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異聞・妖刀百物語  作者: 痴れ者ラボ
月に叢雲花に蟲
11/76

犬神・下




「頼りにしてるよ? 陣ちゃん」


 果たして幼馴染みが自分の事をそう呼んだのは何年ぶりであろうか。

 遠き過去を振り返るにはあまりに若い陣太郎であったが、胸にじわり懐かしさがこみ上げる。

 耳に熱を覚えている事から、どうやら自分は柄に無く赤面しているらしい。

 陣太郎の目の前で珍しく微笑む甘菜は、そんな彼の心中を察しているのかいないのか。

 徐に短冊状になった和紙を二枚取り出してあむ、と少し深めに咥えた。

 和紙は付箋紙よりも少し長い位で、粗方唾液を吸い込ませた後、甘菜は笑みを消して陣太郎に側へ来るように指示を出す。


「ん、なに?」

「まず、鬼目一“蜈蚣”を出して」


 陣太郎は言われた通りに手にしていた日本刀を差し出す。

 甘菜に差し出した祟り刀はこれから起きる出来事に昂ぶっているのか、いつもより重く感じられた。

 甘菜は踊り場の手すりに“天目一命”(アメノマヒトツノミコト)を立てかけながら、鞘に納まった鬼目一“蜈蚣”に咥えていた和紙を一枚手にとって、柄から鐔、そして鞘にかけ貼り付ける。

 和紙はまるで糊付けされていたようにぴったりと鬼目一“蜈蚣”に貼りつき、それを見た陣太郎は封印のお札みたいだな、という印象を抱いた。


「次。これを――臼木くんの左目に貼るから」

「なにこれ? 封印か何か?」

「ん、まあ、そんなとこ。言っとくけど、汚いとか臭いとか言ったら承知しないからね?」

「言わないって」

「後でコッソリ持ち帰ってペロペロと舐めるから? ――うぁ! 自分で言っといてなんだけど、すっごく引いちゃった」

「しねえって!」


 会話は気安い物であったが、甘菜が呼ぶ陣太郎の名が『陣ちゃん』から『臼木くん』に戻ってしまっている事に陣太郎は気がついていた。

 気まぐれな幼馴染みは急に恥ずかしくなったのか、それとも陣太郎への後ろめたさから来るものであったのか。

 彼女にどのような心理が働いたのかはわからない陣太郎だったが、密かに感じる落胆は確かな物である。

 そんな、落胆を顔に出さぬようにしている陣太郎に甘菜はもう一枚の和紙を陣太郎の左目にペッと貼り付け、一本、右の人差し指を立てた。


「いい? 臼木くん。作戦を説明するから、しっかり聞いてよね」

「んあ、うん」

「まず、私が笹山さんと話すから。臼木くんは一切口を出さない事」

「了解」

「多分、笹山さんから私に“何らか”の攻撃があるわ。それが直接的な物なのか、間接的なものなのかはわからないけど、絶対に割り込まないで。大人しくしていること」

「あい。俺は、何も、しない」

「貼り付けた和紙は、鬼目一“蜈蚣”が勝手に暴れ出さない為の処置。それ、そもそも天之麻の女に執着する鬼の情念が込められているから、私に“何か”起きそうになったら多分荒ぶると思うの」

