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第七話

 岩倉結城が神様だと泣き崩れた日から、奇妙な日々が始まった。

 同人創作サークルによる、「岩倉結城引き戻し大作戦」とでも言うべき、健気で、そして少し的外れなアプローチの日々である。


 翌日の大学。講義を終えた結城を待ち伏せしていたのは、春下静香だった。彼女は「これ、お詫び!」と言って、有名洋菓子店の高級プリンを結城に押し付けた。

「……いや、別に何も」

「いいからいいから! これ食べて元気出して!」

 その次の日、結城の下駄箱には、なぜか神崎零が血眼になって探していたであろう、絶版漫画の初版が突っ込まれていた。『詫びだ。受け取れ』という乱暴なメモと共に。

 さらにその翌日には、月見里みのりが、結城がかつて書いた『小さな世界の大きな一歩』の登場人物が滑らかに動く新作アニメーションのURLを、無言で送りつけてきた。


 お菓子や物で釣ろうとする静香と零。純粋なファン活動で訴えかけようとするみのり。

 三者三様の猛アプローチに、結城は最初こそ戸惑ったが、やがてそれは深い深いため息へと変わった。呆れ果てて、完全に無視を決め込むことにした。プリンは有り難く頂いたが、漫画はそっと零の机に返しておいた。

 彼女たちの熱意は、本物なのだろう。だが、結城の心に深く突き刺さった棘は、そんなもので抜けるほど浅くはなかった。


 作戦が完全に無意味だと悟ったのか、数日が経つと、ぱったりとアプローチは止んだ。

 その週末。結城が自室で本を読んでいると、またしても、あの三人がアパートに押しかけてきた。今度は、手ぶらだった。ただ、決意を秘めたような真剣な顔で、再び結城の前に座り込んだ。

 もう、泣き叫ぶ気力もなかった。逃げることにも疲れた。

 諦めにも似た静かな気持ちで、結城は、ついに重い口を開いた。


「……どうして俺が、筆を折ったのか。本当の理由を、話します」


 三人が、ごくりと息を呑むのが分かった。

「一条櫻……彼女が本物の天才だってことは、今でも変わらない事実です。彼女の作品を読んだ時、ああ、もう俺が書く場所はないんだって、そう思った。でも、それは直接の理由じゃない。ただの、きっかけに過ぎなかった」

 結城は、天井を仰いだ。忘れたくても忘れられない、過去の光景が瞼の裏に焼き付いている。

「俺には……恋人がいました。高校生の時。彼女も、俺と同じで、物語を書いていた」

 それは、結城にとって最初で最後の、創作と現実が幸福に結びついた時間だった。互いの作品を読み合い、感想を言い合い、時に励まし合い、時に嫉妬し合った。結城はネットでライトノベルを。彼女は、文学賞への応募を目指して、純文学を書いていた。


「彼女は、才能があった。俺なんかとは、比べ物にならないくらいに。そして、ある日、彼女は有名な新人賞を受賞した。先に、プロになったんだ」


 嬉しかった。心から祝福した。だが、その時から、二人の間には見えない境界線が引かれ始めていた。

 決定的な言葉を告げられたのは、彼女の受賞記念パーティーに呼ばれた日のことだった。華やかな会場の隅で、結城は自分の居場所のなさを感じていた。そんな彼に、彼女は少しだけ、軽蔑の色を浮かべた瞳で、こう言ったのだ。


「——ライトノベルなんて、小説じゃない」


 世界から、音が消えた。

 彼女は、追い打ちをかけるように、冷たく続けた。


「私が命を削って書いている文学と、あなたのその『遊び』を、比べないで」


 遊び。

 その一言が、結城の全てを破壊した。

 寝る間も惜しんで、魂を削って、キャラクターたちと向き合ったあの日々が、ただの「遊び」という言葉で、塵芥のように踏み潰された。

 そして、その言葉は、結城自身が心のどこかで抱いていた劣等感や不安を、完璧に肯定してしまったのだ。

 ああ、そうか。俺がやっていたことは、本物じゃない。ただの、子供の遊びだったのか、と。


「それ以来、書けなくなった。キーボードに向かうと、彼女の言葉が頭の中で響くんだ。『そんなものは小説じゃない』って。だから、逃げた。書く世界から、ただ読むだけの、安全な世界に」


 語り終えた結城の部屋には、重い沈黙が満ちていた。

 静香は、悲しそうに顔を歪ませている。みのりは、ただ黙って俯いていた。

 その沈黙を破ったのは、意外にも、ずっと黙って腕を組んでいた神崎零だった。


「……くだらない」


 吐き捨てるような、低い声。

 その声には、怒りがこもっていた。結城に対してではない。ここにいない、誰かに向けられた、純粋な怒りが。

 零は、固く握りしめた拳を、わなわなと震わせていた。

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