第五話
岩倉結城の前に置かれたのは、三つの才能の奔流だった。
春下静香が描いた、感情豊かでどこまでも魅力的なキャラクターたち。神崎零が紡いだ、ダークで、独善的で、しかし強烈に読者を引き込む世界観の断片。そして、月見里みのりが参考にと見せてくれた、キャラクターが本当にそこにいるかのように滑らかに動く数十秒のアニメーション。
紹介文を書く、という名目でそれらを受け取った結城は、自室のPCの前で、ただただ圧倒されていた。
tすごい。
この三人は、間違いなく本物だ。それぞれが、一つの分野において、天才と呼ぶにふさわしい技量を持っている。
だが、同時に、結城は彼女たちがなぜ「売れない」のか、その理由も痛いほど理解してしまった。
静香は、キャラクターに命を吹き込むことはできても、その命を導く「物語」を紡げない。零は、読者に一切媚びない。自分の美学だけが絶対であり、そのせいで物語は常に独りよがりな袋小路に迷い込む。みのりは、キャラクターの「動き」そのものにしか興味がなく、その動きの源泉であるはずの「心」を描こうとしない。
それぞれが、自分の才能の輝きに目が眩み、隣にあるべきものが見えていない。パズルのピースは最高品質なのに、誰もそれを正しく組むことができない。そんな、もどかしいほどのアンバランスさ。
「……もったいない」
無意識に、声が漏れた。
燻っていた創作者の魂が、この歪な傑作を「完成させたい」と、静かに叫んでいるのを結城は感じた。
——ダメだ。深入りするな。
結城は頭を振ると、テキストエディタを開いた。仕事はあくまで「紹介文」。二百文字程度の、ただの文章だ。感情を殺し、技術だけで、当たり障りのない文章を書けばいい。
だが、書き始めてすぐに、結城は自分の浅はかさを思い知る。
一度走り出した脳は、止まらない。この物語の魅力を最大限に引き出す言葉は何か。読者の心を一瞬で掴むフレーズは。どの情報を出し、どの謎を隠すべきか。
無意識のうちに、かつて『冬夜』として毎日のように繰り返していた思考が、頭の中を支配していた。
カタカタと、キーボードを叩く音が心地良い。文章のリズムを整え、言葉の響きを確かめる。それは、忘れたはずの、そして心のどこかで焦がれていた作業だった。
翌日、部室。
結城が差し出したスマホの画面を、三人は食い入るように見つめていた。そこには、二百文字ほどの完成した紹介文が表示されている。
『——忘れられた時計塔で、記憶を失くした人形が見た夢は、終わらない夜の始まりだった。
銀色の髪を持つ「番人」は、何を隠すのか。
彼女の失われた過去に触れるとき、世界の歯車は、優しい音を立てて狂い出す。
これは、残酷な運命に抗う、小さな二人の御伽噺——。』
「…………」
沈黙が、落ちる。
最初にそれを破ったのは、静香の歓声だった。
「すごい……すごいよ、岩倉君! 私が描きたかった世界が、全部この文章に詰まってる!」
「……チッ。気に食わないが、完璧だな。これ以上ない」
零も、悔しそうに、しかし素直な賞賛を口にする。
そして、みのりが、ヘッドフォンを外し、驚くほど真剣な目で結城を見つめていた。
その熱に浮かされたように、静香がとんでもないことを言い出した。
「ねえ、岩倉君! 紹介文だけじゃなくて、このお話のシナリオ、全部書いてよ! そして、零先輩の漫画と、みのり先輩のムービーを入れて……そうだ、同人ゲームにしようよ!」
同人ゲーム。
その言葉が、結城の心の安全装置を、容赦なく破壊した。
シナリオを書く? 物語を、紡ぐ? 俺が?
脳裏に、一条櫻の輝きが、そして『冬夜』の墓標が、同時にフラッシュバックする。
「——今は、書けないっ!!」
気づけば、結城は叫んでいた。
驚きに目を見開く三人から逃げるように、結城は荷物を掴んだ。
「すみません。俺、やっぱりここにはいられない。あなたたちがすごいのは分かった。でも、だからこそ、俺はこれ以上手伝えません。失礼します」
これ以上関われば、自分は壊れてしまう。あの熱に、焼き尽くされてしまう。
灰色の平穏に、逃げ帰らなければ。
結城が扉に手をかけ、外に出ようとした、その瞬間だった。
「……その文章の、テンポ」
静かな、しかし芯の通った声が、結城の背中を射抜いた。
月見里みのりだった。彼女は、いつの間にか結城のすぐ後ろに立っていた。
「一文の長さ。読点の打ち方。単語の選び方。その組み合わせで生まれる、独特のグルーヴ。どこかで、見たことがある」
心臓が、氷水で締め上げられたように冷たくなる。
みのりは、その大きな瞳で、結城の心を真っ直ぐに見透かすように、続けた。
「——あなた、もしかして。『冬夜』さん、ですか?」
灰色の世界が、終わる音がした。