鈿女・上
盆も明け、夏休みもあと少しといった頃。
本来ならば新学期早々に行われるテストに備え、勉強に勤しむべき時期であったにも関わらず陣太郎は家を離れ海へ来ていた。
場所は某市郊外、鄙びた海水浴場に近い公営のキャンプ場である。
整備が行き届いてはいないとはいえ、キャンプ場にはコンクリートブロック製の竈や水くみ場、それに公衆トイレがあり、利用者が少ないながらも利用料の低さから隠れた人気スポットであった。
とはいえ、別に陣太郎がそれを知っていて、友人達と夏の陰りを満喫する為に二泊三日のキャンプに繰り出した訳では無い。
いや、むしろ嫌々での参加であったが、陣太郎には参加せざるを得ない理由が存在していたのである。
事の始まりは一昨日の夜。
陣太郎の携帯電話に珍しく甘菜から『起きてる?』とメールが届き、起きてる、とメールを返すと更に珍しい事に電話が掛かってきた事から始まる。
「――はぁ?」
『だから、生理で私無理なのよ』
「……、と、俺、なんでそこで俺が甘の代わりに合宿に行くんだよ?」
携帯電話の向こう、明らかに具合の悪そうな甘菜はその理由をあけすけに言った。
陣太郎は予想外の会話に面食らいつつも、誤魔化すようにして不満を電波に乗せたのだった。
『いいじゃない、どうせ勉強進んでないんでしょ? 山登りもサボれるし、新学期の学力テスト対策ならまた私が教えてあげるから。悪い話じゃ無いはずよ』
「そりゃ、まあ、なぁ」
『美術部と演劇部の伝統だし、陣ちゃんも一応は美術部だったんだしね。成り行きで辞めちゃったけど、只でさえ男手が必要らしいし』
「いや、ワケがわからねって。それに男なら、お前目当てに入部してきた野郎どもがわんさといるじゃねえか」
『役に立つ訳無いでしょ。みんなひょろい上に私に“脈が無い”とわかるや、速攻幽霊部員になったし。合宿にも来やしないわよ』
「でも、部活辞めた俺が今更、なあ? いくら甘の代わりだって言っても、皆の視線が痛くて無理だよ」
『その辺は大丈夫よ。部長と竹脇先生に陣ちゃんを誘えないか聞いといてくれって前々から言われてたし、部のみんなも来て欲しいような事言ってたし』
「はぁ?! なにそれ?!」
思わず寝そべっていた体を起こしながら陣太郎は声を荒げた。
甘菜の言いようは、まるで最初から自分が参加することを決められていたかのようであったからだ。
美術部を辞めた今、自分は部外者である。
そう認識をしていた陣太郎であり、面倒臭そうな合宿になど参加しなければならない道理は無いはずであった。
『言ったでしょ? 今年は男子の参加率がすっごく悪いの』
「一年は?! 一年の男子なら、先輩として強制的に……」
『今年の一年生はみんな女子。……ほら、一年生にすっごく可愛い女子いるじゃない? バスケ部マネージャーの』
「んあ? ああ、新島あかりちゃん?」
『……やっぱチェックしてたか、このエロ太郎』
「うわぁ……そこから? そこから俺責められちゃうの?」
『ううん。ただ、男の子ってほんとエッチねぇって思ってさ』
「どこ、どこがだよ! 可愛いって評判の女子がいるって聞けば、どんな子か見に行くのは普通だろ?!」
『うう、私というものが有りながら……ひどい!」
「付き合ってすらねぇ!」
『私の裸、みたじゃん。』
「不可抗力だろ?!」
『……ちゅう、したよね。四回も。それも、全部ベロちゅう』
「そ、それも不可抗力!」
『先週なんて、父さんの実家にまで挨拶にいったのに』
「変わってる! 記憶が書き換えられてる!」
『書き換えたのよ』
「確信犯か! ――って、もういいから、話進めてくれないか?」
『あら、付き合い悪いね。電話代は私持ちなのに』
携帯電話の向こうで甘菜は少し不満げにそう言って、うう、と呻いた。
つ、つ、と声を出している所から、下腹部が痛むらしいとわかる。
陣太郎は少し心配になり、大丈夫か? と声を掛けようと思ったが、腹痛の原因を知るだけに気恥ずかしく何も言えずにいたのだった。