「……つまり、これ貼らないとどうなんの?」

「天之麻の女に害成す者を祟ろうとして、神威が顕現するでしょうね。どんな形かはわからないけど、例えば大百足が出て来て“犬神憑き”になった笹山さんを喰らうとか」

「ゾっとしないな」

「もちろん、その時は臼木くんごとボリボリとやられるよ?」

「げっ!」

「だから、指示があるまでは絶対に紙を剥がしちゃだめ」

「指示があるまではって、剥がすような事になるのか?」

「ん。笹山さんに憑いた犬神を鬼目一“蜈蚣”に喰わせる事が目的だし。私が笹山さんから犬神の神威を追い出した時合図するから、その時に封を剥がして頂戴」

「はいよ。で、その後は?」

「あとは多分、鬼目一“蜈蚣”が勝手にやると思う。……多分」

「多分て……下手したら俺、犬神の神威って奴と一緒にボリボリされちゃうんじゃ?」

「そうならない為の『作戦』よ。笹山さんから犬神の神威を剥がした後なら、私も臼木くんの対応できるし」

「ふうん?」

「でも、笹山さんの神威に対応してる所で鬼目一“蜈蚣”が暴れ出したら、どちら一方しか手が回らないでしょ」

「ああ、なるほど」

「そゆこと。じゃ、行くわよ?」


 甘菜はそう説明し、しゅるりと白衣の袖先をなびかせて、再び屋上へと続く外部階段を上り始めた。

 その後を手すりに立てかけていた鬼目一“蜈蚣”を手に取った陣太郎が追う。

 下から見上げる幼馴染みはどこか、甘い残り香を残しつつしゅるしゅると衣擦れを音を立て颯爽と外部階段を上っていった。

 やがて最後の踊り場にたどり着いた時。

 ただ一枚、屋上と外部階段を阻むドアの前に二人は立ち、階段を上ってきた故に乱れた呼吸を整えた。

 陣太郎はその間、時刻を確認しようと前回の誕生日に買って貰ったGショックをはめた腕を見やる。

 時刻は午前一時五十三分。

 手紙に書かれていた刻限まであと7分の余裕があった。


「わ、それGショック? みせて?」

「ん? いいけど……珍しいもんじゃねえぞ、これ」

「うっわぁ……デジタルだぁ。ふつう、アナログでしょ?」

「うっせ。俺はデジタルが良かったんだよ。Gショックぽくて格好いいじゃねえか」

「えー。臼木くん、私らもう高校生だよ? 中学生じゃあるまいしさぁ、オメガは無理でもFossilとかDIESELとかもっと安くて良い奴あるじゃない」

「なぬ? ふぉっし? ディーゼル、って車のメーカー?」

「時計よ、時計。ファッション誌位読みなさいよ。どうせ漫画雑誌とかゲーム雑誌しか読まないんでしょ」

「う……Gショックの何が悪いんだよ」

「悪くは無いけど、定番過ぎ。大体、臼木くんそんなアクティブなイメージじゃないし。そんなの付けてHマンガとか買ってる姿見られると、いかにもって感じしない?」

「偏見だ!」

「しっ! もぅ、声が大きい」

「ご、ごめん」


 どういうつもりか、ここへ来て妙に絡みっぽい幼馴染みである。

 陣太郎とて、年頃の男の子だ。

 ファッション誌を購読するほどの情熱も財力も持ち合わせてはいなかったが、学校の男子の間で流行っている腕時計位は知っていた。

 Gショックも定番ではあるが甘菜がいうほど“いかにも”な存在では無かったし、いやむしろ陣太郎がしている物は最近男子の間で流行していた、人気のモデルですらあったのだ。

 もっとも、彼女がGショックを否定的であるという噂が立てば、半数の男子は買い換えを検討するであろう程度の流行であるが。


 ふと。

 陣太郎は己の腕を取り、これ大きすぎない? とケチをつけ続けてくる幼馴染みの手が震えている事に気がついた。

 すぐに震えは恐怖から来る物であると察して、得心が行く。

 彼女は。

 誰よりも祟りや神威を知る彼女は、怖いのだ。

 だからこそ、こうやって毒づいて気を紛らわせたいのだろう。

 こんな時、幼馴染みとして、男として、臼木の男として彼女にどう接するべきか。

 柄に無く陣太郎は考えて口を開いた時。

 甘菜の手の中にあったGショックがピ、と短くアラームを鳴らして午前二時を告げた。


「……時間ね。いこっか」

「えぁ、う、うん」

「なにその返事。大丈夫? 臼木くんが緊張してどうするのよ」

「ああ、えっと。だっ、大丈夫だ! 俺がしっかり守ってやるからな!」


 なんともしまらない陣太郎の台詞に、甘菜は一瞬目を開いた後キョトンとして。

 刹那を幾つか重ねた後、彼女はぷっと噴き出した。

 その笑顔は屈託無く、どこか、幼い頃なんども見た笑顔の面影が残る。


「んだよ、笑う事ないじゃないか」

「いや、うん。ごめん。その、意外だったもんだから。あり、がとね」


 ぎこちない礼は照れ隠しなのであろう。

 表情はさぞ見物であったろうが、生憎彼女は早々に陣太郎に背を向け屋上へのドアノブに手を掛けていた。

 陣太郎はこの時不意に、初めて甘菜が小さく見えている事に気がつく。

 二人の身長差は十センチメートル程であったが、それでも陣太郎の目には甘菜が確かに小さく見えていたのだ。

 はて、甘の奴こんなに小さかったか? と陣太郎が首を傾げている間に果たしてドアは開かれる。

 陣太郎としては初めて踏み入る学校の屋上は、昼と夜の違いこそあれよくTVドラマなどでみるそれとさして変わらない光景が広がっていた。

 夜も遅い為か遠くに見える寂れた地方都市の夜景は、殆ど光りを灯しておらず動く車の光りすら見当たらない。


 外部階段側から屋上へ入った為か、いつも下からチラリとだけ見えていたペントハウスが間近に見えてその他にはフェンス所か手すりすら見当たらなかった。

 都市部の学校などは屋上が運動場を兼ねており、生徒の利用がある為高いフェンスが設けられているが地方都市の学校ともなれば土地は潤沢にある為、基本的に生徒は立ち入る事を禁じられている。

