岐神
夏の盛り、八月は中旬での事。
既に過ぎている地方もあれど、某市ではこの頃に盆を迎える。
お盆、というと仏教色の強いイメージを抱くであろうが、神道にもきちんとこの時期にお盆は存在した。
穢れを嫌う故に神社などでは墓地を持たないが、一般の霊園に混じり神道式の墓である『奥都城』を設け、お盆の時期には掃除をしたりするのである。
天之麻家もまた某市内にある古い霊園に奥都城が存在し、お盆の時期には入り婿である甘菜の父・天之麻悟郎の実家に里帰る傍ら、墓参りを行うのが毎年の恒例行事となっていた。
甘菜はその年も例年のように、不本意ながら父・悟郎の運転する車に同乗し、母が眠る墓へと向かう。
道中で同じ市内にある父の実家に寄って日中はここで過ごし、涼しくなった夕刻に墓参りを行って母や先祖の霊を自宅へ連れ帰る、といった日程だ。
たった一日の短い旅程ではあったが、甘菜にとってここ数年は苦痛以外の何物でもなかった。
何せ、未だその関係を修復できていない――というか、その亀裂は日を追うごとに大きくなって行く――父・悟郎と丸一日一緒に過ごす必要があるのだ。
安らかに眠る母の魂を迎えるにあたり、甘菜としてもあまり険悪な空気で迎えたくはない。
が、いくらそう思ってはいても、年頃の娘が父親に抱く嫌悪感は理性を大きく超え、どうしても発露してしまうのである。
せめてこの日だけでも、と甘菜とて頭ではわかっていた。
だが負の感情はどんなに抑え込もうとしても表情に、態度に、声に出て、回り回って甘菜を落ち込ませ憂鬱な気持ちに拍車をかけてもいた。
ただその年はいつもとは違い、母の墓参りに思わぬ同行者が現れ、彼女の憂鬱を和らげるのである。
「すまないね、陣太くん」
「いえ……」
「お盆という時期はほら、色々と霊的行事が多いだろう?」
「はぁ……」
「君が“祟られた”のは去年のお盆より後だったからわからないだろうが、この時期、祟りを抱えた者は神威や荒魂を呼び寄せやすくてね」
「父さん、いいから手を動かして。あと、陣ちゃんは『陣太郎』って名前」
「はは、そうか。すまないね、陣太くん」
天之麻悟郎はそう言ってにこやかに笑い、止めていた手を再び動かし始めた。
その手には雑巾が握られ、少し細身の墓石をゴシゴシと擦っている。
そんな父親の後姿を甘菜はジロリと睨んで、手にしていた箒とちりとりで再び周辺のゴミを集め始めた。
陣太郎は険悪な父娘に挟まれたまま、水が張られたバケツを持って、呆然と立ち尽くしている。
そも、何故彼が天之麻家の墓参りに同行しているのか。
「――だから陣太くん。悪いが、今の時期はなるべく私や甘菜と一緒に行動しておいた方がいいと思ったんだ。結果、我が家の行事に付き合わせる事になってしまったが――」
「いいから、黙って掃除して父さん」
「はは、甘菜、ちょっと位はいいじゃないか。それに娘のボーイフレンドと微妙な空気を醸しだしながら会話を交わす権利が、父親である私にはあるはずだろう?」
「そんなモノ、あるわけないでしょ。ほら、さっさと水で流さないから折角落とした汚れが乾いて染みになっちゃってるじゃない。なんの為に陣ちゃんにバケツを持って貰ってるのよ」
「はは、すまないね陣太くん。甘菜は照れているようだ」
「は、はぁ……」
陣太郎の気のない返事と同時に、チッと大きめの舌打ちの音が辺りに響く。
盗み見た甘菜の顔は、鬼の形相だ。
――いたたまれない。
父娘の仲が悪い事は知っていたが、まさかこれ程険悪だとは想像もしていなかった陣太郎である。
陣太郎は愛想笑いを凍り付かせながらも、甘菜に急かされた悟郎の求めに応じるまま、バケツを差しだした。
悟郎は喧嘩腰な娘を咎めるでもなく、にこやかに陣太郎へ礼を述べて、バケツに突っ込まれていたひしゃくで水を墓にかけ始めた。
神道式の墓である『奥都城』は一見、普通の墓石と同じように見える。
ただ、普通の墓石は立方体であるのに対して、奥津城は上面が四角錐に尖っているのが特徴だ。
その為上面に水や砂埃が溜まることは無く、比較的汚れづらい構造ではあるがそれでも雑巾で擦った部分とそうで無い部分は洗う水により明確に別れていた。
