第八話
「……くだらない」
静寂を切り裂いたのは、神崎零の、地を這うような低い声だった。
それは、岩倉結城に向けられた言葉ではなかった。彼の心を十年近くも縛り付けている、ここにいない元恋人——その傲慢な「文学」とやらに向けられた、純粋で、どこまでも冷たい怒りだった。
「くだらないにも、程がある」
零は、ぎり、と奥歯を噛み締めると、固く握った拳を震わせながら結城を睨みつけた。
「あんたの元カノは、何も分かってない。遊び? 上等じゃないか。人間が、人生で一番本気になれる瞬間がいつか知ってるか? 『遊び』の時だよ。私たちは、寝食を忘れて、魂を削って、本気で『遊んでる』んだ。そんなことも知らない人間の戯言で、あんたは筆を折ったのか!」
零の怒声が、部屋の空気をビリビリと震わせる。その熱に引火するように、今まで悲しそうに俯いていた春下静香が、ばっと顔を上げた。その瞳は、涙で潤んでいたが、その奥には、零と同じ色の、燃えるような怒りの光が宿っていた。
「そうだよ! くだらないよ、そんなの! 遊びなんかじゃない! 私がどれだけ、冬夜先生の物語に救われたと思ってるの!? 学校で嫌なことがあった日も、自分の絵に自信がなくなった時も、『小さな世界の大きな一歩』を読めば、キャラクターたちが『大丈夫だよ』って言ってくれてる気がした! 私は、あなたの物語で、本気で泣いて、本気で笑ったんだから!」
静香は、堰を切ったように叫んだ。
「たとえそれが、誰かにとっては『遊び』だったとしても、私のこの気持ちは、本物だよ! 好きだって気持ちは、嘘なんてつけない! あなたの物語を好きな、この気持ちを……馬鹿にしないでよ!」
零の理屈の怒り。静香の感情の叫び。
二つの熱に挟まれて、結城は身動き一つ取れなかった。違う、そんなつもりじゃ、と弁解しようにも、言葉が出てこない。
そして、最後に、ずっと静かに二人を見つめていた月見里みのりが、ゆっくりと口を開いた。その声は、驚くほど静かだったが、部屋の誰の声よりも、強く、重く、響いた。
「——魂が、震えた」
.みのりは、結城の目を真っ直ぐに見つめて、続けた。
「私があなたの物語を読んだ時、私の魂は、確かに震えた。文字の奥にある、あなたの魂の熱を感じた。だから、私は自分の人生を懸けて、魂を震わせる『絵』を描こうって決めた。文学とか、ライトノベルとか、そんな小さな物差しで、魂の価値を測らないでほしい」
みのりは、そこで一度言葉を切ると、祈るように、宣言するように、言った。
「もし、魂を震わせるものが『遊び』だと言うのなら。もし、人の人生を変えるほどの熱量が『小説じゃない』と言うのなら——。そんなもの、こっちから願い下げだ。あなたの物語は、私が読んだどんな文学よりも、ずっと、ずっと気高い。魂が震えるなら、それは、立派な創作なんだよ!」
——ああ、そうか。
結城は、呆然と三人の顔を見つめていた。
彼女たちは、怒っている。そして、叫んでいる。
結城が、自分自身でさえ諦めて、価値がないと断じてしまった『冬夜』という作家の魂のために。彼の代わりに、彼の誇りのために、本気で戦ってくれている。
元恋人に告げられた、冷たい言葉の呪い。
一条櫻という天才を前にした、圧倒的な敗北感。
それらが、目の前の三つの太陽が放つ、あまりにも純粋で、あまりにも熱い光によって、少しずつ溶かされていくのが分かった。
結城の頬を、一筋の涙が伝った。
それは、悲しみや悔しさの涙ではなかった。
殺されたはずの作家の魂が、もう一度、産声を上げた音だった。