そして、そのまま沈黙が数分程続いた後。
『……お、おさまった。ごめん、痛いの、波があってさあ』
「大丈夫か? 無理すんなよ」
『そうする。あ、話の途中だったね』
「ああ。で、その新島あかりちゃんがどうしたんだよ?」
『ん、今年の一年生の男子さ、みんな陣ちゃんと一緒で。結構な人数が新島さんが居るバスケ部に入っちゃって、煽り食った弱小文化部の美術部には一人も入らなかったとさ、チャンチャン?』
「……トゲがあるのは具合が悪いからって事にしとくよ」
『せんきゅー。でね? 一応合宿の名簿作ったんだけど、二年と三年の男子参加者は松尾君だけなのよ』
「あとは幽霊部員ってこと?」
『そ』
「うわぁ……それって、あとの男子はみんなお前目当てだったって事か? 男子部員は二年だけで十人位だったよな?」
『皆が皆そうだとは限らないと思うけど……元々幽霊部員が出るような部じゃなかったらしいしね、美術部』
「すげえな、お前。新島あかりちゃんも嫉妬するレベルじゃん。俺もあやかりたい程だぞ」
『嫉妬するわけないじゃない、バカ。ああいうのって煩わしいし、気まずいのよ?』
「周りの目がか?」
『そ。それにモテりゃいいってもんじゃないって。お付き合いするなら普通一人だし、そうなったら言い寄ってくる人って邪魔でしょ? 二股とか三股とか掛けようものなら在る事無い事嫌な噂立てられるし』
「俺は二股どころか付き合っても無いのに噂が立ちまくりだけどな」
『うふ、だぁりん愛してる、かっこはぁと』
腹痛は納まったのか、それともガマンしているのか。
甘菜は少し声を上ずらせながらも、いつものようにおどけて見せた。
最近では何かと恋人同士設定でのジョークを口にしてくる彼女であったが、陣太郎にしてみれば否定するにしても“乗って”冗談を言うにしてもどこか虚しく、そして甘い苦しみが湧き出してしまうやり取りとなりつつあった。
それはそのまま、幼馴染みとの距離であり、臆病な心の重さであったのかもしれない。
「うっせ。そりゃ、甘にしてみりゃ虫避け替わりだろうが、俺にしてみりゃ色々と辛いんだぞ」
『“蟲”に祟られてるのに虫避けって皮肉な話よね』
「いや、つまんねぇから、それ。シャレになんないから、ソレ」
『ごみん。……でも、ガマン出来ない程イヤなら言ってね? 真面目な話、そんなんで嫌われたらすっごい気まずいし』
「いや、それは無いけどさ」
『そう? 大丈夫? 好きな子とか居て、噂が障害になってたりしてるんじゃない?』
「いんや。そゆのも、ないけど……」
口ごもって陣太郎は、甘菜の優しげな声に戸惑う。
夏の夜というものは、青少年をどこか浮ついた心地にさせてしまうものであるらしい。
甘菜の台詞に改めて“好きな子”について陣太郎は考えたが、可愛いと思える子は居ても好きであると言える子が居ないことに気が付き、どこか甘菜に本気で惚れ始めているのでは無いかという心地になってしまったのである。
だからであろう、陣太郎は慌てながらも少々強引に話題を変えることにしたのであった。
「……なあ、合宿、そんなに辛いのか?」
『ん? 文化系にしてはね。でも毎日体鍛えてムキってる陣ちゃんなら余裕よ、余裕。ただ、演劇部も美術部も女の子ばっかだし、力仕事は集中するでしょうね』
「……俺、そんな輪に入り込む自信はねぇぞ」
『いいじゃない、ハーレムって奴よ。きっとモテモテになると思うし。ほら、陣ちゃんお気に入りのエッチ本みたいな事が起きるかもよ?』
「起きるかバカ!」
『本当なら私が行くべきなんだけど……こう、“重く”ちゃ、それどころじゃ無いのよ。陣ちゃんにはわからないでしょうけども』
「……、そりゃ、まあ、なぁ?」
『あてて、ぶ、ぶり返してきた。薬のんでるのにな。……くそ、てめぇはいいな。百回くらい“天目一命”でお腹殴らせてくれれば、この辛さが陣ちゃんにも伝わるかなぁ?』
