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異聞・妖刀百物語  作者: 痴れ者ラボ
月に叢雲花に蟲
18/76

蛭子・下




 「お待たせ致しました」


 天之麻甘菜が再び恵比寿アカネとそのマネージャーの田島の前に現れたのは、随分と時が経ってからだった。

 恵比寿アカネの身に降りかかる“祟り”を祓うにあたり、一つ条件があると言い残して立ち去っていた天之麻の巫女は、果たして日本刀を手にし頭にバスタオルを巻いた奇妙な男を一人、二人の前に連れてきていたのである。


「あの……そちらの方は?」

「彼については詮索無用に願います」

「はぁ……」

「詳しくは話せませんが、彼に私の“お祓い”を手伝って貰う、というのがこのお話を引き受ける条件です」


 互いの顔を見合わせる、恵比寿アカネとそのマネージャーの田島。

 見合わせる表情はどちらも怪訝なものである。

 甘菜が席を立ってより二人、拝殿に残って彼女が言っていた条件とは如何なる物かと話し合ってはいたのだが。

 まさか、このようなことであったとは夢にも思わなかったのだろう。

 二人が想像していたのは精々、法外な金額を要求されるのか、または珍妙な格好でもさせられるのだろうという物であった。


「あの……それが先程天之麻さんがおっしゃっていた条件、でしょうか?」

「はい。“彼”には私の助手として、恵比寿さんの“お話”を聞いて貰います。よろしいですね?」

「それは……はい、もちろんです」


 恵比寿アカネはマネージャーの顔をチラリと見ながら、そう答えた。

 マネージャーの田島はそんな恵比寿アカネにコクリと頷いて、お願いします、と確認するように甘菜に向かって手を突き、頭を垂れる。

 それを機として甘菜は恵比寿アカネに一つ頷き、“話”をするよう促した。

 そして、麗人は語り始める。

 自身が“祟り”と出会う、その時に至るまでの記憶を。


 始まりは一年と少し前。

 既に芸能界での人気を不動の物としていた恵比寿アカネには、ある秘密があった。

 年の離れた恋人の存在である。

 既にその頃、次々と映画やドラマの主演女優をこなしていた彼女にとって、いや彼女だけでなく所属する事務所にとっては、その事実は決して好ましい物では無かった。

 が、恵比寿アカネの恋の相手もまた大御所と呼ばれる程の大物俳優であり、彼の所属事務所の力が強大であった事は二人には有利に働いてもいた。

 つまりは、あらゆるゴシップを握りつぶせるだけの力と価値を、双方の芸能プロダクションが見出していたのである。


「――彼と過ごせる時間は短かったけれど、本当に幸せでした。忙しい撮影の合間を縫うように、またお互いのスケジュールを調整して“ニアミス”を起こせるようにしたり」

「マネージャーとしてはハラハラものでしたけれどね」

「ごめんね、田島さん。あの時は随分迷惑を掛けちゃって」

「いいよ、アカネちゃん。……私の方こそ、思えばあの時、おかしいと気付くべきだったんだ」

「……どういう事、でしょうか?」


 トップアイドルが本人からその恋人の存在を打ち明けられ、しかもその相手もまたよく知られた、時代を代表するような俳優であったという話に甘菜は内心驚きながらも、二人の会話に割り込んだ。

 含む所があるようなマネージャーの田島の台詞は、“祟り”に関係ある話ではないとも感じられたが、それならそれとして甘菜の質問は話を先に進めるよう促す意図も込められている。

 果たして、田島の台詞は関係があったらしく、そのまま恵比寿アカネの代わりに説明を続けたのであった。


「いくら煌びやかな芸能界であっても、普通はタレント同士の恋愛なんて認められません。事務所にしてみれば大事な“商品”ですからね。別れるよう様々な圧力を掛けるのが“普通”なんですよ」

「はぁ。私も幾度か芸能関係の方を“お祓い”しているので、そういった内情は存じております」

「……所が、恵比寿アカネの場合は違いました。うちも、相手方事務所からも、なんの圧力が無かったんです。それどころか、相手方の事務所に至っては“事実”が外部に漏れないよう手を回して頂く程でして……」


