ガーデンウィード公爵家の光と影 ぽやぽや令嬢が婚約破棄を切り出されたなら外伝
「何よ何よ何よ、何なのよおおっ!!!」
庭園のガゼボに座るガーデンウィード公爵令嬢カリエンヌは、むしゃくしゃする気持ちを抑えきれず、ドレスの裾を握りしめて歯噛みしていた。
(あの女、王太子殿下に婚約破棄されて、本当にいい気味だと思っていたのに……!)
怒りのあまり乾いた喉を潤そうと、目の前のお茶に手を伸ばす。一口含んだ瞬間、カリエンヌは顔をしかめて吐き出した。
「何よ、コレ! あっまーい! 甘過ぎるわよッ!」
激昂した彼女は、カップの中身を近くに控えていたメイド――レイラの顔面目掛けてぶち撒けた。
――と思いきや、レイラは慣れた身のこなしで「ひょい」とそれを避ける。
(そんなに何度も同じ手に引っかかりません。それに甘いのは、お嬢様が考え事をしながら、ご自身で何杯も砂糖を入れたからです)
心の中で冷静に突っ込むレイラを、カリエンヌはギロリと一睨みする。しかし、すぐにまた自分の思考へと戻っていった。
(今度はショーン殿下があの女の家に足繁く通っているなんて……。許せない、絶対に許せないわ……!)
悔しさに身を焦がし、ギリギリと奥歯を鳴らす。
だがその時、庭園の隅にひっそりと咲く、小さく可愛らしい白い花が彼女の目に留まった。
途端に、カリエンヌの唇が、妖しく歪んだ。ニヤリ、と。
(……また何か良からぬことを企んでいるわね)
ころころと変わる主人の機嫌に、レイラは内心で深い、静かな溜息をつく。
カリエンヌは、レイラを手招きすると、声を潜めて命じた。
「ねえ。庭師に、あそこに植えてある花を根こそぎ引っこ抜いて持ってこさせなさい」
「かしこまりました、お嬢様」
レイラは恭しく一礼し、足早に庭師の元へと向かった。
*
「また、とんでもねえことを考えていなさるな、お嬢様は」
レイラから話を聞いた老庭師のジョージは、深く大きなため息をついた。その表情には、明らかな困惑と警戒が滲んでいる。
「とんでもないことって……どういうこと?」
「あのお方が目をつけられた可愛らしいスズランはね、花も、葉も、根も、実も……すべてに強い毒を持っているのさ」
「っ……!」
レイラは思わず手で口を覆った。
日頃から気性が荒く、意地悪で癇癪持ちなカリエンヌだが、まさか本物の『毒』にまで手を染めようとするなんて。
「ど、どんな毒なんですか? まさか、死に至るような……」
「そうさなあ。主な症状は、激しい嘔吐や頭痛、めまい。だがな、最悪の場合は心臓を止めて、そのままあの世行きさ」
ひゅ、とレイラは息を呑んだ。背筋を冷たい汗が伝う。
「お嬢様は……そのことをご存じなのですか?」
「ああ、わしが直々に申し上げた。お嬢様はわしが丹精込めて育てた植物を、平気で千切ったり毟ったりなさるだろう? 以前、あのスズランに手を伸ばそうとされたから、『お気をつけくだされ、それには猛毒がございます』と、ちゃんとお伝えしたんだ」
ジョージはもう一度ため息をつくと、数年前に失踪した『ガーデンウィード公爵夫人』の姿を苦々しく思い起こした。
「お嬢様は、母親にそっくりだよ。……例えば、昔、こんなことがあった」
