遭遇は糸を鳴らす不気味な音とともに
一人で歩くには寂しい夜の住宅街を、本田かすみは一人で歩いていた。
かすみは高校一年で、家から比較的近くの高校に通っている。制服はちょうど夏服に変わったばかり。とはいえ、半袖のカッターシャツではまだ寒いので、大半の生徒は長袖カッターシャツにベストまたはセーターといった格好が大半を占めていた。それでも、夜の塾の帰り道はまだ少し肌寒い。
近くで連続通り魔事件が起きていた。だから、授業終了の時間が近づくと塾の前の狭い道に車が殺到するようになっていた。これでは逆に交通事故の犠牲者が出ないかと逆に心配になるぐらいだった。そんな中、かすみだけが塾から一人で帰っているのは、いわゆる家庭の事情からだった。
かすみが塾に通い始めたのは最近のことだ。かすみの場合、まだ塾に通わせてもらえているだけでもラッキーなのだ。夜道が一人になることくらいはかすみにとって何でもなかった。
かすみはまじめであることを自負していた。周囲に流されず黒髪は維持しているし、スカートの丈も校則の膝ラインをぎりぎり破らない程度にとどめている。「明るく元気に細かいことは気にしないが」モットーだ。幼なじみには天然だと言われるが、その自覚はない。ただ、どこか悟ったような所もあり、人よりは多少肝がすわっている。だから、突然始まったその不思議な光景も、比較的冷静な気持ちで眺めていた。
二区画先の壁の上に人影。シルエットはどうやら細身の男。男は壁の上から何かを曲がり角の向こうに投げた。投げ方からすると大きい物ではない。スナップをきかせれば飛んでいくような小石程度のもの。音は何も聞こえてこない。続いて、投げた先から魚を釣り上げるように何かを引っ張り上げる。そして、壁からかすみの歩く道のその先に飛び降りた。
かすみは息を殺してじっとしていた。まだその男がかすみに気づいた様子はない。少し距離があるし、人目に気づいていれば動作に何らかの淀みが出るはずだがそれもない。
男は飛び降りた壁に背を向け、屈んだ体制で肩越しに何かを引っ張り続けていた。決して上品たり得る動作ではないはずなのに、一連の動きは貴族がカップを傾けるかのような優雅な印象だった。一分ほど経つと、
ボォォォン。
静けさの中で突然、薄気味悪い低音が響いた。男は力を抜いてすっと立ち上がる。向こう側を向いて何かをしているようだった。
やがて男はかすみの方を振り返った。男の動きがそこで止まる。かすみは男の踏み出す次の一歩をじっと待った。こちらに来るのか、立ち去るのか。それは運命の分かれ目だった。
男も少し考えているのか、こちらをじっと見たまま動かない。来ないでと、かすみは願った。それと同時に、最悪の場合に備えていつでも逃げ出せるように準備をした。そして、カバンの中の携帯電話に手をやる。
携帯電話には幼なじみの啓介が作ったアプリがインストールされている。それを使えば、直後に録音した音声と、位置データが啓介に簡単に通知できるようになっている。一度だけいたずらで使ったことはあるが啓介はすぐに来てくれた。今回もきっとすぐ来てくれるはずだ。走るなら啓介の家の方向に走ることにしよう、と頭の中で走る経路まで考えることができた。携帯電話の熱が、そっとかすみの心を温めてくれたように感じた。
一歩。男はゆっくりとこちらへ踏み出した。その一歩がためらったかのようなあまりに小さな一歩だったので、かすみはスタートを切れなかった。しかし、次の一歩は力強くかすみに向かって踏み出され、かすみは踵を返し走りながらアプリを起動する。
「啓介、助けて。通り魔に追いかけられてる!」
それだけの言葉を携帯電話に向かって投げつけると、かすみは走ることに集中した。
けれど、走りにくい。ハンドバッグが体重移動のリズムを崩す。走るたびにカバンの中の筆記具がガチャガチャいらない音を立てる。対して、男が走ってくる音は規則正しくタタタタタと響く。学校指定の靴も走るには底が厚過ぎてかすみを苛つかせた。
路地を走り抜ければ何とか逃げ切れそうだ。そう思った矢先、小さな交差点で車が横から近づいてくる音がする。車の多い道ではないのに、こんなときに限って車に出くわす。飛び出して轢かれるのは、追いつかれるより最悪だ。仕方なしに急減速をしてかすみは前につんのめる。男の足音が一気に近づいてくる。
やっと通り過ぎていく車。再スタートを切ろうとしたが、もう間に合わなさそうだ。とっさに男の方を振り向く。
男はねじ切るような勢いでかすみの手首をつかんだ。