第四話
ノートPCを閉じて以来、岩倉結城は意識的に『冬夜』の墓標から目を背けていた。あのサークルのことも、三人の才能のことも、考えないように努めた。大学の講義という名の灰色の時間だけが、心を無にできる唯一の安息だった。
そんなある日の昼休み。スマホを眺めて時間を潰していると、メッセージアプリの通知が画面を揺らした。相手は『春下静香』。
『岩倉君、今ちょっといいかな? 相談したいことがあって……』
胸が、小さくざわめいた。関わってはいけない。そう頭では分かっているのに、指は勝手に『大丈夫です』と返信を打っていた。
大学の中庭、その片隅のベンチ。自動販売機で買ったお茶を手に、結城は静香が持って来たスケッチブックを覗き込んでいた。
「これが、今度の同人誌で描こうと思ってるオリジナル作品のキャララフなんだけど……」
そこに描かれていたのは、アンティークドールのような可憐な少女と、影をまとったようなミステリアスな青年の二人だった。絵だけで、二人の間に何か特別な物語があることを予感させる。さすがは『揚げたパン』だ。
「キャラクターも世界観も、描きたいシーンも、いっぱい頭の中にあるの。でも、それをどう繋げたら一つの『お話』になるのか、全然分からなくて……」
静香は、本当に困り果てたように俯いた。彼女の言葉は、かつて結城もよく聞いた、絵描きの悩みそのものだった。
「岩倉君、本をたくさん読むでしょ? 読者の視点からでいいの。この二人、どういうお話だったら、読んでみたいって思う?」
他人の創作に、口を出すべきではない。
そう思ったはずなのに、結城の口は滑らかに動き出していた。
「……この少女が、本当に望んでいるものは何ですか?」
「え?」
「彼女が一番手に入れたいもの、守りたいものは何か。そして、この青年は、その障害になるのか、それとも助けになるのか。物語の軸になるのは、そこだと思います」
結城は、自分がかつて、来る日も来る日も自問自答していた言葉を、そのまま口にしていた。プロットの立て方、キャラクターの動機の掘り下げ方、読者の興味を引くための三幕構成。忘れたはずの知識が、堰を切ったように溢れ出てくる。
結城の言葉に導かれるように、静香はぽつりぽつりと、自分の頭の中にあった断片的なイメージを語り始めた。結城はそれを聞き、交通整理をするように、一つ一つの要素をあるべき場所に配置していく。
「……なるほど。つまり、彼女は失われた記憶を探していて、青年はその記憶を取り戻すための『鍵』を握っている。でも、記憶が戻れば、二人は離れ離れになってしまう運命にある、と。そういう話ですね」
結城が彼女の散らかった言葉をまとめ、一本の筋道として言語化してみせると、静香はハッとしたように顔を上げ、信じられないものを見るような目で結城を見つめた。
「そう……そうだよ! 私が描きたかったのは、そういうお話なんだ! すごい、岩倉君、すごいよ! どうして分かったの!?」
興奮したように身を乗り出す静香に、結城は内心の動揺を隠して、曖昧に笑う。
「いや、聞いてまとめただけだから」
「ううん、違う! 私、誰に相談しても、こんなにスッキリしたことなかったもん! 岩倉君、絶対、文章の才能があるよ!」
——才能。
その言葉が、結城の胸を鋭く抉った。
脳裏に、圧倒的な光を放つ一条櫻の文章が蘇る。そして、かつて自分に筆を折らせるきっかけとなった、もう一人の天才の顔がちらついた。
あれが「才能」だ。俺が持っているものなど、ただの小手先の技術に過ぎない。
「……才能なんて、ないよ」
様々な感情が渦巻く中で、結城は、そう言って苦笑いすることしかできなかった。その笑顔がひどく歪んでいることに、静香はまだ気づかない。
その数日後。
結局、静香に押し切られる形で、結城は再びあの部室を訪れていた。
部屋の中は、同人誌制作の熱気で満ち満ちていた。神崎零が鬼気迫る表情でペンを走らせ、月見里みのりがPCで告知用のアニメーションを制作している。静香もまた、結城との相談で固まったプロットを元に、楽しそうにネームを描き進めていた。
手伝う、と言っても結城にできることはなく、ただ邪魔にならないよう部屋の隅で本を読んでいると、不意に神崎零が大きなため息をついた。
「ああ、クソ。本文は終わったけど、一番面倒なのが残ってた」
「一番面倒なのって?」
静香が尋ねると、零は心底嫌そうに吐き捨てた。
「紹介文だよ。裏表紙とか、告知サイトに載せるあらすじ。こんなもん、誰が書けるか」
その言葉に、静香とみのりも「あー……」と頭を抱える。どうやら三人とも、文章を書くのは大の苦手らしい。
その時、静香が何かを思いついたように、ぱっと顔を輝かせて結城を振り返った。
「ねえ、岩倉君!」
嫌な予感がした。だが、それから逃げるより早く、静香は無邪気な笑顔で、その依頼を口にした。
「この本の紹介文、書いてくれないかな? ちょっとでいいの。岩倉君、得意でしょ?」
それは、物語そのものではない。ただの、本の紹介文。百文字か、二百文字程度の、ただの文章。
それくらいなら。
それくらいなら、墓を暴くことにはならないだろう。
「……分かりました。それくらいなら」
引き受けた瞬間、三人が「おおー!」と歓声を上げる。
その熱に当てられながら、結城は、自分がまた一歩、後戻りできない場所へと足を踏み入れてしまったことに、まだ気づいていなかった。