第十九話
夏コミまで、残り一ヶ月。
五人の前に立ちはだかった、あまりにも静かで、巨大な壁。
——効果音(SE)と、声優がいない。
部室の空気は、数日前までの熱狂が嘘のように、どんよりと淀んでいた。誰もが解決策のない問題を前に、ただ黙り込んでいる。その重苦しい沈黙を、最初に破ったのは、意外な人物だった。
「……あのさ、私、名案、思いついちゃったんだけど」
おずおずと手を挙げたのは、他ならぬ春下静香だった。その目に、なぜかキラキラとした光が宿っている。
「ないなら、作ればいいんじゃないかな!」
「……は?」
誰かの、気の抜けた声が漏れた。
「だから! SEも、声も! 私たちで、作っちゃうの!」
静香は、バン!と机を叩いて立ち上がった。その自信に満ちた顔に、他の四人は、ただただ呆然とする。
「……春下さん。正気?」
最初に我に返った美緒が、心底信じられないという顔で言った。「素人がマイクに向かって叫んだところで、それはただの騒音よ。録音機材も、防音設備も、何もないのよ?」
「機材なら、これがあるよ!」
静香が、得意げに自分のスマートフォンを掲げた。
「最近のスマホって、録音機能、すごいんだから!」
もはや、正気の沙汰ではなかった。だが、淀んだ空気を破壊するほどの、彼女の根拠のない明るさに、誰もが毒気を抜かれてしまう。
「……まあ、やってみるだけ、タダか」
最初に降参したのは、零だった。面倒くさそうに、しかし、どこか面白がっている目で、静香を見ている。
こうして、五人の天才(と元天才)による、絶望的な自家製音源制作が、幕を開けてしまった。
まずは、SEからだ。
「よし、じゃあ、みのりちゃんの、あの爆発シーンの音、録ってみよう!」
「爆発……」
みのりは、こてん、と首を傾げた後、やおら立ち上がると、部室の隅にあったビニール袋を手に取った。そして、静香が構えるスマホのマイクに、思いっきり近づけて、
「フッ!!!!」
息を吹きかけた。
——ボフッ!!!!
スマホからは、ただの雑音が再生されるだけだった。
「次は私! 剣と剣がぶつかり合う音!」
零が、やる気なさそうに、机にあった定規とボールペンを、カチ、と合わせた。
——カチ。
「……うん。定規とボールペンがぶつかった音だね」
静香が、真顔で感想を述べた。
そして、地獄は、次のステージへと移行した。
——アフレコだ。
「じゃあ、この前のデモシーンの、結城君のセリフ、いってみよう!」
白羽の矢が立ったのは、結城だった。
「『——応えろ、我が声に。境界を越え、今、ここに来たれ』! はい、どうぞ!」
「いや、無理だろ!」
「いいから、やってみて!」
四対の視線に晒され、結城は、顔を真っ赤にしながら、蚊の鳴くような声で、ぼそぼそと呟いた。
「……ぉ、ぉぇろ……わがこぇに……」
「全然ダメ! 覇気がない! 次、私!」
静香が、主人公になりきって、胸に手を当てて叫んだ。
「お、応えろぉ〜〜! わが、声にぃ〜〜〜!」
それは、主人公の悲痛な叫びというよりは、田舎の演芸大会のようだった。
数十分後。
五人は、スマートフォンの前に、再び集まっていた。地獄の録音データの、試聴会だ。
再生ボタンが押される。
『……ぉ、ぉぇろ……わがこぇに……(ボフッ!!!!)……きょ、境界を越え……(カチ)……』
しん——————。
数秒間の、気まずい沈黙の後。
最初に、誰かが、ぷっ、と吹き出した。
それを皮切りに、次々と笑いが伝染していく。それは、面白いからではない。あまりの酷さに、笑うしかなかったのだ。
「だ、ダメだこりゃ……!」
「ひどい……ひどすぎる……!」
涙を流しながら笑い転げる静香と零。頭を抱える結城。そんな彼らを、美緒は、冷たい、しかし、どこか楽しそうな目で見つめていた。
結局、問題は何一つ解決しなかった。
だが、部室の淀んだ空気は、彼らの酷すぎる大根役者っぷりと共に、どこかへ消え去っていた。
笑い疲れた後、美緒が、ぽつりと呟いた。
「……まあ、プロを、探すしかないわね」
その言葉が、彼らの次なる冒険の、始まりの合図だった。