「とりあえず、甘のキャラが壊れる位辛い、ってのは伝わった。だから必要無い」
『あー、クソ、なんかイライラしてきた。八つ当たりしない内に電話切るね。兎に角、頼んだからね? 二、三日すれば復活するから、新学期のテストは任せときなさい。勿論、断らないよね?』
――断る。
即答したい陣太郎であったが、読むべき空気も見えていた為、言葉が出てこなかった。
それに、確かに山登りをサボれて、苦手な勉強を教えて貰えることは魅力的な申し出だ。
参加にあたり多少の気まずさはあれど、顧問の竹脇教諭を始め部長以下部員も参加を望んでいるとあれば、悪い気はしない。
考えて陣太郎は自身を納得させ、そこでふとある事実に気が付いてしまった。
「……なあ、今気が付いたんだけど、もしかして、な? お前が生、理じゃなくても俺、参加する羽目になってたんじゃないか?」
『うん。よく気が付いたねー。部長や竹脇先生にはもう話付けてるから。参加料は私の分を宛てて貰うから、お金はいらないよ』
「……断りたい場合はどうしたらいいんだろうね?」
『ブッチして修行するのもアリじゃない? 強制してるつもりはないよ。ただ、新学期のテスト、良い点とれると良いね、かっこはぁと』
「なんだよそのかっこはぁとってのは」
『ちょっとしたマイブームよ。やー、最近勉強の合間にネット見るのが面白くて。あれだ、スマホ新しくすると世界変わるねぇ』
「うっそ! お前、何時の間にスマホ買ったんか?!」
『うふ、夏モデルの最新機っしゅー。いいだろう、うらやましいだろう、妬ましいだろう! この前の“お祓い”のお金で買っちゃった』
「この前って、“蛭子”?」
『そ』
思い出されるのは、先月での事。
よくよく考えてみれば、天之麻家はああいった仕事を生業としているのである。
当然報酬は発生してしかるべきなのだろう。
ただこの時陣太郎が問題としたのは、その金額であり、行方でもある。
「俺にも給料出ないの?」
『ちゅうしてあげたじゃん』
「おい!」
『あたた……大声出さないでよ。勿論、陣ちゃんの分もあるよ。……命張ってくれたしね。結構な金額だったし、この前おばさんに渡しといたよ? っていうか、一番最初に鬼目一“蜈蚣”を抜いて私を助けてくれた時とか、おとねさんと猿候斬りに行った時もあげた筈だけど?』
「知らない! 俺、そんな話、知らないぞ?」
否定しつつも思い出されたのは、最近微妙に服や装飾品を買う機会が増えた母親の姿。
食卓に上るおかずの質もワンランク上がっており、かつ、頼み込みもしないのに小遣いが千円程上昇も果たしている。
つまり、状況証拠は数多くあり、それが陣太郎に絶望を与えていたのであった。
『知らない? じゃ、それ多分家庭の問題ね。ああ、やだやだ。……もう! また脱線! ハッキリしない陣ちゃんが悪いんだからね!』
「……あ、悪い。そうだな……はは、そっか。母ちゃんに渡してたのか……」
『それでどうすんの?』
「ま、テストはどうせ今から頑張るよか、お前に教えて貰った方が確かに良さそうだしな。そんな話聞いた後じゃ、尚更やる気なんてでねぇよ」
『じゃ、きまりね』
「ああ、そうそう。俺の“祟り”の方は大丈夫なのか?」
『多分ね。お盆明けた後だから、早々には“出遭わない”と思う。一応、いつもと違うような感覚というか、珍しいモノを見たらメールしといて』
「あいよ。じゃ、明後日行くから本田部長に連絡しておいてくれ」
『ん。じゃ、お願いねぇ。あ、そうそう。場所は――』
――と、このような取り留めも無いやり取りの果てに、陣太郎は通う高校の演劇部と美術部の合同合宿に参加していたのである。
合宿は甘菜の言うとおり二人が通う高校の伝統であるらしく、その目的は夏休みの後、秋の文化祭に向けてのものだ。
すなわち、人気の無い鄙びたキャンプ場で演劇部は出し物の練習を、美術部は夏の風景画の練習をする傍ら、演劇部の舞台セットに使う背景絵の打ち合わせをレクリエーションも兼ね二泊三日かけて行うのだ。