ジョージはどこか遠い目をして、過去の記憶を語り出した――。
*
夫人に呼び出されることなど、それまで一度もなかった。
庭師のジョージは不穏な予感に背筋を凍らせながら、恐る恐る庭園のガゼボへと足を運んだ。
そこにいたのは、不機嫌の塊のような表情で佇む公爵夫人と、怯えたように俯く数名の侍女たち。
ジョージの姿を認めるやいなや、夫人は挨拶もなく唐突に本題を切り出した。
「お前に新しい仕事をやりましょう。毎日毎日、泥にまみれて庭の手入ればかりでは飽きるでしょう?」
ジョージは植物を愛し、庭師を天職だと思って誇りを持っている。だが、目の前の高貴な女性にとって、それはひどく退屈でつまらない労働にしか見えないようだった。
夫人は、感情のこもらない声で命じる。
「これを、殺しなさい」
一人の侍女が、泣き出しそうな顔で小さな檻を抱え、差し出してきた。
中に入っていたのは、一匹の黒猫だ。
「あろうことか、その獣は私の手を引っ掻いて傷を付けたのよ。万死に値するわ。生かしてはおけない」
見れば、夫人の手の甲にはうっすらと血が滲んでいた。しかし、どう見ても五、六日もすれば綺麗に治る程度の、ほんの浅い引っ掻き傷だ。
「やり方は何でも構わないわ。ただし――じっくりと時間をかけて、苦しませて殺すのよ」
ジョージは夫人に対するどうしようもない嫌悪感を必死に押し隠し、一礼した。
そして、檻を受け取ると逃げるように夫人の前から辞去した。
*
邸の敷地の隅にある、薄暗い庭師小屋。
ジョージはすぐに猫を檻から出してやった。猫は足元をフラフラとよろめかせている。
「かわいそうに……これでも食べて元気をつけろよ」
小さく割いた鶏肉と新鮮な水を差し出すと、猫は貪るように口を動かした。ようやく少し元気を取り戻した猫は、部屋の隅っこを自分の居場所と定めたらしい。ジョージが敷いてやった古い毛布の上で、くるりと丸くなって眠りに落ちた。
(さて、どうしたものか……)
このまま小屋で飼い続ければ、いずれ絶対に見つかる。そうなれば、この哀れな命は確実に、今度こそ残酷に奪われるだろう。
生かすためには、邸の外の誰かに引き取ってもらうしかない。
ジョージは猫を連れ、邸の裏門で待つことにした。
裏門は貴族や客ではなく、出入りの商人たちが荷を運ぶために使う門だ。彼らが仕事を終えて帰る瞬間を狙って、声をかけることにした。
何人目かだった。配達に来た肉屋の男が、ジョージの差し出した猫を見て顔を綻ばせた。
「おお、可愛い奴だな! うちは家族全員が猫好きでね、喜んで貰っていくよ」
「頼んだよ。どうか可愛がってやってくれ」
ジョージは胸を撫で下ろし、男の背中を見送った。
*
翌日、夫人から再び呼び出しがかかった。
ガゼボに赴いたジョージに、夫人が開口一番に放った言葉は、血も涙もないものだった。
「あの猫、ちゃんと始末してくれたかしら」
「はい。仰せの通りに」
ジョージが嘘の報告をすると、夫人は平然と言い放った。
「じゃあ、その死体を持ってきてちょうだい。いい毛並みだったから、小ぶりの襟巻きにでも仕立ててもらうわ」
(なんて恐ろしいお方だ……。ご自分の愛玩動物だというのに……!)
