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死後の世界の正体が分かってきた

 巡っていたロクでもない「あの世」。

 その6つの世界には、7つ目の世界があった。「涅槃」と呼ばれる世界に向けて、そこに行ける唯一の条件である「悟り」の答えを求めて、各世界に散った5人を探し出し、共になって答えを見出していく。

 その答えとは?

LEVEL.5   人間道


 意識が飛んで、どれくらい経ったのだろう。ほんの数秒かもしれないし、数日かもしれない。戻って来る意識の中に聞こえて来たのは、懐かしい雑踏の音だ。

「もしもーし。起きて下さーい。もしもーしっ! 」

 六地蔵の声がした。

 くそ。あいつの声がするってことは、今までがもしかしたら夢だったのかもしれなくて、実はまだ俺は生きているかもしれないという薄い期待が儚く消えたことになるじゃないか。

 いや、まだわからんぞ。

 知らんおっさんが、寝ている俺にいらん説教をして、それが原因で妙な夢を見ていた、目を覚ますと、そのおっさんの姿が単に六地蔵そっくりだった、なんてオチが待っているかもしれない。

俺は一縷の期待を込めて、ゆっくりと目を開いた。

「・・・ああ、ようやく起きましたか? 死んでるのに死んだふりなんかしたら駄目ですよ」

「んあっ? ・・・? ・・・何や? ・・・どちら様ですか? 」

 目の前にいるのは、残念ながら夢(と思いたい)の中にいた六地蔵そのものだ。

「あらら? もしかして今までの事、全部夢にしたかったんです? 残念ですが、あなたが死んだ事含めて全部事実ですよ」

「・・・チッ」

「ああ、ダメですよ。舌打ちなんかしたら、これあなたの為の特別サービスなんですよ。素直にお礼を言って欲しいくらいです」

「あっ? 何やお前か。なんや? ここ? 」

「わざとらしい・・・。ま、いいでしょう。ここは、現実の人間道ではありません。あなた方6人の生前の記憶を再構成して追体験してもらうためにつくった疑似体験の場です」

「ほな、これもヴァーチャルかいな? 」

「記憶を辿ってるので、嘘ではありません」

 俺は、街中の広場みたいな所のベンチで寝かされていたようだった。

 寝かされていた? いや、違う。寝ていたのかもしれない。

 わからない。これが誰の記憶によるものなのか、さっぱりわからない。

 よく見ると、目の前を多くの人々が通り過ぎている。

 俺がここで寝ていたとしても、誰もそれを気に留めず、目線にすら入れていない。

「そうそう、言い忘れてましたが、我々は、当然、この人たちには見えていませんしね。まぁ、ヴァーチャルだから当たり前ですけど」

「・・・そうか、そうだよな・・・」

 時折、この六地蔵はもしかしたら俺の心が読めるのかと思う時がある。

 それくらい俺が忘れていた何かを思い出しそうな絶妙なタイミングに感じた疑問の答えを言って来る。


 行き交う人々の中で、赤ん坊をベビーカーに乗せた家族に目が行った。

 まだ俺より若い父親と、優しそうで、ストレスも無さそうな母親、赤ん坊だって、ここからでも可愛い笑い声が聞こえて来る。絵にかいたような理想的な家族像じゃないか。

 何故か分からない。でも、何かとても幸せそうに見える。

「ああ・・・。ええなぁ。わしが見たいのはこういう光景やがな」

「何がです? 」

「こういう、普通の人々の営みっつうか、特に、ほれっああいう幸せそうな家族の光景や言うとんねん」

「ああ。あれ。憧れます? 」

「い・・・いや別にそういう意味で言うてへんけど」

「ああ、すみません。まだ記憶無いんでしたね」

「なんや、意味深な? お前、なんか知っとんな」

「一応ね、それなりに。絶対言いませんけど。・・・それよりあれが見えるんですね? 」

「おるやないか。何言うとんねん。・・・は? ・・・何? まさか? 」

 どうりで絵に描いたような家族だと思ったら。

「何もあれまでヴァーチャルとは言ってませんよ。ただ、見えてる家族の内、ご主人はこの世の人ではありません」

 この世の人じゃない? 

「へ? ほな、幽霊? 」

「そうですね。そうとも言います。でも、怖いですか? 」

 そうか、幽霊って聞くと、生きてる時は「ヒャーッ」とか言って、ビビっていたが、自分が死んだと思うと、全く逆だ。ひどく羨ましく感じる。

「・・・うんにゃ。全く」

 あんなろくでもない世界に行かず、こうして人間世界に留まって、ああやって残した家族をずっと側にいて見守っている。

 幽霊だ、おそらく何ができるわけでも無いだろう。

 それでも、見守ろうとしている。奥さんからは見えてもいないのに、何故だろう、赤ん坊だけには見えている気がする。あの旦那があやしていることに、さっきから笑って反応している様にも思えた。

「動機によっては魂が現世にとどまり続けることもある。このご主人のように、愛情や責任感、逆に、恨みや憎しみなんてネガティブな動機で残る魂もあります。また、多くは自分が死んだという事を知らずに彷徨う者もいます」

「なるほどな。守護霊に背後霊、怨霊に悪霊、ほんで地縛霊に浮遊霊ってところか。へぇ・・・。そういうのもありなんか。そらそやな。幽霊おるもんな。ん? なんか、またわからんようになってきたぞ」

「どこがです? 」

「死んだと思ってない連中が、現世で彷徨うとるのに、なんで俺らは違うんや。俺らかて、死んだ記憶なんか無いやんけ」

「そりゃ、認識の違いですよ。記憶が無くても、あなたたちは死んだという事実をすんなり受け入れたじゃないですか」

「いや、そらそうかもしれんけど・・・」

「記憶が無くても無意識化でちゃんと自分の死を認識しているんです。そこが、ここに留まっている連中との違いです」

「ふ~ん・・・。意識的に留まっている連中は、それなりに強い目的意識を持ってると言う事か」

「現世に留まる魂は、その目的を達成すれば、または満足・納得する結果を得られれば、涅槃へと旅立つでしょう。ま、俗に言う「成仏」ってやつです」

「六道には行かんちゅう事か」

「はい」


 家族が去り、また、人々が行き交う。と、そこへ、大量の買い物袋を持った高いヒールを履いた女が目の前を誰かとスマホで話しながら過ぎて行った。

「あ、あの女や」

 そう、餓鬼道に落ちたジャラ女だ。

「よく見てて下さい」

 誰と話しているのかは知らないが、会話の内容から関係性はよく分かった。

「ちょっと、カードが落ちないってどうい事よ? いきなり、店で言われたわよ。ブラックカードでそんなことってあんの? ・・・何? ・・・はぁっ? 倒産? ・・・えっ? 馬鹿じゃないの。そんなのあんたの勝手じゃない。・・・私がなんでそれで迷惑掛けられなきゃいけないのよっ! ・・・好き勝手使っていいってあんたが渡したカードでしょうよ。使わせてくれなんて頼んだ覚えもないでしょ。困るのよ、まだ、買いたいものもあるし、インスタ更新できないじゃないのよ。・・・はぁ? ・・・ちょっとっ! ・・・ねぇ、ちょっとっって・・・、ちっ、切っちまいやんの」


 そこへ、ふいに女がジャラ女とすれ違って行く。

 ジャラ女は、そのすれ違った女のことで、何かを思い出したのか、

「あれ? あれって・・・ねぇっ! ちょっ・・・」

 急に振り返って声を掛けようとした瞬間、高いヒールが折れた。

 バランスを崩して、仰向けに倒れてしまう。

 普通なら、尻もちをつくなり、手で受け身を取るなりできただろうが、両手に持ったブランド品の紙袋がそれを阻んだ。いや、正確に言うと、これらを犠牲にして手をつく事をためらったのだろう。

 しかも、なんと運の悪い事に、ちょうど倒れる場合、後頭部が当る部分にブロックの角があった。

 かなり無様に、かつ強烈に後頭部にブロックの角を強打する形で倒れてしまった。

 打ち所が悪かったのだろう。

 彼女は、残念ながらそのまま天に召されることになった。


 ポクポクポク・・・、チーン!


「マジかっ? 」

 六地蔵は手を合わせて、

「そのマジです。・・・じゃ、次行きましょうか」

「へ? 次って? ちょー待てっ! あれ、あのままにしとくんかっ? 」

 こう言うと、六地蔵はキョトンとした顔をしてみせて、

「・・・あのね。私たちは記憶データをただ遡っているだけなんですよ。あれは過去の出来事です。何ができるわけでも無いんです」

と言った。

 そうだった、忘れていた。

「・・・あ・・・、そ・・・、そやったな」

 しかし、これがあのジャラ女の最後とは、あの女とは当然、死んでから会ったのだが、餓鬼道に至る経過を見ても、実に納得できる最後だったと言える。

 いや、それ以上に、人の生き死にとはなんと呆気ない事なんだろうか。

 運が悪ければ、たかがコケただけで死ぬ。

 この死に様で、逆によく自分が死んだと認識できたもんだな、とある意味ジャラ女に感心した。

 ただ、一つ気になったことがある。

 あのジャラ女とすれ違って、あいつが気付いて声を掛けようとした女だ。

 顔も姿も、あれはどう見たって、うるさい女だった。

 ただ、正直、すぐに気付かなかった。いや、むしろ、今でも疑っている。

 女が纏っている雰囲気だ。それが、全く違う。

 それだけなら、完全に別人と言ってもいい。何か近寄りがたいというか、近寄るなオーラが迸るほど出まくっていたというか、そんな感じに見えた。

 あのうるさい女は、確かにやたらと知ってる知識をひけらかすうるさい奴だったが、とっつきにくいわけじゃなかった。むしろ、人懐っこさまで感じられた。


「さて、少しだけ時間を遡りますよ」

「へ? あ? そうなん? 」

 

 広場の奥に、おしゃれなオープンカフェがあった。

 そこに、座っていたのがヒルズ男だった。

 何やらスマホで誰かと話しているようだが、さっきのジャラ女と同様、言っていることだけで、関係が分かるような内容だった。

「だから、偉そうに言うなよ。そもそも俺のカードだろ、欲しけりゃ自分のカード使えよ。とにかく、もうカードは使えん、これ以上俺にも連絡してくるな。もう携帯も繋がらないからな」

 そう言うと、スマホを切った。

(あれ、この会話って? )

 会話内容で関係性が分かるのもそうだが、その内容も合致しているところから考えるに、もしかして、あの電話の相手と言うのは?

