第十七話
地獄の開発が始まって、三週間が経った。
部室の空気は、熱気と疲労と、そしてわずかな焦りが混じり合った、独特の匂いがしていた。それでも、プロジェクトは着実に進んでいた。みのりの絵コンテは神がかり的なクオリティで上がり、零のデモ音源はゲームの世界観を完璧に表現し、結城のシナリオも、一万字のノルマを一日も欠かすことなく積み上げられていた。
その歯車が、最初に狂い始めたのは、誰もが予想していた場所だった。
「……ごめん、今日、ちょっと……描けない」
そう言って、春下静香が部室に来なくなったのは、月曜日のことだった。
t彼女の机の上には、描きかけの主人公のLive2D用原画が、寂しそうに置かれている。パーツ分けの指示が書き込まれた付箋が、無数に貼られたまま。
原因は、明らかだった。
先週末に上がった、みのりの戦闘シーンのアニメーション原画。それは、もはや同人レベルを遥かに超越した、商業作品と見紛うほどのクオリティだった。爆炎のエフェクト、機体の躍動感、キャラクターの鬼気迫る表情。それを見た瞬間、静香は、持っていたペンを、ぽとりと落としたのだ。
「春下さん、進捗遅延三日目。このままじゃ、私のスケジュールが破綻する」
美緒が、冷静に、しかし有無を言わせぬ圧力で告げる。
「分かってる……分かってるけど……」
電話の向こうで、静香の声はか細く震えていた。「私の絵じゃ、みのりちゃんの絵と、釣り合わないよ……」
その言葉を聞いた瞬間、結城の胸に、冷たい鉄の杭が打ち込まれたような痛みが走った。
——ああ、知っている。その絶望を、俺は、誰よりも。
才能という、あまりにも巨大で、残酷な壁。それにぶつかった時、心がどうやって壊れていくのか。
「……俺が行きます」
結城は、静かに立ち上がった。
「冬夜先生?」
「彼女を、このままにはしておけない」
それは、彼女のためであると同時に、過去の自分自身を救うための、決意だった。
静香のアパートの部屋は、綺麗に片付いていた。だが、それが逆に、彼女の心の空白を物語っているようだった。
「岩倉、君……」
「少し、話をしませんか」
結城は、無理やり上がり込むと、一枚の紙を彼女の前に差し出した。そこには、走り書きのような文字で、短いプロットが書かれていた。
「これは……?」
「あんたの絵じゃなきゃ、描けない物語だ」
それは、戦闘も、派手な魔法も出てこない、ただ、街の片隅で暮らす猫と、一人の不器用な少女の、ささやかな交流を描いただけの物語だった。
「みのり先輩の絵は、神様みたいに凄い。零先輩の音楽も、美緒さんの技術もそうだ。でも、あんたの絵には、神様には描けないものがある」
結城は、まっすぐに静香の目を見た。
「あんたの絵には、温かい日向の匂いがする。人の心の、柔らかい場所を撫でるような、優しさがある。……俺が、最初にあの部室の扉を開けたのは、あんたのその絵に、心を掴まれたからだ」
静香の目から、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。
「才能なんて、なくても……いいのかな」
「才能の定義なんて、誰が決めるんだ。魂が震えるなら、それは立派な創作だろ」
それは、かつて彼女たちが、自分にかけてくれた言葉だった。
その夜。結城が部室に戻ると、静香が、すでに机に向かっていた。まだ目の縁は赤い。だが、その手は、迷いなくペンを走らせていた。
安堵のため息をつき、結城も自分の席につく。さあ、遅れた分を取り戻さなければ。
そう思った矢先、ポケットに入れていたスマートフォンが、静かに震えた。
画面に表示された名前に、結城は息を飲む。
【一条 櫻】
『冬夜先生、ご無沙汰しております。お忙しいところ、大変恐縮なのですが、一つ、ご相談したいことがありまして』
メッセージは、こう続いていた。
『もし、ご興味があればなのですが……今年の夏コミで、私と二人で、合作の小説を出してみませんか? ジャンルは、ファンタジーを考えています。先生の描く、剣と魔法の世界を、読んでみたいんです』
心臓が、大きく音を立てた。
一条櫻との、共同執筆。
それは、物書きであれば誰もが夢見る、最高の舞台。
だが、その舞台の幕が上がるのは——この夏。自分たちが、すべてを賭けている、この夏。
結城は、目の前で再び輝きを取り戻した仲間の横顔と、スマートフォンの画面に表示された神様からの誘いを、ただ、呆然と見比べることしかできなかった。