表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
異聞・妖刀百物語  作者: 痴れ者ラボ
月に叢雲花に蟲
15/76

猿候・下




 春にしてはやけに生暖かい夜風であった。


 おとねが二人を学校に迎えにやって来てより一夜明け、昇った日も沈んで久しい頃。

 千早神社の生き神であるおとねと幼馴染みの甘菜、そして陣太郎の三人はその夜、某県K市を流れる通明川の河川敷を歩いていた。

 その日の昼間はおとねのスポーツカーで少し足を伸ばし、K市に近い某県の中核都市に甘菜の服を買いに行き、再び宿へ戻り夕餉と仮眠を摂ってからの散策だ。

 勿論、食後の運動を兼ねての散策などではない。

 人に仇成す神威たる、“猿候”を探し出す為である。


 時刻は日付も変わった深夜一時四十分。

 下弦の月が天高く昇っていたが、春の雲がその光を遮っている夜である。

 少女が“祟られた”場所へは一旦おとねの車で犯行現場の近くに移動し、そこから先はただ当てもなくウロウロと歩く陣太郎達であった。

 通明川は比較的大きな河川で、その河川敷もよく整備され街灯もまばらではあったが設置されている。

 この街灯が設置されているのは土手の上に設えられたランニング用のコース沿いで、陣太郎達が歩いているのもこの道だ。

 如何なる経緯を経て行われた公共事業か、整備が行き届いた河川敷の周囲には建物は無く、闇の中に田んぼが広がるばかりである。


 ランニングコースは遠く市内からここまで綺麗に整備されており、ランナーには人気が出そうであるが、興味の無い者からすれば税金の無駄遣いにも思えよう。

 実際の所、治水の一貫として河川工事を行いそのついでに総合的な計画の元、申し込み期日の定められた補助金などを国や県から自治体が受け取って工事を行う為、一概には無駄遣いとも言えなかったりもする。

