糸。神聖で、救済をもたらすもの。
最も古い記憶は、幼稚園の制服の裾から糸が伸びていたことだ。そのときは、なぜあんな細長いものが、いつも着ている服から伸びているのかと不思議に思っただけだった。
気づけば、糸は身の回りにたくさん隠れていた。絵本のページを閉じる部分にもあったし、楽器にもあった。一番身近なのはやはり衣服だった。本当に糸が織り合いながらこのような形状を成しているのか、服の糸をほどききるまで信じられなかった。ほどききった後、感動で全身が震えた。ほどききったことを母に告げると「最後までやりきるなんて本当に集中力のある子ね」などという素っ頓狂な答えが返ってきた。
母はことの重大さが全然わかっていなかったようだったし、今でもきっとわかっていないのだろう。
小学校の家庭科は最もすばらしい授業科目だったと思える。並縫いをどれだけ等間隔で細かく直線的にできるか。それに集中力の全てを費やした。最初は自分の作品があまりにも不細工で、糸に申し訳ない気分で一杯だった。
ミシンが授業に登場したときは本当に歓喜した。この機械は芸術だと言っても過言ではないと本気で思った。ミシンの制作会社の名前はすぐに頭に刻みつけた。新聞やテレビでその文字が少しでも表示されれば食い入るようにそれを見た。
ミシンで描かれるあの軌跡を一度どうしても自分の指に刻み込みたいと思い、ミシンに手を入れたことさえあった。さすがに痛いことはわかっていたので、かすらせる程度から始めてみたのだが、やはり激痛に堪えきれずそれについては断念した。
中学生になるまでにこの糸への愛着は隠すべきものであることを悟った。みんなとの会話は糸以外の話題で適当に合わせることを覚えた。だが、それによるフラストレーションとも同時に戦うことになった。
糸に関して愛着を持っていたが、職業とするのはどうもしっくりこなかった。工場で決めつけられた刺繍や縫い付けをやるのはどうにも我慢ならなかった。糸の可能性はもっと広がっているはずだと信じたくなってしまうのだ。結局、糸への愛情は趣味の域で続けるのがいいと思い、教師という道を選んだ。しかし、これは意外と良い選択だった。なぜなら、手芸部の顧問をすぐに受け持つことができたのだ。部員は少なくて手もかからなかったし、アウトプットも定められないので自由にできた。熱中しすぎても指導熱心という評価につながるだけだし、クラブ活動費とコネで個人では入手しにくいような糸も購入することができた。
糸は人よりも偉大である。
それを証明するのが自分の人生最大の目標とも言えた。でも、どうすればそれが証明できるのかは、ずっとわからなかった。それにやっと一つの答えが出たのが今年のことだった。糸が人の命を絶てるならば、糸は人よりも強い。ふと考えついたこの言葉は、自分の中にじわじわと染み広がって、いつの間にか真理として定着していた。
最初の証明は二月だった。包丁で刺せば返り血を浴びるが、糸で絞め殺せば問題はない。凶器の包丁を隠すのは大変だが、糸はどこにでも隠せるし処分も容易だ。糸はその万能さをまた現したのだった。
次の証明は四月だった。また、思った通りうまくいった。
次は六月。先ほどの出来事だ。これはいけなかった。糸のせいではなく、完全に自分のミスだ。その原因は五月に模倣犯がいたことだった。模倣犯をマスコミが騒ぎ立てる際に、前の二件よりも芸術的であると報じたのである。犯人は上達しているとも報じられた。嵐の夜の犯行だったらしく、目撃者もいなかった。きっと私のように崇高な目的があるわけではなく、ただ私利私欲のために殺し、その犯行を私という隠れ蓑に放り込みたかっただけに違いない。
その事件は私の琴線に触れた。偶然に決まっているが、模倣犯がより芸術的だったなど自分の中で決して許せなかった。だから今回は少し欲を出して、より芸術的に行うことに終始した。結果、目撃者を出すというミスにつながってしまった。
目撃者は制服姿から自校の女生徒だとすぐにわかった。一部始終も見られたかもしれない。そして、始末しなければ、自分は捕まってしまうという予感があった。これは、自らの敗北ではなく、糸の敗北である。それだけは避けなければならない。その一心で追いかけた。そして手首をつかんだ。が、そこからの動きが素早く、結局逃がしてしまった。
手には引きちぎったボタンだけが残った。ぼう然として膝に力が入らなかった。だが、糸はこんなときでも私の味方だった。ボタンについていた糸が、手芸部で使っている少し特徴のある糸だったのだ。これが既製品のシャツについているなんてことは考えられない。目撃者は手芸部の部員だ。そしてあの背丈と黒髪は恐らくあの部員だ。
私は大きめのマスクをしていた。普段はしない眼鏡もしていた。暗闇の中で向こうはこちらには気づかなかった可能性は十分にある。現に私は生徒の顔を見分けられなかったのだから。
本田かすみ。
絶対に始末する。目の前に下がっているこの蜘蛛の糸をものにしてやる。つかみ取ればまだチャンスがある。そう思えた。