 そこで一度言葉が途切れた。

 気まずい沈黙と、蝉の鳴き声。

 甘菜は黙って背後に座る陣太郎にちらりと視線を投げた後、黙り込んでしまった二人の客人の顔を見つめた。

 世の女性が羨むような美貌と平凡な男の顔は、同じような陰を湛えて言外に話の結末を伝えて来る。

 当たり前だ。

 このような話を行う場で、あえて幸せな結末を迎えた話など誰がするものか。

 彼女は、恵比寿アカネは、不幸であるが故にここへやって来たのだ。

 それも、人の手にはどうしようも無い“祟り”を抱えて。


「……ワタシが馬鹿だったんです。彼にしてみれば“遊び”だったと気が付かずに、のめり込んでしまって。彼の噂だって耳にしていた筈なのに……気がついたら夢中になってて」

「アカネちゃん……」

「いいの、田島さん。――ごめんなさい、天之麻さん。もう少しで本題ですから……」

「はぁ」

「兎に角、ワタシは彼と恋に落ちて、そして――妊娠したんです」


 恵比寿アカネはハッキリそう言って、一拍呼吸を置いた。

 同時に、拝殿の中に山からの風が流れ込んでくる。

 風はなぜか冷たく感じられて、気が付くと蝉の鳴き声も一時、途切れていた。


「……ワタシは勿論、産むつもりでした。愛する……愛していた彼の子供ですもの。後悔しなかったし、幸せでもありました。けれど……彼は違ったんです」

「……中絶を?」

「はい。彼の事務所経由で莫大な“慰謝料”が提示され、ウチの事務所の社長さんからも堕ろすようにと……」

「成る程。……つまり、その体は堕胎してから“そうなった”んですね?」

「……はい」


 甘菜は全て話説明をさせるような酷な事はせず、抑揚の無い低い声で恵比寿アカネの恋の結末を口にした。

 恵比寿アカネは甘菜の質問を、消え入るような声で追認する。

 再び、沈黙。

 吹き込んできていた風は止まり、五月蠅い蝉の鳴き声が何時の間にか戻って来ていた。

 場には気まずい空気が重く沈んでいて、不快な暑さは誰しもに口を開くのを躊躇わせる。

 やがて最初にいたたまれない空気を振りほどいたのは甘菜であった。


「恵比寿さん、一つだけ、確認させてもらえますか?」

「はい」

「神威――“祟り”は夜中に一度元に戻る、とおっしゃっていましたよね?」

「はい。大体、夜中の一時から二時頃……です」

「その時、体が元に戻る他に“なにか”が現れたりは?」


 心当たりがあるのか、甘菜は具体的な質問を恵比寿アカネに投げかけた。

 恵比寿アカネは甘菜の質問に少し驚いた表情を浮かべた後俯いて、苦しげに一度だけ頷いてみせる。


「わかりました。それではお祓いはその時間に行いましょう」

「ああ! それでは!」

「このお話、お引き受け致します。今日の夜、深夜零時にまたここへお越し下さい」

「ありがとうございます! よかったね、アカネちゃん!」

「……よろしくお願いいたします」


 喜色満面のマネージャーとは対照的な、恵比寿アカネの静かな笑みは甘菜に何を伝えたのか。

 結局二人は万一に誰かに見られてはいけない、という理由から、時間まで天之麻家の客間で待機する事になった。

 甘菜も二人を客間に案内した後、拝殿に一人残されていた陣太郎を連れ立って社務所へと戻り、とりあえずはシャワーを浴びる事にしたのである。


 無論、その間社務所の留守番を申しつけられたのは、やっと頭に撒かれたバスタオルを外せた陣太郎であった。



「恵比寿さんを祟っているのは、多分“蛭子ヒルコ”よ」


 日付が変わる少し前、再び天之麻神社に訪れてた陣太郎に甘菜はそう説明を切り出した。

 “蛭子”とは『国産み』に登場する男神・伊邪那岐イザナギと女神・伊邪那美イザナミの間に生まれた子の名だ。

 『古事記』によれば以下のような神話が伝えられている。


 ――二神はある時、混沌を天沼矛あめのぬぼこでかき混ぜ、オノゴロ島(淤能碁呂島)を作り出した。

 又、その後は性交によって八島(やしま・日本の島々の意)を産みだそうと試みた。

 しかし“島産み”には手順が有り、二神はこれを知らず、結果として不具の子が産まれてしまう。

 この最初の子の名が“蛭子ヒルコ”であり、その後この憐れな子は葦の舟に入れられオノゴロ島から流されてしまうのであった。


「そもそも、“蛭子”は伊邪那岐と伊邪那美の子供としては数えないの。三貴神(アマテラス、スサノオ、スクヨミ)より先に産まれたにもかかわらず、ね」

「へぇ。なんか、ひでぇ話なんだな」

「神話なんてそんなものよ。説明をつづけるよ? “蛭子”はそういった背景がある神……とういか神威だから、恵比寿さんのように堕胎を行った女性を“祟る”事があるってわけ」