 よってそもそも学校を建設するに当たった当初から、フェンスの設置自体が検討すらされなかったのであろう。

 にもかかわらず屋上に立ち入る設備があるのは、緊急避難用と建物のメンテナンスの為である。


「やっと、来たわね。ニセモノさん」


 何時からそこに居たのか。

 ゾっとするほど冷たい声の方にふりむくと、外部階段とペントハウスに最も遠い場所、校舎の角側に学校指定のセーラー服を着た女が立っていた。

 衣替えを控えた夏服のスカートは、校則ギリギリに違反した短さで夜風になびいている。

 空には月が弓張りに西へ傾いて。

 月光は短い女のスカートの端から白い足を幽鬼のような白さで照らし出していた。


 甘菜は無言のまま、ゆっくりと女の方へ歩き始め陣太郎もその背に付き従った。

 少し前にある白衣の背は月光を受けて白く輝いている。

 それ以上に甘菜の向こうにいる女――笹山弘子の白い手足は白く、しかし表情は夜の闇の中にしずんでいたのだった。


「指示通りここへやって来たと言う事は……やっと、あたしに“天之麻甘菜”を返す気になったのね? “笹山”さん」


 言葉に甘菜は無言のまま。

 まるで自殺志願者のように校舎の角に立つ笹山弘子と天之麻甘菜の距離はおよそ五メートル。

 そこで甘菜はゆっくりとした歩みを止め、不意に手にしていた“天目一命”を鞘から抜いた。

 月光を湛え一瞬煌めく刃は幻想的なほど美しい。


「まぁ、怖い。まさかそれであたしを脅す気?」

「目を覚ましなさい、笹山弘子。己の欲望を叶える為、貴女は何をしたの? どんな命を生け贄にしたの?」


 嘲るような笹山弘子とは違い、甘菜の声は陣太郎も初めて聞くような冷たく厳しいものであった。

 笹山弘子の表情は相変わらず見えない。

 ただ、甘菜の言葉に応えずかわりに獣のような眼光だけが月光を湛え光っている。

 静かな対峙がしばし続いた後、緊迫した空気の中変化が現れたのは笹山弘子の方であった。

 不意にうう、と呻いて背を丸め、髪をざわざわと逆立てはじめたのだ。

 呻きはすぐに唸りとなり、逆立った髪の毛は別個の生き物のようにうねりだす。


 いや。

 呻きは笹山弘子だけのものではない。

 よくよく耳を澄ませば、低く甘菜がうめき声のように低く何やら口にしていた。

 祝詞の一種であろうか。

 二人の呻きはまるで共鳴するかのように強く高くなっていき、笹山弘子は次第に丸めた背を更に丸め、甘菜は抜刀していた“天目一命”を一方の手を刃に添えながら横に構える。

 陣太郎は言われた通り二人の様子を甘菜の後でただ黙って見ていたが、ふと和紙で封をした左目が酷く疼く感覚を覚えた。


 甘菜の身になにか危険な事が起きる予兆であろうか?