「ほら、来ましたよ」

 六地蔵がそういうと、ジャラ女のいた方向から、あのうるさい女がツカツカと歩いて来た。

「え? え? えーっ? 」

 無関係だと思っていた奴らが、実は生前関係があったことに驚いたが、さらに、ここでも驚かされた。

ヒルズ男は、あのうるさい女に気付いて、手を挙げた。

 すると、女は特にそれに返すことなく、ヒルズ男のいるテーブル席へ行き、座った。

「何? 債権者? 」

「何が? 」

「今の。電話」

「ああ。・・・まあ、そんなもんだ。それで・・・」

「バカよねぇ・・・」

 ヒルズ男が何か言いだそうとすると、それを切るようにうるさい女が呟いた。

 スマホで動画を見ているようだ。音がしてないから、ブルートゥースで聴いているのだろう。ということは、そもそも、ヒルズ男の話をちゃんと聞く気が初めから無いのかもしれない。

 この二人の関係性はまだわからないが、全くの他人という訳でも無く、互いに遠慮や配慮という物が無い所から察するに、それなりに深い関係性なのかもしれない。

「あ? 」

 バカという言葉にヒルズ男が反応した。

 自分が言われたかのような反応だ。

「これよ。これ」

 うるさい女が、スマホの動画をヒルズ男に見せて来た。


 動画はニュース映像で、なんと、そこにあのスーツ女が報道陣に取り囲まれていた。

「大滝議員、献金疑惑については否定されるんですか? 」

「今回、秘書からのリークで判明しましたけど、その秘書が今回立候補されるそうですね」

「党から公認も受けられないどころか、その秘書が公認を受けることになったそうですね」

 記者からの矢継ぎ早の質問にいちいち答えることも無く、議員会館を足早に出て、車に乗り込もうとするが、行く手を報道陣に阻まれ、なかなか乗り込めない。

「大滝議員、政務次官を辞められたのは、事実上の更迭と言われてますが」

「一部では党役員も献金に絡んでいるとされてますが」

「政権支持率の低下の中、解散総選挙となって、逆風の中で戦いを強いられているのは、貴方のせいという党内の声も聞こえてますが、やはり、ご自身の不出馬は、その制裁という意味合いが強いのでしょうか? 」

 いい加減、黙ってられなくなったのだろう。スーツ女が報道陣に口を開いた。

「ですから、私は出ません。その山本のサポートとして・・・」

「お気持ちどうなんですか? 穏やかじゃないですよね? 」

 そこへ、報道陣をかき分けて、無理やり車までの道を作っている秘書がいた。

 よく見ると、なんと作業着男、いやもといあのスーツ男ではないか。

 スーツ女をかばおうとするが、逆に報道陣から質問攻めに遭う。

「あ、秘書の山本さんですよねっ? 大滝議員の代わりに今回、立候補されるのは本当でしょうか? 」

「今回の件について、貴方がリークしたって噂がありますが」

「これは大滝議員を追い落としにかかった党内の動きって見方もありますが」

「はい」

 質問に律儀に答えようとするスーツ男を今度はスーツ女が制した。

「いちいち受け答えしなくていいっ! ・・・すみません。党を通して下さい」

 これは確かに、その方が正解だろう。スーツ男を知っているだけに、あの場で喋らせるのは、不味いだろう。

 多分、なんでも喋るだろうし、これから選挙に出るというなら、バカがばれてしまうことだってある。

 しかし、修羅道での勝負が、現実でも起こりかけていたって事には、正直驚いた。

 全く知らなかった。

「あっ、ちょっと、待ってくださいよっ! 逃げるんですかっ! 」

 スーツ女と、スーツ男はなんとか報道陣を脱して、車に乗り込んで行った。

 スーツ男は運転席、スーツ女は後部座席だ。

 なんと、スーツ女が議員だっていうのは確信していたからいいとして、まさかスーツ男がその秘書だったとは。


 うるさい女は、これをあざける様に薄ら笑いを浮かべると、

「バカな女よね。自分の秘書に結局、全部持ってかれて」

「彼女は、派閥の末端議員だ。トカゲの尻尾きりに使われただけだ」

「あら? 妙にこの女の肩持つのね? 一度でも寝たの? 」

「違うっ! とぼけるなっ! この巨額献金疑惑で俺の所まで切られたんだ。融資が打ち切られて、全額回収される。このままなら潰れてしまう」

「あたしに言われてもねぇ~・・・」

「まだ、惚けるつもりか・・・っ。お前だろ、リークしたのは」

「・・・違うわよ。リークの出所は古巣よ」

「財務省のリークでも裏にはお前がいるのは分かってる。なんでだ? 」

「わからない? 困るのよ、あの総理に居てもらうと。今更、ただの機嫌取りの減税に何の意味があるって言うのよ。おかげで、消費税だの何だのうるさい奴らが増えちゃったじゃない。バカは馬鹿らしく、国民はね、私たちの為に身を粉にして黙って今のまま働いてもらわないとダメなのよ」

「そんなことで、俺まで使ったのか? 」

「そんな事とは失礼ね。お国の為に、その身を捧げてもらっただけじゃない」

「お国の為? お前の為じゃないのか? それはそれでいい。今ならまだ、なんとかなる。支援してくれ。せめて支援先だけでも・・・」

「ん? いいわよ」

「本当かっ? 」

「その代わり、会社の持ってる特許技術を売り渡して、8億でいいわ」

「・・・8億・・・? それだけか」

「良かったじゃない。融資の返済に充てられるでしょ」

「良くないっ! 全く足りない。融資総額は百億近くあるんだぞっ! 8億なんてはした金どこから出て来たんだ」

「なんか、あっちの国だと8って数字が縁起がいいらしいのよ」

「・・・そっ、・・・そんな理由で・・・? 」

「足りないなら、資産売ったらいいじゃない」

「現有資産なんて、もう・・・」

「あなたの保有する株だって、ほっとけば紙切れよ。今のうちに売ってくれたら、あたしが何とかしてあげる。よかったわぁ、こうなる前に離婚しておいて」

「・・・お前・・・、まさか・・・最初からこれが狙いだったのか? 」

「人聞きの悪いこと言わないでよ。私は、お金も地位も名誉もどうでもいいのよ。ただ、常に勝ち組でいたいだけ。あんたはもう負けたの。負け犬に興味はないの。飼ってた犬を捨てて、あとで野良犬になって噛まれちゃったら、大変でしょ。だから、貴方の頭の毛と同じように、二度と生えてこないように毛根から絶やしておかないと」

 その言葉にヒルズ男も、さすがに戦慄した。

「ありがとう。おかげで安く買えたわ。あんたと違って、私なら、企業価値をもっと高くできる」

「待てっ! だったらせめて、社員たちだけでも何とか・・・」

「優秀なのは残すけど、後は知らないわよ。いいの? 人の事なんか気にしていられる? ・・・あっと、仕方ないからここだけは払っとくわ。あと・・・」

 うるさい女は、そっとヒルズ男の耳元に顔を近づけると、ボソっと耳打ちした。

「ずれてるわよ」

「ヒッ! 」

 ヒルズ男は、あのクールなイメージとは打って変わって、必死に頭を押さえて狼狽えるばかりだった。

 うるさい女は、レシート取ってレジを済ませ、薄ら笑いを浮かべて広場を出て行った。残されたヒルズ男は、ただ頭を押さえながら抜け殻のように座り込んでいた。


「きっついなぁっ! あないにきつい女とは知らんかったわ。つか、あの二人、元夫婦かいな」

「彼女は元財務省、しかもその中でも一番の出世コースの主計局出身のエリート官僚だったんです。その後に独立して投資ファンドを立ち上げた。広い見識とネットワークでぐいぐい業績を伸ばして、財務省のつてを活かして、政財界にも太いパイプを持つに至り、今や、日本を陰で操るフィクサーとまで畏れられる存在になった。彼女にとってみれば、彼もただの商売道具に過ぎないんでしょう。先程の物欲女性、彼女も元アパレル社員で今は彼の出資で銀座に店出してましたけど、あそこで亡くなって幸せだったかもしれません」

「ヒルズ男の倒産のあおりがモロに来るからな。あのかつらの愛人やったんか」

「こっちの関係も、あの元夫婦と似たようなもんですけどね。彼女のパトロンは他にもいますから」

「ふええ、そうかいな」

「ま、男の価値に寄生して吸い取ることで自分の好きな物を買って集めること以外、これといって何も持ち合わせちゃいませんから、それが分かれば、どちらも興味が無くなり捨てられる運命なんですけどね」

「シビアな関係やな。ああーっ、嫌だ、嫌だ」


 すると、突然、広場の向こうの大通りの方から、


 キキィーッッ! ガッシャーンッ!


 と、大きな事故が起こったような激しいブレーキ音と衝突音がした。

 俺も当然驚いたが、ヒルズ男も驚いて、事故らしい現場に向かって駆け出して行った。


「なんや、事故か? 」

「ああ、もうやっちゃいましたか・・・」

 特に驚きもしなかった六地蔵が、平然として言った。

「まさかっ? 」

「ええ。3人ほど、あれでお亡くなりです」

「3人? 誰? 」

「少し戻して場所を変えますか」


 六地蔵と俺は、車の中に移動していた。俺の隣にあの代議士のスーツ女が座っている。

 運転席の秘書のスーツ男の隣の助手席に六地蔵が座っていた。

 二人は俺たちの存在が、全く見えていないようだ。

「言ったでしょ。記憶を再構築しているって、だから、私たちはただ見聞きしているだけ、ここには存在していません」

(こいつ、やっぱり、心の中まで聞いてやがったな)


「山本、何か言うことないのか? 」

 ずっと憮然として、車窓からの景色ばかり見ていたスーツ女が、やっと口を開いた。

「先生。僕は謝りませんよ。悪いことをしたのは先生でしょ? 僕は正直にそれをマスコミに喋っただけです」

「お前も知ってただろ? 知らないとは言わせないぞ、山本。お前が率先してやってたんだろうが。それで、なんで全部私のせいになる? 」

「私はご指示通りしただけです。何をしてるかなんて、マスコミの人に聞くまでわかりませんでした」

「嘘をつけーっ! 」

「本当です」

「嘘をっ・・? ・・・本当なのか? 」

「本当です。今でも、正直何が悪いのか、今一つ理解できません」

「・・・それにしても私を出し抜いて、党から推薦までとって立候補するとは、このっ、裏切者っ! 」

「裏切ってません。それが先生の為だと言うもんですから、言われた通りしただけです」

「本当か? 」

「本当です」

「誰から言われた? 」

「幹事長です」

「・・・幹事長ぉ? ・・・」

 それを聞いたスーツ女は、少し黙って考え込んでしまった。

「先生? 」

「他に幹事長は何か言ってたか? 」

 スーツ女は言った。

「僕の事は非常に褒めてくれましたよ。よくやったって」

「お前の事じゃないっ! 私のっ・・・え? ・・・今なんて言った? 」

「ですから、褒めてくれたんです。よくやったって」

「・・・どういうこと? リークしたのは自分だと言ったんだろう? 」

「言ってませんよ」

「は? 言ってないのか? 」

「だって、言えって言ったのは幹事長ですから」

「・・・は? 」

「ああ、そう言えば、先生の事もおっしゃってました。ぽっと出の女性議員は本当に使いやすいって褒めてましたよ」

 これを聞いて、ついに我慢が限界を超えたようだ。

「こんのっ・・・、バカがぁ~っ! バカだバカだと思っていたが、ここまでバカとは思わなかったわっ! どうりでおかしいと思ってたんだっ! てめえみてえなバカで使えない奴を何でわざわざ幹事長が秘書に紹介してきたか。こんな時の為にっ! 鼻からトカゲの尻尾に使う為に、あたしを使ってやがったのかっ! あのクソジジイッ! てめえもてめえだっ! 全部人の言うこと鵜呑みにしやがってっ! 」