「ふぅん。水子霊みたいなもんか」

「ま、あながち間違いじゃない……かな? 昔は『すいじ』って呼んで、堕胎や死産だけじゃ無くて、幼くして死んだ子供もこれに含まれていたんだけどね」

「んー、いまいち、ピンとこないというか」

「ほら、七五三の『七歳までは神のうち』って言葉もあるでしょ? 水子霊ってのはそこから派生した考えの一つで、遡れば“蛭子”にたどり着くってわけ」

「……お前物知りだな」

「何言ってるのよ。昔は臼木家の人だって、このくらいの知識あったって話よ?」

「まさか。俺、頭わりーもん」

「ホントホント。逆に陣ちゃんが特別アレなんだって。この前山から下りてきた陣八さんに会ったんだけど、陣ちゃんのこと、体だけで無く頭も鍛えないとって言ってたし」

「マジで?! 勘弁してくれよ! これ以上山奥で俺の青春を浪費したくないぞ!」

「――なーんてうっそー。でも私の説明をマジメに聞かないなら、それもホントになるんですけれどね、うふっ」

「う……お、俺、マジメに聞いてたぞ?」

「嘘おっしゃい。途中からなんか、死んだ魚のような目をしていたし」

「そんな事ねぇって! 要は水子霊が憑いてるんだろ?!」

「……要約としては合ってるけど、認識としては間違ってるような……。ま、いいか。兎に角、今から“蛭子”の神威について説明するから、しっかり覚えてよね」


 甘菜はそう言って、一足早く拝殿に在って陣太郎を正座させ、得意げに説明を行ったのである。

 それが丁度二十三時五十分を回った頃でのこと。

 その後二人は“お祓い”の準備をすべく、しめ縄で結界を作ったり神酒や神水を用意したりした。

 粗方準備が整った後、甘菜は禊ぎを行うべく一人天之麻神社に古くからある井戸へと向かい、その間陣太郎は再び頭にバスタオルを巻いて作ったばかりの結界の内に座していたのである。


 脇には漆黒の鞘に納まった、鬼目一“蜈蚣”。

 誰かが持ち逃げるとは思えなかったが視界がタオルで塞がれている為、一応手をその鞘に添える。

 添えた右手の指先からは、落ち着かぬ心地を伝わってきていた。

 陣太郎はそんな“祟り刀”の感触を忘れようと、幾度か甘菜の説明を思い起こす。

 そして、記憶の反芻を三度行った所で、不意に人の気配が側に近寄って来るのを感じたのだった。

 気配は衣擦れの音を伴い不思議と手に取るようにわかって、陣太郎の瞼の裏には朧な輪郭が浮かび上がる。

 一つは己の隣に、一つは己の正面に、もう一つは結界の外に在って、それぞれが腰を下ろす仕草までうすぼんやりと感じ取れる程だ。

 長く続ける“修行”の効果であるのか、それとも神域にあって“祟り”を身に纏う故、感覚が鋭敏になっているのか。


「それでは、これより“祟り祓い”を行います。恵比寿さん、田島さん、先程説明した内容は大丈夫ですね?」


 隣から聞こえたのは、すっかり聞き慣れた幼馴染みの声。

 いつもより凛とした声色なのは、神域にあるからか、それとも禊ぎを行ったからか。

 一際シュルシュルと大きな衣擦れの音がしているのは、彼女が身に纏う巫女装束の下には何も身に付けて居ない為、布が肌の上を良く滑るからであろう。

 音からその事実に思いを馳せた陣太郎は一瞬、邪な想像を膨らませかけたが自分の役割を思い出し、身震いを一つ行って思考を覚悟で埋めた。

 彼の役目とは、恵比寿アカネに祟る神威を己を祟る鬼目一“蜈蚣”に喰わせる事である。

 通常ならば、祈祷によって依頼者を祟る神威を体内ないし器物から外界へ顕現させ、天之麻神社に伝わる神刀“天目一命”をもってして斬る事で霧散させる、といった手順が取られる。