 が、昼間から荷物持ちに駆り出され、今尚足を棒にして歩いて居る陣太郎には知る由も無く、どこまでこのコースは続くんだ? などと不機嫌に毒づく陣太郎であった。


「話によればこの辺りなんだがなぁ」


 松葉杖をつくおとねが、数十メートル置きに設置された街灯の下で立ち止まり、言った。

 周囲には建物らしい建物は無く、街灯以外には遠く市街地の明かりと星空だけが瞬いている。


「うー、つかれた。……うわ、進行方向も元来た方も、道の端が見えないや」

「だらしないわねぇ、いつも山道歩いてるくせに」

「うっせ。昼間あんだけ荷物を持たされてりゃ、疲れもするって。むしろ労って欲しいくらいだ」

「陣ちゃんがんばー、ふぁいとー、おー、戻ったら温泉だぞー」

「……すっげえ棒読みだな甘」

「恥ずかしいのよ。私、シャイだし」

「嘘だ」

「嘘よ」


 甘菜は間髪入れずそう返し、口の端を上げた。

 街灯に照らし出される姿は、陣太郎でさえ普段あまり見る事の無い彼女の“おでかけ用”の洋装だ。

 細めのデニムジーンズにブーツを履き、春らしいピンクのチュニクは彼女の美貌を一層華やかに彩る。

 もちろんすべて今日の昼、おとねの出資により買ったばかりの服と靴であり、父親が触った物など着てたまるかという意思は下着にさえ及んでいた。

 新鮮な幼馴染みの出で立ちは、その意地悪なしたり顔でさえ愛らしく思えて来て、つい視線を逸らし誤魔化すように反撃を試みる陣太郎であった。


「……そんな他人を傷つけるような嘘をつくなんて、俺、我が校のアイドルに幻滅したよ」

「女の子に幻想を抱いてると、何時まで経ってもカノジョできないよ? しかも只でさえ背が低いのにそんな、肉ばっかつけちゃって」

「言うなよ、気にしてるんだから」

「あ、ごめん。ホントは私、ムキムキの陣ちゃんかっくいーって思ってるし」

「嘘だ」

「もちろん嘘だよ」

「……そこはお前、否定する所だろうが」

「ごめんってのはホント。泣くな少年、きっとどこかでキミの愛をまっている人がいるぞ」

「泣いてねえ! ――いや、泣きてぇかも。毎日じぃちゃんにコッテリ絞られてればこうもなるよ」

「ホント、逞しくなったよねぇ。腕の所の筋肉の筋とかすっごく浮き出てて、虫みたいでキモ……セクシーって二組の加藤さんが言ってた」

「今お前、キモいって言いそうになったろ? 虫みたいでセクシーってどう考えてもおかしいだろ」

「ううん、そんなことないよ。きにしないで」

「ちっちぇ! 声がすっげぇちっちぇ! ――とほほ……こんだけ筋肉ついちゃったら、もう背は伸びねえだろうなぁ」

「あら。まだ諦めてなかったんだ?」

「当たり前だ。毎日ヨンテンゴ牛乳飲んでるし。みてろ、いつかお前を抜いてやる」

「やだ! 汚らわしい!」

「なにがだよ?」

「お前“で”抜いてやるって……嫌! 不潔!」

「いや、いやいやいや。まてまて。俺はな、お前の背“を”、抜いてやるって言ったの!」

「嘘。間違いなく、お前“で”抜いてやるって言ったよ、陣ちゃんのすけべ。変態。ロリコン。エロ太郎」

「甘、言葉の暴力っていけないんだぞ。幼稚園の時、ヨウコ先生に注意されただろ」

「私、色々ちっちゃい男嫌いだし。陣ちゃんにはちっちゃいのは背だけにして欲しいの。って、ヨウコ先生、懐かし-! よく覚えてんね」


 ドキリ、とさせられる甘菜の台詞である。

 聞きようによっては自分に気があるのかと勘違いしてしまいそうな言葉は、甘く陣太郎の心を締め付けた。

 意識の底で“勘違いすると恥をかくぞ”という自制と、“勘違いしてしまいたい”という欲求がせめぎ合う。

 その小さな苦しみはどこか甘美で、相手が学校一のアイドルとも言える存在ということもあり、陣太郎にとっては不思議な優越感と相まって決して不快では無かった。

 また、からかうように毒づいてくる甘菜の言葉は辛辣であったが、その態度はじゃれ合うかのようでいて近しい友人と話すようなそれである。


