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異聞・妖刀百物語  作者: 痴れ者ラボ
遭神記
36/76




 中学も二年生になる田岡信二という名の少年は、世辞にも快活とは言い難い性格と容姿であった。


 リアル(現実)が充実している人物という意味で、『リア充』という言葉が世に広まってから久しい昨今。

 少年・田岡信二はその反対であると言っても差し支えないだろう。

 彼は所謂『非リア充』であったが、しかし自身の性格や容姿に絶望し人生すら諦めてしまう程には擦り切れてはいなかった。

 同年代、特に“大人の”恋愛を意識しはじめる多くの少女達が、嫌悪と拒否感を覚えるようなアニメやゲームに興味を抱きはするものの、同時に彼女らとの恋愛も夢見るような内向的な人物。

 田岡信二とは、そのような少年である。


 或る、冬の日。

 昼休みも終わり、午後の授業も一つ消化した休み時間。

 田岡信二は友人と一時の雑談をするでもなく、椅子に座わったまま忙として前を向いていた。

 否、雑談を交わすような友人はこの教室の中には居ない、と表現すべきか。

 だからという訳では無かったが、ぼんやりと眺める視界に入るのは日直の女子が、前の授業で使用された黒板の文字を消している姿である。

 休み時間の教室というものは生徒の移動が多く、また彼の座席は教室でも後方に位置している為、ぼんやりとでも眺め続けるには些か鬱陶しい環境であろう。

 しかし、それでも田岡信二は前を向き続けていた。

 ――何故か。


 果たして彼は、背が足りず黒板の上の方を消せずに苦労している日直の女子に気がある――訳で無く、単に耳を澄ましそちらに全神経を集中させていただけであった。

 と、いうのも、彼の席の隣りにこそ憧れの女子生徒が居て、休み時間毎に友人との会話に花を咲かせて居るからだ。

 彼女の名は天之麻早苗アマノマ・サナエ

 クラスは元より、学校一の美少女と名高い少女である。

 彼女の美貌は校内おろか他校にまで噂として広まり、多くの男子生徒が憧れ焦がれる存在であった。

 田岡少年もその内の一人で、彼が早苗と同じクラスに所属し、隣の席であった事はそれだけで大きな幸運と言えた。


 つまり、田岡信二は忙と遠くの黒板を眺めていたわけでなく、天之麻早苗が休み時間毎に友人と交わす会話を盗み聞いていたのだ。

 その会話の断片を拾い、想い人の好み――例えばどんな菓子が好きだとか、どの様な番組を好んで見るかだとか、どのような事に最近ハマっているだとか、そういった物を収集するのである。

 字面を見れば一種ストーカーのようにも聞こえるが、別に後をつけ回したり得体の知れぬ手紙を出したり、まして彼女を病的に自分の恋人であると思い込む訳ではない。

 休み時間、隣の席から聞こえて来る想い人の会話を盗み聞きし、偶に彼女が恋人だったら、と妄想するのは健全な男子学生の範疇であろう。

 田岡信二が得る他愛も無い情報は外に漏れることは無く、彼の心の内だけに仕舞われ、一方的ではあるが想い人とのささやかな情報の共有の喜びへと変えて満足していたのだった。