 心なしか同じく封をした鬼目一“蜈蚣”も重く感じられて、陣太郎は体を硬直させ生唾を飲み込む。

 気が付くと甘菜は“天目一命”を神に捧げるように横にしたまま天に掲げ、笹山弘子はまるで犬のように四つん這いとなっていた。

 しかし、笹山弘子の表情は未だ見えない。

 まるで闇が貼りついたかのような顔には只二つ、獣の様に光る瞳だけがあってゆらゆらと陽炎のように髪の毛が逆立ち続けているのだ。


「うううう、アマノマ……アマナ!」


 声は憎悪によって構成されていた。

 およそどのような課程を経ればそれ程憎しみを込められるのか。


「憎い! 我は憎い! お前が! ササヤマヒロコガ! ニンゲンガ! 我の命と引き替えにに望みを口にする者が! 憎い! 憎い! 憎い! 憎い!」


 笹山弘子はそう呪詛を吐き、そして獣の咆哮を上げた。

 刹那、月光によって照らし出された彼女の貌は――既に人のソレではなく。

 悪鬼のような相貌でカマキリのように鼻先が伸び、犬の様に口が裂けた異形と化していたのである。

 異形となった笹山弘子は、もう一度激しい敵意と共に憎悪の咆哮をあげ、甘菜にゾロリ並ぶ白い牙を向く。

 一方で甘菜は異形と化した笹山弘子を無視し、祝詞を続け――


「熱っ!」


 突如。

 陣太郎の左目に貼られていた和紙が熱を孕み、燃え上がった。

 眼前に感じた火は小さかったが、思わず悲鳴をあげて顔の周囲を手で払う陣太郎。

 その陣太郎の行為が、甘菜と笹山弘子の力の天秤をどのように傾けたのか。

 果たして封が燃えた左目は開かず、一瞬、残る右目で見た物は四つ這いになっていた笹山弘子の内より“ナニカ”が飛び出し、祝詞を口にしていた甘菜を押し倒した姿である。


 “ナニカ”は細い体躯の四足獣のようで、白い体毛に覆われ体長は大型犬程もあろうか。

 犬や狐よりもずっと細長い顔には見たことも無いほど鋭い牙が並び立ち、声を上げる間も無く押し倒した甘菜の首筋へ突き立てようと迫る。

 しかし。

 次の瞬間に“ナニカ”は、甘菜からはじき飛ばされ、数メートル程離れた後者の屋上に降り立つのであった。


「甘!」


 やっと思考が追いつき思わずついて出た名は、古き記憶の底にあった物。

 今ではすっかり使わなくなった名。

 使えば、当の本人が嫌がる筈の名。

 陣太郎は邪魔をしてしまったのかもしれないと不安をかかえながらも、倒れ伏して動かなくなっている幼馴染みの元へ駆け寄った。


「甘! おい! しっかりしろ!」

「う……」

「おい!」

「陣ちゃ……」

「大丈夫か?! すまん、俺……」

「い、い……それ、よりも、“犬神”から……目を離しては……」


 倒れた甘菜を抱き起こしながら指摘にはっとした陣太郎は、慌てて笹山弘子から出でた獣の姿を探る。

 勿論、既に先程甘菜から弾かれ屋上の床に降り立った場所にはいない。

 視界の端では笹山弘子は甘菜と同じように、グッタリと力無く倒れ伏している。

 ――どこだ?!

 甘菜を抱き起こした姿勢のまま、反射的に笹山弘子と反対側へ首を回すとそこに。


「がぁ!」


 血しぶきが月夜高くに上がる。

 陣太郎が振り返った瞬間、そこに大きく口を開けた獣の頭が迫ってきていたからだ。

 綺麗でいておぞましい程多く並ぶ鋭い牙は正確に陣太郎の首筋を目指しており、間一髪、反射的に上体を捻った為に肩の肉を裂かれただけで済んだ陣太郎である。

 飛びかかってきていた獣の勢いが余程強かったのだろう、裂れた瞬間肩から血が高く噴き出して激痛が全身を支配していた。

 痛みに声をあげた陣太郎は、呻き顔をしかめながらも獣の姿を追ったが既に視界にはその姿は無い。


 ――まずい!