 これが陣太郎以外の者であれば十中八九、勘違いを起こしてしまうだろう。

 甘菜としてもその辺は心得ているようで、学校などでは男子相手にこのような態度を取る事はまず無い。

 故に陣太郎には、そんな甘菜の態度が心を許せる相手だからこそのものであるか、それとも“その気”が混じっている為であるのか、判別が付かないのだった。

 ――十中八九は幼馴染みとして、また天之麻の家を知る理解者として心を許しているのであろう。

 ことある事にそう考えているのは、陣太郎が臆病である為か。

 勿論真実は甘菜にしかわからず、あるいは甘菜本人すらわかっていないのかもしれない。


「こりゃ、年寄りに働かせて若ぇモンが何サボってんだよ。臼木氏、甘っち、お前らもこっち来て探せよ」


 そんな二人の会話に、おとねは痺れを切らしたかのように割り入った。

 陣太郎と甘菜ははっとして、ついいつもの調子で無駄話に興じてしまった己を恥じ、互いにそっぽを向く。

 甘菜とは反対方向である川の方を向いた陣太郎は、薄ぼんやりと見える土手の下に目をこらした。

 が、やはり特に異変は感じられない。

 そのまま視線を回すも、闇同然の空間が視界の奥に広がるばかりで、その向こうにはうっすら民家の明かりが星のように見えるだけだ。


「探せっていっても、さあ」


 不満げに言って陣太郎は手にしていた鬼目一“蜈蚣”ごと、両の手を頭の後に回した。

 人気も無い深夜である。

 何時“猿候”と遭遇するかもわからない故、祟り刀はいつもの竹刀ケースに納めされてはおらず、布が簡素に撒かれているだけであった。

 川から吹く風は生暖かく、陣太郎の頬を撫でる。

 おとねに急かされ、陣太郎は辺りの気配と闇の向こうに意識を向けてみるも、特に違和感を覚える事は無かった。

 それはどうやら甘菜も同じであるらしい。


「……おとねさん、疑うわけじゃ無いけどホントにここ? 妙な気配というか、神威の残滓みたいな物は感じられないけれど……」

「ああ、たしかにここだよ。ほら、この街灯に数字が書いてるだろ?」

「これ? スタート地点から一万二千メートルって……このコース、どんだけ長いんだよ……」

「そ。一応一万二千メートル地点で事件が起きたって下調べはついてるんだぜ? 間違いなくここさ」

「でも、おかしくないですか? デートとは言え、こんな何も無い上に遠い所まで来るかしら?」

「そりゃあ、甘っち、子供ガキの恋愛だ。金があったって、行ける場所なんて限られちまう。意外と目立つからな。人目のつく場所でイチャつくわけにもいかねぇだろ?」

「そりゃ、まあ、そうですけど」

「特に付き合い初めってのは、おしゃべりするだけで時間が経つもんさ。大方、話しに夢中になってる内にここまできちまったんだろうよ。それか……」


 おとねはそこで一旦言葉を切り、ぐるりと周囲を見渡した。

 陣太郎も釣られて辺りを伺うも、特に変化は無い。

 ただ一つ、何時の間にそこにあったのか、それとも見落としていたのか、大きなワンボックスカーが河川敷の駐車場に停まっているだけである。


「それか?」

「夜、こんだけ人気がなけりゃあな。一発、カマすつもりだったのかもな」


 おとねはそう言って、悪戯っぽくニヤリと笑った。

 何故か甘菜ではなく陣太郎に、だ。 

 陣太郎はどう反応していい物やら少し戸惑い、ぷぃっと視線を逸らしてしまった。


 ――ふと。

 毎日、山彦に怯えながらも人気のない山道を往復していた為か。

 陣太郎は急に人の気配が増えたのを察して、今一度元来た道を振り返った。

 日中は意識できないが、こういった人の気配が少なくなる状況であると自分の感覚の鋭さが自覚出来る陣太郎である。

 だが、この時の陣太郎には日頃鍛えた修行の成果を感じて喜ぶ意識は働いては無かった。

 察した人の気配が、不穏な空気を纏っている事まで感じ取っていたからである。

