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第十六話

 一日一万字という、狂気にも似たノルマ。

 岩倉結城の日常は、キーボードを叩く音と、エナジードリンクの味だけで構成されていた。思考は常に二つに引き裂かれ、右脳でゲームの悪魔と契約した少年を描き、左脳で『小さな世界の大きな一歩』の甘酸っぱい青春を紡ぐ。

 部室は、もはや五人の兵士が立てこもる塹壕だった。静香のパーツ分けの悲鳴、零の即興のメロディ、みのりの鉛筆が走る音、そして美緒の冷静な進捗確認の声。その全てが混ざり合い、奇妙な協奏曲となって、結城の執筆を後押ししていた。

.

「——冬夜先生、手を止めなさい。至急、これを見て」


 その日、戦場の空気を切り裂いたのは、指揮官である美緒の、いつもより少しだけ緊張をはらんだ声だった。彼女が結城の前に突き出したタブレットの画面には、国内最大のSNS『TwitCasting』のトレンド画面が表示されている。

 そして、その一位の座に、信じられない名前が輝いていた。


『#冬夜先生』

『#小さな世界の大きな一歩』


「……なんだ、これ」

「原因は、これよ」

 美緒が指し示したのは、一本の投稿だった。投稿主の名前を見て、結城の心臓が、大きく跳ねた。


【一条 櫻(@Ichijo_Sakura)】


遅ればせながら、『小さな世界の大きな一歩』の更新、拝読しました。感情の奔流に、ただただ圧倒されています。中学時代からずっとファンでしたが、やはり冬夜先生は、私の原点です。最高の物語を、ありがとうございます。


 一条櫻。

 現役高校生にして、国内の文学賞を総なめにした、現代で最も注目される天才作家。

 そして——岩倉結城が、自らの筆を折ることを、完全に肯定させてくれた、神様。

「……なんで、一条櫻が」

「すごい! すごいよ岩倉君! あの天才が、君のファンだって!」

 静香が、自分のことのように目を輝かせている。だが、結城の心は、喜びよりも戸惑いで満たされていた。

 ピロン、とパソコンの通知が鳴る。一条櫻から、ダイレクトメッセージが届いていた。


『突然のご連絡、失礼いたします。一条櫻と申します。先ほどの投稿、ご迷惑でしたら申し訳ありません。ですが、どうしてもこの感動をお伝えしたくて……もし、もしご迷惑でなければ、一度、少しだけお話をお聞かせ願えないでしょうか』


 その文面は、どこまでも丁寧で、謙虚だった。

 結城が想像していた、雲の上の天才の姿とは、あまりにもかけ離れていた。


 数日後。

 結城は、都心にあるホテルのラウンジで、一人、アイスコーヒーのグラスを握りしめていた。美緒が「相手は超売れっ子だ、失礼があってはいけない」と、半ば強引にセッティングした場所だ。

「お待たせいたしました。冬夜、先生……でしょうか?」

 声に顔を上げると、そこに立っていたのは、清楚な制服に身を包んだ、一人の少女だった。写真で見たよりもずっと小柄で、少し緊張した面持ちで、こちらを見つめている。

「……一条、櫻さん」

「は、はい! 本物の一条櫻です!」

 彼女は、なぜかそう言って、深々と頭を下げた。


 高嶺の花だと思っていた天才は、目の前で、ただただ恐縮している普通の女の子だった。

 二人の会話は、ぎこちなく始まった。だが、物語の話になると、彼女の瞳は、途端に熱を帯びた。

「あの、一章の、ヒロインが主人公に初めて本音をぶつけるシーン! あそこの比喩表現が、本当に……!」

「いえ、でも、一条さんのデビュー作の、あのラスト一行の切れ味に比べたら……」

 それは、作家同士の対談などではなかった。ただ、物語を愛する少年と少女の、拙くも、純粋な語らいだった。


 そして、別れ際。

 結城は、震える手で、彼女のデビュー作を差し出した。

「あ、あの、もし、よかったら、サインを……」

「……え?」

 一条櫻は、きょとんと目を丸くした後、次の瞬間、顔をぱあっと輝かせた。

「も、もちろんです! あの、私も……私も、お願いしても、いいですか!?」

 彼女がカバンから取り出したのは、結城が書いた『小さな世界の大きな一歩』の書籍版だった。大切に読まれたのだろう、本の角は少しだけ丸くなっている。


 二人は、テーブルの上で、互いの本にサインを書き込んだ。

 結城が「冬夜」と書き終えた本を渡すと、彼女は、それを宝物のように両手で受け取った。

「うわ……うわああ……! 本物だ……! ありがとうございます! 一生の、宝物にします!」

 その笑顔は、文学賞を受賞した時の、どんな写真よりも輝いて見えた。

 その純粋な喜びに満ちた顔を見て、結城は、すとん、と腑に落ちた。


 ああ、そうか。

 俺が勝手に「神様」だと思っていたこの人も、ただ、物語が好きな、一人の女の子だったんだ。

 俺と同じ、ただの、創作者だったんだ。


 帰り道、結城の足取りは、不思議と軽かった。

 彼を縛っていた、天才という名の呪いが、また一つ、静かに解けていくのを感じていた。

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