 しかし今回は、いつもの手順では無理であると甘菜は見て取っていた。

 その理由に、“蛭子”の神威の形にある。


 “蛭子神”は不具の子として生まれ、神であるにもかかわらず神となれなかった存在だ。

 故にかその神威は本質に似て、障ろうとする者すべてに悪い影響をもたらす。

 即ち見る者には眼に神威が、触れる者には肌に神威が、匂う者、聞く者、そして何かしらの意思を向ける者には相応の神威が顕現するのである。

 甘菜が恵比寿アカネの腕に纏う“蛭子”の神威を見た時、マネージャーの田島の言動によって彼女は『怒り』を抱えていた。

 その為、彼女は妙に苛立ち怒りやすくなってしまい、陣太郎に当たってしまったのだ。

 つまり“蛭子”の神威とは、二神がこれを海の彼方へ流したように、見てはならず、触れてはならず、意識することすら憚られるものと言えた。

 では、そのような神威を前に甘菜は何故陣太郎に鬼目一“蜈蚣”を抜かせるのか。


「う……」


 甘い女性のうめき声。

 時刻は深夜一時を回った頃か。

 山林に囲まれた神域にもかかわらず、夏の夜の空気は不快な熱を帯びて辺りに満ちている。 陣太郎はそろそろ出番であると感じ取り、一層体を強ばらせた。

 そこへ隣からトン、と肩に誰かが手を置く感触。

 甘菜の合図である。

 いよいよ覚悟を決めた陣太郎は、頭にバスタオルを巻いたまま脇に置いた刀を取ってゆっくりと立ち上がり、徐に鬼目一“蜈蚣”の柄に手を掛けた。


 キン、と清廉な音が結界の中に響く。

 抜き放たれた刃は青白く、見る者に一瞬不快な熱を忘れさせる。

 その刀身は刃長二尺六寸(約七十九センチメートル)、重ねは厚めで反りは古刀であるらしく浅い。

 そして、神威が顕現するその左目には赤いムカデがとぐろを巻き、瞳孔の替わりを務めるのであった。

 陣太郎は頭に巻いていたバスタオルを剥ぎ取り、右目を瞑って左目だけで辺りを見渡す。

 そんな彼に向けられる視線は三つ、それぞれが違う色を纏う。


 隣に座している幼馴染みからは、慚愧の色。

 結界の外から向けられる男からは、驚愕と困惑が入り交じった色。

 そして目の前、恐らくは甘菜が用意した物であろう、まるで死に装束のような白い無地の浴衣を着ている麗人からは、恐れと迷いの色が見て取れた。

 その、正座している恵比寿アカネの前には同じく白いさなぎのような“モノ”が横たわっている。


「それが“蛭子”よ。正確には神威の形。そして――」


 甘菜は途中で台詞を止める。

 早速“蛭子”に向けた言葉が、あるいはその心が神威の影響を受けたのかも知れない。

 だがそれ以上言わなくても、陣太郎には甘菜が意図したことが伝わっていた。


 ギ。

 一歩前に出した陣太郎の歩みに、拝殿の床が軋む音。

 もう一歩。

 再び床が鳴る。

 しかしそれ以上は何も起こらない。

 陣太郎は何を思うのか、右目を瞑った表情は固くゆっくりと前へ歩を進めた。

 狭い結界の中陣太郎と“蛭子”の距離は遠くなく、もう一歩足を進めれば顕現した神威に剣を突き立てるには十分であろう。


 ギ。

 床鳴りは“蛭子”の拒否の言葉にも思えた。

 見下ろす“蛭子”は人の太もも程の大きさで、染み一つ無い白い色が印象的な姿であった。

 形は蝶のさなぎのように楕円で、どちらが頭なのかはわからず、人の皮膚のような肉感の表面だけがゆっくりと蠢いている。

 見ようによっては巨大なヒルのようであるが、仮にも神の眷属で在る為か、不思議とおぞましさは感じられなかった。

 陣太郎は表情を硬くしたまま、足下の“蛭子”を喰らうべく、鬼目一“蜈蚣”を逆手に持ち振り上げる。

 そこにあるのは如何なる境地であるのか、やはり“蛭子”の神威にはあてられてはいないようだ。

 それもそのはず、“蛭子”の神威を見、内に凄まじい怨念を渦巻まかせ憎悪を撒き散らしている者は、陣太郎で無く鬼目一“蜈蚣”であった。

 勿論そこに陣太郎の意思も介在していたが、彼はそもそもは鬼目一“蜈蚣”の贄となり祟られている。

 少なくとも、祟り刀を抜いてその神威が顕現している間は、陣太郎であって陣太郎で無いと言えた。

 如何に“蛭子”とはいえ、因果の中から産まれた神威の形の一つに過ぎない。

 この場に存在するのは、あくまでも恵比寿アカネが抱える祟りである。

 神世に存在した“蛭子神”そのものでなく、“蛭子神”の力を象った神威なのだ。

 一方、鬼目一“蜈蚣”は神の眷属が直接怨念を込めた祟りの塊である。

 故に人の業が作り出したその力は鬼のそれには遠く及ばず、その神威に身を蝕まれている陣太郎に影響を与えることは叶わなかった。


「……ごめんな」


 しかし。

 “蛭子”の意思は明確に陣太郎へと伝わっていたらしい。

 それが怒りであるのか、憎悪であるのか、哀しみであるのかは誰にもわからない。

 只一人、陣太郎を除いては。

 陣太郎は僅かに感じ取った“蛭子”の意思を汲み、初めて声を出した後、振り上げた鬼目一“蜈蚣”を降ろした。


「な?!」

「アカネちゃん!」


 二つの神威が現れる異様な雰囲気を破るかのような、二つの声が上がった。

 甘菜とマネージャーの田島が思わず上げた声は、信じられないといった驚きである。

 陣太郎が刀を振り下ろす刹那、なんと恵比寿アカネは“蛭子”を庇うように覆い被さっていたのだ。

 幸い、祟り刀の切っ先は白いうなじの表皮の上、すんでの所で停止している。

 刃を止めることが出来たのは、それまでの修行の成果であろう。


「お願い! 殺さないで!」


 遅れて、女の絶叫が拝殿の中に木霊した。

 感情的な声は、それまでの彼女からは想像も付かない程ヒステリックである。


「アカネちゃん?! 何を言ってるんだ?! それを祓う為にここへ来たんだろう?」

「そうですよ、恵比寿さん。“蛭子”の神威は不具の神性がある故に、祟る者の肉体を奪っていきます。今は肌だけですが、いずれは全身すべてを奪われますよ」

「嫌! 絶対に嫌! ――ワタシ、気が付いたの。これは、この子は、あの人との……奪われたワタシの子なんです!」


 言って、恵比寿アカネは覆い被さった“蛭子”をそのまま抱きかかえ、亀のように蹲ってしまった。

 そんな彼女に説得の言葉を続ける者はいない。

 そう、恵比寿アカネは確かに言った。

 “産むつもり”であったと。

 しかし現実は、彼女の意志を踏みにじり、宿った命を否定したのである。

 恵比寿アカネも結果として、命を否定した者の一人であった。

 義理ある者、恩のある者、心を許した者、愛する者、その全てから説得され、彼女自身表面上は納得しての堕胎である。

 だがそれは恵比寿アカネにとって、己の真実を誤魔化す為の言い訳にしか過ぎなかったのだ。


 ――何故、ワタシはあの子を堕ろしたのだろう?

 社長に頭を下げられたから?

 田島さんに迷惑を掛けたくなかったから?

 ファンを失望させたくなかった?

 あの人の愛が得られなかったから?

