第一話
大学という新しい世界は、息が詰まるほどの自由と、それに比例する無関心で満ちていた。
故郷から、家族から、そして「何者か」であった過去から逃げてきた俺、岩倉結城にとって、それは望んだ通りの環境のはずだった。講義に出て、当たり障りのない会話をして、コンビニ弁当を片手に一人暮らしのアパートへ帰る。そんな灰色の日常こそが、俺が焦がれた平穏なのだ。
かつて、俺にも熱があった。
中学時代、『冬夜』というペンネームでネット小説を書いていた。我ながらどうかしていたと思うが、俺が書いた青春恋愛小説『小さな世界の大きな一歩』は、ちょっとした伝説になった。ランキングサイトでは二位とトリプルスコアを付ける圧倒的な一位を独走し、書籍化の打診も受けた。
だが、高校生になった俺は、初めて本物の恋を知った。友と馬鹿なことをして笑い合う、本当の青春を手に入れた。キラキラと輝く現実の前では、画面の中の言葉は急速に色褪せていった。あれほど夢中になったはずの物語を紡ぐ行為が、ひどくつまらなく、面倒なものに思えた。
現実は、創作より遥かに面白かったのだ。
そんな時だ。彗星のように現れた天才女子高生作家、一条櫻のデビュー作を読んだのは。
一行一行が、星屑のように輝いていた。物語が、生き物のように叫んでいた。
——ああ、もういいんだ。
俺が書かなくても、世界にはこれだけのものを生み出せる人間がいる。
敗北感はなかった。むしろ、安堵に似た感情と共に、俺は静かに筆を折った。誰にも告げず、アカウントを消し、『冬夜』はネットの海から忽然と姿を消した。
もう二度と、あの熱に浮かされるのはごめんだ。
そう誓ったはずだった。
サークル勧誘の喧騒がキャンパスを支配する四月。その熱量から逃れるように、俺は旧校舎の裏手、人のいない廊下をあてもなく彷徨っていた。新歓コンパのチラシも、熱のこもった勧誘の声も届かない、静かな場所。ここなら、灰色の日常を守れる。
そう思った矢先、ふと、一枚のポスターが目に留まった。
薄暗い廊下の掲示板に、それだけが鮮やかな色彩を放っていたのだ。
B4サイズの、手描きのイラストポスター。
描かれていたのは、夕暮れの教室で、窓の外を見つめる一人の少女。その横顔に宿る、期待と不安がないまぜになったような繊細な表情。窓から差し込む西日が、彼女の輪郭を金色に縁取り、舞い上がる埃さえもキラキラと輝いて見えた。
一枚の、何の変哲もないイラスト。
だが、俺はそこから動けなくなった。
この絵には「熱」が込められていた。忘れたはずの、逃げ出したはずの、あの懐かしい熱が。描いた人間はきっと、この一瞬の光景を、どうしようもなく愛している。その愛情が、痛いほど伝わってきた。
ポスターの下には、掠れたマジックでこう書かれていた。
【同人創作サークル】部員、募集中。活動場所はこの先、突き当り。
気づけば、俺はポスターに示された部室の扉の前に立っていた。古い木製のドアノブに手をかけ、ほんの少しだけ、躊躇う。
(見るだけだ。すぐに立ち去る)
自分に言い訳をして、ゆっくりとドアを開いた。
ギィ、と湿った音が鳴る。
開けた扉の先は、混沌とした創造の揺りかごだった。
インクと、画用紙と、埃と、そして微かな珈琲の香り。壁という壁は本棚で埋め尽くされ、漫画や画集、資料らしき専門書が乱雑に、しかし確かな熱量を持って詰め込まれている。
和気あいあいとした大学サークルなどではない。ここは工房だ。戦場だ。
そして、その中心に、三人の女がいた。
窓際の一番明るい席で、ペンタブレットを握りしめている小柄な女性。ヘッドフォンで外界を遮断し、画面の中のキャラクターに命を吹き込んでいる。カタカタと鳴るペン先の動きは、常軌を逸するほど速く、正確だった。天才アニメーター、とでも言うべきか。
部屋の奥、へたったソファの上には、長い黒髪の女性が寝そべるようにして、週刊漫画誌を読んでいた。その姿はひどく気だるげだ。だが、彼女の傍らに無造作に置かれたスケッチブックの隅から、俺の目を釘付けにするほど精緻な背景画が覗いていた。やる気のない鬼才漫画家、か。
そして、入口に一番近い席。
俺の心を掴んだあのポスターを描いたであろう人物。
色素の薄い髪を無造作に束ねた彼女は、机の上のケント紙を睨みつけ、鉛筆を握ったままうんうんと唸っていた。彼女の周りには、くしゃくしゃに丸められた紙の塊がいくつも転がっている。産みの苦しみの、真っ只中にいる。だが、その真剣な横顔は、ポスターの少女とどこか重なって見えた。売れない、というにはあまりに真摯なイラストレーター。
——しまった。
場違いな場所に来てしまった。
俺が静かに扉を閉めようと後ずさりした、その瞬間。
「……あ」
鉛筆を置いて、ガシガシと頭を掻いていたイラストレーターの彼女が、俺の存在に気づいた。
くりっとした、少し眠たげな目が、俺を真っ直ぐに見つめる。
「新入生…かな? 見学?」
その声に、ソファの漫画家が気だるげに片目を上げ、PCのアニメーターがヘッドフォンを少しだけずらした。
三対の視線が、静かに俺に突き刺さる。全身の毛が逆立ち、背筋を冷たい汗が伝うのが分かった。
ここから逃げなければ。この熱に当てられたら、俺の平穏は終わる。
幸い、目に映るのは女性だけ。ならば、使える口実がある。
俺はコンマ数秒で思考をまとめると、慌てた素振りでわざとらしく頭を下げた。
「あ、いえ…すみません、部屋を間違えました! 女子専用のサークルだったんですね。大変失礼いたしました!」
完璧な言い訳。くるりと踵を返し、一歩踏み出した俺の背中に、しかし、焦ったような声が投げかけられた。
「えっ? あ、待って待って! 違うから!」
声の主は、イラストレーターの彼女——春下静香だった。彼女は慌てて立ち上がると、俺の前に回り込むようにして、ぶんぶんと両手を横に振った。
「ぜ、全然女子専用とかじゃないよ! たまたま! たまたま今、女子しかいないだけで! ねっ?」
同意を求めるように静香が振り返るが、ソファの漫画家は「さあ……」と肩をすくめ、アニメーターはすでに自分の世界に帰っている。助け舟は皆無だった。
「だから、その……」
気まずそうに視線を泳がせた静香だったが、意を決したように俺の顔を真っ直ぐに見つめ直した。
「もしかして、廊下のポスター、見てくれた?」
その言葉は、逃げ道を塞ぐための、確信に満ちた一撃だった。
「部屋を間違えた」という嘘が、ガラガラと音を立てて崩れ落ちる。
俺は言葉に詰まった。
目の前には、自分の心を見透かさんばかりに、真剣な瞳でこちらを見つめる春下静香がいる。
その背後では、面倒くさそうにしながらも、黒髪の鬼才漫画家がこちらの様子を面白そうに窺っていた。
逃げ出したはずの「熱」の、ど真ん中に、俺は立っていた。