第三話
あの混沌とした部室から逃げ帰って数日。岩倉結城の日常は、再び望んだ通りの灰色に戻っていた。その他大勢に紛れて講義を受け、昼休みは一人でスマホをいじる。完璧な擬態。完璧な平穏。それでいい、それがいい、と自分に言い聞かせた。
週に二度ある一般教養の大講義。数百人が入る巨大な階段教室で、結城はいつも通り後方の席に陣取っていた。教授の退屈な声をBGMに、机の下でスマホのニュースサイトを眺める。そんな時だった。
「あ、岩倉君!」
不意に隣からかけられた声に、結城はびくりと肩を揺らした。見ると、そこには大きなスケッチブックを抱えた春下静香が、少し気まずそうに立っていた。
「隣、空いてるかな?」
「……どうぞ」
断る理由もなく頷くと、静香は「よかった」と呟いて隣の席に腰を下ろした。まさかこんな場所で会うとは。灰色を保っていた世界に、一気に鮮やかな色彩が混ざり込んでくるようで、落ち着かなかった。
「岩倉君もこの講義、取ってたんだね」
「まあ、なんとなく」
「私もだよー。出席さえしてれば単位くれるって聞いたから」
へへ、と悪戯っぽく笑う静香は、部室で創作に唸っていた時の真剣な表情とは少し違って見えた。彼女は机にスケッチブックを広げると、結城の視線に気づいて、ぱらぱらと中身を見せてくれた。
「課題のデッサン。全然終わらなくて」
そこに描かれていたのは、息を呑むほど緻密な静物画や風景画だった。光の捉え方、影の落とし方、物の質感。どれもが、学生のレベルを逸脱している。
「……すごいな」
思わず、本音が漏れた。
「こんなに描けるのに、なんで『売れない』なんて……」
そこまで言って、結城はハッと口をつぐんだ。失礼な質問だったかもしれない。だが、静香は気にした様子もなく、困ったように眉を下げた。
「うーん……こういうのは、あんまり需要がないみたいで。SNSで依頼されるのって、だいたいが安いアイコン制作とかでしょ? 私、筆が遅いから、そういうのだと全然稼げなくて。ペンネームの『揚げたパン』も、もっとポップな絵を描けるようになりたいなって願掛けで付けたんだけど、上手くいかないなあ」
才能と、それが評価されるかどうかは別問題。結城は、かつて自分がいた世界のシビアな現実を思い出す。彼女は本物だ。だが、本物であることと、世渡りが上手いことは、イコールではないのだ。
結城は、彼女の絵から視線を逸らした。これ以上見ていると、「構図が」とか「線の使い方が」とか、忘れたはずの知識が口から飛び出してしまいそうだったからだ。
その日の講義が終わり、結城は一人、帰路についていた。
なんとなく、まっすぐアパートに帰る気になれず、駅前の大型書店に立ち寄る。ライトノベルのコーナーへ向かうと、一番目立つ平積みの台に、見慣れた名前が並んでいた。
——一条櫻 著『魔法の惑星』最新刊。
思わず、足が止まる。
自分の創作人生に、完璧な終止符を打ってくれた天才の最新作。読みたくない、でも、知っておきたい。そのアンビバレントな感情に揺さぶられ、結城は無意識にその一冊を手に取っていた。
その時だった。
「……奇遇だね。あんたも一条信者だったとは」
背後からかけられた、気だるげで、しかし芯のある声。振り返ると、そこには神崎零が立っていた。ラフなパーカー姿で、その手には専門的で分厚い作画資料の本が数冊抱えられている。
「神崎、先輩」
「やっぱりあんた、見る目があるよ。今、一番面白いのは間違いなくこれだ」
零はそう言うと、結城が持っている本をちらりと見て、つまらなそうに付け加えた。
「まあ、私には逆立ちしたってこんな『売れる』話は書けないけどね。編集者に媚びて、読者の顔色を窺って、自分の描きたいものを捻じ曲げるなんて、反吐が出る」
その言葉に、結城は零が「鬼才」でありながら、なぜメジャーシーンにいないのかを察した。この人は、妥協ができないのだ。自分の創作に、絶対的な誇りと美学を持っている。だからこそ、商業主義とは相容れない。
「……先輩は、今のままでいいと思いますけど」
気づけば、そんな言葉が口をついて出ていた。零は少しだけ驚いたように目を見開いたが、すぐにふいと視線を逸らし、ぼそりと呟いた。
「……おだてたって、何も出ないよ」
零と別れ、結局一条櫻の新刊は買わずに書店を出た。
アパートに帰り着き、電気も点けずにPCの前に座る。今日の出来事が、静かに、しかし確実に、結城の心をかき乱していた。
春下静香の、世渡り下手な才能。
神崎零の、妥協を許さない才能。
そして、一条櫻の、時代に愛される才能。
忘れていたはずの熱が、胸の奥で燻っているのを感じる。
結城は、震える指でブラウザを開くと、ブックマークの奥深くに隠していた、かつてのネット小説投稿サイトにアクセスした。
ランキングページを開く。
総合一位には、当然のように一条櫻の作品が君臨していた。
スクロールする。二位、三位……そして、はるか下。ランキングの集計対象外に設定された、『殿堂入り』という名の墓標。
そこに、あった。
『小さな世界の大きな一歩』 作者:冬夜
更新停止から三年。それでもなお、圧倒的なポイント数を維持し続ける、自分の作品の残骸。
そのタイトルを見た瞬間、結城はまるで呪いから逃れるように、バタンッ! と大きな音を立ててノートPCを閉じた。
荒い呼吸を繰り返す。心臓がうるさい。
——墓は、暴いてはならなかったのだ。
灰色の平穏が、足元から崩れていく音がした。