 どちらかと言えば、これまでに遭遇した神威よりも学校で呼び出しを受けた時に近い剣呑とした感触だ。

 果たして陣太郎の視界の先に、何時そこに現れたのか、街灯に照らし出される人影が唐突に三つ並んでいた。


 月は変わらず雲に隠れている為、灯りは街灯だけであり、彼らの顔には濃い影が落ちている。

 照らし出される姿はいずれも男性のようで、皆、陣太郎と同年代か少しだけ年上のように見て取れた。

 彼らは道一杯に並んでゆっくりと近寄ってきて、陣太郎のイヤな予感を更に増大させた。

 そして一歩、陣太郎が下がったからか、それとも背後の甘菜の方が一歩下がったからか。

 とん、と陣太郎の肩に甘菜の背が当たり、振り返って初めて前方からも二人、同じような男達が歩み寄って来ている姿が確認できたのである。


 深夜、人気の無い郊外の河川敷。

 前後から合わせて五人の若い男達と偶然すれ違うなど、あろう筈はない。

 その出で立ちもこんな時間にみんなで仲良くランニングに興じるような格好では無く、今時の若者然とした――すこし、趣味の悪い服装であった。

 たとえば、キャップを斜めにかぶり、ダボついた服を着て、大量の装身具を身に付け、ピアスを鼻や耳や唇にあけたり……といった体である。

 それが確固たる信念の下で行われたファッションであるのかも知れないが、少なくとも陣太郎には彼らが不良かチンピラにしか見えなかった。


「おい」


 元来た道の方から来る、三人組の内の一人が声を掛けてきた。

 のっけから出た言葉は、初対面の人間にかけるものではない。


「随分、モテるようだな、お前。ちょっと俺らにそのねーちゃん達を貸してくんね?」


 下卑た笑いが前後から小さく漏れる。

 彼らは陣太郎の見立て通りの人物であるらしい。

 元々そういった者達には常日頃関わり合いになりたくないと考えている為か、陣太郎は体温が急に上がるのを感じて生唾を呑み込んだ。

 ――なんで、こんな所でこういうのに出くわすんだよ。

 くそ、甘やおとねさんを残して走って逃げるわけにはいかねえし、人間相手に“コレ”を抜く訳にもいかねぇよなぁ。どうする? どうすれば、いいんだ畜生。


「コラ、何無視してんだよ、てめぇ。何か言えよ」


 凄まれ、陣太郎は反射的に怯んでしまった。

 いくら日々修練を積み、いくつかの神威を目の当たりにしてきたとはいえ、つい最近までは痛みを伴う喧嘩など殆どした事の無い、ごく普通の男子高校生だったのである。

 不良に凄まれ受け流せない事を、情けないと断ずるのは酷であるのかもしれない。

 ただ一つ、この時の陣太郎に褒められる点があるとすれば。

 足の悪いおとねと甘菜を如何にしてこの場から逃がすべきか、如何にして自分一人で彼らを止められるか、情けなく恐怖を抱きながらそれだけを必死に考えていた点であろう。


「……甘っち。気付いてるか?」

「うん。……ね、陣ちゃん、“抜いて”」


 背後から予想外の言葉が耳に飛び込んできた。

 確かに手の中にある刃物を見せれば、この場は切り抜けられるかもしれない。

 が、意味も無く(この場合目的はあるが)鬼目一“蜈蚣”を抜かば、荒ぶる神威はその矛先を陣太郎自身へと向くこととなる。

 そう常日頃から陣太郎に言っていたのは、甘菜自身だ。

 当然ながら陣太郎自身、甘菜やおとねを守る為ならば身の危険を顧みずに鬼目一“蜈蚣”を抜く事は吝かで無い。

 だが――

 陣太郎は刹那に戸惑う。

 甘菜は己の保身の為、陣太郎に己の死か、他者を死にいたらしむ重荷を背負わせるかの選択を強要するような娘では無いはずだ。

 それは陣太郎とて、よくわかっている筈である。

 しかし、あまりにあっさりとしたその言葉は、実は甘菜の本質は陣太郎の考えているそれとは違い、保身の為に過酷な事が言えるものであるのではないか、と誤解してしまっていたのだった。

