第二十一話
稽古終わりの喧騒が満ちる、大講堂の出口。
岩倉結城、春下静香、神崎零の三人は、意を決して、一人の少女の前に立ちはだかった。
「あ、あのっ! 小鳥遊栞さん、ですよね!?」
切り出したのは、静香だった。突然、見知らぬ三人に囲まれ、小鳥遊栞は、驚いたように小さな体をびくっと震わせた。肩にかけた、くたびれたトートバッグを、ぎゅっと握りしめる。
「は、はい……そうですけど……」
「私、同人創作サークルの春下静香って言います! さっきの、舞台で見ました! あなたの声、すっごく素敵でした! だから、お願いです! 私たちが作ってるゲームの、ヒロインの声優をやってください!」
単刀直入すぎる、静香の爆弾発言。
栞の目は、驚きで、ますます大きく見開かれた。彼女は、数秒間、言葉の意味が理解できないという顔で三人を交互に見た後、慌てて、ぶんぶんと首を横に振った。
「む、無理です! 無理です! 私、そんな、声優だなんて……! それに、今は、次の公演のことで頭がいっぱいで……ご、ごめんなさい!」
彼女は、深々と頭を下げると、三人の脇をすり抜けるようにして、足早に去って行ってしまった。
後に残されたのは、呆然とする静香と、やれやれと肩をすくめる零、そして——。
「……待ってくれ!」
声を上げたのは、結城だった。
彼は、逃げるように去っていく栞の背中に向かって走り出すと、その数歩手前で、息を切らしながら立ち止まった。
「……これだけでも、読んでくれないか」
結城が差し出したのは、印刷したばかりの、ゲームシナリオの冒頭部分だった。栞は、困惑した顔で、結城と、彼が持つ紙の束を見比べる。
「これは、俺たちが作ってる物語だ。……俺が、書いた」
結城は、真っ直ぐに彼女の目を見て言った。
「さっき、君が舞台で言った、たった一言のセリフを聞いて、確信したんだ。この物語のヒロインは、君の声でしか、ありえない。だから、お願いだ。ただ、読んでほしい。それだけでいい」
彼の、あまりにも真剣な眼差しに、栞は、何かを言い返すことができなかった。彼女は、おずおずと、結城の手からシナリオを受け取ると、小さな声で「……失礼します」とだけ言って、今度こそ、その場を去っていった。
その夜。
自室のベッドの上で、栞は、結城から受け取ったシナリオを、ぼんやりと眺めていた。
(……変な人たちだったな)
いきなり声優になってほしい、なんて。演劇部でも、ほとんどセリフのない役ばかりなのに。
だが、断りきれずに受け取ってしまった手前、読まずに捨てるのも気が引けた。彼女は、仕方なく、最初のページをめくった。
——そして、数分後。彼女は、物語の世界に、完全に引き込まれていた。
悪魔と契約した少年と、彼に救われた少女の物語。
その文章は、決して美麗ではなかった。だが、一行一行に、キャラクターの魂が宿っている。特に、ヒロインの、か弱さの中に宿る、凛とした強さ。その感情の機微が、痛いほど伝わってくる。
栞は、無意識のうちに、ヒロインのセリフを、小さな声で口ずさんでいた。
気づけば、彼女は、最後のページを読み終えていた。胸が、ドキドキと高鳴っている。
(……すごい。この物語、この子、もっと知りたい)
だが、まだ、自分が声優をやるなんて、考えられなかった。
彼女は、シナリオの表紙に書かれた、作者の名前を見た。
『岩倉 結城』
知らない名前だ。だが、その下に書かれたサークル名と、連絡先として書かれていた静香のSNSアカウントが、ふと、気になった。彼女は、スマートフォンで、そのアカウントを検索してみた。
そこには、サークルの活動内容が、楽しそうに綴られていた。そして、最新の投稿に、栞は、目を奪われた。
『シナリオ担当の結城君、ついに伝説を動かしました! 『小さな世界の大きな一歩』、堂々更新再開です!』
「——え」
栞は、思わず声を漏らした。
『小さな世界の大きな一歩』。作者は、冬夜。
それは、栞が、中学時代から、何度も、何度も読み返した、大好きなネット小説の名前だった。
岩倉 結城、イコール、冬夜。
あの人が、私の、神様が、このシナリオを? そして、私に、声をかけてくれた?
頭が、真っ白になった。
翌日の放課後。
同人創作サークルの部室の扉が、おずおずと、ノックされた。
「……どうぞ」
結城が、気のない返事をすると、扉が、ゆっくりと開かれる。
そこに立っていたのは、小鳥遊栞だった。
彼女は、結城の顔を真っ直ぐに見つめると、胸に、昨日受け取ったシナリオを、大切そうに抱きしめて、言った。
「この物語の……この子の声、私に、やらせてください」
その声は、震えていた。だが、そこには、確かな覚悟が、宿っていた。
最後のピースが、はまった音がした。