 後部座席から、運転席のスーツ男を必要に蹴る。当然、運転中だ。

「先生っ! 宇野って誰なんですかっ? 」

「このバカ、バカ、バカバカバカッ! 」

「先生、アブッ! 危ないッ! バカバカ殴らないで下さいっ! すみませんっ! すみませんっ! あっ、危ないっ! 」

 

 正面の交差点の信号が赤に変わったのに、スーツ男は気付かずに進入してしまう。

 その場所は、ちょうどあのさっきいた広場に面した大通りの交差点だった。

 そこに横断歩道を渡る、うるさい女がいた。

 どうやらブルートゥースで誰かと話しているみたいで、暴走して来るこの車に気付いていないようだ。

「!・・・、あんの女ぁ~っ! 」

 スーツ女が、うるさい女に気付いた。この二人も面識があるようだ。

 そして、おそらくこの一連の事件の糸を引いていた人物が誰かを察したようだ。

「先生っ! 危ないですよっ! ちょっ! 」

「構わんっ! 突っ込めぇぇェェッー! 」

「!・・・えっ? 」

 うるさい女が気付いた時、もう目の前に車が迫っていた。


キキィーッ! ガッシャーンッ! 


ポクポクポク・・・チーンッ


 なんてことだ。

 こりゃつまり、全員の死が全部繋がっていたってことか。

 事故後の現場は、もはや凄惨を極めていた。

 うるさい女は、ひしゃげて原型を止めなくなった車に押し潰されているようで、流れ出る血だけしか確認できない。乗っていた二人もひしゃげた車体によって体は見えるが、大量の血だけが流れ出ているだけで、ピクリとも動いていなかった。

 群がる野次馬の中に、ヒルズ男もいた。

 うるさい女の姿は車に隠れて見えてはいないが、流れ出る血の川の先に彼女が持っていたスマホが転がっていた。

 それで察したのだろう。

 一体、どんな感情があいつの中で渦巻いているのだろう。

 うつむき加減で、現場を後にしたヒルズ男の顔は良く見えなかった。


「あいつ・・・、どうなんねん? 」

「どうなるも何も、一緒だったじゃないですか。結末は推して知るべし、てところです」

「・・・そうなんか」

「じゃ、帰りましょうか」

「はっ? 何言うとんねん。肝心の俺わい? 」

「覚えてないんでしょ? もういいじゃないですか」

「いいことあるかっ! ここまで見といて、自分の死因だけわからんのなんて、一番理不尽やないか」

「世の中には知らない方がいいことも。よく言うでしょ知らぬが仏って」

 これだけ見ても、あいつらの事なんか思い出さないってことは、俺は奴らと向敬って事になる。

 奴らはそれ相応の因果律の中にあって、一緒にいたって事で理解できたが、なんで、その中に俺までいるのかがさっぱり分からない。

「何やねんっ? 俺には何が起こって死ぬねんっ? なぁっ? 」

 どうせ、これも聞いているんだろうが、このハゲ坊主。

 俺自身の答えだけは絶対に明かさないつもりか。じゃあ、一体どういうつもりで、これを見せたんだ。

「飛びましょうか。ね」

 そう言うと六地蔵は、飛ぶように消えていく。

「いやっ! こらっ! 待てっ! 」

 と言った瞬間、自分が見覚えのある場所に立っていた。

 六本木ヒルズの真下の遊歩道に立っている。

 なんで、俺はこんな所に立っているのだろうか。


 ひゅぅぅぅぅぅー・・・・っ


 俺は、頭上からする妙な音に気付いて、見上げようとした瞬間、

「ああ? ・・・」


 ドッサァッ! と、ドーンッ! と、グシャッ! という音が一気にごちゃっと混じったような音がして、気が付くと、俺の目の前に、ヒルズ男が俺に折り重なるようになって、ぐしゃぐしゃになっている死体が転がっていた。


六地蔵が手を合わせ立っていた。


ポクポクポク・・チーンッ!


「わかりました? 」

 六地蔵が、いたずらっぽく聞いて来た。

(こいつめっ)

「・・・ようわかった。もう全部わかった。お前かいっ! このっ! アホーっ! 」

 ヒルズ男をどつこうと思っても、どこが顔だかわからない。かつらなんかは落ちてる途中で外れて、今頃、ひらひらと落ちて来た。

「・・・・ただ一つええか? 」

「はい。なんでしょう? 」

「どうしても納得いかんねんけど。この上に乗っとる奴はなんで天国やねん? 地獄違うんかいっ? 」

「いや、これは不幸な事故です。そう不可抗力です」

「スーツ女も一応事故やろがいっ! あいつが地獄で、なんでこいつが天国なん! 」

「さっきのとは違いますよ。あの時もあなた聞いてたでしょ? 最後に突っ込め―って、言ってたじゃないですか。これは本当にたまたま落ちた所に貴方がいたんですから」

「そんな言い訳、通用するかいっ! 」

「もういいじゃないですか。降ってきたのが鉄骨か人の違いです。大して違わないでしょ」

「大違いじゃっ! 」

「考えてみて下さいよ。貴方が死に至ったのは、この事件の煽りを食らっただけなんです。あのフィクサーの女の企てが、そもそもの原因で、結果として全員死に至った、というのが事のあらましです」

 

 確かに、六地蔵の言う通りだ。

 あの女が、全て仕組んで起こった結果が、これだ。

 何も無ければ、あの女とジャラ女がすれ違うことも無い。議員の女が疑惑の責任を取らされ党の推薦を外され出馬を断念することもないし、そもそも解散総選挙も無い。とすると、あのスーツ男がマスコミにペラペラしゃべることも無ければ、出馬することも無い。

 ヒルズ男も、裏切られて全てを失ったことで身を投げることも無かった。

 つまり、そのあおりで俺が死ぬことも無かったわけだ。

 ただ、奴らは恐らく遅かれ早かれ、こんな運命を辿っていたんじゃないだろうか。

 なんてこった。

 本当に俺だけが、全く関係ない部外者なのに、こいつらの身勝手な因果に巻き込まれて死んだってことなのか。

 運が悪いにも程があるだろ。

 いや、待てよ。

 もしかしたら、だから、俺はこうしているのかもしれない。あまりにも不憫すぎるので六地蔵は気を使ってくれて、特別サービスをしてくれているのかもしれない。


「ちなみにそんなんじゃないですよ」

 六地蔵が即座に否定した。

「お前っ! 人の心の中を勝手に覗くなっ」

「でも」

「でも? 」

「特別なのは確かです。・・・さて、お仲間にもう一度会いに行くんでしょ。涅槃行きの悟りを開く為に」

 そうだった。

 本来の目的を忘れるところだった。

 このハゲ坊主が、そのヒントとして俺をここに連れて来たことを思い出した。

 でも、これが一体何を意味するのかまでは、まだわからなかった。




ROAD to Hi—LEVEL   解脱


 俺はまず、最下層の地獄に向かい、あの大滝という代議士だったスーツ女に逢いに行った。

「はぁーっ! ・・・は? あんた、何言ってんの? 」


 スーツ女は獄卒2人の責め苦を受けている最中だった。

「せやから、あの地蔵が言うにはな・・・」

「うわーおうぅっ! ・・・あ、ごめん。とにかく、あたしはここで・・・、いやっ! ほうぅぅーっ! ・・・充分よ」

 どういう心境の変化があったのだろうか。

 あれだけ嫌がっていたのに、今やすっかりドMになっていた。

「どうでもええんやけど、痛ないんかい?」

「痛いに決まってんでしょうよっ! でもね、もう3万回も繰り返してんのよ。いい加減・・・OHっ! YES! ・・・慣れて来たっていうか、最後、復活する時なんて最高よっ! 痛みがこう、なんていうの 「生きてる」って実感できるのよ。わかんない? わかんないわよねぇ? いっそやってみる? 」

「遠慮しとく。てか、これだけ短期間でドSをドMに変えてしまうとは、さすが地獄、恐るべし」

「短期間? 何言ってんのよ。もう300年近く経ってんのに、あんた、まだ彷徨ってんの? いい加減、どっかに決めなさいよ」

「300年? 何言うとんねん。わし、さっき別れたばっかやぞ。一日も経ってへん」

「は? 」

「はぁ? 」

 あれ? 俺おかしなことを言ってる? そう言えば、確かに、連中との間で、、時間の経過にかなりズレを感じる時があったような気がする。

 スーツ男が作業着男に変わって、修羅道に現れた時も、あいつ俺たちに「お久しぶりです」と普通に言っていた。バカだから時間の感覚までおかしいと思って、気にもしなかった。

 そう言えば、この女も修羅道に現れたときに、金を必死に集めたって言ってたが、そんなに時間が経ってないのによく集めたなと思ったけど、特に気にしなかった。

 え? もしかして、時間の進行が違う?

 いや、俺だけが遅い? いや、違う。一緒にいたヒルズ男もうるさい女も、同じ時間を辿っていたはずだ。世界に落ちると、時間が加速して行くのか? わからん。

 いや、今はそんなことを気にしてる場合じゃなかった。

「・・・つうか、頼むわ。お前元々めちゃめちゃ頭ええんやろ? 」

 ここは「褒めて伸ばす」作戦で行こう。

「ま・・、確かに、・・!あっふぅーっ!!・・その通りよ。仕方ないわね。とにかく、あの地蔵の奴の言う通りなら、要するに、「生きたい」ってことなんじゃないの? 」

「は? 何が? 」

「あんた、鈍いわねぇ。「まだ生きたい、死にたくないっ」て思うから、ヴァーチャルな人間界ができたんじゃないの? 多分・・・。だから・・・、あら? ちょっと待ってね」

 いきなり振り返って、獄卒に向かって怒鳴り出した。

「・・・おいっこらーっ! 違うだろっ! 違うだろーっ! そこはもっと引きちぎるくらい強くやれって言ってんだろうがーっ! ちゃんとやれっ! このハゲーっ! 」

 いきなりの叱責に、可愛そうにあれだけ怖かった獄卒の二人もすっかり委縮してしまっている。

「は・・・はい。すみませんっ! てか、禿げてません。アフロですし」

「口答えすんなっ! このハゲーッ! 」

「はい、禿げててすみませんっ! 」

 いや、本当、そう言う所だよ。

 その気の短い所、一度噴き出したら止まらない所。だから、あっちでもこっちでも、あのスーツ男にイラついて殺してしまうことになったんだよ。

 やはり、落ち着いて考えても、この女の地獄行きは、確かに納得できる。

「ドSはドSのままやねんなぁ・・・」

「ま、その「悟り」を開くには、まず、この世界が本当に単なるまやかしだって気づくことからじゃないの? つまりは、「生」の執着を捨てて、ちゃんと自分は死んだということを認識しろと言うこと・・・? ・・・あら? おかしいわね? ・・・ね? ちょっとアフロハゲ、ちゃんと仕事してる? 」

 アフロハゲって、赤鬼のこと?