背筋に寒気が走るのを覚えながら、ジョージはとっさに言葉を紡いだ。
「――申し訳ございません。古井戸に投げ捨ててしまいました」
「古井戸?」
「はい。元は庭木の水遣り用に使っていたものですが、今は水が枯れておりまして。あそこなら誰の目にも触れますまい」
「ふうん、そうなの。どこにあるのかしら、その井戸は」
なぜそんなことに興味を持つのかとジョージは不思議に思ったが、その場所を説明した。
「なるほどね。……ところで、次にこんなことがあれば、今度は私自身の手で始末したいわ。だからあそこの庭園の隅に、毒のある花を植えてちょうだい」
「毒……でございますか?」
「ええ、そう。そうね……あの辺りがいいわ」
夫人が細い指先で示したのは、庭園の端の、午前中にだけ日が当たる場所。
ジョージは、ただ深く頭を垂れて頷くしかなかった。それが、あのスズランが植えられた理由だった。
*
「――お嬢様のあの残忍さは、完全に母親譲りってわけね……」
ジョージの長い語りを聞き終え、レイラは呆然とした様子で呟いた。
「血は争えない、とは本当によく言ったものだなあ」
「……その猫は、今も元気なの?」
レイラが心配そうに尋ねると、ジョージの皺深い顔に、ようやく優しい笑みが戻った。
「ああ、時たま様子を見に行くんだがね。肉屋の売れ残りの美味い肉をたんまり貰っているらしくてな。ここにいた頃よりツヤツヤした良い毛並みをして、元気に駆け回っているよ」
「そう、良かった……。って、安心している場合じゃないわ! お嬢様のことよ、どうしたらいいかしら!?」
「そうさなあ。こればかりは、わしらの手には負えん。こういうときは、執事のトリスさんに相談するのが一番だ。わしもトリスさんの指示があるまでは、何があってもスズランはお嬢様にお渡ししないでおくよ」
*
レイラから相談を受けた執事のトリスは、「うむ……」と低く唸り、厳格な面持ちで顎を引いた。
「分かった。私から旦那様にご報告しよう。それまでお前たちは、決して余計なことはしないように」
それだけ手短に指示を出すと、トリスはすぐさま執務室へと向かった。
(ああ、気の毒な旦那様……)
現ガーデンウィード公爵がまだ幼い頃から、文字通り人生のすべてを捧げてお側に仕えてきたトリスは、主の心痛を想って胸を締め付けられる。
政略結婚で結ばれたあの夫人は、お世辞にも良妻とは言えない、それこそ悪魔のような女性だった。
湯水のように金を使い、使用人たちを虫ケラのように扱い、若い男を見つけては節操なく言い寄る――。
ふと、トリスは廊下の途中で足を止め、怪訝そうに頭をひねった。
カリエンヌの苛烈で傲慢な性格は、まさにあの夫人そのままだ。だが、その『容姿』はどうだろうか。夫人には少しも似ていない。
かと言って、我が主である公爵に似ているかと言われれば、やはり爪の先ほども似ていなかった。
(……まさか、そんなことが)
トリスの脳裏に、最悪の猜疑心がよぎる。額から嫌な汗がじわりと滲み出た。
もしその疑念が真実だとしたら、一体どうすればいい。
仮にカリエンヌが自分の血を分けた娘ではないと突きつけられたとしても、あのお優しい公爵のことだ。「今まで通り我が娘として育てる」と仰るかもしれない。
しかし、あの娘だけは絶対に駄目だ。人を平気で害そうとするあの歪んだ本性は、いずれこの歴史ある公爵家を根底から破滅させるに違いない。
トリスは激しい葛藤に身を焦がした。
しかし――と、彼は思い直すように自らの胸に手を当てた。公爵は何よりも、この家を、血筋を、そして伝統を重んじられる方だ。なればこそ、現実から目を背けることはない。
トリスは意を決し、公爵の執務室へと歩を急いだ。
*
(悪魔の落とし子は、やはり悪魔ということなのか……)