 そして、運の悪い事にその一瞬を男達につけ込まれてしまう。


「ぐが!」

「きゃあ!?」

「むぐ、はな……せよ!」


 突如男達は息の合った動きを見せて、いきなり二人が甘菜とおとねを羽交い締めにし、残る三人は陣太郎に襲いかかったのである。

 如何に体を鍛え剣の修練を行っているとはいえ、人一人が幾人もの人間を相手にするのは至難の業だ。

 必然、陣太郎は直ぐに地に倒れ伏してしまい、その上から男達は腹を、背を、顔面を蹴り上げ続けた。


「大人しくしろオラ!」

「はな、して!」

「おい、手伝え! 車に連れ込むぞ!」

「やめろ! その娘を離せ! “相手”なら俺がいくらでもしてやる!」

「うるせえ! てめぇもその女も、平等に俺らの相手をすんだよ!」


 バチ、と誰かがおとねの頬を打つ音が響いた。

 それから直ぐに羽交い締めにされている甘菜とおとねの側にもう一人ずつ男がやってきて、それぞれの両足を抱え上げ、河川敷の土手を降りるべく移動を開始する。

 残る一人は倒れたままの陣太郎の側に立ち、仲間達が土手下にある河川敷の駐車場へ女達を運ぶのをじっと見ていた。

 恐らくは、先程陣太郎が見つけたワンボックスカーに連れ込む算段なのだろう。

 あるいは甘菜達を連れ込んだ後、陣太郎を置いてどこか“落ち着ける”場所へ移動するつもりなのかも知れない。

 陣太郎は男達の激しい暴力により気を失ってしまったのか、倒れたままピクリとも動かなくなっていた。


「嫌! 離して! 離せ! 陣ちゃん!」

「だまれ! 暴れんなクソが! てめえも痛ぇ目にあわなきゃわからねえのか?! この!」


 土手を降りきった所で腕を抱えられた挙げ句、足を持ち上げられた甘菜が激しく抵抗し、イラついた男がその頬を打たんと手を上げた時。

 不意に空が明るくなり、同時に甘菜の抵抗が止まった。

 いや、甘菜だけでなく、隣で幾度となく頬を打たれながらも激しく叫んでいたおとねの方も急に静かになっていた。


 二人とも抵抗を諦めた、といった雰囲気ではない。

 甘菜もおとねも驚いたようにただ一点、土手の上を忙と見つめて男達もつい、釣られてそちらを確認した。

 ――見上げる河川敷の土手の上では夜空に浮かぶ雲の合間から下弦の月が顔を出し、その神威を暗く染め上げている。

 彼らを見下ろすように立つのは、暗い影であった。

 影は仲間のそれでなく、手には反りの浅い刀のような物が握られている。

 月を背にして居る為か逆光による闇は濃く、確認できるのはその闇の奥、不気味に赤く蠢くような左のまなこである。


「……なんだ、てめぇ……」


 甘菜の頬を打とうとしていた男が、絞り出すように凄んだ。

 しかし、影は答えない。

 生暖かい風は止み、あらゆる音が消え失せ、時間が止まったかのような緊張の中。

 唯一蠢いていたのは、鬼目一“蜈蚣”を抜いた陣太郎の足下で小さくなってゆく、仲間のなれの果てだけであった。


「……甘をハナセ」


 静かでゾっとするような、声。

 激しい憎悪と怒りが伺える響きの中に、人の命を奪ってしまった後悔や狼狽は微塵も感じられない。

 甘菜やおとねが抵抗も忘れる程その光景に驚いたのは、果たして“祟り刀”を抜いた陣太郎の決断であるのか、それとも――


「きゃっ」

「わ! 痛ぅ、てて……いきなり手を離すんじゃねえよ」


 鬼気迫る陣太郎の言葉を男達はどう受け取ったのか。

 突如二人を抱え上げていたその手を離し、甘菜とおとねを地に落としながらゆっくりと土手の方へ歩いて行く。

 不思議な事に、男達からは急に人の気配が消え去っていた。

 かわりに吹き出てくる獣臭は、獰猛な敵意を纏い辺りに漂い始める。


「陣ちゃん! 気を付けて! こいつらが“猿候”よ!」


 したたかに尻を打ちながらも、甘菜が土手の上に立つ陣太郎に叫んだ瞬間。

 男達は猫のように体を丸め、次々と高く跳躍をした。

 夜空にその姿が見える程の高い跳躍は、人の成せる業ではない。

 ――いや。

 男達は既に人の形を崩しつつあった。

 空高く跳躍した男達は陣太郎と同じように月光を浴び、地から見上げる甘菜からは黒いシルエットにしか見えない。

 しかしその形は、既に四人とも異様な程アンバランスな腕の長さが目立つ異形と成り果てていたのである。


「ぎゃあああ!」


 真っ先に跳躍した男が獣のような悲鳴を上げる。

 一足に陣太郎が立つ土手に跳び、異様に短くなった左手とは対照的な、異様に長くなった右手でもって陣太郎を薙ごうして鬼目一“蜈蚣”でその腕を斬られたからだ。

 だが斬り傷は浅く、ほんのかすり傷程度であったはずである。

 が、その傷口からたちまち赤い蜈蚣が大量に噴き出して、着地する頃には全身を覆い尽くしてさんばかりとなっていた。

 それを見た他の三人は、同じく異様に長くなった右腕で陣太郎に攻撃する事も無く、そのまま土手の上に着地するに止める。

 着地した場所は陣太郎を挟む形で、前に二人、後に一人。