「おや?」
「ありゃ」
陣太郎と悟郎が間の抜けた声を上げたのは、バケツの中の水が思ったより早く無くなった為。
天之麻家の奥津城がある霊園は山の斜面沿いにあって、水くみ場は遥か下にある。
更には天之麻家の奥津城は某市が一望できる山の斜面の一番高い霊園にあり、水を張ったバケツを運ぶとなればそれなりに重労働であった。
その為、気を利かせて重いバケツを運ぶ旨を申し出ていた陣太郎であったが、バケツに水を張る際、運びやすいよう加減してしまい、それが仇となったらしい。
「どうしたの?」
「はは、少し水を無駄遣いしてしまったようだ」
「もう、なにやってるのよ。折角陣ちゃんが運んでくれたのに」
苛立った言葉を吐きながら、甘菜は頬を僅かに膨らませた。
聞きようによっては陣太郎を極度に庇うかのような甘い台詞だが、その実は単に嫌いな父親を責め立てたいだけである。
余程、父親が嫌いなのであろう。
甘菜の態度はやや目に余るものであったが、父親である天之麻悟郎はというと意に介していないようで、その為か甘菜の敵意はずっと空回りを続けていたのだった。
結果、その場に居てもっとも彼女の敵意に気を揉んでいたのは、赤の他人である陣太郎となっていた。
「む。そうだな。甘菜の言うとおりだ。すまないね、陣太くん」
「あ、いや、俺、無精して水を少なめにしたのが――」
「とにかく、父さん水くみに行ってきてよ。あんまり陣ちゃんを家の行事に駆り出しちゃ可哀想でしょ」
「そうだな。どれ、バケツを……」
「い、いやいや! これも修行の一貫と思えば。俺、行ってきます」
「そうかい? すまないね、陣太くん」
「……ごめんね、陣ちゃん」
いよいよその場に居づらくなった陣太郎は、この機を逃してなるものかとバケツを抱え込み、愛想笑いを浮かべながら素早くその場を離れた。
悟郎も甘菜も流石にそんな陣太郎の態度を見て、引きつった作り笑いの裏側に張り付く真意を読み取り、それぞれの口から謝罪の言葉を紡ぐのであった。
――否。
父親に見えぬ様、感情を制御出来ず本当にすまない、といった表情で陣太郎に謝罪する甘菜とは対照的に、天之麻悟郎のそれは飄々として甘菜の態度おろか陣太郎の困惑でさえ“わかっていて”尚気にしてはいないようだ。
陣太郎としては甘菜も悟郎も至らぬ部分があり、例えば甘菜はもう少し声色だけでも優しくだとか、悟郎は空気を読んで“余計な一言”を言わないだとか、譲歩というか改善できぬものかと思う所はあった。
が、家同士の繋がりはあるとは言え、赤の他人である陣太郎はそれを指摘する立場であるはずもなく、ただただ堪え忍ぶしかないのであればこうして逃げ出すのが関の山である。
思えば、バケツに水を少なめに張ったのも、こうやって抜け出す口実になり得るかもしれないと無意識に考えた結果なのかもしれない。
ともかく、剣呑な空気に耐えきれなくなった陣太郎は一刻もその場を離れるべく、バケツを抱えてその場を後にするのである。
だが、父親に背を向け、彼女本来の綺麗な顔立ちを申し訳なさそうに歪める甘菜に、陣太郎は気にするなと合図を送り霊園の細い坂道を下ろうとした時。
意外にも陣太郎を呼び止めたのは、天之麻悟郎であった。
「ああ、ちょっとまってくれ、陣太くん」
「は、い? なんですか?」
「これを持って行くと良いよ」
そう言って、悟郎はぽいっと陣太郎に野球ボール大の何かを投げて寄こした。
陣太郎はバケツを落としそうになりながらも、投げ渡されたソレを見事地に落とさず受け取ることに成功する。
果たして悟郎が投げ渡してきたモノとは、何の変哲も無い、すこし小ぶりな桃であった。
「知ってるかい? 桃というのは、実は皮ごと丸かじりしても美味しいんだ」
「はぁ……」
「ここの霊園の水は古い井戸水でね。これが中々うまい。水くみをするついでにその水で洗って囓りながらゆっくり登ってくると良い。ソレ、白桃だから驚く程美味しいよ」
「……そう、ですか。ありがとうございます」
妙なタイミングであまり馴染み無い桃の丸かじりを勧められ、戸惑いながらも礼を口にした陣太郎である。
――わからない。
なんで今、桃を?