 全身から吹き出る冷や汗は痛みのせいではなく、極度の緊張と恐怖の為。

 先の獣の一撃において、致命傷を避けられたのは単に運がよかっただけだ。

 元より、陣太郎は運動神経が良い方では無い。

 命のやり取りを行うような戦闘行為などもってのほかである。

 それはつまり、次の一撃を避ける事はまず無理である事を意味していた。


「ぎゃん!」


 犬かなにかのような鳴き声に、陣太郎は慌てて背後の方を向いた。

 見ればそこにあの獣が倒れながらも、よろけながらも起き上がろうとしている姿が見える。

 その、視界の手前には手元から白く伸びる細い腕と一振りの抜き身の日本刀。


「に……げ、て」


 細く絞り出すような声に、陣太郎は甘菜が手にしている“天目一命”迫るで“犬神”を退けたのだ、と一拍置いてから理解した。

 先程“犬神”が甘菜を押し倒した際、あわやと言う所で弾かれたのも恐らくは“天目一命”の加護かなにかに因る物なのだろう。

 ――しかし、先程の一撃は。

 甘菜を抱きかかえる陣太郎への攻撃が弾かれない事を思い出すに、どうやら“犬神”を弾くにはかなり狭い範囲での制約があるらしい。

 例えば、甘菜だけにしか効果は無い、とか。

 未だ夥しい程の出血を続ける肩を押さえながら陣太郎はそう考えて、視界に犬神の姿がある内に上体を抱き上げていた甘菜を引きずるようにして笹山弘子の元へ移動した。

 彼女が倒れている場所は、校舎の角。

 そこならば背後をとられる事も無い。

 また、目の前に“犬神”が居る以上、もし彼女が目を覚ましても危害を加えてくるとも思えなかった為だ。


「なに、してるの。はや、く……逃げ」

「バカ! お前を置いて行けるか!」

「いい、から。わた、しは置いて……時間、ない……」

「時間がないって?」

「日に“天目一命”で神威、を押さえられるのは数分だ、け。それを過ぎれば、ただ……の刀になるわ」


 息を吐くのも辛そうな様子である甘菜の説明に、陣太郎ははっとして甘菜から“犬神”の方へ視線を移した。

 死角の無い校舎の角に移動した為か、“犬神”は陣太郎達の元へ襲いかかる事を躊躇い、うなり声をあげ遠巻きにこちらを見ている。

 相も変わらずその獣の目は月光を反射して光り、そこから激しい憎悪と敵意だけが伝わってきた。


「どう、どうすりゃ……」

「逃げる、のよ。あの神威は笹山さん、が生みだし、私に向けられたもの。一目散に走りここから去れば、多分、それ以上襲われる事も……ない、わ」

「それでお前はどうなるんだよ?」


 返事は沈黙を持ってして返された。

 その意味する所を陣太郎は察し、唇を噛む。

 今、この場を走り去れば自分は助かる。

 その場合、甘菜と笹山弘子は“犬神”の神威によって命を落とすだろう。

 かといって、陣太郎がこの場に留まって何が出来ようか?

 ――くそ! くそ! くそ!

 内に吐いた罵倒は力無き己に向けた物。

 右目に映る幼馴染みの力無い笑顔は、死に臨む者の強さが滲んで見えた。

 このままでは全員助からない。

 せめて、陣ちゃんだけでも生き延びて欲しい。

 笑みはそう語りかけてくる。

 使命を終え、嘗ての伝承さえ失った家に生まれ育っただけの陣太郎に何ができようか。

 秘伝の剣技も、たゆまぬ鍛錬も、強靱な精神も育まれてはいない、普通の高校生である陣太郎に、手の中にある命を放り出して恥も外聞も無く逃げ出す事以外に何が。


「はや、く、行って。お願い……」


 絞り出すような甘菜の声。

 陣太郎に上体を抱き起こされながらも、“犬神”に向け続けている“天目一命”を握る腕が震えている。

 神威を押さえる為、その体力か精神を削っているのだろうか?