 服の袖からはみ出る程長い腕は獣毛に覆われており、男達の顔もいつからそうであったのか、狒々のように口が突き出してゾロリとした犬歯が並んでいた。


「コナイデ」

「ソノコヲハナセ」

「ヤメテ、オネガイ、モウヤメテ」


 言葉に何の意味があるのか。

 陣太郎を挟む異形は、片言に支離滅裂な言葉を発し、ゲゲと不快な笑いを上げる。

 まるで相手に恐怖を与える事を楽しむかのように。

 その行為はまるで、“人”であった時の彼ら自身を真似る猿のようにも見えた。

 オウムのように繰り返される言葉は意思疎通の為の物で無く、いつか、どこかで犠牲になった者の悲痛な哀願である事が伺える。

 そんな台詞を彼らは――“猿候”は、楽しげに、からかうように口にして嗤った。

 憎しみがそうさせるのか、それともそれが存在意義であるのかはわからない。

 水神の神威たる“猿候”を生み出したキッカケは知る由も無かったが、そこにあるのは明確な悪意である。

 ――彼らの意図や素性はさておいて、その悪意は見上げる甘菜にとって到底受け入れがたいものであった。


 一方、“猿候”と対峙する陣太郎は宙から迫る男を斬ってより、殆ど動いてはいない。

 その表情はやはり月明かりの逆光となって、甘菜にも、おとねにも確認する事は出来なかった。

 喋らず動かないのは、初めて明確に敵意を叩きつけてくる神威が与える恐怖の為か。

 それとも、“もしかしたら人であるかもしれない”、あるいは“もしかしたら神威に操られているかもしれない”人間を二人も斬った為、罪の重さに忘我しているのか。


「ニゲロ! ニゲロ!」

「ヤメテクレ! ヤメテクレ!」

「イヤ! イヤ!」


 陣太郎を挟む異形が人をあざ笑い、そして同時に動いた。

 まるでましらのように素早く伸ばしてくる右手は、人のそれとは思えぬようなかぎ爪が伸びている。

 前後からの挟撃は疾く鋭く、到底人の身では避けきれるものではない。

 しかし陣太郎は――これを避けようとはしなかった。

 水平に跳躍するかのような相手の突進に合わせ一歩前に出て、狙うのはその長い腕。

 先程もそうであったように斬り落とすのではなく、ほんの毛筋程の傷をつける為に“祟り刀”を横に一閃させる。

 果たして陣太郎の試みは成功し、僅かな傷を前方の二人に与えた。

 引き替えにその勢いのまま、かぎ爪で胸を服ごと斬り裂かれ、同時に背にも鋼鉄の熊手のような物で引き裂かれたような痛みが走った。


「おおおおお!」

「ぎいいいい!」


 程なく獣の雄叫びが二つ、月夜に木霊する。

 例え僅かな傷であっても祟り刀に少しでも斬られたならば、飢えた鬼目一“蜈蚣”によって骨も残らず貪られる運命が待つのみである。

 陣太郎は胸と背に負った傷など意にも介さず、慌てて距離を置いた背に残る“猿候”へと向き直った。

 足下では小さな蠢く塊が二つ、目に見えて更に小さくなってゆく。

 “猿候”に対峙する陣太郎の表情は未だ月明かりの逆光の中。

 唯一闇に浮かぶのは、赤くとぐろを巻く左目の蜈蚣のみ。

 眼光は激しい憎悪に濡れ、声ならぬ声による呪詛が見る者へと叩きつけられる。

 ――お前が憎い、と。

 ――姫に手を伸ばす全ての存在が憎い、と。


「う、おおおおおおおおおお!」


 咆哮。

 犬でも、肉食獣のそれとも似つかぬそれは、恐怖の為。

 人ならぬ荒魂を恐怖させる祟りとは如何なるものか。

 “猿候”は左手を精一杯縮め、反対に右手を更に伸ばしながら獣の動きで陣太郎を撹乱し、襲いかかる。

 しかしその長い腕はしっかりと蜈蚣の目に捉えられ、陣太郎に届く事はなかった。


 やがて下弦の月が再び雲に隠れた頃、全てが終わったのである。



 宿に戻ってから陣太郎は、真っ先に風呂に入った。


 おとねが用意した旅館はかなりの老舗であるらしく、大きな露天風呂と豪華な食事が売りであるらしい。

 幸い、陣太郎が負った傷は浅くはなかったが深くも無く、蜈蚣の祟りがそうさせたのか宿に着く頃には出血も止まっていた。

 道中三人はずっと無言で、甘菜とおとねも陣太郎と同じく宿に帰るや遅い入浴を行っている。

 陣太郎はトロリとした感触の温泉を頭から幾度もかぶり、傷にしみるのも意に介さずしばし露天の湯船につかってから体を拭いた。


 時刻は深夜の二時。

 宿の浴衣を着て男湯の暖簾を潜ると、となりの女湯は清掃中の表示が掲げられていた。

 どうやら甘菜達は既に風呂から上がり、明日の朝に備えて宿の者が掃除でもしているのだろう。

 もしかしたら男湯の方も、宿の者が最後の利用者である自分が出るのを待っていたのかも知れない。

 そう考え、悪い事をしたと思いながら陣太郎は浴衣を着たまま、誰も居ないゲームコーナーに入っていった。

 ゲームコーナーは温泉宿に良くあるような、古いゲームがいくつか並べられただけのスペースである。

