その2
時計が9時を指す位の頃、開店の支度を一通り終えた惣一郎はふらりと表から家を出た。表の戸には鍵も掛けず。
学生や勤め人たちが掃けたこの時間は人通りもまばらで、どこの店先にも“支度中”の立て板が軒を連ねている。そんな閑静な大通りを抜けて少し細い路地にある一軒の家に至る。玄関のガラス戸の隣には“墨摺新聞取扱店”と白地に黒で大きく書いてある立て看板まで置いてある。
「お邪魔しますよ。文屋のお嬢さん。」
ガラガラと音を立てて、とある建物の木枠と曇り硝子で出来た戸を開け、惣一郎が入る。
中は広めの土間で奥には座敷があり、机が8つ程と、6,7人ほどの少年少女が落ち着いて机に座る間もなく大慌てで動いており、その中で一人、机に座って指揮を執っている少女が惣一郎をみとめ、こちらに向かって「こんな時間に来てんじゃねえ!油の押し売りも大概にしろっつってんだろうが!」などと怒号を飛ばしてくる。
「こんな時間に大騒ぎとは珍しいね。何か号外になるようなことでも?」正直無神経が過ぎる質問にも、少女は大声で律儀に答えて、
「出たんだよ!銀喰らいの狼男が!しかも、あの校倉の本家にだよ!」
因みに、校蔵家というのは銀行業と貸金庫業の一門であり、その本家には家々の家宝がひしめき、それを守る蔵には厳重な警護と数々の巧妙な罠を潜り抜けてたどり着ける場所であり、そこから盗みを働き、あまつさえ成功するというのは天下の大泥棒の称号を欲しいままに出来るのと同義である。
「へええ、随分大胆な泥棒さんのようだね。ところで、銀喰らいの狼男ってどうしてそんな名前なんだい?」
そのまんまな名前にも疑問を入れてくる。この男の想像力というものは一体何処に眠っているのであろうか。
イライラの絶頂を察してか、とうとう、見当外れの疑問にとうとう横槍が入る。
「雑賀さん、そこの特集でも読んで号外が刷り上がるまで待っててもらえませんか?お嬢も私らも昨晩から働きずめなんです」低い声が呆れ半分で横槍を投げた。
どう考えても正論である。惣一郎は「それは申し訳の無いことをしました。新聞でも読みながらおとなしく待たせてもらいます」などと反省もせず、隅に積んである新聞の一番上の部を取り、土間と座敷の段差に腰掛けて邪魔しないくらいに新聞を広げた。
新聞の記事によると、銀喰らいの狼男が町中の蔵という蔵を脅かすようになったのはわずか二週間前、とのことである。
手始めに細工師、次には鍛冶師、あげく銀行家と、間に雑多な家を挟みながら、毎日働きに出ている、とのことである。
しかし、不可解なことは盗みに入った家々の銀のみを盗って、そのほかの財物には一切触れていない、とのことである。
だが銀でさえあれば、メッキから装飾の欠片まで根こそぎ盗んでいくので、「銀喰らい」の二つ名が誰からとも無く呼ばれるようになったとのことであり「狼男」というのは、目撃者が異口同音にその泥棒が狼の幻想種だ、と証言しているから、とのことである。
ちなみに、男は語呂らしい、とのことである。
その二つの特徴を合わせて「銀喰らいの狼男」なんて少々気取った二つ名が与えられ、獣狩りや人狩りといった追っ手を撒いて現在に至る、とのことである。
「おっし、この版をもってけぃ!戻ってきたらばら撒く用意だ!それまで残ったのは食って寝て良し!」「はい!」
件の少女は一人に版を任せ、一息ついた彼女は惣一郎と新聞を間に挟んで正対した。腕捲りしたシャツにジーンズのすらりとした背格好と短く切り揃えられた髪型は男性的な印象を強く与えている。その上顔立ちまで女の子らしくないのだから、初対面には男にしか思えないほどである。
「用事は済んだか?雑賀の旦那。それと私はお嬢さんじゃねえ。墨摺りんご、ってれっきとした名前があるんだよ。わかったか?」
りんごの喧嘩の大売り出しのような態度をも「確かに、覚えておくとしましょうか、りんご嬢。それと、この特集号おいくらでしょうか?我が家で是非とも読みたいのですが…」と意に介さず、自分の質問を続ける。相当なものである。まあ、りんごの方も新聞を買ってくれるとの申し出に思い切り心弾ませて
「本当か!?ああ、そいつはそろそろ織機の兄さんに買いたたかれる頃だったしな。200でどうだい?」
怒りを忘れて交渉を始めるあたりに家を切り盛りする女主人の気概というものがあるのだろうか?
「200ですか・・・、100でどうにかなりませんか?」「200だろ、この内容なんだ。これでも随分勉強してるんだがな」「150、よしみもあることですし、ね?」「しかたねえなあ、175だ。ここから先は梃子でもうごかねえさ」
惣一郎は少々考えてから、
「175。容れましょう。きっとこれからも縁ある間柄でしょうから。25はその分です」
りんごは少し苦そうな笑いを浮かべて「これでも割れてんだよ。用が済んだらとっとと帰ってくれ。」
「それでは今日はおいとましましょうか。次来るときは菓子折の一つは持ってきますよ。」
そんな言葉と代金ばかりを残して、惣一郎は立ち上がって元来た方へ立ち去って行った。
それから、少しして人も掃けて、りんごと先程惣一郎に横槍を投げつけた男が一息をついておいででした。
お茶を飲み飲み、二人で惣一郎の腰掛けていた所に座って…
「ほんと、随分な方ですね。お嬢?」
「ああ」
「鬱陶しくて、そのくせ憎めないなんて、本当に随分な方ですよね」
「ああ」
「もしかして、御嬢。雑賀さんのことが気になっておいでで?」
「ああ、と薄らぼやけたように答えた、みたいな答えを期待していたのか?もしそうならそれは訂正しておきな」
男は少しばかり不満そうな顔をしたが、すぐに仕事用の顔に戻って
「そうみたいですね、それで次号についてですが・・・」
「戻ってきてから、だろ?でウチは右斜めのアプローチを打ってみることにするよ。もしかすれば、叔父貴の記録が超えられるかもしれないぜ」
それまで、落ち着いていた男は身を乗り出すほど驚いた。
「本当ですか!?あの限界を打ち壊した記録をですか!?・・・でそのアプローチとは?」
その反応に急にりんごは得意げになって、
「銀を喰う理由だよ。これまで、全ての誌が銀喰らいの狼男が物好きだとか、銀の価値を下げるためだとか、いろいろ言っているが、ちょいと視点を変えると噛み合うところがいくつかあるんだ。そいつぁ・・・」
と打ち明けた。それに男は不敵に笑みを浮かべて
「これは何とも、右斜め。早速取材に駆け巡ることにします。二、三日家を空けますがその間は。」
続けようとしたのをりんごは遮って、「家のことは何とかなるさ、墨村の兄さん。いつも助かってるけどな」
「そういわないで下さいよ、墨摺の家長ともあろうお方が取材で駈けずり回るのは見ていて心地の好い物では無いんですから。お嬢は上で指図して、ケチを付けてくればいいんですよ。それじゃあ屋敷で支度してきます。お先に」
そして、男は惣一郎の出て行った出口とは逆の裏口から出て行った。
りんごは誰もいない仕事場の空気を慌しかった雰囲気と併せて一気に吸い込んで勢い良く立ち上がると
「よし!今日も元気に働くぜ!」と気合を入れてから、仕事場を片付け始めた。勿論のこと、明日の紙面をどう飾るかも考えながらであるが。