 ……ちがう。

 ワタシは……ワタシは……

 想いはやがて、“蛭子”の神威を呼び寄せる。


 全てを捨て、頑なに産むと決める道もあったと気付いたのは、それから随分経ってからであった。

 肉体を蝕む祟りはその後悔の強さの分だけ、日に日に彼女の体を侵してゆく。

 そして深夜彼女の前に現れる“それ”は、祟りに蝕まれる肉体を再確認させるかのようであった。

 恵比寿アカネはそれを天罰として受け止め、己を責め続けた。

 天之麻神社の事を知り、そこへ赴く新幹線の中でも、この罰から逃れてはならないのではなかろうか、という疑問が常につきまとっていたのである。


 しかし、白刃が“それ”に振り下ろされようとした刹那に至り、彼女はやっと己の真実を知り愕然とする。

 キッカケは甘菜から聞かされた“蛭子”の神話と、自分の堕胎を重ね合わせたからであるのか。

 不意にいつものように現れた“ソレ”が、罰ではなく救いと感じ取れたのだ。

 つまり恵比寿アカネにとっての救いとは、その手から離してしまった命を取り戻す事である。


「お願い! この子を殺さないで! この子がワタシの体を奪って“元”に戻るなら、それで構わないわ!」

「な、なにを言い出すんだ! そんな事」

「恵比寿さん……。“蛭子”は不具の神。その姿こそ、真の姿。だから“蛭子”の神威がどんなに他の人の肉体を奪っても、“元”に戻る事は無いんですよ」

「それでもいい! お願い、ワタシからもう奪わないで! この子が“蛭子”だってワタシの子よ!? ワタシが愛さないで、だれが愛するのよ!」

「勝手なことばかりいわないで!」


 怒声は甘菜の物である。

 豹変に近いその大声は、戸惑う陣太郎や田島、そして取り乱した恵比寿アカネの言葉と視線を奪った。


「元はと言えばアンタの責任でしょうが! 男と寝て、子供作って、堕ろして、後悔してたかどうかはしらないけど、それも含めてアンタの選択でしょうが!」

「……そうよ。それくらい、わかってるわよ! だからもう間違えたくないの。この子はワタシの」

「わかってない! アンタねぇ、その祟りを祓う事がどれだけ危ない事か知らないでしょ?! アンタの為にそこのマネージャーさんがどんだけ必死なのかわかってないでしょ!?」