 ――ただし、この日ばかりはそうは行かなかったのである。


「サナちゃん、これー」

「あ、もう読んだんだ?」

「ん、結構面白かった」

「でしょ? 古本屋のワゴンで百円だったけど、その割には面白くてさ。自慢の掘り出し物なのさ」

「いや、でも百円だし!」

「えー! リエちゃんはない? そういう物。値段じゃ無くて、こう、ナイスな品物と偶然の出逢った私エライ! みたいな?」

「あるー。わたし、可愛いケシゴムとかあるよ!」

「でしょー?」

「まぁ、そのケシゴムはこの前サナちゃんに貸したとき、角っこ使われちゃったんですけどね!」

「うぐ……じゅ、ジュース驕ったじゃん。お詫びにさ」

「んー、飲み足りないなあ」

「調子に乗るんじゃない」


 隣から、ポコンと頭をはたく音。

 それから、黄色い笑い声。

 田岡信二は思わず釣られて笑いそうになったが、盗み聞いている事実がばれると気まずいのでぐっと堪え、机にうつ伏せた。

 自身とは全く関係の無い話だが、微笑ましい会話を我が事のように聞いていると、何故かこちらまで楽しい気分になってくるのである。


「でもさすがサナちゃん、家が神社なだけあるねぇ。チョイスが渋いというか……この本、オカルトっぽい内容だけど怖いとはちょっと違って、ホントに面白かったよ」

「そうでしょうそうでしょう」

「特にえっと、水瓶に顔の落書きをして妖怪が出てくる奴。あれが面白かった」

「あ、それ私も好き。中国の奴でしょ?」

「うん。物に顔を描いたらそれが妖怪として化けて出てくるなんて、日本の発想じゃないよね」

「そうでもないゾ? 日本にだって、“付喪神つくもがみ”っていう大御所が……」

「はいはい、これだから妖怪ヲタは」

「なぬ?! 私、そんな風に見られてたりするの?!」

「或いはコスプレッ娘? 巫女服着てウロウロしてるって噂だし」

「家の手伝いで着てるんだから仕方無いでしょ! もう」

「……でも、オカルトは好きなんでしょ、奥様?」

「……ええ、そりゃ、もう、大好物――って、何言わせるの!」


 ――まずい。

 ニヤケ顔が治らない。

 聞くも心地よいテンポの二人の会話に、田岡信二は机にうつ伏せたまま幸せを噛みしめていた。

 楽しげな片思いの相手の声を間近で聞き、彼女の私生活を垣間見て、その上新たな情報を手に入れたからだ。

 しかしそんな幸せは長続きせず、程なく教師の登場と共に授業の予鈴が鳴り響いて、この日最後の休み時間は終わりを迎えたのだった。

 それからは田岡信二にとってひたすら退屈な時間となり、驚く程時計の針が進まぬ授業を過ごす事となる。

 授業は苦手な英語であったからか、教師のネイティヴな発音も、試験に出るという構文の説明も耳に入らず、ただただ苦痛な時間ばかりが流れて行く。

 これが隣の席に居る美少女を眺める事が出来れば時間の経ち方も早まるものであろうが、そのような事を実行した場合、たちどころに悪い噂が校内に広まってしまう。

 必然と言うべきか、田岡信二は思考の内側に居場所を見出して、手に入れたばかりの情報の整理に勤しむのであった。


 ――物に顔の落書きをしたら妖怪になるって、どんな話なんだろう?


 先程の二人の会話を思い出し、なんとなく机に落書きをする田岡信二。

 落書きは点を二つ横に並べて書いて、その下に線を一本、半円状に書いたシンプルな“顔”である。

 ニコニコマークと表現できるその落書きは、当然のごとく田岡少年に語りかけてくるでも無く、割り当てられた古い机の傷や他の落書きと相まってそれ程目立たなかった。

 いや、古いのは何も田岡の机だけでは無い。

 クラスに居る生徒全員の机はどれも古く、校舎も築数十年ほど経過しており来年には立て替え工事が行われる予定であった。


 ――オカルトが好きって言ってたな……。話に出てた本もそういう本みたいだったし。僕も今度探してみようかな


 告白する勇気など持ち合わせていない田岡は、せめてもの慰めに彼女と同じ物を見聞きしようとすることがあった。

 今回もそのようであり、案の定、放課後になると田岡信二は真っ直ぐ帰宅せず幾つかの古本屋によってはそれらしい本を漁ったのだった。

 このような行為は本人以外の者が事情を知った場合、不気味で不快な物として感じられるであろう。

 しかし、重ねて記するならば、恋をする思春期の者ならばそれ程珍しい事では無いと言える。

 とくに相手に想いを伝えられるだけの心の強さを持ち合わせない人物の場合、このような代替的行為を行わねば心が持たないのだ。

 だから、という訳かどうかは定かで無かったが、その夜田岡は酷い悪夢にうなされてしまった。

 結局早苗が言っていた“顔”の妖怪話が載った本は買えなかったが、それを探すために何冊も怪奇物の話を読んだ為なのだろう。

 悪夢は何かから追われ続けるようなもので、目覚めると冬にもかかわらず、汗で寝間着がぐっしょりと濡れていたのだった。


 ――得てして、このような朝は碌な事が起きないものである。

 悪夢にうなされたにもかかわらず田岡信二は寝坊をしてしまっており、急いで走る通学路で二度、車に跳ねられそうになった挙げ句結局は遅刻して教師に大目玉を食らうのであった。