「してますけど・・・」

 お前もお前で、答えんなよ。

 しっかりしろよ、赤鬼よ。誰もが恐れる赤鬼の獄卒様だろ。

「どうした? 」

 ただ、確かにスーツ女の様子がおかしい。

「何も感じないわ。痛みも快感もないわね・・・」


 あ。

 ああっ! そうか、そう言う事か。


「・・・よう考えたら、それ当たり前ちゃうんか? 」

 なんか、「痛み」が生きてる実感とかなんとか言ってるけど、そもそも死んでるんだから痛みも快感もないのは当たり前なのだ。だいたい魂だけで本来肉体もないはずなのに、バラバラにされることもない。


「あら、そうよね。・・・あ、なるほど、罪状はそもそも関係ないんだ。痛みさえあれば、それで良かったのか。なるほど、わか・・・」

 いきなりがくっと首がもたげて、動かなくなった。

「えーっ! いきなり死によったぁーっ! 」

「活きよーっ! 活きよぉ~っ! ・・・あれ? 活いーきぃーよぉ~っ! 」

「おい、どうした? 」

「生き返らないわね。あらやだ、おかしいわ」

 獄卒も、結構狼狽えている。刑期は満期を迎えていないのに生き返らないのだ。

 ただ、考えれば当たり前の話で、生き返るも何も、そもそも死んでいるのだ。

 肉体の復活だって、そもそも死んでいるので肉体なんか元から存在していないのだ。

 この地獄は、あくまでも錯覚と言うか、自分が生きているという思い込みで成り立っている世界だったのだ。激痛と復活により、自分はまだ生きているという実感を味わいたいという、かなり奇特な連中で作られた世界なのだ。

 タネが明かされれば、思い込みというか自己暗示も解消される。

 死んでも復活しないのは、いや、正確には、肉体が元に戻らないのは、もうこの地獄に魂はいないという事だろう。

「これつまり、どういうことなんや? 」

「ま、要は死んだということだな」

 青鬼の獄卒が答えた。

 死んだって言ったが、この地獄と言う世界に居られなくなったという意味なのだろう。

「死んだんやな。ほな、次どこ行った? 」

「そりゃ、次は餓鬼道じゃない? 」

「よっしゃ! わかったっ! 」


 この世界の成り立ちを聞いて、この地獄でようやくヒントらしいヒントを得た。

(ほんまにまやかしの世界や。幻覚と言うか、理想の仮想現実っていうのが、ようやくわかってきた)


 答えがだんだん見えて来た。

 各世界を行き来できる権利を六地蔵から特別に貰った。

 次に向かったのは、餓鬼道だ。

 たぶん、趣旨を理解したスーツ女が、あのジャラ女の所に先に向かっているだろう。


「いやぁ~よぉ~っ! いやっいやっ! 」

 ジャラ女の声が聞こえて来た。

 一体、何が嫌なのかわからないが、スーツ女の説得は難航しているようだ。


 しかし、凄いな。無茶苦茶広いと思ってたから、そんな簡単に見つからないと思っていたのに、地獄のスーツ女の時と同様、すぐに見つかった。

 六地蔵から許してもらった特別な権限は、行きたいところに直接行けるって訳か。


 いや、待てよ。

 行きたいところに直接行ける?

 求めれば叶えてくれる世界ってことは、もしかしてこれも単純に叶えてくれているだけじゃないのか。

 誰かに会いたいから、誰かの所に行きたいと求めて、その求めに単に応じてくれているだけ。

 これって、つまり、誰でもできて六地蔵の持つ特権ってわけじゃない。

 ただ、誰もそれを求めてなかったってことか。

 求めてないってことは、その世界で何かに縛られているということか。


 何もない所にジャラ女が寝そべっていた。


 その傍らに、スーツ女が腰を落として、ジャラ女を説得しているようだが、寝そべっているというのは少し違ったようだ。見た感じ、何やらいろんな物がジャラ女の上に積み上がって、埋もれてしまって身動きが取れなくなっているように思えた。

 恐らくはカバンやらのブランド品に埋もれているのだろう。

 言ってる傍からバンバン落ちて来ている様子だ。

「あんた、こんな所で、そんなもん集めてどうすんのよ? 何の役に立つの? 」

 スーツ女も必死に説得している。

 彼女には、その物が見えているのだろうか。

「役に立つとか、立たないとかじゃないのよっ! わかるでしょっ! 女同士。こう・・・なんていうの? あの、ほらっ! 違うのよっ! ガツンと来ないの」

「はっきり言うけど絶対に来ることないから」

「ねっ、あともう1個だけっ! ねっ、これで最後だからお願いっ! 」

「それが、最後にならないのよ。それ」

 もはや立派な中毒患者だ。

 六地蔵の言う通り、あの天国を見てしまうと、確かにここも考えようによっては天国なのだろう。


「お~っ! おったおった。どや? 」

「説得に時間掛かってんのよ。欲深いから頑固で困るわ」

「うるっさいわねっ! だいたい死んでる死んでるってうるさいのよっ! そんなの納得できるくらいなら1つくらいで満足できるわよっ! 」

 やはりだ。

 この女も、死んだと言われて素直にそれを受け入れたわけじゃない。

 ただ、そう言われて「そうか」と思っただけで、納得したわけじゃない。どこかで、まだ生きてる、死んだわけじゃないという思い込みがある。それにしがみ付いているんだ。

 その執着が、物への執拗な欲求に現れている。

 満足できない気持ちが、いつしか満足できれば、世界を脱して元に戻れるという錯覚を生み出しているんじゃないのだろうか。

「あかんか・・・。なぁんも見えへんから俺にはお前が寝そべってるようにしか見えへん」

「男にはわかんないのよっ! 」

「あたしにも見えないけどね・・・」

 スーツ女がそう言った。

 ああ、見えてなかったんだ。

 結構、意外だった。

「え? ・・・嘘? ・・・見えないの? 」

「見えないわよ」

「え? ・・・ガチで? 本当に・・・見えないの・・・? 」

「全く見えない」

「えっ? これよっ! ねぇっ? これ見えない? この・・・」


 おいおい、なんで俺じゃなくて、スーツ女が見えないと、そんなにムキになる?


「しつこいわねっ! 見えないわよっ、そんなもんっ! 」

「見えないんだ・・・」

 すると、何かが崩れるような音がする。

「あれ・・・? 」

 ジャラ女の体が動けるようになった。

「消えた。・・・重たくないっ! 体が動く! 」

 ジャラ女は、まるで何かの縛りから解放されたように小躍りした。

 その顔も、何か清々しいように見えた。

 しかし、すぐにその顔は、暗く沈んだ。

 察したのだろう。本当の自分の境遇を。

「・・・そうか、そうなんだ・・・。あたし、死んじゃったんだ」

「なんや、突然? 」

 突然に、「死」を理解し、物欲の呪縛から解放された理由が分からない。

「なるほどね」

 スーツ女は、それが理解できたみたいだ。

「何やねん、一人納得すなや」

「物欲の正体がわかったわ。要するに女の見栄よ」

「女の見栄? 」

「他の女より、良い物、良い服、良い宝石、良い男、良い家、良い家族。自分に自信がないから、上辺の飾りに頼るのよ。自慢する相手がいなかったら、そもそも必要ないのよ」


 要するに承認欲求の塊ってわけか。ちょいちょいインスタ、インスタって言ってたのもそれか。

 自分の存在価値を求めて、結果、所有する物でしかそれを主張することができなかったということか。

 じゃあ、このスーツ女は? この女は、そうじゃなかったということか。

「何よ、あんただってそうでしょ。議員先生」

 ジャラ女は、どうやら記憶を取り戻したようだ。

 というか、スーツ女が誰か知っていたのも、結構意外だった。

「あたしは、あんたと違って物欲はないわよ」

 物欲は、てことは他にあるのだろう。

 それが何なのか、よくわからない。ただ、ジャラ女と同じ承認欲求というのは間違いないだろう。

「あたしは、ただ、女だと思って舐められたくないだけよ」

「名誉が欲しいんでしょ。中身はともかく箔が欲しいんでしょ。結局、あたしと同じじゃない」

 ジャラ女は分かっていたようだった。

 通じるものがあるのだろう。

「な~るほど。女つうのは大変やなぁ・・・」

「男だってあるじゃない。そういうところ」

 スーツ女は笑って、そう俺に言った。

 ジャラ女は、改めて自分の死を認識したようだ。

「あたし、まさか、死ぬとは思ってなかった」

「思い出したんやな。全部」

「死んでみると、なんだかバカバカしくなってきた。私の人生って、なんなんだろ? 」

 ま、あの死に方は、さすがにあっけなさ過ぎる。こう思うのは無理もない。

 さぞ、空しいだろう。

「確かに死んでしまったら、国会議員とかもただの肩書にもならないわよ。もう名前もいらないわね」

 二人は、生前の記憶を完全に取り戻したようだ。

 つまり、自分の死を認めることで、自分を取り戻せるらしい。

 たぶん、取り戻したところで、もう戻ることができないからだ。逆に言えば、死というものが絶対的な事実で、その事実は、自分という存在を失うということだ。これに気付くかどうかが、六地蔵の言う「悟り」の第一段階なのだろう。