「そんなの、わかってるつもりよ! 田島さんだって、いつも側で見てるし」

「それがわかってないって言ってんのよ! そこの男の子はね、見ず知らずのアンタの為にその刀を抜いたのよ?! それがどんな意味なのか、想像出来る?!」

「そ、そんな事までわかる訳ないじゃない!」

「その男の子はねぇ、その、刀はねえ、一度抜いたら他者を喰らわない限り自分が……抜いた本人が喰われるのよ? わかる? 貴女、今、彼に死ねと言ってるの」


 そう言って、甘菜は声を萎ませた。

 傍から二人の言い合いを聞いていれば、甘菜も支離滅裂で相当無茶な事を言っていると受け取れる内容である。

 しかし最後の台詞は彼女の怒りを理解するには十分で、それ故に皆言葉を無くしてしまうのであった。

 事態は陣太郎が鬼目一“蜈蚣”を抜いた時より、そして恵比寿アカネが“蛭子”を庇った時より二者択一であったのだ。

 顕現した“蛭子”の神威を滅するのか。

 それとも、恵比寿アカネの嘆願を受け入れ、行き場の無くなった“蜈蚣”の神威を陣太郎がその身に受け止めるのか。


「……イヤ」


 細く、消え入りそうな女の声。

 陣太郎の足下で蹲ったままの恵比寿アカネである。


「それでも……ワタシにはこの子を差し出せない……」

「あ、アンタ――よくもそんな!」


 恵比寿アカネの拒否に甘菜は怒りで頭を白く焼いた。

 頬を伝う涙は激怒の為。

 反面、旨の奥底では依頼を受けた後悔と陣太郎を死なせてしまう恐怖が小さくしかし重く渦巻き始めていた。

 口からはいまにも罵倒がこぼれ落ちそうで、その中から必死に打開策がないかと探す甘菜である。


「……仕方ねぇ」


 緊迫した空気の中、初めて口を開く陣太郎の声は柔らかかった。

 陣太郎は声に反応し上げた恵比寿アカネの美しい泣き顔を見下ろしながら、ため息を一つつく。


「陣、ちゃん?」

「俺、いいよ。大体、こんな泣きじゃくってる人から“蛭子”ってのを引きはがして刀突き立てるなんてできねぇし」

「ちょ、何言ってるの?!」

「悪ぃ、甘。ウチのもんはま、わかってくれるよ」

「そんな話してたんじゃない! あんた――」


 キン。

 抜いた時と同じように、清廉な音が結界の中に響く。

 甘菜の説得も聞かずに、陣太郎が鬼目一“蜈蚣”を鞘に納めた音だ。

 本来、刀というものは抜く時は当然、鞘に納める際にも音が鳴らぬように扱うべき品である。

 陣太郎も祖父に常々そう教えられていたのだが、彼に祟る刀はどうしても音が出てしまうものであるらしい。

 鬼目一“蜈蚣”を神器として見る場合、音を鳴らし悪霊を遠ざける意味も持たせられるが、この場合何を意味するのか、正確に理解していたのは甘菜だけであろう。


「嫌!」


 思わず上げた悲鳴は、甘菜本人ですら驚く程大きな物であった。

 幼馴染みが、蹲っている恵比寿アカネが、マネージャーの田島が見守る中、陣太郎の全身に赤いムカデがどこからともなく大量に湧き出してくる。

 ぞぞぞと音を立てて蠢くムカデ達はたちまち陣太郎の全身に広がり、彼がこれからどうなるのか、鬼目一“蜈蚣”の神威を見たことの無い二人にも容易に想像がついた。


「陣ちゃん!」

「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」


 悲痛な叫び声と謝罪の言葉が結界の中を満たした。

 蜈蚣の群れはすでに陣太郎を覆い、その肉を喰らい始めている。

 まず、トサと音を立て座り込むように崩れ落ちたのは甘菜からであった。

 その大きな瞳には絶望と後悔が色濃く映し出し、すでに蠢く蜈蚣の塊となった陣太郎を写しだす。