トリスからカリエンヌの所業の報告を受け、ガーデンウィード公爵は力なく遠い目をしたまま、窓の外の景色を見つめていた。
早くから、いや、あの娘が生まれたその瞬間から、自分の血を引いていないのではないかと薄々気づいてはいた。
浮気癖の酷かった前妻が、どこの馬の骨とも知れぬ男と交わり、仕込んできた不義の子。
自分にも、そして妻自身にも、カリエンヌの顔立ちはまるで似ていなかったからだ。
しかし、生まれたのは女の子だ。どうせ我が家を継ぐわけではないのだからと、半ば諦めの境地で今日まで過ごしてきた。
育てていくうちに、いつかは父親としての愛着も湧いてくるだろう。そう自分に言い聞かせてもいた。
そもそも、離縁を許されないこの国の厳格な制度の中で、自分に一体何ができただろうか。
だが、そんな微かな期待は、娘が幼少期の数年を過ごしただけで無残に打ち砕かれた。
そこにいたのは、妻にそっくりの我が儘で横暴な怪物の雛だった。
猛毒を手に入れて、一体あの娘は何をしようとしているのか。
(頼むから……せめて、人を殺めるためではないと言ってくれ……)
絶望の底で、公爵の心に祈りにも似た悲痛な願いが湧き上がる。
その時、そっと静かに、湯気の立つカップが目の前の机に置かれた。
鼻腔をくすぐったのは、荒んだ心を優しく解きほぐす、鎮静効果の高いハーブティーの芳醇な香り。
(ああ、私はよほど苦しい顔をしていたのだろうな……)
お茶を淹れてくれた従者へと視線を向けると、彼はすべてを察したような、温かく包み込むような笑みを浮かべて静かに頷いた。
そうだ。この従者もまた、数年前に妻の手によって酷い目に遭わされていたのだ。
公爵はハーブティーの温もりを指先に感じながら、あの忌まわしくも哀しい数年前の記憶を、静かに手繰り寄せた。
*
「旦那様、実は……っ」
数年前のある日。従者のキースは、いまにも泣き出しそうなほどに顔を歪め、苦しそうに言葉を詰まらせていた。
公爵が「案ずるな、何でも言いなさい」と優しく促すと、キースは震える声で、途切れ途切れに打ち明け始めた。
公爵が留守にしている間、夫人に何度も寝室へ来るよう執拗に誘われたこと。
それを拒絶すると、今度は脅迫を受けたこと。
そして――今晩、邸の隅にある枯井戸まで来いと命じられたこと。
そこで話をすれば、今後いっさい誘惑はしないと約束されたこと。
「私は……恐ろしいのです。もし今晩の誘いまで無視してしまえば、今度は本当に、食事に毒でも盛られるのではないかと……っ!」
ガタガタと激しく震えるキースの肩に、公爵はそっと手を置いた。
「キース、よく話してくれた。君の身は私が必ず守る。……さて、あちらがその気なら、こちらはきっちりと準備をしようじゃないか」
その日の深夜。キースが指示された枯井戸へ赴くと、そのすぐ傍らに小さなテーブルセットが設えられていた。
月明かりの中、夫人は優雅にお茶を嗜んでいる。
「キース、よく来てくれたわ。さあ、こちらへ」
怯えるキースが言われるまま席に着くと、夫人は自らお茶を淹れ、微笑みながら差し出してきた。
キースが覚悟を決めてそれを口にし、胸を押さえて倒れ込む――。
その瞬間、夫人は狂気染みた高笑いを上げ、闇に潜んでいた一人の男を呼び寄せた。
「ふふふ、あはははは! あの毒って効くのねえ! さあ、そこの井戸に放り込んでおしまい!」
男が倒れたキースの体を抱え上げようと近付いた、その時だった。
「――そこまでだ」
闇を切り裂くような、公爵の厳しい声が響き渡る。
それと同時に、死んだように倒れていたキースが跳ねるように立ち上がり、公爵の元へと駆け寄った。
一斉に松明の灯りがともされ、辺りは昼間のような明るさに包まれる。そこには、公爵と、武器を構えた騎士たちがずらりと夫人たちを取り囲んでいた。
「な、何よこれ……!? あなた、なぜここに……っ!」