 この世界に縛り付ける呪縛とは、取り戻す自分以上の何かに囚われることなのかもしれない。

 その〝何か〟という物の正体が、「自分はまだ生きている」という思い込みであり、「生きたい」という願望なのだろう。

 確かに、これはなかなか解けない呪いだろう。

 これを認めたくないから、自分を失っても世界にしがみ付き、「生きている」実感を味わいたいのだ。

 「痛み」「回復」により、生を感じる。

 満たされない欲求を味わうことで、生を感じる。

 そして、一生懸命働くことで、生の喜びを得ることも、また一つの呪いなのだ。

「よっしゃ。ほな、次の畜生道に行こか」


 ただ、俺は未だに自分を取り戻せていない。

 もうとっくに死を認識している。実際に、自分の死を自分の目で確かめている。

 でも、自分が何者なのか、今でも何一つ思い出せない。

 六地蔵の言う通り、俺はこいつらと違う特別な人間なのだろうか。

 俺はなぜ、あの日、あの辺りをうろついていたのだろうか。

 あの記憶の大部分は、誰の記憶なのだろう。もしかしたら、俺は、あの日の全員の死に立ち会っていたのかもしれない。だとしたら、俺は何をしていたのだろう。


 あの元スーツ男の作業着男、現世名は山本と言っていたスーツ女の議員秘書をやっていた男は、いまや畜生道において知る人ぞ知る伝説の作業員となっていた。

 あいつの場合、もう特に驚くことは無い。

 もうそう言う奴だ、という認識はある。

 亡者たちの話では、もう誰も寄せ付けない程のオーラを纏っていて、今や一人でズンズンと掘り進めているらしい。

 スーツ女と、ジャラ女を引き連れて、その穴を進んだ。

 結構掘り進めていて、一番奥の奴のいるところまでたどり着くのに半日以上かかった。

 何の目的も無くただ掘り進めているだけなのに、ようここまで掘ったもんや。

 と感心すらするが、正直気持ちはよく分からない。

「なんなんですか? あなたたちは? 僕は今、作業中なんですからっ! 」

 作業着男は座って、只管穴を掘っていた。

 一体、どれだけの時間、こいつはここにいて、掘り続けているのだろう。

 髪は伸びに伸びきって、髭も同様、髪も髭も真っ白だ。

 顔だってもうシワシワだった。

 なんだろう。作業着男と言ったが、作務衣みたいな服を着ていたのだろう、ただ、今はボロボロで、上半身はほぼ裸だ。垢と埃で体は黒ずみ、がりがりにやせ細っているが、掘るのに必要な筋肉だけはしっかりしていた。

 見た感じ、「悟り」に対して尋ねたら即答しそうなくらいだ。

 もはや、仙人と言ってもいい。

 〇〇男と名付けて来たが、こいつの場合、出会う度に姿形が変わるから、面倒くさい。

 もう、この際、現世名の秘書山本と言った方が早い。

 とりあえず、この秘書山本に事の経過と尋ねた目的を説明した。

 かなり掻い摘んで、分かりやすく説明したつもりだ。

 しかし、この男は、十分な間を使って、目を見開き、はっきりと短く、

「わからんっ! 」

 と言った。


 何か、深い意味がこもってそうに重たく言うのだが、俺は知っている。こいつにそんなものはない。

 しかし、ここでは一体、あれから何年経っているのだろう。

 必要以上に、暗示と思い込みにかかりやすい奴だから、歳まで一丁前にとっていやがる。

「おい、あれからここじゃ、何年経ってんだ」

「あれから? ・・・ここに来てからはもう50年以上経つ、来る日来る日もこうして掘り進めている」

 やめろ、やめろ。そんな深いように話すな。普通のことを普通に言っているだけだ。

「もう、あんたに殺されたことも忘れとるわ、こいつ」

 スーツ女に振ってやったが、言われたスーツ女も目を丸くしていた。

「殺した? 誰が? 誰を? 」

 お前も忘れとったんかいっ! 

 なんだ、こいつら。単調な作業や一定のルーティーンをこなすだけだと、異常に時の進行が速くなるのか。こいつらにとって、修羅道のことなど昔過ぎて忘れてしまっているのだろう。

「確かに、ようここまでなんも言わんと掘り続けたもんや。しかも、そんなノミ一本で、他の連中なんか、あん時と違って、みんな掘削機普通に使うとったからな」

 俺がそう言うと、秘書山本は、一瞬、目を丸くしてから。

「フン、そんなものに頼っていては、まだまだ、この穴には届かん。こうして、ノミ一本で掘り進むからこそ、この穴のように、人生の深みを知ることになる」

 偉そうに言うな。

 さっき、目を丸くしてただろ。お前、嘘つくの下手なんだから、変に見栄を張るの辞めろ。掘削機があるのを単に知らなかっただけだろ。

 意味も無いことに意味を無理やり持たせようとすんな。

 どうせ、何も考えずに掘って来ただけだろ。特に深みも無いのに、深みがある様に言いやがって、無駄に年食っただけのクセして。

「ところで、お前ら何しに来た? というか、お前ら何者だ? 昔どっかで会ったか? 」

 今度は普通にボケだしたぞ。

 ああ、もう面倒くさい。

「山本! 違うだろっ! 違うだろーっ! お前はそんなんじゃないだろーっ! 」

 スーツ女がイラついて我慢できずに吠え出した。

「何だっ? だいたい、またドMにならずにズルして儂を殺しに来たのかっ? 」

 なんだよ、覚えてんじゃないか。

「今度はきっちりドMになってきたわよっ! だいたい殺すも何も、あんたは死んだのよ、山本っ! 」

 お、ようやく核心ついて来たな。

 てか、お前も覚えとるやないか。

「山本って、誰だ? 儂は山本なんかじゃないっ! 」

 うーん。こいつの場合は、確かに厄介だな。

 思い込みとか暗示とか洗脳は、まさにこいつの唯一の能力と言っていいからな。当然、する方ではなく、される方としてだ。

「ね? どうするの? これ? 」

 ジャラ女もさすがに心配になって来たのだろう。

「ここは、元先生に任せよう。一番わかってるはずだ」

「山本っ! じゃあ、「僕は死にました」と3回言ってみろっ! 」

「・・・なぜ、儂がそんなことを・・・」

「いいから言えぇーっ! 」

「僕は死にました。僕は死にましたっ。僕はっ、死にましたぁーっ! 」

 儂と言う一人称がすっかり板について来ていたのに、「僕は死にました」と1回言う度にどんどん若返って行って、3回言い終えると、もうすっかりあの時の秘書山本の姿に戻っていた。

「・・・あ、・・・せん・・・せ・・・い? ・・・先生っ! 」

「おーっ、山本っ! 思い出したかーっ! 」

「速攻・・・。ちょー単純」

 ジャラ女も呆れるくらい速攻で取り戻した。

 そうだ、暗示や洗脳にかかりやすいと言う事は、裏を返せば解くのも簡単という事だ。

「なんてマインドコントロールしやすい奴や」

 しかし、こうも簡単に元の姿に戻ったと言う事は、こいつのここでの50年という月日が如何に無駄で、何も人間的成長をさせていなかったという何よりの証拠だ。

 やっぱり、こいつの言うことに深い意味なんかない。


「先生―っ、よくもっ! 僕にあんな暴力をーっ! どうしてくれるんですかぁーっ」

 ああ、やはりそう来たか。

 そうだろうなぁ、完全にスーツ女に殺されたようなもんだからな。

「山本、すまなかった。あれは私が悪かった。どうも、頭に血が上ると、理性が働かなくなってしまって、運悪く、あんなときに、あの女の姿が見えてしまって」

「・・・そうでしたか。すみません。僕が間違ってました」

 は?

 何言ってんの? こいつ。

 これで許しちゃうの?

 どんだけお人よしなの? それとも何? お前がそもそもドMだったりする?

「そうだ、私は何一つ悪くない。全部、お前が悪かったんだ、山本。本当に済まないと思えっ! 許してやるっ! 」

 どんな言い方だよ。

 見苦しい程さりげなく、全部山本のせいにしよった。

「先生・・・。そうか、もう我々は死んでしまったんですね。・・・だったら、もういいじゃないですか。先生ももう死人。私もただの死人です」

「あいつもあいつで、気づかずに認めちゃったわ」

 ジャラ女ですら驚愕するほどだ。

 人が良いのか、それとも、言われたことを理解していないのか。言葉を咀嚼せずに、雰囲気だけで読み取っているのか、多分、全部なんだろう。謝っている様に思って、そうでなくても思い込んで、そう解釈しているのだろう。

「山本‥っ! ありがとうっ! ありがとうっ! 」

 

 なんとなくわかった。

 このスーツ女が地獄行きになったのは、ドSをドMに矯正することなのかもしれないが、そもそもドMの奴を殺したから、その罰として、ドMに矯正させられたのかもしれない。

 多分、この女が本来行くべき世界は、それこそ修羅道か、餓鬼道だったのだろう。


 とにもかくにも、これで揃った。

 さて、いよいよ本丸だ。

 諸悪の根源であるあの女に逢いに行くとしよう。

 あんな無邪気に知識をひけらかしてた好奇心の塊みたいな女が、どうしてあんな高飛車で人を見下すようなエリート志向女になったのかわからないが、あの女も記憶を取り戻すと、あれに戻るのだろう。

 素直にこっちの話を聞いてくれるだろうか。

「あいつ、次の修羅道にいるのよね? 」

 案の定というか、スーツ女が訊いて来た。

「思う所はある思うけど、頼むから我慢してくれ」と言いそうになったが、止めた。

 六地蔵から口止めされていたのを思い出したからだ。

 俺が人間道を見て来たことは他言無用だった。

 いや、大体、恨んだ相手を車で轢き殺しているのだから、今更、文句を言う筋合いなど、この女にはない。どちらかというと、幾ら酷いとはいえ、別に誰かを殺したわけじゃないのに、あんな殺し方はない。 こいつは逆に謝らなければならないレベルだ。

 ただ、本当に平謝りに謝る相手の秘書山本に対してもあんな態度だ。

 素直に謝るとは到底思えない。

 ジャラ女にしても、因縁浅からぬ関係だ。

 お互いに記憶が無かったとはいえ、よく一緒にいれたもんだ。

 六地蔵も、本当に人が悪い。

 なるほど、お互いに記憶を取り戻した現場にいたくないから、俺を自由にさせたってわけか。つくづく、食えん坊主だ。

 次の場所がまた、皮肉にも「修羅道」と来たもんだ。まさに文字通りの「修羅場」ってわけか・・・。

 うまいこと言ってる場合じゃない。

 「悟り」の謎を解くには、あいつの知恵や知識は必要だ。

 でないと、こんなクソみたいな世界をずっと彷徨うことになる。


 決して久しぶりという訳でもないのに、修羅道はすっかり様変わりしていた。

 何と言ったらいいのだろう。

 わかりやすく言えば、貧富の差があからさまに激しくなった。

 この世界なりの言い方をすると、一握りの勝ち組と多数の負け組が明確になっていた。

 負ける者はいつまでも負け続け、勝ち組に搾取されまくる。

 細かい勝負事が負け組同士でちょこちょこされて、大きな勝負にのみ勝ち組が応じて、圧勝する。だから、負け組はいつまで経っても勝ち組に勝てない。

 トランプの大富豪の究極バージョン的な勝負だ。

 圧倒的に勝ち組に有利なルール設定があらゆるゲームに為されていた。

(こんな設定考えるのは、あいつか・・・)