 陣太郎の肩から滴り落ちる血によって、御子装束の白衣の一部が赤く染まっていたがさして外傷は見当たらず、しかし甘菜は先程よりも目に見えて消耗していた。


「できるかよ」

「陣、ちゃん?」


 “犬神”の方を向いて呟いた陣太郎の言葉は、低く聞き取りづらかった。

 わかっている。

 今、この状況で自分に出来る事など何も無いと。

 しかし、だからこそ。

 唯一、陣太郎に選び取る事の出来る選択肢が存在した。


「お前を置いて逃げるなんて、できるかよ」


 言って、陣太郎は抱き起こしていた甘菜を校舎の屋上の縁であるパラペットに預け、立ち上がった。

 叶わぬまでも、せめて力の限り抵抗をして見せようという腹づもりである。

 だが陣太郎は、生まれて初めて味わう命を危険に晒す場にあって、絶望こそ胸にあれど不思議と恐怖は強く無かった。

 恐らくは、幼馴染みを救えぬであろう己の無力さへの怒りと並ならぬ覚悟が恐怖を押さえつけているのであろう。


 不意に。

 甘菜を庇うように立つ陣太郎の鼻を、何かが燃えるような臭いがくすぐった。

 視線を落とすと手にした鬼目一“蜈蚣”に貼ってあった和紙が燃えているのが見える。

 ――まあ、いいか。

 どうせコレを抜いてあの化け物に斬りかかるつもりだったし。

 思って陣太郎が柄に触れた時。

 あの、いつか聞いた声を耳にした。

 それは甘菜に祟った蛇を斬った夜。

 陣太郎を呼ぶ声は、あの時と同じく言っていた。


 我を手に取り、姫を守れと。

 お前が憎いと。

 そしてキン、と清廉な音と共に祟り刀は解き放たれる。

 同時に神威の顕現として封じられていた、陣太郎の左目が開いた。

 その眼に瞳孔は無く、代わりに赤い百足が丸く蠢いている。

 視界の先、“犬神”は姿勢を低くしたまま動かない。

 圧倒的な敵意も激しい憎悪もそのままに、しかし動かず唸り続ける。

 陣太郎は抜いた刀を晴眼に構え、ゆっくりと息を吐いた。

 刃長二尺六寸(約七十九センチメートル)、重ねは厚めで反りの浅い祟り刀は不思議と軽く感じられる。

 目の前の敵とは別に、荒ぶる憎悪を内に感じはしたが何故か恐怖は無い。

 背後に居る、甘菜を守るという目的が一致している為か。

 なれば――


「力をかしてくれよ、ご先祖様」


 呟いて一歩前に出た。

 ご先祖様、と口にしたのは、古より命を捨てて天之麻家の姫を護り続けた先祖達と今の自分を重ねた為である。

 もう一歩。

 “犬神”は未だ動かない。

 まだ甘菜の力が及ぶ範囲内に居る為か、それとも千年の憎悪を撒き散らす祟り刀を怖れてか。

 陣太郎は精神を研ぎ澄まし、もう一歩前へ出る。

 捨身。

 相打ちでいい。

 ただ手の中にある刀を突き立てればいいのだ。

 首に牙を立てられようと、心臓をかみ砕かれようと、はらわたをえぐられようと構わない。

 もう一歩。

 刹那、“犬神”の白く細い姿が揺らめいた。

 ――来た!