 否、朝だけでは無い。

 日中も様々な不運が田岡に降りかかり、例えば鞄に入れたはずの宿題や教科書が無かったり、弁当を忘れてきたり、授業では目の敵の如く教師に指名されたりと、田岡にとって兎に角散々な一日となったのだ。

 流石の田岡信二もこの日ばかりは隣席の様子に耳を傾ける余裕も無く、放課後になるや昨日とはうってかわって真っ直ぐ帰宅する事にしたのだが。

 帰路、やはりと言うべきか幾度も事故に遭いかけ、全ての信号に引っかかり、靴紐が切れたりと考え得る限りの不運に見舞われるのである。


 ――なんだよ、もう! ついてない所の話じゃないぞ今日は。次はなんだ? 落ちてきた隕石にでも当たるのか?!


 心中でごちながら、田岡信二は隕石の代わりに振ってきた季節外れの雨を憎々しげに睨み、一時の雨宿りとしてとある店先に避難した。

 避難先の店は庇が店先にあるものの、シャッターが絞められ“当店は○月○日に閉店いたしました”と張り紙が貼られている。

 ふと、何気なくその張り紙に目を落とした田岡は、ある物を見つけ少しだけ苛立ちを覚えた。

 そのある物とは、近所の小学生が落書きしたのだろう、張り紙の隅に点を二つ横に並べて書いて、その下に線を一本、半円状に書いたシンプルな“顔”である。

 “顔”はニッコリと笑いかけてきていて、それがなんだか今の自分の有様を笑われた気になって、不快に思えたのだった。

 結局雨は降り止まず、この日は濡れ鼠になりながら帰宅した田岡信二であるのだが、彼に降りかかる不運は次の日も続いてゆく。


 ――なんなんだ?! 何が……何が起きてるんだ? こんなの異常だ! 朝から何度も事故に遭いそうになったり、不自然なほど信号が赤に変わったり、それに――


 昨日と似たような悪夢と共に目覚めた朝、通学路。

 得体の知れない恐怖と混乱を抱きつつ、田岡信二は四度目の信号待ちの間、“あるもの”を近くの電柱で見つけたのである。

 それは誰が書いたのか、点を二つ横に並べて書いてその下に線を一本、半円状に書いたシンプルな“顔”。

 ニッコリと笑う、“顔”の落書き。


 ――いや、まさか。“顔”の妖怪なんて、そんな……。でも……


 思考は激しいクラクションによって遮られる。

 歩行者用の信号は青。

 考えつつもそこだけはしっかり確認して横断歩道を渡り始めた田岡であったが、それでも車が突っ込んできて、あわやと言うところで停止した。


「大丈夫か、君! 怪我は?! 済まない、急いでいたもので……」

「い、いえ。大丈夫です」

「そ、そうか。よかった……本当にすまないね」


 当然の話だが、田岡信二に非がある筈も無く、車の運転手は何度も謝りながら車から出て来て彼の無事を確かめ、運転席に戻っていった。

 その際、いまだ緊張の余韻としてドクドクと脈打つ鼓動を耳にしながら、田岡はふと車のフロント部分を見てぎょっとした。

 車を正面から見ると、左右にライトが目のように二つ、その下にフロントグリルが口のように横へ広がって――ニッコリと笑う“顔”のように見えたからだ。

 思えば“顔”について抱えて居た疑念はこの時、ほぼ確信に変わったのだろう。

 その後も田岡信二は赤信号で止まる度に“顔”を探しては見つけ、恐怖を膨らませるのである。

 程なくなんとか無事に、しかし大幅に遅刻して学校へたどり着いた彼は教師の説教もそこそこにある決意を行う。

 決意は普段ならばけっして出来る類の物では無いが、ここに至っては恥ずかしい等とは言っていられない。


「あ、天之麻さん!」

「ん? なーに、田岡くん」


 三限目と四限目の間、休み時間。

 意を決して田岡は想い人に声をかけた。

 クラス替えで一緒になり、席替えで隣になって、初めての会話である。