 修羅道に似つかわしくない、タワーが建っていて、そこの最上階にゲートが開いた。

 

 最上階のフロアーには、さぞ、ぜいたく品がいっぱい並んでいるのかと思ったが、そんなものは一切なく、だだっ広いフロアーにポツンと大きなデスクがあり、うるさい女がチェアーに腰掛けてデスクに肘をついている。


「何、あんたたち? お揃いでこんなところに来たの? 」

 うるさい女は、まるでさっきとは違い、人間道の頃の女のように冷たく、見下した様な言い方をする女に変わっていた。

「この六道は、全部まやかしって気付いたのよ」

 スーツ女が、珍しく冷静に答えた。恐らくすでにあの女が何者かぐらい気が付いているだろう。いきなり飛びかかって行くんじゃないかと内心ヒヤヒヤしていた。

「そう、私たちはもう死んでるのよ。ここも全部作り物のVRなのっ! 」

 ジャラ女も少々興奮はしているものの、特に前に出るようなことしていない。

 こいつら一見、冷静と思っていたが、実は警戒しているのかもしれない。

 ここは、修羅道だ。あの女が勝負を掛ければ、即闘いが始まる。

 しかも、かなり奴に有利な勝負を挑まれては、搾取されるだけだ。

 たぶん、女の狙いも、そうに決まっている。

 こいつは、常に勝ちたいのだ。人よりも自分が何事においても優れているというのを誇示したいのだ。

 ジャラ女やスーツ女みたいに、物や恰好や、肩書だけで誇示したいんじゃない。

 その中身、本質として違う事を誇示したいのだろう。

 だから、このフロアーに何もなく、ただデスクがあるだけの殺風景な所でも、なんとなく気押されそうなオーラみたいなものを感じる。

 このオーラみたいな物は、おそらくこの女の絶対的な自信から来るものだろう。

「しばらく見んうちに大分と変わったな」

「・・・それは、この修羅道? それとも私? 」

「・・・どっちもや」

「しばらく見ないうちって、あなたにとってはつい昨日位の話じゃないの? 」

「・・・なんで、わかる? ここじゃ、やっぱり大分と時間が経っとんのか? 」

「そりゃあね。気が遠くなるほどの時間が経ったわよ」

「お前、これがどうして起こっているのかわかるんか? 」

「とうにね。・・・逆に未だにわかっってなかったの? 相変わらず遅いわね」

「てことは、名前も記憶も取り戻したみたいやな」

「おかげさまでね。あれからすぐに気が付いたわよ。ここが、生きたい願望が生み出した妄想、または生への執着が生み出す幻想世界、だってね。そして、その正体もね」

「正体? 」

「あら? そんなことも気付いてないの。じゃあ、時間の経過がまちまちだってことも分からないはずよね」

「あの女、元に戻ってるわね。記憶を取り戻したら、ああ、なっちゃうのって、どういう環境で生きて来たのよ」

 スーツ女が、ぼそっと言って来た。

「あなたには、想像もつかないような環境よ。あたしは誰の力も借りずに常に一人で勝ち抜いて来たの。だから、あんたみたいにメッキでできた人間じゃないの」

「何? 知ってて、あえて乗ってんの? 」

 ジャラ女が、ここで口を挟んで来た。

 おそらく、会話が戻って、死んだと分かってもまだこの世界に固執しているのかと言っているのだろう。それにしても、こいつら、もう少しボキャブラリーというか、論理的に話ができねえのか。スーツ男なんか、会話にすら加わる気がないみたいだ。


「悪い? ・・・ここの連中もほとんどわかってるんじゃなーい? 」

「なんでや? ほな、なんでこんなところにおんねんっ? 」

「わからないの? ・・・決まってるでしょ、生きたいのよ。当たり前でしょっ! もう戻れないのもわかってる。死んだっていうのもちゃんとわかってんのよっ! でも生きたいのよっ!あんたちだって本当はそうでしょ? 理屈じゃわかってるけど、認めたくないのよ」

「そんなに、勝ちたいんだ? 」

 ジャラ女がいきなり言い出した。

「は? 」

「あんた、麻生真由美でしょ? 覚えてない? 覚えてないでしょうね。中学の時に同じクラスだった藤田奈々子よ」

 そうだったのか。なんとも因果なもんだ。あの時、振り返って声を掛けようとしたのは、そういうことだったのか。もしかして、あのヒルズ男がパトロンしてたことも含めてお互いにヒルズ男と関係していた事を知らなかったって事か。

 それも正直、どうかと思う話だ。

 ヒルズ男とうるさい女が離婚前からだったのか、離婚後からなのかが大きな問題になるところだが、ちなみに離婚前からなら、所謂不倫関係になるのだろう。相手の奥さんが誰なのかぐらい気にならんかったんか?

 それくらい、シビアに金だけで成り立ってた関係だったのだろうか。


「・・・覚えてないわ。覚えていたら何かの役に立つの? 」

 あらぁ、こら、適度なカウンターパンチを貰ったな、ジャラ女。

 承認欲求の塊みたいな女が、自分の存在すら忘れられていたってのは、結構痛かろう。

 しかし、ジャラ女はめげていなかった。

「そうでしょうね。中学じゃクラスでも下位メンバーだったくせに、成績優秀なあんたにとっちゃ、あたし含め同級生全員負け犬みたいに見てたもんね。で、そこまで周り見下しておいて、あんたは一体何様になったのよ? 勉強して知識もお金も蓄えて、なりたいものになれたの? 欲しい物が手に入ったの? 死んじゃったらなんにもならないじゃん」

 マウントを取りに行ったのだろうが、悲しいかな、それではあの女には勝てない。

 うるさい女は、笑いが止まらないようだ。

「・・・あんた、何? ・・・ひがんでんの? 中学で上位クラスで偉そうにしてたのがそれほど自慢なの? なんの自慢にもならず、外見だけで全く成長せずに生きて、中身の無さに気付くことなく金持ちに媚び打って金をくすねてた人生をただそうやって逆恨みしてるだけでしょ。ごめんねぇ、あたしは何もかも手に入れてる。一通りの贅沢は十分にさせてもらってたわよ。あんたと違って、自分のお金で。死んだらなんにもならない? 何言ってんのよ。結局、あんたもあんたでくたばって餓鬼道に落ちてんじゃないの。ここでも明確に差が付いているじゃない。下層の住人があたしに説教しないでくれる」


 あら、こらもう完敗ですな。

 楽々で論破されやがった。

「ちょっと、その言い方はないでしょ。あなただって死んでるんですから」

 おい、スーツ男、こんな所でしゃしゃり出て来るな。

「人の言うことしか聞けないバカなあんたには一番説教されたくないわね。あなたみたいな一兵卒が意見していい話じゃないの。あんたみたいな人間は文句言わずにコツコツ働いて税金払って、買えと言った物を買って、人生全うすればいいの。そんな簡単な事さえできなかったあんたなんかは、黙って聞いてりゃいいの。わかった? 」

「・・・はい」

 ああ、ああ、全員、黙っちまったよ。

「いいっ! 凡人な愚民どもは、ただ黙って、私の言う事を聞いてりゃいいの。あたしの望み通りに動けばいいのよ。どうせ、大したこともできやしないんだから」

 黙って聞いてりゃ、言いたい放題言ってくれる。

 ただ、誰も言い返せない。それを言える力を彼女が持っていたのは、スーツ女もジャラ女も、スーツ男も分かっているからだ。

「こいつ、中学の時と何も変わらないっ! 」

 それくらいの事しか言えない。人間的に最低であっても、この女が国すら動かす力があり、文句を言ってもただの負け犬の遠吠えにしか聞こえない。


「まぁ、待てっ! あ~、あ~あ~、御立派、御立派。ほな、我ら無知な恥さらしの凡人に、ありがたい知識をもってご教授願えませんかね」

「何よ? 」

 こういう奴は、下手に出ると急に調子づくものだ。

「天道には何で行かへんかった? 」

 とりあえず、ジャブを入れてみる。

「あんなところ、どうせ、頭に花つけて、しょっちゅうハイでラリってる奴らがいるだけでしょ」

 うるさい女は勝ち誇ったように言った。

「さすがっ! 正解っ! 」

 よいしょのつもりで言ってみたが、実際、驚いた。こいつ、天国があんなところだってはじめから知ってたんだ。やはり、そう言う所は感心する。

 それにこいつは俺では気が付かない所も気が付いている。

 やっぱり、「悟り」に一番近い所にいるのは、気に入らないが、この女だ。

「えっ、そうなの? 」

 うるさい女の答えを聞いて、スーツ女が普通に驚いていた。

 そりゃ、この女の信じる宗教からすれば、あってはならない程の世界だろう。

 行かなくてよかったな。

「で? 」

 うるさい女も、それで終わりってわけじゃないでしょとばかりに聞いて来た。

「そこでな、俺ら『涅槃』に行く為の『悟り』っちゅうもんを解きたいねんけど、あんた知らんか? 」

「涅槃? 仏の世界ね。・・・あんたたちが? 冗談でしょ? 」

「本気や」

「やめときなさいよ。無駄よ」

「わしらの勝手やろ。知っとったら、教えて欲しいだけや」

「・・・あんた、ここがどこか知ってるわよね。求めるなら実力で奪い取りなさい。ここは勝利者しか得られない所よ」

 ほら来た。そう来ると思った。

「ええよ。その勝負受けた。そのかわり、勝負の内容はこっちが決めてもええか? 」

「何言ってんの。ダメに決まってるじゃない。それもこっちが決めるわ」

「なんや、ケチ臭いのぉ~。器が小さいやっちゃな」

「その手に乗るわけないでしょ。勝負を受けた段階から、すでに戦いは始まってるのよ。あたしは、相手に対して決して手を抜かないし、手を緩めることもしない。常に全力で叩きのめす」

「おお~、こわぁ~」

「ちょっと、ちょっと」

 スーツ女が俺の腕を引っ張って来た。ジャラ女とスーツ男もそこに加わって来た。

「あんた、何勝手に勝負受けてんのよ。あんたは知らないかもしれないけど、あいつは百戦錬磨の強者よ」

「そうよ。あんた以外、全員、あの女に酷い目に遭わされたんだから」

「よくわからないですけど、勝てるんですか? 」

 こいつら、本当に負け犬根性が染みついていやがるな。

 人間、退いてはならない闘いだってある。勝てる勝てないじゃない、勝つのだ。

 その為に必要な知恵を絞って、勝ちを引き寄せる。三人寄れば文殊の知恵って言うだろう。今、聞きたいのは弱音じゃねえし、遠吠えでもねえ。常勝気分で人を見下しているあいつをギャフンと言わす方法だ。

