鬱屈とした始動
全ての生産的な勉学は夜十一時以降に行われるというのが田辺啓介の持論である。娯楽も尽きる、世間が静かになる、そろそろ勉強しなければまずいと思い始める、この三拍子がそろってこそ勉学というものは進展を見せるのだ。ゆえに十時というこの中途半端な時間帯は、小説を読みながらその休憩に少し勉強するぐらいがちょうどいい。ただし、両親はそんなことは理解してくれない。だから近づいてくる足音を聞くたびに、小説を閉じて机の隅に置き、勉強しているふりを繰り返していた。
また誰かが来た。足音が近づいてきたかと思うと、ノックもなしに扉が開く。もちろんこのときには既にペンを持ってノートに視線を向けている。
「かすみちゃんから電話よ」
母親は電話の子機を持っていた。なぜ携帯電話ではなく、家にかけてきたのだろうと不思議に思う。カバンの中の携帯電話を確認すると、不在着信が五件通知されていた。いつのまにかサイレントモードの設定になっていた。不在着信はまだいい。問題なのは、緊急通知アプリが、かすみからのSOSを表示していたことだった。まずいな、と心の中で連呼しながら受話器に恐る恐る話しかけた。
「『何かあったらいつでも駆けつけてやる』って言ったのは誰だっけ」
「かすみさん、御無事なようで何よりです。お怪我はございませんか」
「怪我はないけど、危うく殺人事件が一件増えるところだったよ」
相変わらず恐ろしいことを淡々と口にする幼なじみだった。きっと殺されるよりは、返り討ちにするという意味で、殺人事件が一件増えると言ったに違いない。
「でも、啓介は来なくて正解だったよ。呼んでおいて何だけど、あれはきっと『逃げるが勝ち』のパターンだったと思う」
「じゃあ結果オーライってことで許してくれるかな。最近、機種を変えたもんだから、よくわからないまま音が出なくなっててさ」
「また機種変更したの?! まだ前の携帯一年も使ってなかったよね? そんな無意味な機種変更のせいで気づかなかったって、そんな理屈が通じると思ってる?」
受話器からかすみの唾まで飛んできそうな勢いだった。言い訳すること三分。謝ること二分三十五秒。自分の非からうまく話をそらすこと一分二十秒を経て、やっと普通に話ができるようになった。
かすみはどうやら今話題の通り魔に遭遇してしまったようだった。犯行の手口がいつも細い糸のようなものによる絞殺だったので、糸の通り魔とも一部では呼ばれていた。事件は今年の二月から複数回起きているが、警察も手掛かりがなくて苦戦している様子だ。かすみの目撃情報はきっと有力な手掛かりになる……はずだった。
「警察にはもう連絡したの?」
「するわけないでしょ。私、納豆より警察嫌いだもん」
親に無理やり納豆を食べさせられそうになって大泣きしていた小さい頃のかすみを思い出した。そして、食べ物と警察を同じ軸で評価しているあたり、やはりこの幼なじみはどこかぶっ飛んでいる。
「でも連絡した方がかすみの安全上もいいんじゃないかな」
「連絡しなくても安全に逃げてこられたから大丈夫」
Vサインでもしていそうな自信満々なコメントを聞いて、警察に連絡してもらうことは諦めた。言い出したら、てこでも動かないやつである。となると、またかすみの身に危険が迫る可能性はある。これから携帯電話には気をつけておいた方がよさそうだ。
「あの通り魔はあそこで何してたんだろうね」
「そりゃ、通り魔だから、通り魔してたんだろう」
話しながら引っ張り出してきたノートパソコンで最近のニュースやソーシャルメディアの検索を行った。かすみの目撃したものが、同一犯の事件だったかどうかを確かめようと思ったからだ。少し調べただけで一件のソーシャルメディア情報がそれらしい事件に言及しているのを見つけた。どうやらかすみが襲われた近辺で殺人事件が起きていたことは確からしい。
かすみは襲われたときの状況をしばらくの間、繰り返し説明していた。その後、
「これから、どうしたらいいと思う?」
と、啓介の出方をうかがうように聞いてきた。
「どうしたらって……犯人を捕まえたいの?」
「そんなことはないんだけど、やっぱりこのまま放置するのもどうかなって思って」
「犯人を許せないとか?」
「違う、と思う。ただ、仲のいい人が同じような目に遭うかもしれないかと思うと」
「例えば、僕が犯人に絞め殺されたとしたら?」
「それは絶対に許さない」
躊躇いがちな口調がここで一転した。
「そう、ありがとう」
啓介はお礼を言った。だが、もうこの瞬間から頭の中では完全に別のことを考えていた。
「おーい、啓介? 人の話聞いてる?」
「うん、聞いてるよ」
「ほんとかな。じゃあ問題です。……王様の耳は?」
「ロバの耳」
「メイドさんがつけると可愛いのは?」
「猫の耳」
「サンドウィッチに最適なのは?」
「パンの耳」
「細くて具が挟めない! でも、一口サイズでちょっといいかも……って、やっぱり真剣に話を聞いてくれてないよね」
「ん? あぁ、ごめん、ごめん。ちょっと今トリップしてた」
頭の中で考えを構築し出すと、他人に適当に合わせるのが啓介の癖だった。自分ではこの状態をトリップと名付けている。よくあることなので、かすみにもトリップと言えば通じる。プログラミングをしているときに多いのだが、考えごとをしていると頭の中で設計図がどんどんと広がってゆくことがある。これを中断すると、また最初からやり直す必要があるので、こういう場合はひとまず考え抜くことが大事なのだ。啓介にとっては、この適当な受け答えは、思考の防衛手段と言えたが、かすみにとっては反応を楽しむおもちゃのような存在になっている。
やがて啓介の考えはまとまり、次のように言った。
「よし、かすみのためにも一緒に犯人を捜そう」
きっとかすみが欲しかったのはこの言葉だったに違いない。かすみの声のトーンが跳ね上がったのが啓介にはわかった。
「喜んでいるところ悪いけどさ、探し出せる可能性は低いと思うよ」
「大丈夫、大丈夫。啓介は、携帯のアプリ作れちゃうぐらい頭いいんだから」
「あんなの誰でもできるって。プログラミングなんてただのパズルだから」
プログラムは書いたとおりに動く。だから簡単だ。啓介からすれば、人間を相手にする方がよっぽど難しい。
「ところで、どうして手伝ってくれる気になったの?」
「別に理由なんてないよ」
啓介は自分の声がうわずっていないことを確認する。
「やっぱり啓介の主義と関係あるの?」
「主義ってあれのこと?でも、何度も言うけど、あれは主義って程大層な物ではないよ」
美しい物は好きで、醜いものは嫌いだ。人間であれば普通のことだと思う。何げなく口にした一言だが、なぜかかすみには強く印象に残っているらしい。
「そう感じるのは普通のことだけど、そう変えていこうとするのは普通のことではないよ。みんな醜い物からは目を背けるだけだけど、啓介は違うもんね」
確かに啓介の場合、自分の手の届く範囲で変えようと努力はしている。でも、醜いものから目をそらさないわけでもない。政治家の汚職などは見た所で何もできない。人を殺した人間が何十年か刑務所で暮らしただけで日常に復帰できるのも、納得はいかないが司法制度を変えようとは思わない。
「結局はエゴだよ。褒められたもんじゃない」
それは啓介の本心だった。




