第二話
春下静香の真っ直ぐな瞳に射抜かれ、岩倉結城は観念した。数瞬の沈黙の後、まるで喉の奥から絞り出すように、かすれた声が漏れた。
「……はい、少しだけ」
認めた瞬間、目の前の彼女の表情が、ぱあっと花が咲くように明るくなった。
「やっぱり! よかったら、中、見ていかない? 今お茶淹れるから!」
言うが早いか、静香は結城の腕を掴むには至らない絶妙な距離感で中に招き入れると、有無を言わさず背後の扉をぴしゃりと閉めた。カチャン、と古い錠の音がやけに大きく響き、結城の最後の逃げ道が断たれたことを告げる。
「えっと、改めて自己紹介するね。私は春下静香。ペンネームは『揚げたパン』で、イラストを描いてます」
ぺこり、と頭を下げる静香に、結城も慌てて会釈を返す。その視線の先で、静香は部屋の奥にいる二人へと向き直った。
「こっちは神崎先輩。神崎零。見ての通り、いつもやる気ないけど、すごい漫画を描くんだよ」
ソファに寝そべっていた黒髪の女性——神崎零は、読んでいた漫画誌を顔の上に置くと、その隙間から射るような鋭い視線で結城を上から下まで品定めするように眺めた。
「へえ。静香のあのポスターに釣られるなんて、よっぽどの物好きか、見る目があるか、だね。私は後者だと思うけど」
気だるげな声色とは裏腹に、その言葉には相手の本質を見抜こうとするような響きがあった。
「で、あっちが月見里先輩。月見里みのり。天才アニメーター」
静香が指さした先で、小柄な女性——月見里みのりは、こちらにちらりと視線を向けただけで、興味なさそうに小さく手をひらひらと振ると、すぐにモニターの中の戦場へと意識を戻してしまった。カタカタ、と再びペンタブレットの音がリズミカルに響き始める。
「みのり先輩は集中するとああなっちゃうから、気にしないで」
静香は苦笑しながらそう言うと、改めて結城に向き直った。
「それで、君は? 名前、聞いてもいいかな?」
「……岩倉、結城です」
名乗ると、静香は嬉しそうに「岩倉君ね」と頷いた。そして、創作に生きる人間として、ごく自然な好奇心から、あの質問を投げかけた。
「岩倉君は、何か創ってるの? 小説とか、漫画とか、イラストとか」
その瞬間、結城の心臓がどきりと跳ねた。「小説」という単語が、固く閉ざしていた記憶の扉をこじ開けようとする。脳裏に、かつてのペンネームと、我武者羅にキーボードを叩いていた中学時代の自分がフラッシュバックした。
——違う。あれは過去だ。俺はもう、何も創らない。
結城は喉の渇きを覚えながら、必死に平静を装って首を横に振った。
「いえ、何も。俺は……見る専門なので」
嘘ではない。今の自分は、ただの「見る専門」だ。かつては違った、という事実を隠せば、それは真実になる。
しかし、その言葉を聞いたソファの上の神崎零が、ふっと鼻で笑ったのが分かった。
「ふーん、『見る専門』ねえ」
面白がるような、すべてを見透かしているような声だった。
結城は居心地の悪さに、ただ黙って立ち尽くすことしかできなかった。
三色の才能が渦巻くこの部屋で、自分の「灰色」がひどく惨めに思えた。
その重苦しい沈黙を破ったのは、やはり春下静香だった。彼女は困ったように笑いながら、助け舟を出すように会話を繋いだ。
「まあまあ、零先輩。そんなに意地悪しないの。えっと、岩倉君は見る専門ってことだけど、普段はどういう作品を読むの? 好きな作家とか、ジャンルとか」
それは、ただの純粋な好奇心からくる質問だったのだろう。だが、結城にとっては、かつて自分がいた世界のことを問われる、踏み絵のようなものだった。