 勿論、親交を深めるだとか告白の呼び出しをするためだとか、そういった類の用ではなくもっと切実な問題を解決するためだ。


「あ、あのさ! その、一昨日さ」

「う? 一昨日?」

「その、芳賀さんと、なんか本の話、してたでしょ?」

「リエちゃんと? ……あー、あれ。って、あの時の会話聞いてたんだ?」

「ご、ごめん! 盗み聞く積もりなんかなかったけど、ほら、隣りの席だから聞こえて来るし」

「んーん、そういう意味じゃ無いからいいよ、気にしないで。それで?」

「う、うん、それで、さ。その、話に出てた本……っていうか、内容が気になって」

「へー。田岡くんもああいう怪奇ものが好きなんだ?」

「好きっていうか、その……ほら、水瓶に顔の落書きをして妖怪が出てくる話がどうとか、言ってでしょ?」

「ああ、うん、うん」

「それがさ、どうにも気になって。そこだけでもどんな結末になってるのか、お、教えて欲しいんだ」


 恐らくは、田岡少年にとって一世一代の勇気を振り絞った会話であったろう。

 多感な少年が、強く憧れる異性と会話を交わす行為はそれ程に緊張し、精神を削る作業であるのだ。

 この時、自身が置かれているであろう現状を説明したならばもっと話が早かったのかもしれない。

 が、他者に話せば“危ない人”というレッテルを張られかねない状況下、まして片思いの相手にそのような事情を話すことが出来ようか。

 天之麻早苗は田岡信二の言葉にしばし可憐な仕草と共にうむぅ、と考えて、それからあっと手を打ち綺麗な顔を苦笑いで歪めた。


「ごめん。あの本、短編集でね。何百も話があって。いや、あのお話は好きなんだけど……えへへ、結末が他の話と混じっちゃって、わかんなくなっちゃった」

「うぁ……そ、そうなんだ?」

「ゴメン! やー、昨日までなら鞄の中に本があったんだけどさー、今日数学あるじゃない? 生活指導の豊田の授業だし。ボッシューされてもなあ、って思って家において来ちゃったのよのさ」

「そ、そか」

「ホント、ごめん。本好きにとって、内容が気になりだした時の苦痛というか、苦悶はマジきついよねえ。判る、判るよあたしゃ。――田岡くん? 大丈夫? 顔、あおいよ?」


 知らず、強い落胆と不安が表情に出ていたらしい。

 昨日から降りかかる異常な数の不運は“顔”の落書きが関係すると断じた田岡であったが、これを退ける方法が早苗が言っていた本にあるのだと考えていただけに、落胆も大きかったのだ。

 そんな田岡の様子に天之麻早苗も何か感じるところがあったのだろう。

 やおら手帳を取り出し、それを見ながらノートの端に何やら書いてから千切りとって、田岡に差しだしたのである。


「ん、これ」

「え? な、何?」

「私のメアド。捨てアドだけど、比較的新しい奴だから。携帯、持ってない?」

「あ、えと……ううん、持ってる」

「じゃ、帰ったらメールしといて。古い捨てアドはもうチェックしてないけど、この新しい捨てアドならチェックするから」

「そう、なんだ?」

「知らない人からバンバン来るのよ。ホント、どっから漏れてるんだか。面識も無いのに嫌んなっちゃうよね……だから、捨てアドだけど勘弁してね?」

「あ、うん。いや、ありがとう!」

「メールくれたら私も本の内容確認してメールしてあげるから。なんか田岡くん、あの本じゃなくて顔の落書きの妖怪について知りたいみたいだし」


 棚からぼた餅とはこのような時に使うのではなかろうか。

 手渡された紙切れを広げてみると、そこに女の子らしい几帳面な文字でいくつものアルファベットが並んでいる。

 田岡らが通う中学校は携帯電話の持ち込みを原則禁止しており、持ち込んだとしても自己申請して教師に預けなければならないため、生徒達は自宅に携帯電話を置いているのが殆どだ。