 しかし深夜である為かゲームの筐体はすべて電源が落とされ、同じ場所にある自動販売機だけが煌々と灯りを灯していた。

 陣太郎は自動販売機の前に立ち、少し悩んだ末にスポーツドリンクを買って、脇に設置された休息用の長椅子に腰掛け俯いた。

 そらから徐に買ったばかりのスポーツドリンクのプルトップを引き上げ、中身を一気に煽る。

 喉を落ちる液体は甘く心地よかったが、胸の中に沈んだ不快感は消え去らなかった。

 陣太郎は空となったスポーツドリンクを持ったまま、俯いてしばしため息をはく。

 頭の中では先程斬った“猿候”の絶叫が、頭痛のように響いていた。


 ――俺は……何を斬ったんだろう。

 あの“猿候”は人に化けた荒魂だったんだろうか。

 それとも、俺と同じように祟られた人間だったんだろうか。

 ……あの時。

 甘菜の叫びやおとねさんが打たれる音を聞いて、俺は……鬼目一“蜈蚣”を抜いた。

 ……あいつらが“猿候”だと知る前から、俺は斬った。

 斬れば蜈蚣に喰い殺されるとしって、俺は斬ったんだ。

 ただ、激しい怒りのままに……

 考えて陣太郎は身震いを一つ、する。

 そこから先、思い出されるのは激しい怒りと憎悪であった。


 ――ふと。

 下を見る視界を、宿のスリッパを履いた白い足が横切った。

 誰かが自動販売機のジュースかコーヒーを買いに来たらしい。

 大概の旅館では、設置された自動販売機は意外と少ない。

 室内にある冷蔵庫の飲料は値段も高く、品揃えも良いとは言えない為、深夜であっても意外と人が訪れるものである。

 陣太郎は顔を上げる事無く、しばし思考を止めてそのまま俯き続けた。

 一人で深刻な考え事をするのに、誰か他人が側に居るとどうにも気が散り、イライラとしそうであったからだ。

 邪魔者はこのまま待っていれば買う物を買って、自分の部屋に戻っていくはずだ。

 やがて隣の自動販売機からは硬貨が投入される音がして、その後ガコン、と商品が取り出し口に落ちる。

 次いで誰かがそれを取り出し、パタパタと音を立て、先程の白い足が視界を再び横切った。

 そして不意に、隣にすとん、とその誰かが座ったのである。

 え? と顔を上げると、そこに座っていたのはすっかり見慣れた幼馴染みである、天之麻甘菜であった。

 彼女は陣太郎と同じく旅館の浴衣を身に着け、風呂上がりからそうしているのか長い髪をアップにまとめていた。

 ほのかにシャンプーの匂いが漂い、清潔感のある、透明なうなじは何とも言えぬ色香を陣太郎に感じさせる。


「どしたん?」

「……べつに」


 陣太郎は逃げるようにして視界を落としながら、ぶっきらぼうにそう応えた。


「……今日はごめんね」

「甘が謝る事なんて何もねえよ」

「ううん。私、笹山さんの時みたいにちゃんと準備しておくべきだった。陣ちゃんの足引っ張っちゃったし」

「いんや。情けないのは俺だよ」

「なんで? バッチリきまってたじゃない」


 まるで、話しを逸らすかのような、誤魔化すかのような甘菜の言葉であった。

 その優しさが見え透いて、陣太郎は思わず奥歯を噛む。


「なあ、甘」

「なぁに? 陣ちゃん」

「俺、人を斬っちまったのかな」


 答えは返ってこない。

 故に、それは陣太郎には答えとなった。


「……俺、斬らなきゃ良かったとは思っていないんだ。あの時、甘やおとねさんがあいつらに良いようにされる位なら、抜いた方がマシだったし」

「うん……ありがと」

「だけど……あの“猿候”がさ。俺と同じように祟られていて、その成りの果てだったらって思うと……やっぱ、重いよ」

「陣ちゃん……」


 二人の間に重い沈黙が横たわる。

 頭ではわかっている。

 二人を守る為に祟り刀を抜いた事も、“猿候”を斬った事も後悔はしていない。

 だが、やはり自分が斬った相手が人であった事は、重い事実としてのしかかっていた。

 俯く陣太郎の耳に、カシ、とプルトップを引く音が届く。

 再び顔を上げると、甘菜が缶コーヒーを煽っている横顔が見えた。

 白い喉は細く、つい見とれそうになってしまい視線を逸らす陣太郎である。

 甘菜は口につけた缶コーヒーを一口、二口啜った後、は徐に“猿候”について語り始めた。

 その口調は陣太郎を慰めるように、柔らかなものだ。


「“猿候”は水神の神威の形の一つで、川辺に現れる荒魂よ。和魂だと河童みたいに害の無い存在だけど……昔は、河原には何かと脛に傷のある者が逃げ込んだり根城にしたりする事が多くてね」

「うん」

「勿論まともな人も多く居たんでしょうけども、人として認めて貰えない人々が集まる場所でもあったしね。治安も良くは無かったの」

「……差別部落ってやつか?」

「厳密には違うけど……差別的な意味の方の原型って所ね。全ての河原がそうだというわけでもないし。ただ、調べた文献によれば少なくとも通明川は“そう”だったの。いまは誰も住んで居ないけれど、あそこは殺人や強盗、暴行も当たり前だったらしくて」