 一方、恵比寿アカネは己の選択の結果を直視できず、ただ蹲って強く“蛭子”を抱きひたすらにごめんなさい、と繰り返していた。

 直ぐ側に蜈蚣の大群がいるにもかかわらずその場を離れないのは、せめてもの償いのつもりであろうか。


 ――不意に。

 結界の内、床が光り始めた。

 それが恵比寿アカネが抱える“蛭子”が発する物であると知った時、今度は陣太郎を覆う蜈蚣が消え去ったのである。


「な、何?!」

「陣ちゃん!」


 わけもわからぬまま、甘菜が陣太郎に駆け寄るのと同時に陣太郎は床へ崩れ落ちる。

 全身を酷く蜈蚣に噛まれていたが、どうやら命に別状は無い様子である。

 否、一度にあれ程のムカデに噛まれれば、常人ならば毒によりショック死しかねない状況ではあろう。

 が、祟り刀のムカデは通常のそれとは違うのか、どうやら陣太郎はただ肉を噛まれていただけのようで、なんとか意識を保ち駆け寄る甘菜を迎えていたのである。


「い、痛、甘……? あれ、俺……」

「馬鹿! この、大馬鹿!」


 甘菜は一瞬で傷だらけとなってしまった陣太郎を抱き起こしながらも、怒りも露わに罵り続けた。

 陣太郎はどう宥めようかと考えながらも、ポタポタと頬に落ちてくる涙に言葉を見つけ出せず、ただ苦く笑うのみ。

 そんな二人を恵比寿アカネとマネージャーの田島は呆然と見つめて、しばしの時が流れた。


 結局その夜、“蛭子”は何時からか消え去り、甘菜も救急車を呼んで陣太郎と共に病院へ行った為、“お祓い”は有耶無耶な内に終わったのだった。



 二日後、陣太郎は意外に早く家に戻ってきていた。


 体中を噛んだムカデはやはり毒を持っていなかったようである。

 生物でなく神威の顕現として相手の肉を喰らう為、そもそもは本当にムカデであるのか疑わしい。


「“蛭子”って呼び方を変えるとエビス様でもあるしね。あの瞬間、和魂になって陣ちゃんを襲う神威を祓ってくれたのかも」

「ああ、恵比寿アカネなだけにエビス様かぁ。って語呂合わせかよ?!」

「さあ? そこは偶然じゃ無い?」


 甘菜はそういいながら、陣太郎に冷たい缶コーヒーを差しだした。

 場所はよくクーラーが効いた天之麻神社の社務所内、時刻は朝の十時を回った位か。


「偶然じゃなきゃ困る。まさか、語呂合わせでヒルコってのに祟られて、そいつをどうにかしようとした挙げ句死にかけたんじゃ浮かばれねぇよ」

「死にかけたのは自業自得でしょ。私の言うことを聞かないからよ」

「う……、ごめん」

「うっさいバカ。ホント、焦ったんだから。――それより、陣ちゃんがあそこにいたのが“恵比寿アカネ”だって気が付いてなかった事の方がビックリだわ」

「……だってさあ。俺、ずっと目隠ししてたし」

「最後、顔みてたじゃない。私てっきり、彼女にいいとこ見せようとカッコつけたのかと」

「んなワケあるか! 流石にほいほいと命まではかけねーよ」

「……でも、猿候の時は抜いてくれたよね。笹山さんの時も庇ってくれたしぃ?」


 甘菜の、意地悪く笑いながらの指摘に陣太郎はバツが悪そうに唇を尖らせた。

 それから、誤魔化すようにわたされた缶コーヒーを振って、プルタブを引き起こす。

 カシュ、という音は涼しげで、しかしそのような風情を楽しむでも無く一気に煽る陣太郎であった。

 その姿を社務所の事務机を挟んだ向かいに甘菜は座り、ニヤニヤしながら頬杖をついて見つめる。

 特に恋仲であると言う訳ではないが、“あの”恵比寿アカネと比べ、自分の方が命を賭けるに値すると言われた気がして、満更でも無い優越感を覚えているらしい。


 一方で、その優しい心故に己の命を投げ出したあの夜の事は、なぜか強く責める気になれない甘菜でもあった。