無論、割合が偏っているとは言え年頃の男女が同じ夜を過ごすのであるからして、引率の教師は居る。
が、彼らも聖職者であるとはいえ人間で、時勢もあり保護者の理解を得やすくする為に演劇部と美術部の顧問教師は女性であった。
「臼木君。それ終わったら、薪割っててねぇ」
「はい、先生」
「おおい、臼木くーん、ちょっと来て!」
「無理ッス、本田先ぱーい! 今先輩達のテントを立ててる所なんスから! この後も――」
「そんなの、あとあと! こっち来て演劇部の子らが持って来た道具を運んであげて!」
「うーっす! ……悪い河崎、俺、行ってくるわ」
「はい、頑張ってきてください、先輩。テント設営の要領は大体わかったので、あとは他の子とやりますから」
「あいよ。じゃ、アッチ終わったら薪割りしとくよ」
ため息を一つ吐きながら陣太郎は立ち上がり、一緒にテントの設営をしていた後輩の女子に声をかけてから踵を返した。
それから、駆け足で先程指示を飛ばしてきた美術部部長の下へ移動する。
その間、幾人かに作業の手伝いを申し入れられ、丁寧に断りながらの移動となってしまう陣太郎であった。
――何が『モテモテになると思うし』だよ、まったく。
男子が殆どいねぇ上に、力仕事こなせそうなの、俺しかいねぇじゃねえか。
どいつもこいつも雑用させようと猫撫で声で呼びやがって……
大体、なんだよ。
演劇部の子らはまだ良いとして、美術部の連中は一年以外は殆ど作業もせず風景画を描いてるじゃねえか。
ってか、雑用でコキ使われてるのって、俺と、松尾君と、一年生だけだし。
ってか、松尾君も水汲み行くとか言ってどっか行ったっきり帰ってこねぇし。
って、俺、もう美術部じゃねえってのに……ああもう、クソ!
誰にも聞こえぬよう毒づいた台詞を呑み込みながら、陣太郎は引きつった愛想笑いを浮かべ、美術部部長の指示通りに演劇部の荷物を運んで行く。
勿論、手渡され、あるいは持つよう頼まれる荷物は重い物ばかりだ。
氷とジュースがたっぷりと入った巨大なクーラーボックスを運びながら、陣太郎は心中で愚痴を吐き散らし、矛先を甘菜へと向ける。
が、すぐに一昨日の夜携帯電話の向こうで自身の月経について語った事に思い至り、なんだか恥ずかしくなってしまうのであった。
陣太郎は甘菜とのトモダチ付き合いがあるとは言え、基本的には女子と接する事が得意では無い。
極端に上がるというわけではないが、会話に生理の話題などを出され、うまい返しができる程には手慣れてはいないのである。
――もっとも、いくら心許した相手とは言え、異性に生理の話題を振る甘菜も甘菜であるが、生理痛の為に少し壊れていたのだろう、と陣太郎は己に言い聞かせ納得する事にしていた。
当然、女子だらけの合宿に参加するに当たって陣太郎が気にするのは、女子部員達のテントの位置だとか、ありもしない非現実的な甘い妄想だとか、女子生徒達が着替えるタイミングといった所で無く。
ただただ、後日女子だらけの合宿に参加したことによって、他の男子からどのような目で見られるのかが気になり、結果が容易に想像できて暗澹とした気持ちにさせるのであった。
よって、見ようによっては羨ましい状況である陣太郎は、この時のにこやかな表情とは裏腹に心中では荒んだ感情が渦巻き始めていた。
雑用による肉体労働は辛くは無かったが、日頃からはあり得ない程の頻度で女子生徒に呼び止められ、こちらの都合などお構いなしに雑用を申し渡されるストレスは徐々に陣太郎を狭量にしていく。
また、狭くなる心へ更なる追い打ちをかけるがごとく、夏の終わりを嘆くようにツクツクホウシがけたたましく鳴き叫び、えもいわれぬ苛立ちを加速させるのである。
――いかん。
なんかこう、何もかも投げ出して家に帰りたくなってきた……
松尾君も戻ってこねぇし。
女子に物を頼まれまくる、ってのは甘の話から予想はしていたけど……