「へぇ」

「で、うっかりそんな場所に迷い込むと、男は身ぐるみを剥がされるか命を、女は貞操を奪われたらしいわ」


 そこで言葉を切り、甘菜はもう一度缶コーヒーに口をつけた。

 こくこく、とコーヒーを呑み込む音が隣の陣太郎に届く。


「ひでぇ場所だったんだな。今はあんなに綺麗になったのに」

「“猿候”と言う神威の形が生まれたのはその頃みたい。思うに、最初は――暴行された女の人を世間の目から守る為、“猿候”に襲われたって事にしたんでしょうね」

「……そっか。そりゃ、色々ときついだろうしな」

「うん。そこから転じて、水神の神威に“猿候”という形が与えられたんじゃないかな。何故あいつらにその“猿候”が祟って居たのかはわからないけれど、日頃似たような事をしている内に祟られて“猿候”に成っていったんだと思う」

「俺と同じように?」

「陣ちゃん、私の話ちゃんと聞いてた? いくら凹んでるからって、あんなのと自分を同列にしないでよ、もう」

「……ごめん」

「もっと胸張りなよ。私は陣ちゃんの事を誇りに思うよ。自分が祟り殺されてしまうかも知れないのに、鬼目一“蜈蚣”を抜いてくれたじゃない」

「……で、斬り殺した」

「ごめん、陣ちゃん。私にはそれがそんな、気にする事とは思えない」

「甘?」


 それまでとは違い、どこか冷たい甘菜の言葉であった。

 男達に連れ去られそうになった時の事を思い出したからかもしれない。


「人でなしって思ってくれてもいいよ。あんな、よって集って女の子をどうかしようとするような連中、死んじゃえってマジメに思うもの。それに……」

「それに?」

「陣ちゃんがあいつらを斬る事になったのは、私のせいだし」

「んなわけあるかよ」

「そうだよ。だって、おとねさんに“猿候”を鬼目一“蜈蚣”に喰わせようって言い出したの、私からだし」

「だって、それは……俺があの祟り刀に喰われないようにする為だろ?」

「そうだけど。――でも、そんな風に悩まれたら、私だって気にしてしまうじゃない」

「……ごめん」

「だから、謝る事はないって。あのままあいつらを放っておいたら、もっと沢山の人が被害に遭ってたわ。陣ちゃんは私やおとねさんだけじゃ無くて、その全ての被害者を守ったのよ」

「そっか」

「そうよ。だから元気だしなよ」


 甘菜はそう締めくくり、立ち上がりがてらにぽん、と陣太郎の肩を強めに叩いた。

 陣太郎は苦笑いを浮かべながらも、ありがとな、と言おうとして立ち上がる甘菜を見上げる。

 刹那、視界が暗くなった。

 一瞬だけ、月のように輝く瞳が目の前をよぎる。

 気が付いた時には、甘菜の唇が陣太郎の唇へ押し当てられていた。

 遠慮がちに差し込まれた舌は、甘いコーヒーの味であった。


「ん、これでよし」

「あ、甘……」

「一応念のため、唾液を流し込んどかないとね。蜈蚣の神威は執念深いから」

「あ? あ、ああ。そうだな。ありがと、な」

「なぁに? 陣ちゃん、変な勘違いしちゃった?」

「んな、こと!」

「あら残念」

「なっ」


 陣太郎は甘菜の言葉にドキリとして、その場に固まってしまう。

 不意打ち同然のキスに加え、やけに甘ったるい甘菜の態度に激しく動揺していたからだ。

 それも束の間、陣太郎の反応を見ながらゆっくりと後に下がる甘菜の悪戯っぽい笑みを見て、からかわれたのだと察し、風呂上がりの時よりも更に顔を赤くする陣太郎である。


「ま、怒るな臼木氏うじ。流石のオレも、面と向かって唾液を流し込むのははずかしいんだぜ?」


 甘菜はおとねのモノマネをしながらそう言って、ニカと笑った。

 花のような笑顔は正にあの時、陣太郎が禁忌を犯してでも守りたいと思っていた物である。

 やがて甘菜は耳まで赤くした陣太郎に「明日の学校、どんな噂になってるか楽しみだね」と言い残し踵を返した。

 陣太郎は一人残り、頭を抱えてしばらくはそのまま唸り続ける。

 恥ずかしいやら悔しいやらで、頭の中がぐちゃぐちゃになっていたからだ。

 ただ、一つ。

 先程まであった胸の底に沈んだ不快感は、綺麗に消え去っていた。


 洗い流したのはきっと、甘菜に流し込まれたコーヒーの味がするキスである。





評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