と、いうか、そもそもなんで桃を持っていたんだ?
親父さんなりに悪いと思ってるから?
……んな様子じゃあないよな、あの顔。
そんな疑問を浮かべながらも、陣太郎は愛想笑いを浮かべたまま二人に背を向けたのだった。
しかし、もう一度。
陣太郎を呼び止める、天之麻悟郎の声。
「ああ、そうそう。陣太くん、ここへ登ってくる途中に小さなお堂があっただろう?」
「え? ああ、はい。十字路になっている所ですよね?」
「そうそう。よくそこの十字路で迷う人がいるらしいから、気を付けてくれよ」
「わかりました。多分、大丈夫ですよ。ここまで登ってくるのに、まっすぐにしか進まないですし」
「あ、それもそうだね。まっすぐ進めば迷うこと無いか。すまないね、陣太くん。呼び止めてしまって」
「いえ。じゃ、行ってきます」
再度、そそくさと背を向ける。
今度は呼び止められもせず、陣太郎は意気揚々と霊園の坂道を降りていった。
霊園は古くからそこに在った場所で、最近開発された場所と比べてもお世辞には整備されているとは言えず、斜面に延びる坂道も舗装すらされていない。
その為坂道の道幅も狭く、足場の悪い箇所も所々にあって、すっかり山登りになれた陣太郎であっても気を抜けない道であると言えた。
時刻は夕刻。
陣太郎が住む地方では、お盆の墓参りは一般的に朝行われる事が殆どであった為、他に墓参りにやって来ている人影は無い。
例年に無く暑い日中の熱の残滓が感じられたが、山から吹く風とひぐらしの鳴き声が不思議な心地よさを感じさせる。
坂道を下りながら一望する某市は、夏の夕焼けによって茜に染まり、中々美しい景色であった。
「急がないと、家に帰り着く頃には日が暮れるな」
一人呟きながら、水くみ場まで降りてきた陣太郎は早速バケツに水を張り始める。
今更ながらに気が付いたが、蛇口から勢いよく出る水は悟郎の言うとおり、井戸から引いた水道であるらしくやけに冷たい。
――確かに、旨いのかも。
涼しげにバケツへと落ちる水を眺めながら陣太郎は、先程天之麻悟郎に手渡された桃を暫時眺めて徐に冷水で洗って齧り付いた。
シャク。
生まれて初めて皮ごと桃を囓った感触は特に感動するような発見はなく、しかしその甘みは悪く無い、といった感想を陣太郎に抱かせる。
白桃の上品で爽やかな甘みは缶詰では到底味わえない物であり、成る程、悟郎が言うとおり中々美味である。
が、それだけに食べられない事も無いが、柔らかな果肉と相反する皮は邪魔に思えて、雑に食べることが少々勿体なく感じられた。
陣太郎はそのまま桃を囓りつつ、改めて少し多めに水を張ったバケツを持ち、霊園の坂道を登って行く。
少々きつい上り坂であるが、天之麻家の奥津城まで距離的には遠くも無かった為、それ程苦にはしなかった。
やがて、山の斜面にある霊園の中程まで登り切った陣太郎は、悟郎が言っていた小さなお堂がある十字路に差し掛かった時である。
お堂の脇に見慣れた幼馴染みの姿があって、陣太郎はつい足を止めた。
とうとう父親と衝突してしまったのか、側に居づらくなってしまったらしい。
いや、先程の天之麻悟郎の様子から、衝突というよりも甘菜が一方的に癇癪を起こしてしまったのだろう。
シャク、と最後の一口を囓って固い桃の種を摘んだまま、陣太郎はやれやれとため息をついて甘菜に声をかけるべく再び坂道を登り始めた。
右手には水が張られたバケツ、左手には桃の種、肩には祟り刀が入った竹刀ケースという出で立ちであったが、その歩みは不安定な坂道を難なく進んでいく。
「甘。どうした?」
答えはわかりきっていたが、お堂の側で立ち尽くす甘菜に声を掛ける陣太郎。
しかし甘菜は陣太郎の問いに意外な反応を示した。
「ううん。ここで、陣ちゃんをまってた」
