソフトに張り付け始めた。
スレッドを立てた人物の書き込みは多くの返信に対する物ばかりで、その大部分は助けてくれだとか信じてくれといった内容だった。
しかし中には追記に近い内容の書き込みも散見して、早苗はその部分を抜き出しまとめた後、思案に耽るのである。
――“今日”を八回繰り返している人物は、このスレッドをいつも朝の八時三十分位に作っている。
場所はオーストラリア中部のとある鉱山に居て、時差はなし。
仕事で出張中にこの“怪異”に遭い、持ち込んだノートパソコンから掲示板にアクセスして助けを求めている模様。
日中の行動を変えたり、徹夜したり、自殺まがいの自傷行為まで試した物の、必ず日付が変わる午前零時前には意識を失い、翌朝七時すぎの“昨日”に目が醒めるらしい。
「“この人”の状況をまとめると、こんな感じか」
呟いて、天之麻早苗は大きなあくびをした。
時計を見ると十一時五十分を回っている。
どうやら慣れぬパソコンでの作業に、考えていた以上に時間が経っていたらしい。
――“この人”と同じ神威が……いや。
“この人”の神威に私が巻き込まれているなら、私も“明日”の零時が訪れる前に眠ってしまうのだろう。
天之麻早苗は刻一刻と膨らむ睡魔にそう確信し、同時に焦りを覚えた。
今現在自分が置かれた状況をある程度確認できたものの、肝心の「なぜ神威に巻き込まれたのか」が全くわからなかったからだ。
何より“今日を繰り返す神威”とはいっても、それだけで済む保証など何処にも無い。
或いは、繰り返しているのは意識と記憶だけで、体は永い月日を重ねているのかもしれない。
或いは、繰り返すように見えて、ある日突然死亡するかもしれない。
或いは、出口など無く永劫に今日を繰り返すのかもしれない。
焦りは悪想念を生み天之麻早苗は柄に無く、降りかかる“神威”に得体の知れない恐怖を抱きつつあった。
「……なんとか、あふ、しな……い……と」
あくび混じりに呟きながら、瞼が重くなる。
猛烈な睡魔があらゆる思考を刈り取っていき、思考と視界は夢現の境界を行き来した。
やがて天之麻早苗は意識を完全に手放し、パソコンデスクはキーボードの上に突っ伏すようにして眠りこけてしまうのである。
時刻は零時少し前、十一時五十八分での事だった。
◆
翌朝。
“昨日”と同じく冬の終わりにしては暖かな、春と呼ぶには寒い日。
カーテンが掛かる窓から差し込む柔らかな朝日は、清廉とした快晴を予感させる。
果たして、天之麻早苗はどういう訳かベッドの上、きちんと布団に包まって寝ていたのだった。
「ん……」
天之麻早苗は朝日に惹かれるように、甘く呻きつつのそりと上体を起こし、掛け布団を押し上げた。
それから“幾度もそうしたように”、傍らに置いていた愛用のスマートフォンを手に取り徐にスリープ状態から復帰させて、トロンとした眼のまま画面を確認した。
映し出されているのはシンプルな壁紙と、日付付きのデジタル時計。
「……ダメかぁ」
鼻から抜ける気怠げなため息は、寝息の余韻に熱を持つ。
独り言は落胆と薄い焦燥に彩られ、しかし彼女はそれ以上感情を体外に吐き出さず、寝間着代わりに着ていた青いジャージを脱いで黒いセーラー服に着替え始めた。
普段と違う行動は、いつもならば寝間着のまま顔を洗い、歯を磨いて朝食をとってから着替える彼女のささやかな“抵抗”である。
三月四日、午前七時十分。
十二度目の“今日”であった。
「これはいよいよまずい、よね……。お爺ちゃんに母さん、叔母さんに……ううう、もう相談出来る人がいにゃい。……流石にもう限界かも」
早苗はげんなりしながらそう呟いて、十二日間毎日“昨日”と同じメニューの朝食を作り続ける母親の元へと赴く為、台所へ向かった。
母親に状況を説明し、助力を乞うのはこれで四度目だ。
母親でなく祖父や他の親戚を頼った日もあったが、やはり一番事態を打開出来そうな予感を抱いたのが母親であったが為、十二度目の“今日”もまた頼ることにしたのである。
「……つまり、こうやって相談するのも四度目って事?」
「うん」
「……お父さんには相談した事ある?」
「ううん。父さんを“神威”には巻き込みたくないし」
「まあ、そうよねえ。お父さん、“そっち”の方はからっきしだしねぇ」
「それに父さんは今、アメリカに出張してるでしょ? 相談しようにも、電話だけじゃね」