う、う、う、もう、だめだ。
作り笑い浮かべるのも面倒くさくなってきた。
もう、話しかけられても無視してやろうかしらん。
……って、名目上は甘の代理ってか誘いで参加した手前、投げ出すような事は……できねえよなあ、くそ。
あれだ。
色々テンパって来てるから、余裕が無いんだ、俺。
そうだよな。
きっと、そうだ。
夏休みなのに勉強と山登りしかなくて、たまに息抜き出来たと思ったら“祟り”に逢う生活してんだ。
そりゃ、怒りっぽくも成るわな。
そうだ。
こんな時は、夏の木々を見て心を落ち着かせたほうがいいんだろうな。
と、こんな調子で陣太郎が、現実から荒みかけた心を切り離そうとした時。
ふとキャンプ場の近くに広がる林の中、目を引くモノを見つけ足を止めた。
ソレは陣太郎から約十メートル程離れた樹上にあって、生気に満ちあふれた緑の枝の中、夥しい数の蝉の音をかき分けるようにして、白く浮かび上がっていたのである。
「なんだ、あれ?……」
「……どしたんですか? 先輩。急に立ち止まって」
「うぉ?! び、びっくりしたぁ」
いきなり背後から声がして、陣太郎はぎょっとした。
慌てて振り返るとそこに、陣太郎と同じく雑用を言い渡され荷物を運んでいた演劇部の一年生らしい女子生徒が首を傾げ立っている。
内心で愚痴を吐き、現実から目を背けていた為か、周囲が見えていなかったらしい。
陣太郎は心底あふれ出そうな愚痴を呟かなくてよかった、と思いつつも、もう一度視線を戻して樹上に見える白いモノを指差した。
「いや、あれ。なにかなぁ、って」
「あ、白いハトですか。珍しいですね」
「へぇ。あれ、ハトなのか。よくこっから見えるな」
「先輩見えないんですか?」
「俺、ほら、片目だし、明るい昼間はどうもピントが合いにくくて」
「そういえば、いつもそっちの目、瞑ってますよね」
「ま、な。びょーきというか、怪我というか。って、君……」
「あ、わたし須々木と言います。演劇部の一年生です」
女子生徒はそう自己紹介して、ペコリと勢いよく頭を下げた。
同時にどこからかリン、と涼しげな鈴の音がする。
演劇部では厳しい上下関係がたたき込まれる為であろう、端々に見せる須々木の態度は軍属であるかのように中々機敏だ。
それ故に、恐らくは須々木と名乗った女子生徒が持つ携帯のストラップにでも付属している鈴が鳴ったのであろう、と陣太郎は頭の隅で考えた。
「あ、こりゃ、丁寧に。俺、臼木」
「はい」
「はい、って……あ、そっか。演劇部じゃ返事はすべて『はい』、なんだっけか」
「はい」
「面倒くせぇよなあ、そういう体育会系のノリ。っと、君――須々木さん、なんでこっちの目をいつも瞑ってる事知ってるの? 俺と面識あったっけか?」
「“はい”、先輩とは面識はありませんが……その、先輩はその……天之麻先輩と噂になったり、いつもその、竹刀ケースを持ち歩いてたりしてて一年生の間でも結構、色々と有名ですから……」
言って、須々木はすこし気まずそうに目を伏せた。
伏せた目から延びる睫毛は長く、空高くから降り注ぐ強い日差しがまだあどけなさが残る顔に影を落とす。
一年生の常か上級生に目をつけられないよう、少し短めの髪は素っ気なくうなじに近い位置で束ねられ、服装も学校指定のジャージである為か見てくれはどうもパっとしない。
しかし一方では陣太郎よりも頭一つ小さな背丈と、小動物のような機敏さを連想させるはきはきとして少し早口な物言いは、対峙する者に可愛らしいといった印象も抱かせた。
須々木の台詞に思い当たる節があるのだろう、苦笑いを浮かべてしまった陣太郎は、そうなんだ? ととぼけるように返し、再び歩き始めた。
その背にドッシリと蝉の鳴き声が覆い被さる。
つられるようにして須々木も歩き始め、二人はしばしなんとなくだが気まずい時を過ごした。