少しだけ迷った後、結城は当たり障りのない、それでいて嘘ではない答えを口にすることにした。
「……ライトノベルを、少し。最近のだと、一条櫻の『魔法の惑星』とかは面白かったです。あとは、白糖さんの『ブレイブ・オンライン』シリーズも」
一条櫻。
その名前を口にした瞬間、喉の奥がひりつくような感覚がした。自分の筆を折る最後の決定打となった、あの天才の名。それを「面白かった」と評価する自分の声が、どこか他人事のように聞こえた。
だが、その二つの名前は、結城の予想を遥かに超える効果を発揮した。
「え、本当!? 私もその二つ、大好き!」
最初に声を上げたのは、やはり静香だった。彼女は目をキラキラと輝かせ、まるで旧知の友を見つけたかのように一歩結城に近寄った。
「『魔法の惑星』の、あの切ない世界観、最高だよね! 私、いつか書籍版の挿絵を描くのが夢なんだ! 『揚げたパン』名義で!」
「……白糖のVRMMOモノか。主人公のキャラ造形は甘っちょろいが、伏線の張り方はエグい。あんた、分かってるじゃないか」
今まで結城を品定めするように見ていた神崎零が、初めて感心したような声を漏らした。顔の上に置いていた漫画誌をそっと横にどけ、気だるげながらも、その瞳には確かに興味の色が浮かんでいる。
そして、最も意外な反応を見せたのは、今まで我関せずを貫いていた月見里みのりだった。
カタカタ、と鳴り響いていたペンタブレットの音が、ぴたりと止んだ。ヘッドフォンを外し、くるりと椅子を回転させた彼女は、その大きな瞳でじっと結城を見つめて、ぽつり、と呟いた。
「……『ブレイブ・オンライン』……あの第六巻の、対ギルド戦の戦闘シーン……頭の中で、勝手に作画が始まる……」
それは、創作者だけが持つ、最高の賛辞だった。
三人の反応に、結城は呆気に取られていた。
ただの一般読者を装うため、当たり障りのない人気作を挙げたつもりだった。だが、この部屋では、その作品名が最高の共通言語として機能したのだ。一条櫻も、白糖も、彼女たちにとっては嫉妬の対象ではなく、同じ熱を共有する、尊敬すべき「作家」だった。
部屋の空気が、明らかに変わった。
結城を取り囲んでいた警戒心や値踏みするような視線が消え、代わりに、同じ物語を愛する者同士の、穏やかで温かい空気が流れている。
その変化を敏感に感じ取った静香が、嬉しそうに手を叩いた。
「決まりだね!」
「え?」
「うん、岩倉君、合格!」
何が、と問う前に、静香は悪戯っぽく笑った。
「無理に入部しろとは言わないよ。でも、気が向いたらいつでも遊びに来ていい。っていうか、来て! 新作ラノベの感想とか、語り合いたいし!」
それは、「入部」という重い扉ではなく、「見学」という名の、いつでも出入りできる軽いドアだった。
断る理由は、見つからなかった。いや、本当は断るべきなのだ。ここに関われば、自分の灰色の平穏は間違いなく脅かされる。
それでも、結城は、気づけば小さく頷いていた。
「……じゃあ、また、来ます」
その言葉を最後に、結城は三人に軽く頭を下げ、今度こそ本当に部室を後にした。
扉を閉めた瞬間、どっと疲労感が押し寄せる。
灰色の日常を望んでいたはずなのに、気づけば、三色の鮮やかな才能が渦巻く場所への通行許可証を手に入れてしまっていた。
ポケットの中のスマホが震える。故郷の友人からの、どうでもいいメッセージ。
それに返信を打ちながら、結城は知らず知らずのうちに、先ほど口にした天才の名を、頭の中で反芻していた。
——一条櫻。
俺が逃げ出した世界の、光そのもの。
その光に、ほんの少しだけ、また近づいてしまった。そんな予感がした。