 ムカデに覆い尽くされた陣太郎を見て膝を折ったあの時、絶望と後悔の中に見た己の感情をもう一度、思い起こしたくなかったからである。

 そう。

 そこにあったモノは確かに――


「しっかし、なんだな。サインでも貰っとけばよかったな」

「私パス」

「なんでだよ? 甘によく買わされてた雑誌の表紙に良く載ってるじゃん」

「あんな女、もうファンは辞めたのよ」

「へぇ?」

「ほんと、土壇場になってワガママ言い出すのは最悪ね。たまにいるのよ、ああいう“客”が」

「そうなんだ? 甘も大変なんだな」

「ま、ね」

「なぁ、ところでさ、恵比寿アカネに祟ってた“蛭子”ってその後どうなってたんだ?」

「んー、よくわからない。神威はあの後消えてたけれど、何であの時急に和魂になったのかは、ねえ」

「ホントに水子霊で、母親の愛情を受けたからだったりして」

「ちょ、やめてよ! そんなオカルトと“蛭子神”を一緒にしないでよ」


 甘菜はそう言って、先程までの上機嫌はどこへやらむくれてしまった。

 彼女的にはオカルトと日頃扱う荒魂はまったくの別物であり、同一視はして欲しくないようである。

 似たようなもんじゃねえか、と内心では思う陣太郎であったが、あえて虎の尾を踏む理由も無い。

 陣太郎は無言のまま、空になったコーヒーの缶を持って席を立った。


「あら、もう行くの?」

「ん。明後日は登校日だし。流石に勉強しねぇと……くそ、なんで夏休みにまでテストあるんだろうな?」

「知らないわよ」


 吐き捨てるような返事をした後、プィっと明後日の方を向く甘菜。

 やはり機嫌はあまり良くないらしい。

 先程までの態度を思い返すに、彼女は陣太郎が思うよりもずっと気分屋なのかも知れない。

 触らぬ神に祟りなし。

 陣太郎はこれ以上彼女を刺激せぬよう、そそくさと社務所の出口へと歩きはじめた。

 しかし、そんな彼を甘菜は不機嫌なまま呼び止める。


「明後日のテスト、全クラス共通だよね?」

「ああ。時間割まで一緒。甘のクラスなら余裕だろうけど、俺のクラスじゃ死屍累々な結果になるだろうな」

「そ。じゃ、お昼にまた来て? ノートと教科書もって」

「……なぬ?」

「昨日のお礼というかお詫びに、勉強を教えて進ぜよう」

「うっそ!? マジ?!」

「マジマジ。感謝しろよ? 臼木氏うじ


 予想以上に食いついてきた陣太郎の反応に、再度気を良くしたのか。

 甘菜はえへん、と鷹揚に胸を張ってむふんと鼻息を抜いた。

 ――それが陣太郎にとって拙かったらしい。

 ふと気が付いた視線は、自分の顔にでは無く、反らした胸に向けられて。

 視線は当然、揺らぎやすい乙女の感情に怒りの火を灯し、見る間に燃え広がって行く。


「……ね、陣ちゃん。ちょっと、来て?」

「んあ? な、何?」


 呼ばれるまま甘菜に近付く陣太郎。

 声からは微塵も怒りは見えず、いや、むしろ潤む瞳と小さな声は可憐な乙女その物で有り――


「あちょ」

「ぐあ!?」


 不意打ち同然に右目を叩かれ、陣太郎は先日と同じく悶絶してしまう。

 触らぬ神に祟り成し。

 見てはならぬモノを見てしまうのは、果たして人の性である。

 が、流石の“蛭子エビス”様であっても、己に降りかかる天之麻の祟りは祓えなかったらしい。

 ――くっそう。

 年頃の男なら“そこ”に眼が行ってしまうのも仕方ねぇじゃねえか。

 今に見てろ、その内祟ってやる。

 右目の痛みに耐えながら心の内で一人ごちた陣太郎であるが、翌々日のテストの後。


 予想外の結果に、意気揚々と甘菜の好きなシュークリームを買って帰る陣太郎の姿があった。





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