いつか、もう一度
二か月ほど経過すれば啓介の体はほぼ元通りに回復した。けれど、横を歩くかすみの記憶は失われたままだった。意識が戻ったとき、かすみはたくさんのことを思い出せず、啓介のこともその例外ではなかった。思い出せない存在ならば、近くにいることで、混乱させてしまうのではないかと啓介は思った。しかし、近くにいてくれた方が安心するから、側にいて欲しいと言われた。
記憶が消えて、感情だけは残ったという感じなのだろうか。
これはかすみの父親から聞いた話だが、仕事の記憶も、かすみからすっかり抜け落ちているらしい。いくら説明しても、冗談だろうと返され、信じてもらえなかったらしい。
最愛の娘がそんな状態なので、あの父親の雰囲気もより暗いものになっていた。
今、かすみは純白だ。いいことも悪いことも全部消えた。前より屈託なく笑うように見える。前よりも自分の感情に正直に生きているように見える。もちろん、つらいこともたくさんあるのだろうけれど。
記憶なんていつか戻る。本人はえらく気楽に構えているようだった。かすみらしいと言えば、かすみらしかった。
「でさ、昨日の現代社会のテストなんてほんとに絶望した。全然、見たことない問題ばっか。記憶喪失にはあのテストしんどいよ」
「心配するな。お前記憶あるときも同じようなこと言って、赤点とってたよ」
「うわー私のばかー。墓穴掘ったー」
かすみは頭を抱えつつも、脳天気に笑い飛ばす。啓介もつられて笑ってしまう。
記憶が信じられないから、感情を信じることに決めている。かすみの言葉だった。そして、啓介は絶対に大丈夫だと感じてくれているらしかった。最初は父親よりも啓介を信じる素振りが多かったせいで、父親には足を何度も踏みつけられた。
こうやって登下校をするのも、もう慣れたものだった。
日々は着実に過ぎていく。
ふと、かすみは歩みを止めた。
「ねぇ、気になってたことがあるんだ。どうして啓介君はこんなにも私に優しくしてくれるの?」
啓介はかすみが退院してからは、授業中以外は、ほぼかすみのそばにいた。かすみが家に帰っても、電話で話し相手になった。それは、罪滅ぼし。または、喪失感からだった。
「もしかして、事件の前は私たちこっそり付き合ってたり……」
「付き合ってはないよ。前も言ったろ? 僕らはただの幼なじみだ」
かすみの言葉に啓介の心はねじられる。啓介はかすみとは反対の方に顔を向けた。
「そか。そうなんだ」
再び目を向けると、かすみは下を向いていた。そのまましばらく無言でてくてくと歩いた。
「私はね、啓介君のこと、好きだったんだと思うよ」
啓介は何も言えない。
「今の啓介君の様子見てると、啓介君も私のこと好いてくれてたのかなって。でも付き合ってなかったってことは、もうすぐ付き合うはずだったのかなぁ。おしい二人だったんだね」
ここまでは明るい声だった。
「ごめんね。こんなことになっちゃったら付き合えないよね。二人のたくさんの大事な思い出、なくなっちゃったもん。啓介君にはあるんだろうけど……アンバランスにも程があるよね。なんで忘れちゃったんだろう、こんな大事なこと」
涙声が突然降ってきた。かすみの瞳はゆっくりと潤んでいく。それが、啓介の心をごっそりとえぐる。
失って初めて大切なものに気づく。この言葉はきっと正しくない。失ってしまったら、もうどれだけ大切だったかわからなくなる。気づくといいながら、多分もう正確には気づけない。ゼロ、一の話なんかではない。大事なことだったはずなのに、想像するしかないなんて酷い話だ。できることなら、もっと前に、他の大切なものを失っていればよかった。そうすれば、こんなことにならずに済んだかもしれない。
「ごめん、今はかすみとは付き合えないんだ」
啓介は曖昧に言う。付き合う資格がないとは言わない。自分が何をしたかも言えない。嫌われたくないからだ。啓介は自覚していた。
いつの間にか、かすみが啓介の表情をのぞき込んでいた。啓介は自分がひどい顔をしていることに気づき、急いで表情を取り繕った。
「記憶がなくてもね、私はいつでも啓介君の味方だよ」
「なんで、そんなこと言うんだ?」
「なんとなく? 心がそう言えって言ってたから」
濡れた瞳と、いつもの笑顔。初めて見る取り合わせだった。
啓介はそれを綺麗だと感じてしまった。
「何だよ、それ」
啓介は胸の辺りからこみ上げてくる、ぐちゃぐちゃとした感情達をぐっと堪える。
いつか話せるときが来たら、本当に許してもらえるなら、またやり直せるだろうか。
やり直すと言っても、一体何を、どこからだろう。
啓介はトリップしてゆっくりと考えてみた。その間、かすみは一人きょとんとしていた。