少し俯き、もじもじと両手の指をからめながら口元に添える仕草は、表現する言葉が無いと思える程愛らしい。
ほんのりと朱に染まった頬は完璧な仕草に色を添え、これ以上無く完全無欠の美少女を体現していた。
それに加え、甘菜の台詞は如何様に陣太郎を動揺させたか。
「あ……、だからえと、甘? なんか、親父さんとあったのか?」
「ううん。だから、陣ちゃんを待ってただけだってば」
音が消える。
誤魔化そうとするかのような陣太郎と、誤魔化しようも無く甘い仕草の甘菜。
ゴクリ、と生唾を呑み込む陣太郎は、緊張の為かそれともいきなりの展開に思考がついてこないのか、吐き出すべき言葉を見出せずにいた。
そんな陣太郎に甘菜はクスリと笑って、今度はバケツを持つ陣太郎の手に己の手を重ねる。
「いこ」
「んあ?」
「……種、もってても仕方ないでしょ。その辺に捨てていきなよ」
何時、そこに移動したのか。
いきなりのスキンシップに、陣太郎は一時思考を白く焼いてしまったらしい。
耳元で囁かれた気がして陣太郎は我に返り、直ぐ側で微笑む幼馴染みの顔を驚いたように見つめたのである。
だがそんな陣太郎にバケツを持つ手に添えられていた甘菜の細い指は、ねっとりと絡みつくように指と指の間に滑り込んで、再び思考を奪ってしまう。
やがてバケツを持つ手と反対の手の中から、桃の種がポトリと音をたて地に落ちた。
ひぐらしが鳴声がやけに遠く感じられる。
陣太郎がバケツを桃の種を持っていた手に持ち替えると、甘菜はそのまま、絡めるようにしていた指に力を入れ陣太郎の手を握ってきた。
それから、困惑を深める陣太郎にニッコリと笑いかけ、もう一度、いこ、と口にした。
「あ、甘?」
「えへ、こうしてみたかったんだ、私」
「お前、何……」
「ほら、はやく。行こうよ」
甘菜はぐいぐいと陣太郎の手を引き、お堂の脇を登って行く。
ただし、その道は天之麻家の奥津城へと続く道でなく、別の区画へと延びる道である。
お堂脇の十字路は、二方は登り、もう二方は下りの道となっていた。
その登りの内、一方は天之麻家の奥津城へと続くがもう一方は霊園のある斜面を更に登る道であるらしい。
また、下りの道は一方は水くみ場がある霊園の入り口で、もう一方は最近斜面の下部を開発して出来た新しい霊園へ続く道となっていた。
「あ……甘、おい、甘!」
「なに?」
「道、間違えてるぞ」
「間違えてないよ。こっちであってる」
「だってお前――」
言葉と視界を遮る、幼馴染みの顔。
ガン、とバケツが陣太郎の手から滑り落ちる音。
細く優しげな乙女の指で握られた手に戸惑いつつも、道が違うと言いかけた口をいきなり塞がれては、五指から力が抜けてしまうのも無理からぬ話である。
唇に感じる感触は覚えがあったが、やけに情熱的に蠢く甘菜の舌は陣太郎の歯の裏を舐め、頬の内側を擦り、舌の裏まで絡みついて僅かに残っていた思考をすべて奪い尽くす。
口中で暴れるぬらりをした感触は陣太郎を獣に変え、理性を奪い、ただそれだけに意識を向けさせて、乙女の細い腰に手を回し強く激しく応じかけるのだが。
次の瞬間、燃え上がった青い情欲を履き消したのは他ならぬ甘菜であった。
「う、ぐ!」
「うあ?!」
いきなり甘菜は陣太郎をはね飛ばし、口を押さえてえづき始めたのだ。
えほ、えほ、と地に向かって咳き込むその姿は艶めかしくも、陣太郎の思考を呼び戻すには十分である。
――なんなんだ?
なんでいきなり……
甘が俺に気があって、いきなり燃え上がった……ってわけじゃ無さそうだし。
……って、俺、もしかしてすっげえ口が臭い……とか?
うっわ。それ、ショック……
いや。
いやいや、そうじゃなくて。
いくら何でも、“これ”はおかしいって!
なんで甘がいきなり俺にこう、甘えてきてるんだよ?!
恋人みたいに……おかしいって、絶対!