その後、荷物を運び終えた陣太郎は別の雑務を言い渡され、須々木も演劇部のミーティングに呼び出されどこかへと去って行った為、二人ともすぐに互いの事など忘れてしまうに至るのである。
思えばこの時、陣太郎に“祟り”の兆しが示されていたのだが、気付けぬ事も含めて既にそれは始まっていたのかも知れない。
◆
次の日の早朝。
まだ日も昇っていない、深夜と言っても差し支えない時刻、陣太郎は竹刀ケースを二つ担ぎ、嫌々ながらも男子専用のテントを抜け出していた。
二つの竹刀ケースの内一つには鬼目一“蜈蚣”が収められている。
そしてもう一つには祖父・陣八が用意した、陣太郎がいつも訓練で使っている真剣が収められていた。
朝早くに陣太郎がテントを抜け出したのは、キャンプに参加するにあたり、陣八にきつく申し渡されていた“型”をなぞる訓練を行う為である。
本来ならば昨夜の内にやっておかねばならない“ノルマ”であったが、流石の陣太郎とて誰の目があるかわからない内は、日本刀を振り回すような真似はしたくなかったのだ。
考えてもみれば当然の事であろう。
年頃の女子生徒達の視線の中、たった一人でこれ見よがしに日本刀を振るう己の姿は想像するだに、身悶えを起こす程恥ずかしいではないか。
間違いなく本人はそのつもりはなくとも、周囲の目には自己陶酔の入ったアブナイ行為に見えることであろう。
例え『実家の古剣術を習得する為、いまだ修行として日本刀を持ち歩かざるを得ない』という極めて胡乱な話が周知されていても、だ。
「ここまで来れば見られる事もないよ、な?」
陣太郎は早朝にもかかわらず、キャンプ場から離れた海に近い林の中を歩いて、丁度刀を振り回すのに塩梅の良さそうな場所を見つけ辺りを伺った。
かなり林の奥へと進んで来た為か、そこかしこからひぐらしの鳴き声が途切れがちに響き、ぐるりと見渡しても木々の隙間から辛うじて林の外が見えている。
元来た道無き道は僅かにキャンプ場の広い駐車場が見え、反対側は海が近いのだろう、潮騒が聞こえて来ていた。
それでいて木々は密集してはおらず、刀を振り回すには十分な広さで、しかもテントを立てたエリアは勿論、水汲み場やトイレ、調理場からも遠く離れ早朝で無くとも人目には触れにくい場所であるようだ。
果たして、肩にかけていた二つの竹刀ケースを大きな木に立てかけ、その内の一つから日本刀を取り出した陣太郎は、誰の目も気にせず“型”をなぞる訓練を開始したのである。
それから、小一時間程の時が経った頃か。
空がほんの僅かに白みかけた頃、幾度目か反芻した“型”の一部である納刀をすべく、ゆっくりと音を立てぬよう刀に鞘を這わせた時。
陣太郎は突如として違和感を背に感じ、そのまま抜刀に転じて剣を横に薙ぎながら鮮やかに円を描いて背後を向いた。
同時に、白い何かが目の前を横切るようにして上へと跳び、少し離れた枝に止まる。
「あ……」
驚きのあまり声を出したのは、白いそれが滅多に人前に姿を現さないフクロウであったからではない。
すっかり身に染みつきつつあった“型”の、振り向き様の斬撃の終わりに心を残した切っ先の更に先。
いつからそこに居たのか、演劇部に所属する下級生、須々木が立って居たのである。
「えと……」
「うわ! ご、ごめん! これは、その、つい、体が勝手にと言うか! け、怪我ないか?!」
「え? あ、はい、これだけ離れていれば……」
真剣を鞘に納めつつ慌てふためく陣太郎とは対照的に、須々木は至って冷静に返事をした。
当然であろう。
須々木は陣太郎からかなり離れた場所、木の陰に半分身を隠すようにして立っており、その位置は例え陣太郎が狙って刀を投げつけたとしても当たりようも無い程離れていたのだ。
同時に、その立ち位置はかなり前から訓練を見ていたことを示していて、陣太郎は強い羞恥に視界を滲ませてしまう。
「そ、そう! あ、はは、な、ならよかった、よ! しかし、須々木さん、朝、はやいんだねぇ? はは……」
「はい、先輩も。……すいません、驚かせてしまったみたいで」