 とはいえ、偶に無断で持ち込む生徒もちらほらと居るには居るが、少なくとも生活指導の教諭が授業を行う日に持ち込むようなマヌケな者は存在しない。

 故にメールアドレスの交換は筆記によって行われるのが普通だが、例え捨てアドだとしても天之麻早苗本人からメールアドレスを入手出来たことは奇跡と言っていいだろう。

 思いがけず(明らかに親しくない人物に配る捨てアドであるが)想い人のメールアドレスを手に入れた田岡信二は、自身に不気味な不運が降りかかっている事実も忘れ、一時幸せの絶頂に上り詰めていた。

 だがそんな一時の幸せは予鈴によって呆気なく終了し、その後もやはり降りかかる様々な不運は少しずつ大きくなりながら、田岡を苦しめるのである。


 そしてその夜、田岡信二の自宅にて。

 帰宅早々に手に入れたメールアドレスを携帯電話へと登録し、“田岡です。よろしくお願いします”と打ち込んだメールを送った田岡は、未だ来ない返事に待ちくたびれそのまま寝入ってしまっていた。

 それからどれくらいの時間が過ぎたのか。

 ドン、ドン、と壁を叩くかのような音を聞いて、田岡信二は目を覚ましたのである。

 自室の照明は灯ったままで、見上げるとスイッチの紐は揺れてはいない所から地震ではないようだ。

 時刻は既に零時を回っている。


 ――気のせいか?

 そう考え、メールの着信が無いか携帯電話をチェックした所でもう一度、今度は窓がバンバン、と叩かれる音がして肩を跳ね上げ驚く田岡。

 間を置かず、そこら中から音が鳴り始めついには机の上に置いてある物がひとりでに落ちたりし始め、室内は異様な空気に包まれていった。


 ――なんだ?! ここは二階だぞ?! って、何が――ラップ音?! ポルターガイスト、って奴か?!

 突如顕現した怪奇現象を目の当たりにして、田岡信二は混乱し恐怖に悲鳴を上げそうになる。

 しかし何故か声が出ず、寝ているはずの家人もこれ程の騒動に起きてくる気配も無く、飛び交う教科書を横目に田岡の混乱は判断力を一気に奪っていった。

 が、それも束の間の事であることを切っ掛けに田岡信二は我を取り戻す事に成功する。

 それは携帯を抱え込み、ベッドの隅でラップ音と物が独りでに動くポルターガイスト現象を為す術も無く見ていた時。

 手前に飛んで来た鏡を見て、一瞬心臓が停止したかと思うほど絶句してからの事。


 ――無いのだ。

 唇が、口が、鼻の下にはなにも。

 代わりにどこか見覚えのある、黒い半円状の線が口の部分にあって、まるで漫画絵の出来損ないのようにニッコリと笑っているように見えた。

 悲鳴が出せなかったのはこの為であるからなのだろう。

 田岡信二は大いに驚き、声にならぬ声をあげてパニックに陥った。

 同時に、抱えて居た携帯電話が鳴って、メールの着信を伝える。

 相手はあの、天之麻早苗であった。


 件名:起きてる?

 本文

 例の本、あったよ。

 内容は中国のお話で、ある商人が自宅に出る妖怪に苦しむお話かな?

 妖怪は夜な夜な物音を立てたりものを投げたりして暴れて、商人に成り済ますべくこれを殺そうとするのね。

 で、困った商人がある道士に相談すると、原因を探る展開になって。

 で、古い瓶に顔の落書きがあって、これを壊すことで妖怪が出なくなった、ってお話だった


 ――落書き?!

 そんなもの、見かけた落書きが書かれた物全部を壊さないとだめなのか?!

 無理だ! 電柱や車があったし、特に車なんて何処にあるかわからない!

 田岡は絶望にへたり込みながらも、藁にも縋る想いで携帯で自身の顔を撮影し、物が飛び交い音が鳴る室内を動画で撮影して再び天之麻早苗にメールしたのである。

 メールにはここ数日での出来事と、現在の有様を乱文になりながらも説明したもので、助かるにはすべての落書きをどうにかしないとならないがどうにも出来ないと綴られていた。

 果たして天之麻早苗からの返信は、思ったより早くあった。


 件名:冗談?