……そりゃ、悪い気はしないし。
ちょっと、その気にもなったし。
でも、なあ?
付き合ってくれって言われりゃ、なあ?
考えない事もないというか、悪く無いというか、あ、いや、そうじゃなくて、だ。
絶対おかしいって。
そもそも、甘はこういう“順序”を飛ばした事をしてくるような奴じゃ無いはずだ。
……もしかして“こいつ”、いつかの“山彦”みたいな神威か?
それか、甘自身が神威に当てられている?!
思考はまるで、それまでの分を取り戻すかのように高速で陣太郎の中を駆け巡った。
そしてえづく甘菜と視線が合った時、陣太郎は異変の正体を朧に感じ取るのである。
「おの、れ……」
声は乙女のそれでなく、しわがれた老婆のよう。
何時からか、甘菜の姿はまったく違うモノへとかわっていたのだった。
背格好は甘菜のままであったが、顔は醜く歪み、陣太郎を睨む目は猛獣のように爛々として憎悪に燃えている。
纏う空気は過去幾度も遭遇した、独特な物であった。
――まずい!
明らかに人のそれとは異質な殺意を肌に感じて、慌てて背にした竹刀ケースから鬼目一“蜈蚣”を取り出そうとする陣太郎。
しかしそれよりも早く、甘菜であった女はおぞましい声を上げ、髪を振り乱しながら陣太郎へと飛びかかってくる。
腕を伸ばし、食らい付かんと剥いた歯は人のそれと変わらなかったが、やけに白くおぞましい。
――だめだ! 間に合わ……
目の前に女の白い歯が迫り、思わず全身を強ばらせた刹那。
背後から何かが飛んで来て、鼻先に迫っていた女の顔に当たった。
「おおおおおおお!」
同時に弾けるように苦悶の雄叫びを上げ、女は顔を手で覆いながら地を転げるようにのたうち回る。
呆気にとられら陣太郎が女の顔に当たった何かを拾いあげてみると、それは見覚えのある桃の種であった。
女がどのような荒魂であり、桃の種が如何様な意味を持つのか見当も付かない。
しかし陣太郎は、見たまま、ありのままを理解して、拾いあげた桃の種を女に向かって投げつけた。
そして、再びの絶叫。
確かに女にとっての桃の種は何かしら“意味”のあるものらしい。
やがて女はしばしその場で苦しみ悶えた後、猿のような身軽さで坂を登り逃げ去ってしまった。
後に残された陣太郎は忙と立ち尽くし、女が逃げ去った坂道の奥をじっと見つめ続ける。
一拍置いて息は荒く、全身に脂汗が滲んで、心臓は破裂しそうな程早く動いている事に初めて気がつく。
「お気を付け下さいませ。辻(十字路)は神仏の通う常世との境目でもあります。時に黄泉比良坂へと通じる事もありましょう」
背後から凛とした、別の女の声。
陣太郎はぎょっとして慌てて振り返ると、和装の女がゆっくりと陣太郎のそばへ近寄って来る所だった。
女からは先程の女のような怪しげな気配は感じられなかったが、混乱を深める陣太郎は疑いの眼差しも露わに、急いで竹刀ケースから鬼目一“蜈蚣”を取り出す。
無理も無い。
女は和服に身を包んではいたものの、その顔はやはり甘菜とうり二つであったからだ。
いくら陣太郎とて、この状況下で警戒をしない程馬鹿ではない。
――抜くべきか?