「……いつから、見てたの?」
「はい。えっと、最初……からかな?」
絶望。
目に浮かぶのは、夏休み明けに広がる、自身の恥ずかしい噂話。
事実では無いとは言え、幾度も憂き名を流して来た事から、その内容は面白可笑しく尾ヒレが過剰までに付くはずだ。
「うわぁ……そう、なんだ?」
「はい」
「ううう、ツいてねぇ……。ねぇ、須々木さん。その、忘れてくれたり、しない?」
「はい? 忘れる?」
「俺の、恥ずかしい姿」
「恥ずかしい?」
「こんな早朝に、日本刀を振り回していた姿、だよ」
「あ、いえ。それは……。つい、見とれてしまって、声を掛けそびれました」
「はは、そりゃキモいよな……って、なぬ?」
「なんて言うか、凄く力強くて、その……うまく言えないんですけど。先輩の持ってるそれ、真剣なんですか?」
「え? ああ、ま、ね。はは、恥ずかしいな」
意外な反応に陣太郎は誤魔化すように愛想笑いを浮かべ、そそくさと納刀した刀を竹刀ケースにしまい込んだ。
話の流れで真剣を見せて欲しい、という状況にさせない為である。
鬼目一“蜈蚣”はもちろんであるが、祖父・陣八から訓練用として預かる剣も又、素人には想像も付かぬ程危険な代物だ。
その鋭利な刃は人の指など痛みも感じぬ間に斬り落としてしまう鋭さがある為、他者には決して見せてはならぬと陣八に厳命されていたからであった。
「あら。もう、辞めるんですか?」
「ああ、これを持ち歩くのに当たって、人の目がある所で抜いちゃいけないって決まりだしね」
「あ……ごめんなさい。わたし、他所に行きます」
「いいよ、丁度終わった所だったし。って、こんな所まで……最初から俺の後をついてきてたの?」
「いいえ。わたしも丁度人気の無い場所を探して林の中を歩いて居て、そしたら先輩がカタナを振っていたんです」
話は通じているがどこか噛み合わない会話は、未だ羞恥に心を支配されている陣太郎のせいであるのか、あるいは須々木の性格の為であろうか。
ともかく二人はそのまま会話を重ねること無く、昼間のように気まずい空気の中、しばし互いに苦笑いを湛えていたのである。
特に陣太郎は恥ずかしい姿を見られ、いたたまれぬ心地は刻一刻と沈黙を苦痛に変えて行く。
だからか、無理繰りに会話のキッカケを作り出したのは陣太郎の方であった。
「しかし、須々木さんって朝早いんだねえ」
「はい。あ、いえ、いつもこうじゃないんです」
「ふぅん? あ、演劇部の一年は先輩より早起きしなきゃいけないって事?」
「はい。でも、それもあるんですがわたし、ってか今日はちょっと違うんです」
「違う?」
「はい。その……今度の文化祭、一年生が役に選ばれるのは一人だけでして。台詞も無い、ダンスのパートなんですけども、この合宿の最後にその選考があるんですよ」
「あ、なるほど。自主練ってわけか」
「はい。ダンスは各自創作するものでの選考ですから、あまり他人に見られたくないというか。で、人目の無い早朝に練習をしようと早起きして、先輩とカチ合った、というわけです」
言って須々木は目を伏せ、ポリポリと小さな頬を人差し指で掻いた。
陣太郎もさることながら、彼女もまたそれなりに恥ずかしい所があるらしい。
「そっか。じゃ、邪魔しちゃ悪いから俺、テントに戻って寝直すよ」
そんな須々木の様子に陣太郎は空気を読み、二つの竹刀ケースを担いで早々にその場を立ち去ろうとしたのだったが。
リン、と鈴の音が成り、須々木をすれ違った所で服の裾が何かに引っかかって、思わず足を止める。
直後陣太郎が見た物は、しかし裾は木の枝に引っかかっていたのではなく、予想外にも白い小さな手によって摘まれていたのだった。
陣太郎の汗を吸ったTシャツを摘んでいた手は、勿論須々木のものである。
「あ、あの! 先輩!」
「はひ?!」
「その、お願いがっ!」
それまでの須々木の態度とは、打って変わっての強い声色。
