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さて、翌朝になったわけだが。
目覚めざまにまず目に入ってきたのはスマホだった。電源を着けてさっそく開いたチャット欄には、昨日のやりとりがなにひとつ溢れることなく記されていた。昨日のことがどれひとつ夢じゃなかったと教えてくれる。
見知らぬ少女にナイフ向けられて、ズボンを下ろされる……おおう、これなんてラノベ?
何気なくベッドの下を覗いてみる。やや薄暗いそこにはなんの形もなく、ただ影だけが落ちている。昨日この中に入っていったような気がするが、やはり気のせいなのか? どこまでが夢で、どこまでが現実だったのだろうか。ああ、わからん。
「とりあえず、あれだ。頭の包帯と、チャット履歴は現実。そして昨日の謎少女は幻想だ。もうなんでもいいや、命あってのなんとやらだ。これ以上なにか考えても堂々巡りだな……」
無理やり結論づけることにした。
「さて、気を取り直して。今日は日曜だ。外は晴れ、気晴らしにどこか出かけることにしようかね」
着たきりスズメの衣服を脱ぎ捨て、適当にクローゼットから服を引っ張りだして着替え、ついでに包帯も剥ぎ捨ててから部屋を出る。まず向かうはトイレだ。1日の始まりはまず出すことから始まるだろ? みんなそうだろうし、俺もそうだ。
「せいぜい今日はいい日にしてやるぜ。まったくほんと、昨日は散々だった」
強制的に突っ込まれたらしい会議チャットを漠然と眺めつつ、慣れた足取りで廊下を歩き、慣れた手つきでトイレのドアを開く――なんてただいつもどおりの動作をしたはずなのに、さてどうしたことか。中には先客がいらっしゃった。あまりの意外な状況に俺はドアノブを握ったまま完全フリーズ、ただただ凝視することしかできなかった。
というのもだ。恐ろしく見覚えのある姿がそこにあったからで、昨日鏡越しに眺めるしか出来なかった例の少女が、ちょこりんと便座に座っていた。改めて見てみると、なんだろう、昨日ナイフをちらつかせていたとは思えないぐらいにかわいい。まるで作り物がごとくサラサラとしたタンポポ色の髪が目を引き、後ろで髪をくくっているのだろう赤の飾りリボンがキュートなアクセントだ。丸皿のごとく開いた瞼の向こうにある赤の瞳は作り物のように濁りないし、身を包む黒いゴスロリ調の服やら首もとを飾る白い紐リボンが、少女のあどけなさに拍車をかけつつ、危険な雰囲気を醸し出している。
若干説明調になっているが、そうでもしないと俺の気が動転してしまうこと必須だからしかたない。
あれ、そういえばメリーさんって見たら殺されるんじゃ……?
不意に持っていたスマホがバイブする。画面を見てみると、新しいメッセージが入っていた。
[メリーさん{不快です]
「えっ?」
[メリーさん{レディのお花積みにぬけぬけ入ってきてじろじろじろじろ見下ろすなんて、常識を疑うんですけど]
「いやいや、ちょっとソレあなたが言っちゃいますか!?」
難は難を呼ぶ。昨日あったことは今日もある。
リアルで見たものは、たしかにそこにあるべきなのだ。
ずいぶん今どきっぽいアクセサリーをじゃらつかせた携帯を持った反対の手には、可憐な少女に似つかわしくない鋭利な刃物が――
「まってくれ、昨日はカランビットだったよね!? なんでエモノがマチェットに変わってるんですかねぇ!? てかどっから出した! じゃなくて、そういう問題じゃなくてだなぁっ」
[メリーさん{乙女の刃はひずみに支配されているんだよウフフフ]
「答えになってねぇよ!」
[メリーさん{メリースチール社特製漆黒カーボンの切れ味、とくと味わえ!]
振りかぶったモーションからの脱出余裕でした。戦線離脱、逃げろ!
背後から飛び去っていくものがドドスドスドスと正面の壁に突き刺ささり、それはそれは様々な種類のナイフやらナタやらが壁で花咲かせてやがる!
俺が通る道の壁という壁に凶刃がおっ立つ! なにこれ超怖い! というか怖くないわけねぇ!
[メリーさん{殺す殺ォす! 屠殺待ったなし、さあこっちを向けぇ!]
「誰かーッ!!」
転がるように階段を下り、勢いのままリビングに駆け込むと、何事かと言わんばかりに我がマイ・マザーが俺を見ていた。
「ちょっと、朝から騒がしいわねぇ。もう大丈夫なの?」
「オカン、やべぇ殺される!」
「は?」
「なんか、メリーさん、ナイフが壁に、トイレで……!」
「悪い夢でも見たの?」
「夢じゃないって! 夢じゃあないんだ!」
「ああ、もしかして、昨日頭打ったのが重症だったのかしら。あとで病院に行きましょうね」
ダメだ、ぜんぜんとり合ってもらえない! 一人息子がこんなにも狼狽しているのに!