 遅れながらも精一杯反応した陣太郎は、晴眼に構えていた祟り刀を突き出す。

 が、手応えを感じ取れぬまま、首筋に衝撃と圧迫感を感じて視界が縦に動いた。


「陣ちゃん!!」


 頭の上で叫び声が上がる。

 次いで、喉の所に荒く生暖かい息が感じられ、すぐにメリメリと音がして首が砕けるような感触が伝わってきた。

 ――ああ。

 失敗、したみたいだ。

 腕は――だめだ、力が入らない。

 刀がビクともしねえ。

 ごめん、甘。

 俺、ここまでみたいだ。

 急速に遠のく意識の中、陣太郎はせめて一太刀だけと必死に刀を握る右手を動かそうとした。

 例え腕が振るう事ができても、喉に牙を突き立てる“犬神”が首の骨を砕く方が早いだろうなと思いつつも。

 だが、陣太郎は知らない。

 刀がビクともしない理由を。

 突如、意識を手放そうとしかけた瞬間での事である。

 首に突き立てられた牙が引き抜かれる感触を覚え、陣太郎は意識を僅かに繋ぎ止めた。

 視界をぼやけさせながら瞼を開くと、ぶれる視界の先では白いナニカがのたうち回っている。


「ガアアアアアアア!」


 苦悶の絶叫は獣の物。

 “犬神”はその腹に深々と刃を突き立てられたまま、陸に揚げられた魚のようにのたうっていた。

 そう。

 陣太郎はなすすべ無く“犬神”に牙を突き立てられた訳で無く、相打ちとなっていたのだ。

 白い体毛に覆われた腹に刺さる刃からは血は一滴も出ていないものの、かわりに無数の赤いムカデが湧き出してきて見る間に“犬神”の全身へと広がって行く。

 やがておぞましくも白い体毛が全く見えなくなるほどムカデに集られた“犬神”は、ピクリとも動かなくなりやがて骨も残さず食い尽くされてしまった。


「陣ちゃん!!」


 もう一度、悲痛な叫び声。

 だれが上げた声なのかはわかっていたが、陣太郎には最早そちらを向く余裕は無い。

 意識は再び急速に薄れ、血がどれ程流れたのか体の芯から来る寒さが気力を削いだ。

 しかし、同時に暖かな満足感が体の中心にあって陣太郎を暖める。

 かつて臼木家の男達がそうしたように、自分も又、命を投げ打って姫を護れた事への充足感が彼を満たしていたからだ。


 視界いっぱいに広がる夜空に浮かぶ月は、既にどのような形を取っているか判別できない。

 恐らくは、このまま意識を失えば二度と目覚める事は無いだろう。

 ――最後に見る景色が月とは、ね。

 突拍子も無く、陣太郎はそう思った。

 が、月は直ぐに叢雲に隠れてしまったようで、少しだけ彼を落胆させる。

 消え去る意識の中、果たして叢雲は甘菜の顔であったと知ったのは、唇に彼女の吐息を感じてからだった。



 夏休みが終わり、新学期早々に臼木陣太郎が通う高校でいくつかの事件が立て続けに起きていたが、大事件の前には全て些末な出来事であった。


 大事件とは、学校一の美女である天之麻甘菜の停学騒動とそれにまつわる不快な噂が流れた事である。

 経緯はこうだ。

 その日、成績優秀な天之麻甘菜は学校に忘れ物をしたらしい。

 気付いたのは深夜一時。

 成績最優秀者の勉強時間は時に長いのだ。


 彼女は迷う。

 どうしても解いておきたい問題があるのに、こんな時間から学校には取りに行けない。

 凡人ならば、明日でいいやと考えるであろう。

 しかし彼女は凡人では無い。

 天之麻甘菜は悩んだ末、隣に住む幼馴染みの狒々のようなチビの幼馴染みに頼み、学校まで付き添って貰う事にしたのだ。

 相手は学校一のアイドル。

 その頼みを断る事が出来る男など、存在はしない。


 当然、チビ助は喜んで同行し、そして二人は校庭に差し掛かった。

 二人の前に現れたのは、何処から迷い込んだのか野犬が一匹。

 野犬は二人を威嚇し、うなり声を上げる。

 一方、チビ野郎は良い所を見せようと、野犬を追い払おうと威嚇した。

 だが野犬は追い払えず、それどころか逆に襲われて大怪我をしてしまい、クソチビは情けなくも学校一のアイドルに救急車を呼んで貰って一命を取り留める事となる。


 この出来事は当然教師の知る所となり、二人は明らかに不純異性交際の関係でなかった事、天之麻甘菜は日頃から学業優秀者出会った事から不問に処される事となった。

 ちなみに、頭の悪そうなチビの方は大怪我を負ったとは言え、どうやったのか学校の鍵を持っていた事から停学三日となったのである。


 ――ここまでならば、別に事件と呼べるような物では無いだろう。

 問題はこの二日後である。

 彼女が職員へ一通りの説明を終えた次の日、心優しい天之麻甘菜は停学&入院をしてしまった不細工なチビの為に、彼のクラスへ勉強道具を取りに現れた。

 その際、一度は垢抜けたがここの所急に地味子へと戻っていた笹山弘子と二、三会話を交わし、なんといきなり殴り倒したのである。

 その理由が『くだらない占いをしていたから』という、信じがたい内容であったのだ。

 また、複数の証言より笹山弘子を殴り倒した際、『あなたのせいで陣ちゃんが!』と口走った事が確認されていたという。


 陣ちゃん、というのは臼木陣太郎こと件の不細工で頭の悪いチビの事らしい。

 結果、彼女の行いはすぐさま職員会議にかけられ、学校一のアイドルは停学一週間を言い渡される事となった。

 後に残る彼女と臼木陣太郎の交際疑惑は未だ、確認中であるという。


「――っていう噂が立ってる位で、学校の方はそれ以上の騒ぎにはなっていないわ」

「うぉい! 勘弁してくれよ」

「いいじゃない、別に。好きに言わせておけば」

「良くねえ! 俺、ぜってえイジめられるって! 噂の時点で俺への悪意が滲んでるじゃねえか」

「ま、仕方無いわよ。美女と衛生害虫だし」

「やめろよそれ。命の恩人に対しての言葉じゃねえぞ?」

「いいじゃなーい、おかげで学校のアイドルと二度もベロちゅーできて、付き合ってる事になったんだから」