対する陣太郎は何を感じ取ってか、返す声を裏返させてしまった。
一瞬、もしや自分に気があって、と妄想を膨らませ、何故か甘菜と天秤にかけ甘い想像に心を委ねそうになる陣太郎であったが、続く須々木の台詞によって浸る間も無く現実に引き戻されるのである。
「あの、その、わ、わたしのダンス、見てくれませんか?」
「――なぬ?」
「その、実は一人で踊る創作ダンスって初めてで……人前で踊るのも恥ずかしくて。……でも、役には選ばれたいんです、わたし」
「え? あ、ああ、うん、ま、恥ずかしいっちゃ、恥ずかしいよな。はは」
「はい……」
「でも、俺でいいのか? 俺、ダンスの事なんてわかんねぇよ?」
「はい。かまいません。ただ、居てくれるだけでいいです。その、人前で踊る事に慣れたいだけ、ですし。それに……」
「それに?」
「わたしも先輩の恥ずかしい所、見ちゃったし。お互い様、って思えばこう、開き直れそうなきがするんです」
――おい。
お前、やっぱりさっきの俺の事、“恥ずかしい人”って思ってるんじゃねえか。
口を突いてでそうになったツッコミは、辛うじて外に漏れることは無かった。
しかし、生来の性格故にか、それとも須々木の台詞を脅迫とうけとったのか、陣太郎は本音とは裏腹に快く申し出を引き受け、その場に腰を降ろしたのである。
朝が近いとは言え、白む空とは裏腹に林の中はまだまだ暗い。
どこか物哀しく鳴くヒグラシと遠くに聞こえる潮騒は、朝の清廉とした空気に良く通り、かえって周囲に残る闇を強調してどこか不気味であった。
だからか、もしかしたら須々木は心細く感じているのかも知れない。
陣太郎はそう自分に言い聞かせ、目の前で何かの役になりきり踊り始める須々木をぼんやりと眺めていた。
が、自身が先程も言ったとおり踊りの事などわかる筈も無く、急に眠気がわき起こってきた陣太郎は、慌てて竹刀ケースのポケットに入れておいた携帯電話を取り出す。
須々木にただ居るだけで良いと言われていたものの、さすがに寝るのはまずいと考えて、眠気覚ましにメールでも打とうという魂胆である。
時間も時間であったが、陣太郎は少し考えた末にやおら甘菜に宛ててメールを打ち始めた。
件名:珍しいもん見た
本文:昨日白いハトを、さっき白いフクロウを見たぞ。画像は無い。残念だったな。あ、あと俺、今ちょっとモテてる。ダンスの審査委員長に任命されたぜぃ
送信されたのは、他愛も無い内容である。
陣太郎としては甘菜に返事をして欲しいような物では無く、そもそも眠気覚ましに指を動かせれば内容など何でも良かったはずであった。
だが日も昇らぬ早朝にもかかわらず、予想外に甘菜から返ってきたメールは陣太郎の眠気所か平穏な心すら追い払う。
その内容はシンプルで、しかし本文では無く件名に書かれただけの文章は、的確に状況を伝えていた。
件名:今すぐそこを離れて!
本文:なし
メールを確認すると同時に、甘菜からの着信を伝える音。
が、すぐに着信音は途切れてしまい、陣太郎を焦らせる。
幾度も感じた“感覚”が、急速に周囲から感じ取れていたからだ。
辺りからはあれ程鳴いて居たヒグラシの音も、遠くに聞こえていた潮騒の音も消え去り、完全な無音が耳に痛く響く。
携帯電話が示す時刻は午前六時。
既に日の出を迎えていてもおかしくは無い時刻にもかかわらず、空は変わらず暗い。
いや、いくらか空は白んでいたが、そこから一向に明るくならないのだ。
更には先程メールを送れたにもかかわらず、携帯電話の右上に示された“圏外”の文字が陣太郎に嫌な汗を噴き出させていた。
何時からか呼吸は荒く、心臓は早鐘のように打っている。
陣太郎は理由も無く、突如として理解した。
これから得体の知れぬ“神威”が降りかかってくるのだと。
否、既に“祟り”は始まって居るのだと。
そんな、陣太郎の恐怖を煽るように――
須々木だけは現世の面影を保ち、時折鈴の音を鳴らしながら一心不乱に踊り続けるのである。