「間がいいんだか悪いんだか。……父親としては間が悪いんでしょうね」
朝食が並ぶテーブルの上、はぁ、とため息をつく母娘。
綺麗に並べられた二膳分の味噌汁と白米の茶碗からは優しげな湯気が立ち上り、話の深刻さとは無縁に良い香りを放っていた。
「お爺ちゃんや千早の叔母さんには?」
「もう相談した。でも、どっちも母さんや父さんに相談した方が良いだろうって結論付けてたよ」
「そう。しかし、パソコン経由で顕現する“神威”ねぇ……」
「……その台詞、毎回言ってるよ母さん」
「う。じゃ、じゃあ、次に何を言おうとしてるのかわかる?」
「うん。『いくら八百万の神々の国だからって、パソコンの神様の“神威”とか、普通ありえない』って言おうとしてたでしょ?」
「……アタリ」
「で、その次に『古事記や日本書紀にパソコンの神様の記述があれば何とか糸口が見つかるのに』って愚痴を吐いたよ」
「……ごめんね、早苗」
「因みにそれも四度目。って、ゴメン母さん。気にしないで」
「気にするわよ。……でも、参ったわね」
「うん、何度も同じ一日を繰り返すのがこんなに辛いだなんて、思っても見なかった」
「そうじゃなくて」
「え?」
天之麻早苗の驚きの声は、四度目の相談を持ちかけた母親の反応がそれまでとは大きく違うが故。
それまでは早苗の愚痴を聞き、窮状に心配と同情を示してから様々な神話と神威を検証していた母親であった。
が、この時は会話の流れがそれまでと多少違ったからか、早苗への心配よりも思考を優先させたのである。
「思うんだけどね、お母さんが“早苗が知っている”反応をする限りこの“神威”は解決出来ないと思うの」
「う、うん? そう、なの?」
「そうよ。だって、早苗から何度も話を聞いているなら“もう試している”筈だもの。って事は、この“神威”を鎮めるにはお母さんじゃ無理って事。当然、お爺ちゃんや千早の叔母さんもね」
「そんな!」
「こら、人の話は最後まで聞く。まったく、悪い所はお父さんそっくりよね、あんた」
「う……」
「いい? 確実なのは何かしらの神の荒魂である“神威”が、今まさにここにあるという事。その形は“繰り返される今日”。わかっているのはこれだけね?」
「う、ん。あ。あと、誰かに相談してもその人達は“神威”に巻き込まれて居ない事、私の他にもう一人、“神威”に遭って居る人がいる事がある。……それでも父さんに相談するのはやめといたけど」
「うんうん、そうね。お父さん、それでも神威に巻き込まれちゃう程“持ってない”人だし」
「その癖、妙にモテモテなんだよね。ヤキモチ焼く母さん見てれば浮気の心配はないんだろうけどさ」
「コラ。子供が生意気言うんじゃないの。……それで、その人と連絡は?」
「何度か試したけど、その人最近はスレッドを立てるだけ立てて、書き込みには反応しなくなっちゃってて……」
「お母さんは詳しくないけど、直接連絡は取れないの?」
「匿名掲示板だから、無理みたい」
「そう……」
母親はそう呟くように言って、しばしそのまま考え込み始めた。
早苗はそんな母の正面に座り、朝食に手を付けるでも無く神妙な顔つきで成り行きを見守る。
すると母親は徐に携帯電話を取りだして、何やらボタンを押し始めた。
指使いはぎこちなく、遅かったが電話で無くメールを打っていることが伺えた。
「母さん?」
「早苗、ご飯食べちゃいなさい。一応、父さんに相談してみる」
「まって! それは――」
「大丈夫よ、詳細はボカしておくから。学校から帰ってくる頃には返信が来ると思う」
「でも……」
「いいから。ほれ、ちゃっちゃと食べる!」
どうやらメールの送信と同時に会話は終わったらしい。
天之麻早苗の母親は以後“神威”については何も言及せず、早苗を学校に送り出したのだった。
それからの一日は早苗がこれまでに体験した“昨日”と大差なく、時間ばかりが繰り返し何の手がかりも得られぬまま学校から帰宅するに至った。
天之麻早苗はやがて迎えた“昨日”と同じ十二度目の“今日”は夜を向かえ、この日の解決を半ば諦めながら自室に篭もった際。
それまでと同じように明日の“昨日”に備えて集めたなけなしの情報を胸にダメ元で例のスレッドを開くべく、パソコンの電源をいれた時である。
不意に彼女の携帯電話が、メールの着信を伝えたのだった。
メールの送信元はアメリカに出張中の父親からである。
内容は以下のような物だ。
件名:面白い!