「あ、いや、その。キスというか、唾を流し込んでくれた事は感謝してるけど、つ、付き合っているって所はえっと……」

「何本気にしてんの? キモいんだけど」


 とある病院の、真っ白な病室。

 あの夜、ここへ運び込まれていた臼木陣太郎は一命を取り留め、今も入院中であった。

 現在では見舞いに来た停学中の美しい幼馴染みと冗談を言い合う程回復し、退院も間近である。


「わ、わるかったよ……」

「え? 何? キモいって言われて気にしてんの? 今更?」

「気にするって! 大体、女子の言う『キモい』って男子には地味にダメージがデカいんだぞ!?」

「へぇ、そうなんだ?」

「そうなの! ……で?」

「ん? なに?」

「なんでお前、笹山殴ったんだよ。らしくねえ」

「ああ、あれ。なんて説明しようかな……こう、カっとなっちゃったんだよね。ほら、あの夜は結局笹山さんをほっぽりだして救急車呼んだんだけどさ」

「うん」

「最初はあの夜の事を口止めしとこうと声掛けたのよ。そしたらね」

「そしたら?」

「どうも、あの夜の事は覚えていないらしくて。で、それとなく『ねえ、笹山さん。占いとか詳しいって噂で聞いたんだけど、今どんな占いしてるの?』って聞いたら……」

「聞いたら?」

「……何処で調べたのか、今度は“神降ろし”の祝詞を唱えだしてさあ」

「うわあ」

「気が付いた時にはもう殴り倒しちゃってた。あれだ、顎の先に拳が当たったのが行けなかったのね。笹山さん、失神しちゃっててさ」

「お前やるなあ」

「まあ、私的には後悔してないよ」


 天之麻甘菜はそう言って、ニヤリと笑った。

 彼女には珍しい、悪戯っぽい笑みである。


「しかし、良かったね。私もどういう事かはわからないけど、傷、なんか直りが早いみたいじゃない」

「ん、医者も驚いてたよ。俺、ぜってえ死んだって思ったんだけどな」

「んー、ムカデの神威に憑かれてるから、生命力が底上げされてるのかなあ?」

「ちょ、止せよ」

「でも、あの噛み傷、ぜったい頸動脈やられてたよ? 出血も凄かったし私こそ絶対死んじゃったって諦めてたもの」

「そんなに酷い状態だったの? 俺」

「うん。グッタリしてて、私、苦労してグラウンドまで陣ちゃんを引きずってさ」

「そうか……ありがとうな、甘」


 陣太郎はそう言って、ベッドの上から幼馴染みにペコリと頭を下げた。

 その首には痛々しく包帯が巻かれていたが、動かしても特に問題は無いようだ。

 また、幼き日の天之麻甘菜の呼び名に、否定の言葉は返っては来ない。

 彼女はただ、少し気恥ずかしそうに笑うのみである。


「あ! そうそう」

「ん?」

「この前の夜の話で思い出した。んーと……はい、これ」

「なんだ、これ?」


 手渡されたのは、こぶし大ほどの箱。

 包装はどこかぎこちなく市内では見ないような物であるから、恐らくは通販かなにかで購入し甘菜が手ずから包装した品であるようだ。


「時計よ、時計。この前の夜のお礼。Gショック以外にも絶対持ってた方がいいって」

「あー、あの話か。……さんきゅ、もらっとく。割に合わない気もするけど」

「なによう、それだけじゃ足りないって言うの?」

「そんな事はないけど……こっちは死にかけたんだぞ? もうちょっとこう、気の利いた言葉とかあんだろうが」

「……それもそうね。じゃあ、体で……払おうか?」


 意表を突かれる、とはこの事を言うのだろう。

 陣太郎としては意識を取り戻してよりこっち、殆ど聞けなかった甘菜の心からの礼の言葉を引き出したかったのだが。

 予想外にも突如、モジモジとした仕草で甘菜は体で払うと言い、じっと上目遣いに陣太郎を見つめて来たのである。

 その破壊力に陣太郎は思わず生唾を飲み込んでしまった。

 二人の間に妙な空気が圧縮されて行く。

 しばし、そんな甘く気まずい沈黙は続き……


「あはは! 何本気にしてんのよ、陣ちゃん。ほんと、エロエロなんだから」

「んあ?! 甘、お前!」

「怒らない怒らない。はい、これ……ぷぷ、く、陣ちゃんの鼻の下が伸びた顔ったら!」


 突如、甘菜は笑い転げながら、大きめの紙袋を差し出してきた。

 紙袋の中身は果たして、口にするのは憚られるようなタイトルの雑誌である。

 しかも。

 どれも見覚えのある書物ばかりだ。


「……なんだよ、これ」

「陣ちゃんの部屋から持って来た、H雑誌。なるべく“使い込まれた”ような奴を選んできたつもりよ?」

「なにやってんのお前! バカじゃないの?!」

「おばさんがねー、気前よく部屋に上げてくれたよ。丁寧にも三つある隠し場所を詳しく教えてもくれたし」

「勘弁してくれよかあちゃん!」


 頭を抱える陣太郎と、再び悪戯っぽく笑う甘菜。

 いささか行きすぎた感がある幼馴染みの行為であったが、なぜか陣太郎にはそれまでの距離を埋めようとする物にも見えて本気で怒ることが出来なかったのである。 

 程なく、甘菜はじゃあねと言い残して病室を後にして家に帰っていった。

 未だ停学中である為、人通りの多い夕方となる前に家に帰る必要があったからだ。


 幼馴染みをベッドの上から見送った陣太郎は、急に静かになった病室に一人そっと左目に手を添えた。

 左目は未だ開かず、祟りが続いて居ることを意味している。

 しかしそれは陣太郎にとって、祟りと同時に甘菜との繋がりを意味しているような気がして。

 ふと、そういった繋がりこそ祟りその物ではなかろうかと考え、開かない左目を触りながらベッドの脇に置いてある竹刀ケースを見て、ため息を深く吐く。


 きっと、ご先祖様もこんな気持ちで天之麻の姫を守ろうとしていたんだな、と想いながら。





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