「何を負け犬がコソコソ話してんの? どんだけ打ち合わせても、勝てないんだから時間の無駄よ」

 そう来るだろうな。

「ほな、さっさと勝負決めようや。何で勝負すんねん? 博打か? 喧嘩か? 格闘? それとも、クイズ? お得意の相場か? どうでもええけど、あんた、そんな腕っぷし強そうには見えへんけど格闘系でも勝てるんかいな? 」

「言ったでしょ。そんな自分に不利になるような戦い方はしないわよ。でも、とにかく初めの段階で自分の苦手分野は封じておく必要があるわ。そこでね・・・」 

 やっぱり、こういう奴はおだてに弱い。自分が如何に優秀なのかを主張したがる。

 あいつは、今までの勝利で獲得した権利において、あらゆる分野の最強を自分の代わりに勝負に使える権利を得て来たらしい。

 相手が弱い自分に同情して、勝負内容を選ばせてくれたことを良い事に、ここに来た初めの段階で、金を集めるより先にそれを徹底的に集めたらしい。

 結果的に常勝となって、全てを得たということだ。

 今、この修羅道では、あの女に勝負を挑む者はいなくなった。

「そんなことやったら、結構今暇しとんのと違うか? 」

「余計なお世話よ。その手に乗らないわよ。絶対に勝負は選ばせないから」

 ここまでも、全て計算の内、こいつはさっきからそう言っているが、一向に勝負を決めようとしない。何を決めても確実に勝てる自信があるが故に、こいつは選べなくなっている。久しぶりに挑んでこられて、勝負ができると内心結構喜んでいるに違いない。

 しかし、何をやっても勝ってしまうから、楽しくないのだ。

 さらに、自分の不得手なジャンルなら自分の代わりを出すから、勝ったところで全く面白くも無い。だから、自分がやれて、それなりに楽しめて、ギリギリの勝負でヒリヒリしながら最終的に勝利するという感覚を味わいたいはずだ。

 ということは、絶対的勝利が約束された勝負内容にはしない。

 こちらにも、それなりに勝算があるような勝負を選ぶ。

 俺はそう読んでいた。

 より、そっちへ傾くように、ここでこの女を煽る。

「妙に勝ちに拘るなぁ。・・・あれ? もしかして、涅槃に行く悟りって何のことか、知らんのとちゃうか? あそこまで偉そうに講釈たれとったのに、肝心なことは知らんのかぁ」

「はぁっ? 」

 ほれ、やはり食いついてきた。

「いや、そらそやろな。知っとったらここにおらんで、ちゃんと成仏しとるやろ」

 うるさい女の顔から動揺がはっきりと見て取れた。

 あれ? いや待て、こいつ本当に動揺してるぞ。

 おいおい、もしかして揺さぶりを掛けようとしたが、こいつマジで知らないみたいだな。

 さんざん動揺した後、思いついたようにうるさい女は、答えを口にした。

「成仏っ! それっ! 涅槃は仏の世界、仏になるで成仏。つまり、死を悟り、死を受け入れることで成仏できるのよ」

 は?

 ありきたりの返答に、かなり興ざめした。

 どうやら、興ざめしたのは俺だけじゃないようだった。

「あんた、それ、こいつの言葉に乗っかっただけでしょ」

 スーツ女も、半分呆れたようにツッコんだ。

「はいっ? 乗ってないわよ。何言ってんのっ」

「そういうプロセスは、あたしらもう踏んでんのよ。でもまだ成仏できてないわよね。それじゃ足りないのよ。その先のヒントが欲しくて、あんたにこれから勝負を挑もうって話なのに、さんざ考えてひねり出した答えが、たかがそれだけ? 」

 ああ、言いたいこと言ってもうたな。

「やっぱり何も知らないんじゃないですか。知ったかぶりはダメです。一番恥ずかしい行為です」

 スーツ男にすら言われてしまった。こりゃ、自尊心傷つくだろう。

「いるのよ、そういう見栄っ張りが。なんか今までで一番情報なくない? 肝心なところで役に立たないのね。危うく無駄な勝負するところだった。偉そうに勿体ぶって、ただのハッタリじゃない。アホらし・・・。行きましょうよ。構ってても何も出て来やしないわよ、どうせ」

 ジャラ女にすらボロカスに言われてしまったが、うるさい女は、答えを出せていない分、悔しいが何も言い返せない。

「バ・・・バカ言ってんじゃないわよ。あた・・・あたしだってね・・・。知らないことぐらいあるんだから、だから生きて知りたいって言ってるんじゃないのよっ! 」

 苦し紛れの言い訳を聞いてあげるほど度量の大きい人間は残念ながらこの中には一人もいない。無常にも無視されて、勝負すらさせてもらえずあっさり捨てられることになる。生前からの居丈高で高飛車で尊大な態度で人を見下してきたのが、ここに来て倍返しとは言わずとも、きっちりブーメランで帰って来た。

「ちょっとっ! ねえっ! 」

 必死に引き留めようと声を掛けるが、当然、構ってやる義理はない。

 俺たちは無視したまま、次の天道へ向かう。

「ちょっとっ! 待ちなさいよっ! あたしだって、知りたいのよっ! 」

 素直にそう言えばいいのに、どうせ後ろから追いかけてくっついて来るのは分かっていたが、この女には、いい薬だ。

 くたばってから反省したところで仕方ないが、せめて、ここに来た時の単にうるさい女くらいには戻って欲しいもんだ。




 ついに、最上層の天道に辿り着いたが、期待に胸を膨らませて、この世界に初めてやって来た俗物3人の顏は、知っている人間からすると、すごく面白い。

 なんとなく、六地蔵の、あの人を小ばかにしたような態度が今更ながら、すごくよく分かった。

「きっしょっ! 」

 ジャラ女がそう言うのは、実によく分かる。こちらの期待通りのリアクションだ。


 さて、気色悪い笑いを浮かべ、頭だけ出しているヒルズ男を見つけた。

 ここも、どれだけ時間が経っているのだろう、頭の花もかなり立派に育っている。


「こんな状態じゃ、話すのも無理じゃない」

 スーツ女もかなり理想と違った世界でテンションが下がり切っている。

 スーツ男は、まだ茫然として絶句したままだ。多分、情報量が追い付かなくてフリーズしているだけなのかもしれない。

「ま、確かにな」

 というより、この俺まで巻き込んでおきながら、このヒルズ男のニヤケ顔はかなり腹が立つ。

 うるさい女だけは、この世界の正体を知識として知っていたこともあって、特に何のリアクションもせず、記憶を取り戻してから改めて自分の元旦那と再会を果たしていた。

「一人でこんな間抜け面さらして・・・、いいわ、こんなまやかしの幸せ、ぶち壊してあげようじゃない」

 そう言うと、いきなりむんずっと、ヒルズ男の頭に立派に咲いた花を掴んだ。

「おっ・・、おいっ、あかんってっ! それしたら死んでまうやろっ! だいたい誰のせいで、こいつがこないなったと思とんねんっ! 」

「あたしのせいだっていうの? バカ言わないでよっ! こいつがバカで、弱いからじゃないのっ! だいたい、あんた何言ってんのっ? この下らない花を引っこ抜こうが、へし折ろうが、もう死んでるんでしょ? 違う? それが、まやかしっだって言うのよ」

「あ、そうか」


 うるさい女はさらに力を込めて、強引に頭の花を毟り取ろうとする。

「あ・・・ああ・・・、少ない毛が毟り取られてぇ・・・」

 スーツ女は、花に交じってヒルズ男の少ない毛までもがうるさい女の手によって毟り取られようとするところを、なんとも儚げに見ている。

 なんだ、この女は? ハゲに何か思い入れでもあるのか、と思ったが、そう言えば、こいつ政治家だった。偉そうにふんずり返ったハゲどもから普段パワハラとセクハラを受け続けていた分、ハゲに異常な執着があるに違いない。


「毛じゃないっ! 」

 そう言って、うるさい女は、一切の遠慮も躊躇も無く、数本以上の毛も巻きこんで、花を毟り取った。

「はぅあぁ~・・・」

 と、言葉にならない妙に気の抜けた、気持ち悪い断末魔を上げると、

 ガクッ

 と、首が項垂れた。

「あ、死んだ。・・・ダッサ」

 さっきからジャラ女のヒルズ男に対する言動が容赦ない。

 わかってはいたが、一応、お金から何から面倒見てもらっていたと言うのに情の欠片も無い。うるさい女の方が、まだどちらかと言えば感じるくらいだ。

「天道にいる以上は絶対に悟りは開けないって言うわ。快楽と悦楽のみでは、悟りの境地に至らない。でも、六道の中で最上層にある天道は最も悟りの境地に近づいた者が行くとも言う」

 うるさい女の得意のうんちくが始まった。

 やはり、この女のプライドだと、自分がより上位の世界に行けないのが気にくわないのだろう。本気で解こうとしている。

「てことは、こいつが最後のヒントになるってことね」

 スーツ女も同様だろう。

「そう思う。・・・ほらっ、起きなさいっ! ほらっ! 」

 ヒルズ男を執拗に揺さぶったり、張ったりするが、なかなか目を覚まさない。

 それもそうだろう。当の本人はただ寝ているんじゃなく、死んだと思い込んでいるのだから。

「甘いわよっ! ・・・起きろーっ! このハゲェーッ! 」

 スーツ女はヒルズ男の耳元で叫んだ。

 すると、どうだろう。効果てき面である。ヒルズ男は、目をカッと見開き、ガバッと起きると同時に必死に頭を押さえて、

「・・・ふわぁぁっ! ハゲてません! ハゲてませんって! 」

「あ、目覚めた。・・・キショ」

 だから、言い方。

「やめろーっ! やめてくれぇーっ! 俺を起こさないでくれ! ただ、安らぎが欲しいだけなんだ。もう他に何もいらないっ! 」

 ヒルズ男は、目覚めるなり俺たちが見えていないのか、まるでうわ言のように叫び出した。

 ただ、俺からすれば、自分で命断っといて何を抜かすか、お前が落ちて来なかったら、俺は死なずに済んだというのに勝手な事を言うな。

「地位も名誉も金も物もすべてを手に入れた。でも、それが消えてゆくのはほんの一瞬だ。うず高く積み上げてきたその全てが消えてゆくのは本当にほんの一瞬だった」

 ヒルズ男は、まだ虚空を見つめてうわ言を続けていた。

「お前、誰かおらんかったんか。信じられる人間とか、ほんまに誰も? 」

「すべてを手に入れると、失うものはそれだ。寄ってくる人間は利害しかなくなる。人を信用できないし、信用してはいけないんだ。彼女がいい証拠だ」

 こいつ、受け答えしている。もう正気になっているんだ。

 その上で、話している。

 俺たちが訊く前から、聞かれる内容が何かを分かっているようだった。

「確かに・・・」

「悟ったんだよ、俺は」

 悟った? 今、こいつは確かにそう言った。

「なんや? 何を悟ったんや? 」

「・・・人の一生なんて、まやかしだよ。結局、何の価値もない。無意味なんだ」

 何を言い出すかと思えば、ステレオタイプみたいな事を突然言い出した。

 しかも、まだ続ける。

「勝とうが負けようが答えは一緒だよ。人間誰しもそうなんだ」

 え? もしかして、これが「悟り」の答え? 