本文:
母さんから早苗が小説家を目指したいという話を聞きました。
手始めに書いてみたという小説を読んでみての感想ですが、とても面白かったです。
特に「繰り返すとある一日」の設定だけど、すごくリアルに感じました。
前にうっかり常世というか、禁足地に足を踏み入れてエライ目にあった父さんが言うんだから自信をもってください。
早苗が本気なら、父さんは応援したいと思います
――目眩が、天之麻早苗を襲う。
母親は一体どの様な事を父親にメールしたと言うのか。
父からの距離感の曖昧な、普段より輪をかけて親バカなメールに早苗は憮然として脱力し、いつもそうするようにメールの消去を実行しようとした。
が、ふと――
“前にうっかり常世というか、禁足地に足を踏み入れてエライ目にあった父さんが言うんだから”という一文に引っかかるものを感じて、その指が止まる。
自分と同じく何かと怪異と縁がある父親が、その神威と対峙していつもロクな目に遭わない事実に今更気が付いたわけではない。
伝えた形が違えども、今の早苗の状況を指し“常世”のようだと評した事に思考が引っかかったのだ。
そも“常世”(とこよ)とは、現実世界である“現世”とは別の世界を指す。
ただ一つの世界を表す言葉では無く、死者の世界であったり、神域であったり、禁足地であったり、理想郷であったりと様々だ。
古来より常世と現世の境界はあらゆる場所に在り、鳥居や社といった人造物から巨石や霊木、森や山や河川に海といった場所に加え、形の無い深夜などの特定の時間すらも境界と見なされ、その種類は多岐にわたる。
その多くは“現世”とは違い変化の無い世界で、国生みの神話において根の堅州国が有名な所だろう。
「……私の場合、根の国――死を司る伊邪那美の神威に祟られている? ううん、違う。だとしたら、命その物が危ないだろうし」
パソコンの前で細い指で両のこめかみを押さえながら、むむむと唸り考え込む天之麻早苗。
――多分、神威の形が“わかりかけてる”。
変化しない世界、“常世”。
今の状況もそう。
これが“常世”そのものの神威とするならば、私はその因果を辿らないと鎮めるべき形を捉えられないのよね。
……うう、かといって身に覚えが無いし。
大体私、そうそう禁足地に足を踏み入れたりはしないよ?
ってか、行動範囲にそんな場所無いしあれば気が付くよ、流石に。
って、マテマテ。おちつけ、私。
なんか“やらかしてる”から、こうやって神威に遭っているんだから。
私は普段とは違う行動……何か、何かしてるはず。
何か……
「うがぁ! 気のせい! わかんないって!」
しかし心当たりは見つからず、思わず吠えてしまう天之麻早苗。
可憐な見た目とは裏腹に激情家であるのかもしれない。
早苗は頭を抱え込み、わしわしと艶やかな黒髪をしばしかきむしった。
それからふと――
「あ」
まるで、時間が止まったかのように全ての動きが止まった。
視界に入ったのは電源を点けたばかりの、親戚から貰った中古のデスクトップ型のパソコンである。
「そぅいや、あのスレッド……」
思い出したのは、“だれかこの呪いを解く方法を知らないか?”というタイトル。
そもそもが、自分と同じ状況に陥って居るであろう誰かが投稿したスレッドを“見た”事が神威の始まりではなかったか。
“神威”に対処し鎮める事ばかり考えていたが、神威に祟られるべき因果は何も、“顕現を待つ”必要は無いのではあるまいか。
“常世”への境界は無数にある。
それは形を持つわけでは無く、特定の時間や行為も“境界”となり得るのだ。
例えば、パソコンを“境界”として神威を現すスレッドを覗くことにより、知らず毎日“常世”に入り込んでは“神威”に祟られていただけだとしたら――
「……そんな馬鹿な」
引きつった笑みを浮かべながらも、天之麻早苗は時計を確認した。
時刻は夜の十一時四十五分を回っている。
神々の力の発現である神威と文明の利器であるパソコンという組み合わせはあまりに荒唐無稽に思えたが、早苗はそのままパソコンの電源を落とし、時計を凝視する事にした。
室内は緊張と静寂に覆われ、ち、ち、ちと時計の針が進む音が耳に痛いほど響く。
果たして天之麻早苗は睡魔に襲われる事無く、時計の針は十二時を回ったのだった。
瞬間、早苗は愛用のスマートフォンを取り出して、スリープ状態から復帰させる。
映し出されているのはシンプルな壁紙と、デジタル時計。
三月五日、午前零時一分。
「……そんな馬鹿なぁ」
はあああ、と深いため息と共に脱力する天之麻早苗。
体中の力が抜けるほどあっさりと、あれ程待ち望んだ“明日”を迎えたというのに、未成熟な胸に去来するのは歓喜で無く虚脱感だった。
それでも早苗はじわりと安堵を覚えながらも、パソコンの電源を再び入れて例の掲示板を開く。
そこには“昨日”からある筈のスレッドは無い。
永い“昨日”の間に覚えた掲示板機能検索をかけてみたが、どうやら掲示板があるサーバのデータベースにも残ってはいないようだ。
「……意外。“神威”も情報化社会にあわせて多様化してるのね」
呆れたような、引きつった笑みが浮かぶような、天之麻早苗の独り言。
――八百万の神とはよく言ったものだけど、これは流石に節操がなさ過ぎでしょうに。
誰に向ける物でもない愚痴を吐きながら、早苗はげんなりとして部屋の照明を落としベッドに潜り込むのである。
そんな天之麻早苗の愚痴を、一体どのような神が拾いあげたのか。
果たして天之麻早苗が迎えた“今日”の朝は、春の雨が降っていた。