こうしちゃいられん、この家に味方はいない。だったら外に――
ブルブル。携帯が震える。
[メリーさん{こっち向いたらゲームオーバーだよ?]
この声はまさか。窓に目をくばせる。反射で俺の後ろが写り込んでいる。
背後を取られている……だと!?
「母上、後ろ、後ろ!」
「ん? なんかあるの?」
「オカンの後ろじゃない、俺の後ろ! いるだろ、女の子が!」
「あんたの後ろ?……誰もいないじゃない」
「いやいやウッソだろ、いるじゃんバリバリいるじゃんよ! ゴスロリの女が、俺の後ろに!」
「はぁ……うん。高校ではいい人見つけられるようにがんばりなさいな」
「なんで哀れみの目で見るんだよぉっ!」
「ほらほら、朝ごはん、早く食べちゃいな」
どうあがいてもこの人はザ・マイペースを崩さないらしい。いつもどおりの挙動で朝食のトーストとコーヒーをテーブルに運んでいる。
ちょっとまてよ、落ち着け。もしかしてもしかしなくても、背後のやつ、俺しか見えてないのか? こんだけド派手全開な見た目をしているんだ。俺の背に回って体を隠せるかもしれないが、フワッフワなスカートを隠しきれるわけがない。いやおうなしに目につく。
俺は霊的ななにかとか、都市伝説だとかまったく信じていない。だが、実際のところでは、少なくともオカンには見えていないわけで、これは避けようもない事実としてあるのか? 角っこに転がって寄せ集められて伝説となった存在が、いま……?
何度か深呼吸をして空気を入れ替える。ああクソが、生暖かけぇったらない。そうだ、もう春だもんなこれ。
「……おい、俺の後ろの。聞きたいことがあるんだが」
[メリーさん{なに、いきなり真面目な声だしちゃって]
「おまえ、本当にあのメリーさんなのか?」
[メリーさん{そうだけど? 変わった命乞いだね。聞かないよ今すぐ殺すから]
「そうか、そうか……ああ、マジかチクショウ」
まあ、なんだ。メリーさんとかそういうのじゃないとしても、少なくとも霊的なにかに取り憑かれちまったのはたしかなようだ。こんな経験なんてメッタにできやしない。
まさか、春の始まりで暖かくなった日差しが、俺の脳みそにまで花咲かせるとは思わなんだ。どんなめぐり合わせでこうなったのか。やれやれ……。
[メリーさん{お祈りはすんだ? さっさとこっち向きなさい]
「その要求は飲まん! よく聞け、俺は決して後ろを向かない! 命にかけて!」
窓に映った後ろの物体が、一歩たじろいだ。効いてるな。
[メリーさん{バカ言わないでよ、無理に決まってるじゃん! ウケるー超ウケるー]
「命が惜しいからな。そのためなら俺はもう、ひとつの習性だってぶっ壊してやるわ!」
家中に固い決意が響いたことだろう。俺の背に隠れていた元凶の塊が、唖然として口を開いてたじろいでいる姿が、窓に映っていた。
しばし鳥のさえずりが空間を支配していたが、次なるセリフを届けるために俺の携帯がブルブルっと震えた。
[メリーさん{ふふふふ]
「……」
[メリーさん{ふふふふふふふふ]
「…………」
[メリーさん{いいよ、わかった。長期戦突入! 受けて立とうじゃない!]
「俺は負けん!」
[メリーさん{その気勢がいつまで続くかな?]
「おまえが諦めるまでだ」
[メリーさん{この屈辱は必ず晴らす。覚悟してよね、私の名にかけて、絶対に振り向かせてあげるんだから]
「やってみやがれってんだ。絶対に俺は振り向かない」
[メリーさん{上等]
そのチャットを最後に、這いよる都市伝説の気配が、背後から消えた気がした。その証明……と言えるかは分からないが、二階からドアが閉まる音がする。場所的にはたぶん俺の部屋。もしかして、もしかだけどあれか? 張るつもりなのか?
ブルブル。チャットが届いた。
[メリーさん{あなたを消すまで厄介になるから。よろしく]
「わぁお。ずいぶんな厄介者にとりつかれちまったもんだな……」
「ねえ、公人」
「なんだ母さんよ」
呼ばれて目線を向けると、焦りきっていますといわんばかりな目を、オカンが向けていた。
「やっぱり病院に行こう。いますぐ」
「……あー」
まあ、そう言うよね。
かくして、かの有名な都市伝説『メリーさん』と、後ろを向けなくなった俺の、奇妙な日々が始まったわけだった。
やれやれ、とんだ春休みの始まりになっちまったもんだ。これからどうなることやら……。
***