 本文

 メールの添付の意味がわかりません。

 顔の写真と部屋の動画だよね? おかしいところは無かったけど……


 ――添付した動画や写真におかしい所は無かった?!

 こんな……、こんな状況なのに!?

 あり得ない反応に田岡は狼狽し、慌てて携帯のデータフォルダを開いた。

 驚いた事に確認してみると、確かに顔写真にはきちんと口があり、映ってる部屋は何も“起きていない”。

 だが現実はそこら中から音がして、物が独りでに飛び交い、鏡で見る自身の口は綺麗に消え去って、半円状の線が一本入っているばかりである。

 田岡信二は愕然としながらも、続く早苗からのメールを読み進めハッとした。

 

 件名:冗談?

 本文

 メールの添付の意味がわかりません。

 顔の写真と部屋の動画だよね? おかしいところは無かったけど……

 田岡くんなりの冗談かも知れないけど、一応マジメに答えとくね。

 もし、万一田岡くんの話が本当だとして、落書きをした器物を壊す必要は無いと思う。

 “顔”を、それも一番最初に書いた“顔”の落書きを消せば良いんじゃ無いかな。

 付喪神って知ってる?

 古い器物に宿る神様で、この中国のお話のように顔を得る事で力を振るう事もあり得るんじゃ無いかと思うんだよね。

 田岡くん、ここ数日の間に何か古いものに落書きしなかった?

 心当たりがあればそれを消せば収まるんじゃないかなあ。

 例えば、取り壊しの予定が立ってる学校の備品とか怪しいかもね

 怪奇物ファン的な意見だから、確証は無いけど。

 もし冗談だったなら不快だからやめてください。


 ――机だ!

 あの、机に書いた“顔”の落書きが原因だ!

 思い出されるのは、先日の学校にて。

 天之麻早苗とその友人との会話を盗み聞きし、その後何気なく机に書いたあの“顔”の落書き。

 田岡信二は思い至るや、脱兎の如く部屋を飛び出して玄関に走った。

 それから、靴を履いたところで急に左目が見えなくなり、玄関先に置かれた姿見の鏡を見てさっと血の気を失う。

 映し出されていたのが、口に続き左目が消えてつぶらな黒い点に変わっていた為だ。

 こみ上げる恐怖はどれ程のものか、田岡信二は更に必死に走って学校へと向かった。

 深夜、校内はあらゆる場所が施錠され侵入は困難であったが、田岡信二にはそうも言っていられない理由がある。

 彼は学校に着くや、閉じられた門扉を乗り越え、校舎の入り口の扉をガラスを割り強引に開けて、教室に急いだのだった。

 その間右目も失いつつあったのか、視界は徐々に暗くなって行き、同じくして意識も少しずつ薄れていく。

 ――間に合うか?

 田岡は夜の校舎の中を必死に走り、やがて自身の席にたどり着いて、殆ど見えなくなっている右目を凝らした。

 かすれる視界の先、机の隅にはあの落書きがニンマリと笑っているのが確認できる。

 それを強く指で擦りとった田岡信二であったが、間に合ったのか、間に合わなかったのか、直後彼は意識を失いその場に倒れ込むのであった。


 やがて夜が明け、ガラスを割ってまで深夜の学校へ侵入し、気を失っている田岡を発見した教師は事後の対応に追われることとなる。

 何故ならば、非行歴もない大人しい生徒が今時の不良でもやらないような事をしでかし、その生活指導や保護者への連絡、後何故か作動しなかった警報装置の点検と警備会社の調査や、保護者会への説明など多くの仕事が発生したからだ。

 一方、田岡のやったことは生徒の間で話題となり、騒動はしばらくの間語り草となっていった。

 当の本人はというと、何故こんな事を? と問う周囲に自分でもわからないと答えるばかりで、苦笑いを浮かべるばかりであったのだが。


 ただこの事件を切っ掛けに、田岡信二は常にニコニコと笑顔で居るようになり、それまでとは変わり多くの友人が出来たという。





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