計算が狂った夫人は顔を青ざめさせ、連れの男の背中に隠れるようにして、ジリジリと後退りしていく。
だが、夫人が枯井戸の縁にまで達したそのときだった。
男が突如として振り返り、夫人を思い切り突き飛ばした。
「え……? ぎぃやぁああああああああああーーーっ!」
夫人は凄惨な断末魔の悲鳴を上げながら、真っ暗な井戸の底へと消えていった。鈍い音が響く。
唖然とする公爵たちの目の前で、残された男は、ふらりとテーブルに近づいた。そして、キースが飲むはずだった――本物の毒が仕込まれたお茶を、一気に喉に流し込んだ。
「ガ、ハッ……ウ、グゥウウウ……ッ!」
獣のような恐ろしい呻き声を上げ、男はその場に崩れ落ち、二度と動かなくなった。
男は昔から夫人に囲われていたのだろう。
事切れた男の顔に公爵が松明を近付けたとき、その場にいた全員が息を呑んだ。
吊り上がった残忍な目元。細長く冷たい印象を与える鼻梁。そして、酷薄そうな薄い唇――。
それは、カリエンヌの顔立ちに、恐ろしいほどそっくりだったのだ。
*
――そして、現在。
カリエンヌは、自分の部屋でスズランが届くのを今か今かと待ち侘びていた。
(あの憎きソフィスティア! 王太子殿下に婚約破棄された分際で、なぜショーン殿下に付きまとわれているのよ! 次の茶会にあの女を呼んで、スズランの毒をカップにそっと忍ばせてやるわ)
想像するだけで、ゾクゾクするような愉悦が背中を駆け巡る。
(どうせバレやしないわ。お茶の葉に毒があるわけじゃないもの。茶会に呼んだ全員が同じお茶を飲むんだから、まさか私を疑う者なんていやしない。ふふふ、いい気味だわ!)
カリエンヌは、下劣な笑みを浮かべて爪を噛んだ。
(……でも、一発勝負は危険ね。事前に誰かで効果を試してみなくちゃ。そうね、あの生意気で、お茶をぶち撒けても平気な顔をしている侍女がいいわ。ふふふ、あははは! 本当に愉しみだわ……!)
*
公爵は、秘密裏に呼び出した侍女のレイラ、そして庭師のジョージと執務室で向き合っていた。
お茶を淹れるキースの細い指先を見つめながら、公爵はすでに、心を決めていた。
明らかに自分の血を引いていない不義の子。それを知りながらも、公爵家の人間として不自由なく遇してきた。それが、せめてもの情だった。
(カリエンヌ……これがお前に与える、最後のチャンスだ)
もし、彼女がスズランを求めた理由が、毒殺のためではないのなら、彼女を修道院へと送り、一生を安全に生き延びさせてやろう。
公爵は、痛む胸を押さえながら、どうかそうなってくれと、神に祈るような気持ちでいた――。
*
「レイラ。たまにはあなたも一緒に座って、お茶でも飲みましょうよ」
ガゼボでカリエンヌにそう声をかけられた瞬間、レイラの背中にどっと冷たい汗が吹き出した。
数日前、スズランは可愛らしい鉢植えに仕立てられてカリエンヌの元へと届けられた。
彼女はそれを手にするやいなや、狂ったようにハサミで切り刻み、水に浸して毒液を抽出したのだ。
ベッドの下に隠されていた瓶を見つけたときから、レイラは背筋が凍る思いをしていたが、今日まで必死に平常心を装ってきた。
差し出されたお茶を前に、思わず表情を硬らせてしまうレイラ。それを見たカリエンヌは、何も気づかずに愉しげに笑った。
「顔を真っ青にして、そんなに緊張しなくてもいいわ。いくら私が公爵令嬢だからって、『侍女の分際で主と同席するなんて身の程を知りなさい!』なんて怒ったりしないから。さあ、遠慮せずに飲んで?」
「は、はあ……恐れ入ります。私、ひどい猫舌でして……。少し冷ましてから、ありがたく頂戴いたします」
目の前のお茶から立ち昇る湯気さえ、命を刈り取る死神の吐息のように思える。
張り詰めた空気がガゼボを支配した、その時だった。執事のトリスが足早にやってきて、救いの手を差し伸べるように告げた。
