女心と、マニアの会話は……わからない
啓介は帰宅部だ。中学校の頃に他人と時間を共有し過ぎると疲れることに気づいたので高校ではクラブに入部しなかった。別に他人が嫌いというわけではない。人には二種類あて、人と一緒にいることで元気を回復する人と、一人でいることで元気を回復する人がいるらしい。その話を聞いたとき、自分は後者なのだなと妙に納得した覚えがある。ちなみに、かすみは前者だとと思う。それどころか一人で家にいるとなぜか、むしゃくしゃしてくるらしい。
ふだんなら授業が終わればまっすぐに帰るはずだが、今日からは放課後にかすみのクラスに行くことになっていた。迎えに行くと、かすみはまだまわりの女子とお喋りをしている。啓介は女子が集合した際に生じる障壁をできるだけ無視して、かすみの肩を叩いた。
これからはしばらく一緒に帰ろうということは事前にかすみと合意済みである。会話に割り込んでくる啓介に、その他女子は好奇な目を向けた。彼女らはどこかしら、にやにやしている。
「私はまだ帰らないよ。だって今日手芸部の日だもん」
かすみは少し驚いたように言った。かすみが手芸部なるものの活動をしていたのを啓介はすっかり忘れていた。少し考えた末、
「じゃあ一緒に手芸部にいこう。俺は今日からしばらく体験入部生、ということで」
そう宣言すると、活動場所である被服室に先に向かった。かすみは女子たちに慌てて別れを告げて、後からついてくる。女子達はかすみに冷やかしの言葉を投げかけていた。入学当初から付き合っていないということを周りにきちんと説明しているのに、何だかんだでそういうふうに勘ぐっているようだ。さぞかし迷惑なのだろう、かすみの頰も少し赤かった。
被服室に着くと顧問の先生はまだいないようで、部員たちが個々でまったりと何やら制作を行っているようだった。かすみに季節外れの体験入部生だと紹介してもらうと、男子自体が貴重であるようで、それなりに歓迎をされた。そう言われて見てみると、部員は女子ばかりである。かすみは男子を連れてきたことでまた先輩にからかわれている。
かすみの今の活動は、蓮花の刺繍だった。布にピンク色の糸で花びらをつけていく。啓介にとっては珍しいものだったので、まじまじと見てしまった。
「あんまりじろじろ見ないでよ。気が散るでしょ」
かすみは落ち着かない様子だった。数式の展開をしているときに、他人にノートを見られると嫌に緊張してしまうのと同じようなものかと思い、今度は窓の外をぼーっと見ることに終始してみた。すると今度は、それはそれで不満なようで
「ちょっと、せっかく来たんだから少しは興味を持ったら?」
と頬を膨らませる。
「だって基本的には興味がないから仕方がないだろ」
啓介がそう言うと、周りがしんとした。そう言えば、体験入部に来て興味がないとはあんまりだ。
「いや、冗談冗談。アメリカンな冗談です」
苦しい言い訳で、ばか呼ばわりされた。全くもって理不尽である。
啓介は試行錯誤の末、ちょうど一分ごとに外の景色と、かすみの制作風景を交互に見た。これはなかなか、かすみにとってもちょうどいいようなので、しばらくの間平穏なときが過ぎた。
頰づえをついて外を眺めると、外には黒い雲が少しずつ増えてきているようだった。空における雲の割合によって、天気の呼び方が、晴れ、曇り、雨と変わる。小学生のときの知識を思い起こしてぼーっとしていると、急にカッターシャツの袖のボタンを引っ張られた。続いてチョキンという音。ボタンの緩やかな拘束から手首が解放されて、袖口はだらしなく垂れ下がった。
「ボタン、つけてあげよっか?」
かすみは、得意そうに笑っていた。
「自分でちょん切っておいて『つけてあげる』はないだろ」
「じゃあつけてあげない」
かすみはぷいっとして、また制作に取り組み始める。
啓介は小学校の家庭科の授業を思い出した。ボタンの付け方は確かに習ったはずだ。しかし、最初に玉結びをして、ボタンをつける位置に針を通すところまでしか思い出せなかった。びろんとなった袖口は何とも心もとない。
「すいません。ボタンつけてください。お願いします」
かすみはどこかの国の皇帝が機嫌のいいときだけに見せるような満足そうな顔をした。続いて、流れるような動作で針に糸を通したかと思うと、変わった形の結ぶ目を作り、何度かシャツとボタンの間を行き来させて、くるくるとボタンのまわりに糸をまわして、あっという間に固定した。啓介は魔法のように取り付けられたボタンをしげしげと眺めた。すると、
「この糸はね、普通の糸より二倍くらい丈夫だから、ボタンの固定には最適だよ」
いきなり後ろから声をかけられた。手芸部顧問の金井先生だ。どこかしら無機質な特徴のある声だった。
啓介は金井先生の授業を受けたことはなかったので、少し身構えてしまった。背も高くないし、太っているわけでもない。特徴のない地味な先生だなというのが、啓介が抱いた第一印象だった。
体験入部させてもらっていることを告げるが、適当な相づちを打ってくれるだけだった。どうやら金井先生の興味はかすみがつけてくれたボタンにあるようだった。
「その糸の結び方は初めて見たな。どうやってるんだい?」
啓介のボタンは確かに見慣れない結び目でくくりつけてあった……なんてどんなマニアだ。啓介にはそんなのは一向に分からなかった。
「これは我が家秘伝の結び方なんですよ。蝶々(ちょうちょ)結びよりも蝶々らしいでしょ」
糸の結び方だけで会話がどんどんと広がっていく。二人は楽しそうだが、啓介には何が楽しいのか全くわからない。啓介は一人サイズの無人島に取り残された気分だった。
手芸部の基本方針は、とにかく糸にこだわること。かすみによると、この手芸部の部費のほとんどは糸代に使われているらしい。金井先生曰く、糸は買わなければきちんとした物はない。けれど、布は家の中に不要な物があふれているだろう。それを使えばいい。言われてみればその通りで布は不要な衣服から取れる。けれど、糸は無理だ。布を解いて糸を得るのは並大抵の労力ではないし、布に使われている糸は刺繍糸とは違うので、縫い付けなどに使うことはできない。
「これも家から持って来たいらない布なんだけどね、埃をかぶっていたからちょうどよかったよ」
へぇそうなんだぁと軽く次の話題にいこうとするが、視線が思わずその布きれにくぎ付けになる。明らかに機械には出せない上品さみたいなものがその布にはあった。
「その布、高いやつじゃないか? そんな適当にはさみでぶつ切りにしていいものなの?」
上品に淡い黄色みがかった布地は、小学生の画用紙のように切り刻まれていた。
「これ? なんて言ったかな。真綿手織り八寸帯だっけ? いくら元値が高くても使わないなら価値はないからね。有効利用することにしたの」
多分これは、手のひらでそっとさすったときの手触りだけで人を幸せにできる布だ。いや、少し前まで、そういう高級な布だったものだ。こんなことになるために生まれてきた布ではないはずなのに。いい加減にしろ、この金持ちが。
その後、かすみは遅くまで一人残って制作を続けていた。啓介が一緒に帰るということで、気が大きくなっているのかもしれない。金井先生はというと、教壇で提出された課題の添削をしているようだった。最終下校時刻のアナウンスが七時に流れて、やっとかすみは帰る決心をしてくれた。帰る際、布の余りは無残にもゴミ箱に捨てられた。
次の日の朝、啓介は被服室に筆箱を忘れたので取りに行った。ゴミ箱の方から哀愁が漂っていたので、のぞいてみると真綿手織りの切れ端は昨日よりほつれて見えた。