目の前に現れた和装の女が先程の女のような存在ならば、迷わず抜くべきだろう。
不意を突かれないまでも、居合いを会得していない、素人に毛が生えた程度の陣太郎がいきなり襲いかかれたら、ひとたまりも無いのは明白だ。
僅かな逡巡の後、左手の指に鬼目一“蜈蚣”の鐔を押し上げる力を籠め掛けた時である。
「鬼目一“蜈蚣”……なんて懐かしい……」
甘菜の顔をした女は、予想外の銘を口にした。
陣太郎は驚きながらも気を張ったまま、込めようとしていた左手親指の力を抜いてカラカラに乾いた口を開く。
「……お前は誰だ?」
「私の名は百合。その刀に縁ある者」
「……どういう、事だ?」
「詳しくは“戻ってから”に致しましょう。“黄泉醜女”は直に戻って来るでしょうし」
百合と名乗った女はそう言って、くるりと身を翻す。
問いに返ってきた反応は、少し悲しげな、寂しそうな声であった。
状況がよく飲み込めない陣太郎であったが、不思議と百合の言葉は受け入れられて、坂を下って行くその背を追う。
百合は坂道を下りながらも、背後に着いてくる陣太郎へ声を掛けた。
「よいですか? この時期は特にお気を付けくださいませ。なるべく一人では居ないことです」
「……さっきのは」
「黄泉比良坂を逃げる伊弉諾を追った、“黄泉醜女”。『古事記』は――イザナギが死んだ妻・イザナミを追って根の堅州国に入る話はご存じでしょうか?」
「……ええ。一応は。たしか、振り返ってはならないと言われたイザナギが振り返ってしまい、腐乱したイザナミを見て逃げ帰る話……でしたよね」
「そう。その時にイザナミと共にイザナギを追いかけた、恐ろしい死の国の鬼女です。“黄泉醜女”は桃を苦手としておりましたので、貴方がその実を食し種があった事は幸運でした」
「でも、なんでこんな所で……」
少し気が緩んだ陣太郎の問いに、百合は答える事無くそれ以後は黙り込んでいた。
やがて二人はお堂のある十字路へとたどり着き、この時初めて百合と間近で向かい合った陣太郎である。
百合は見れば見る程甘菜とうり二つで、しかしどこか憂いを含んだ表情は甘菜とはまた違う美を湛えていたのだった。
「あの……えっと、ありがとう」
「礼ならば、道反の大神に」
「ちがえしの……えっと?」
「このお堂に祭られた岐神の事です」
「あなたは違うんですか?」
「私は……岐神の使いとして遣わせて頂いた者。鬼目一“蜈蚣”が懐かしくて、つい姿を表してしまいました」
百合はどこか懐かしそうにそう言うと、初めて笑った。
笑みは甘菜と同じもので、しかし似ても似つかぬ陰が差している。
「百合……さんはなんでこの刀のことを? それに、何故俺を助けて……」
「何故って、私も天之麻の女ですから。私と陣十郎様を結び、引き裂いたその刀をどうして見て見ぬ振りができましょう。それに――」
おおお、と不吉な声が遠くに聞こえ、百合の台詞を遮った。“黄泉醜女”が戻って来たのであろう。
思わず坂の上を振り返っていた百合は、もう一度陣太郎に向き直り今度は優しく、しかし儚げに笑った。
「さぁ、お行きなさい。以後盆が明けるまでは一人で辻を通らぬよう」
「あの! この刀は――」
「さようなら、愛おしいあの方にうり二つな方。どうか、天之麻の女を守ってやってくださいまし」
言って、百合はトンと陣太郎を押した。
同時に彼女の姿と“黄泉醜女”の叫び声が消える。
辺りにはひぐらしの鳴き声が木霊して、夕日の茜は更に濃く空を染めていた。
陣太郎はしばしそのまま百合が経っていた場所を見つめていたが、その先の坂の上からガン、ガンとバケツが転がり落ちてきて我に返る。
――俺は一体、何と出遭ったんだろう?
白昼夢のような出来事に、陣太郎はバケツを拾いあげながらそう自問していた。
今して思えば、天之麻悟郎はあの桃を“こうなると知っていて”自分に渡したのであろうか。
考えて陣太郎は身震いを一つ行う。
ともすれば、命を落としていたのかも知れない。
それを知っていて、あの人は俺に桃を渡したとしたら――
不穏な想像は、陣太郎を惑わす。
陣太郎が祟り刀を持っている限り、甘菜にも祟りは及ぶ。
父親として、天之麻の者として、陣太郎を遠ざけようと考えないとは言い切れない。
だが、“そういう”意図があれば、果たして陣太郎に予め桃など渡すであろうか。
しばし考え込む陣太郎であったが、結局天之麻悟郎は“このような事が起きるかも知れない”と予感し、桃を用意していたのだと無理矢理納得する事にしたのであった。
「とはいえ、あんま良い気はしないんだよなぁ。百合……さんの事も気になるし。あとで甘に相談でもしとくか」
独り言はなかば自分に言い聞かせるように発せられた物である。
やがて陣太郎は天之麻家の奥津城までたどり着いたのだが、バケツがカラであることに気が付いて、慌てて坂道を駆け下りる羽目に陥るのであった。
その時の呆れたような甘菜の表情は不思議と陣太郎に安堵を覚えさせて、しかしあの激しいキスもまた、思い起こさせるのである。