「お嬢様。旦那様が至急、執務室にてお呼びです」
「何よ、もう! 今ちょうどいいところなのに!」
カリエンヌは露骨に不機嫌な顔をしながらも、父親の呼び出しを無視するわけにはいかず、渋々と席を立って執務室へと消えていった。
主人の姿が見えなくなるやいなや、レイラは公爵から事前に受けていた指示通り、素早い手つきで自分とカリエンヌのカップを入れ替えた。
「ったく、大した用でもないのに呼び出すなんて、お父様、どういうつもりかしら!」
しばらくして、ブツクサと文句を垂れ流しながらカリエンヌが戻ってきた。
レイラは呼吸を整え、お茶のカップを手に取る。
「それでは……ちょうど良い具合に冷めたようですので、いただきます」
カップに口を付けるフリをした直後、レイラは「ウッ……!」と大げさに胸を痛烈に押さえた。苦しそうに激しく息を乱し、そのままガゼボの床へと倒れ込む。
床に伏せるレイラの耳に、「……ふふ。そろそろ死んだかしら?」という、弾んだ楽しそうな声が届いた。
爪先でコンコンと脇腹を小突かれたが、レイラは必死に呼吸を止め、死んだふりを続ける。
「ハハハハハ! やったわ! 大成功よ! 本当に死んじゃった! これなら、あの憎きソフィスティアだって簡単に殺せるわ……!」
執務室との往復、そして思い通りの結果に大笑いし続けたことで、カリエンヌはひどく喉が渇いた。彼女は何の疑いも持たず、目の前にあった『自分のカップ』を取り上げると、中の液体を一気に飲み干した。
「――え?」
カリエンヌはヒクッと短い奇声を上げた。直後、手からティーカップが滑り落ちて砕け散る。彼女は自らが仕込んだ猛毒に侵され、激しい衝撃と共にその場に昏倒した。
*
「本当に、人の命なんて分からないものね……」
伯爵令嬢ソフィスティアは、手元にある華やかなお茶会の招待状と、たった今届いた『お茶会中止』を告げる黒枠の知らせを見比べ、ぽつりと呟いた。
「まさか、私をお茶会に招待してくださっていた方が、その数日後に急病で亡くなられてしまうなんて」
*
それから、数年の月日が流れた。
夫人が失踪してから、ちょうど七年。王宮から正式に「死亡」の認可が下りたことを受け、公爵はかねてより懇意にしていた心優しい貴族の女性と再婚した。
そして間もなく、公爵邸に玉のような愛らしい男の子が産声を上げた。
赤ん坊の顔を見た者は皆、嬉しそうに口を揃えてこう言った。
「まあ、なんて可愛らしい! 目元も鼻筋も口も、公爵様に瓜二つです」
執事のトリスも、従者キースも、侍女レイラも、その姿を見て涙を流して喜んだ。
かつて、息苦しいほどの不穏な空気に包まれていた公爵邸には、いまや途切れることのない、温かく明るい笑い声が響き渡っている。
*
よく晴れた昼下がり。老庭師のジョージは、邸の敷地の片隅で新しい花壇を作っていた。
あの事件のあと、カリエンヌの遺体は、実の父親が落ちたあの枯井戸へと密かに放り込まれた。不義の親子は、奇しくも同じ闇の底で永遠に眠ることとなったのだ。
その後、井戸はきっちりと取り壊されて埋め立てられ、すっかり綺麗な更地に戻されていた。
ジョージは、かつて惨劇の舞台だったその場所を、美しい花々で満たそうと考えたのだ。
「さて、ここには何の花を植えようかねえ……」
土をいじりながら、ジョージはふっと空を見上げて微笑む。
――まあ、どんなに可愛らしい花だとしても、あの『スズラン』だけは、やめておくとするかね。
お読みいただき、ありがとうございました。
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の外伝です。
この話だけでお楽しみいただけるように書いたつもりですが、よろしければ、本編もどうぞ。
ほぼ初めて書いた話なので、愛着があります。読んでくださると嬉しいです。