 ありきたりの話だろ、こんなの。少し考えりゃ誰でもわかる簡単な答えだ。

「・・・なるほど、分かって来た」

 うるさい女が、一人呟いた。

 何が? 一体、これで何が分かったって言うんだ?

「分かって来たって、何が? 」

「何を成そうとも何も残らない。生きるという結果も、生きたという証も、・・・ただ」

「ただ・・・? ただ、何? 」

 うるさい女が、ヒルズ男にさらに問いかけた。

 なんだろうか、この問いかけた声は、とても優しく聞こえた。


「ちょっと、ちょっと」

 いい所なのだが、ジャラ女が突然、周囲の異変に気付いて声を上げた。

「何よ、うわっ! 」

 スーツ女も、それに気づきだした。

「どうしたっ?・・・おうっ! 」

 気が付くと、天道で埋もれていた亡者たちが次々にわらわらと出てきている。

 いや、それどころではない。

 あらゆる世界の亡者たちが一斉にこの天道に集まって来ていたのだ。

「何や、これっ? 」




Hi‐LEVEL   涅槃


 もう天道は亡者で埋め尽くされようかというほど、次々から次へと亡者が至る所から湧き出て来る。

 そう、本人が望めばどこへでも移動可能なのだ。ただ、その世界が自分の望む唯一の居場所だと思っていたから、望まなかっただけなのだ。

 彼らは、おそらく天道を望んだわけではない。

 望みの場所に最も近いのが天道だからだろう。

 そして、その「望みの場所」とは、間違いなく「涅槃」だろう。

「困った事してくれましたね」

「六地蔵っ? 」

 いつの間にか頭上の空中に六地蔵が姿を現した。

「あなたのせいで、皆気づいてしまったじゃないですか。ここが全てまやかしだってことに。今や、皆、悟りを求めてここに集まって来てますよ」

「何やて? 」


「全て、ただただ、虚しいだけだった」

 片や、ヒルズ男は答えをうるさい女に伝えていた。

「虚しい・・・? 虚しい・・・。虚ろ・・・。虚。空虚。虚無・・・。無常・・・。わかったっ! 」

 うるさい女が、悟りの答えに辿り着いた。

「六地蔵っ、悟りの答えが分かったわよ。私が答えてあげる! 」

「おやっ? そうですか」

 六地蔵は、特に意外そうでも無く、うるさい女の導き出した答えを聞く姿勢を取った。

 何か、始めからこうなることを予想していたかのようだった。

 うるさい女は、改めて天道に集まった有象無象の亡者たちに向けて、高らかに言い放った。


「皆も聞きなさいっ! 悟りの答えは、・・・「無」よっ! 」


 言い放って、一応、「おおっ」という声が上がったものの、それも、ごく一部のみで、大多数は答えの意味を理解できていないのだろう。茫然として、なんの言葉も出ていない。

「わかりません。全然、わかりません。」

 ようやく喋ったスーツ男、いや秘書山本も、当然、全く理解できていない様子だ。

 いや、それどころかジャラ女も、スーツ女も同じだった。

「ごめん。もう少し、分り易く言って」

「あたしも」

 思いの外、リアクションが薄いことにうるさい女も意外そうにしていた。

 多分、心の中で、「なぜ、理解できないのか。このバカどもは」とでも思っているのだろう。顔からにじみ出ていた。


「正解ですっ! 」

 六地蔵が、そう言うと、ようやく全員から「おおーっ! 」という歓声が湧いた。


 これは補足する必要があると思ったのだろう。六地蔵は続けて言った。

「その通り。人の世も、そして、このまやかしの世界たる六道も全て「無」。生も無意味、死も無意味。人の命も所詮、無価値。よって、その一生すら幻に過ぎず、どれだけの財を成そうと、偉業を残そうと、また逆に、何も生み出さず、何も蓄えず、何も成さずとも等しく同じ、死を前にすれば、全てが無意味で無価値、そして無駄であることを「悟る」ということです」


 六地蔵が分かりやすく言ったことで、とりあえずの理解は得られたようで、方々で口々に、

「おー、なるほど」

という声が聞こえて来た。

「なんか身も蓋もない話ね」

 ジャラ女がため息がちに言った。

 一応、理解はしたようだ。

 しかし、スーツ女は、理解はしても認めてはいないようだ。

「それは、元政治家としても、異教徒としても、認められない話ね。人は努力して、一生を幸せに過ごして満足のいく生涯を閉じることが生きる目的よ。それを全否定するような教えは納得できないわよ」


 これに対して六地蔵は、間髪入れずに反論した。

「それは、人間のエゴです。人間は、所詮ただの生き物です。何も特別なものでもないんです。その前提を、あなたの信じるどっかの神様の教えが、神に近い特別な存在なんてことを言いだすから、変な思い上がりをしてしまうのです。人の権利とかなんだとか言う前に、ただの生き物であることを認識しなさいってことなんです」


「それは違・・・」

「違いません。事実です」

 言い返そうとしたスーツ女に被せるように言い切った。

「・・・ただし、他の生き物と人間とで圧倒的に違うところは、確かにたった一つだけあります」

「・・・感情とか? 」

 思いつく事でジャラ女は答えてみたが、すかさず六地蔵に、

「動物にもそれなりに感情はあります」

 と返された。続けて、スーツ女が、

「思考とか? 」

 とキリスト教徒ならではの答えを言って来た。

「動物をバカにしちゃいけませんよ。違います。・・・わかりませんか? あなた方が今こうしているのが答えですよ」

「もうだいぶ前から、ついて行けてないんですけど」

 秘書山本には、当然、ついて行きようのない質問の連続だろう。

「創造力ですよ。・・・違いは、たったそれだけです。わかったでしょ。あなた方は、創造力によって自ら作り出した幻想にただ縋っているだけなんです。現世でも・・・、今、この六道でも・・・。それがわかれば、「涅槃」に行けます」

 六地蔵は、わざとこの問答をして、出て来た答えを引っ掻き回そうとしている。

 俺はそう思った。

 こいつらは、この問答に吊られて、その本当の意味まで理解できていないのかもしれない。

 その証拠に、六地蔵は次のように言った。

「悟りが開かれた以上、もはやこの六道も存続不可能です。そこで皆さん。「涅槃」への道を拓こうではありませんか」

 そう言うと、全員が喜びに沸くように、

「わーっ! 」

 と大盛り上がりになっている。

 六地蔵の声と併せ、手を高く掲げると、天上から光が差し込み、その光の中心に細い糸が垂れて降りて来た。

 六地蔵は、その糸を掴むと、足下の亡者たちに向かって言った。

「さぁっ! 悟りを開いた皆さんへ、お釈迦様から涅槃へのご招待です。この蜘蛛の糸を上って、「涅槃」へっ! 本当の極楽浄土へ成仏して下さい」

(こりゃ、明らかに芥川龍之介の「蜘蛛の糸」に絡めている。引っ掛かる奴がいるのか)

 もうオチは見えている。

 ところが、なんと亡者たちは、 

「極楽っ! 」「浄土っ! 」「涅槃だぁーっ! 」「成仏できるぞぉーっ! 」

 と喜色満面に声を上げて、その糸に縋ろうと集まり出した。

 手を伸ばそうとも、糸の先は届かない。

 人を押し退けたり、よじ登ろうとしたりしている。

 そして、ここにいるスーツ女も、

「ほらっ! 何してんのっ! 」

 と言って、俺の背中を叩いて、行こうと誘って来ている。

「上がるわよ。本当のあの世にっ! 」

 そうか、そうだな。こいつらもそうなんだな。

「悪い・・・、俺は行かん。行きたい奴は先行ってくれ」

 俺がそう言うと、スーツ女も、ジャラ女も、秘書山本も揃って、

「何? なんで? ・・・あらそう? 」

「そうなの。じゃ、遠慮なく」

 そう言って、一目散に糸に向かって飛びついて行った。

 言い出しっぺの俺を差し置いて行くのは、少し気が引けたのだろう。

 俺が行きたいと初めに言い出したから、こいつらもここに来たのだし、ここにいる亡者たちもそうだろう。一声だけ掛けるだけでも、こいつらはまだマシだと思う。

 

 もはや、糸の周りは酷い有様だ。我先にと掴みに行くから、奪い合いが始まっている。

 こいつらは、多分、小学校の教科書で「蜘蛛の糸」は読んでいるはずだろう。

 教訓という物が全く通用しない、本当にどうしようもないほどの俗物どもだ。

「俺だっ! 」「いや、俺がっ! 」「バカっ! 俺だっ! 」

 悲しいことに、その醜い奪い合いに、さっきまで一緒にいた一応仲間だと思っていた連中までいることだ。

「こらーっ! どけっ! このハゲっ! 」

「あたしが先よっ! 」

「先生、僕も行きますっ! 」

 亡者たちは、わらわらと群がり、糸に捕まり出す。


「何言ってるのよっ。解いたのは私よ。私が一番よ。下がれっ! 下郎っ! 」

 こいつは引っ掛からないだろうと思っていたが、うるさい女もまた行こうとしていた。しかし、そこへヒルズ男が彼女の足をガッ掴んで、引き止めた。

(あいつ、やっぱり分かってたんやな)

 ヒルズ男は、答えを理解している。その上で、答えを出しても、本質を理解していないうるさい女を引き止めた。

 俺は、始めそう理解していた。

「はぁっ? 何よ? ちょっとっ! 放してっ! もうあんたに用は無いの! 」

 答えを導くために、この女は、またこの男を利用していた。

 あの一瞬、優しく問いかけたのも、やはり見せかけだった。

 ヒルズ男は、何とか振り切ろうとするうるさい女の足を必死に掴みながら言った。

「そりゃないだろ。もういい。俺と一緒に消えて無くなろう。それが一番の幸せだ」


(こいつ、まさか? )


「何言って・・? 何? ちょっと、あんた? だんだん薄くなってない? 」

 それを聞いたスーツ女が、すかさず、

「頭が? 」

と言ったが、うるさい女は、これに即ツッコんだ。

「違うわよっ! 全体的によっ! 」

 そう、徐々にヒルズ男の体が薄く透けて来ていた。

「・・・ちょっと、何か・・・暗くなってる? ・・・あれ? 」

 うるさい女は、この異変が自分自身にも起こっていることに気付いた。

 自分の手がどんどん透けて来ている。

「これもしかして、あたしも・・・? ねっ、これ、どうなってのよっ? 」

 うるさい女は、六地蔵に訴えた。

 六地蔵は、ゆっくりとうるさい女に向けて言った。

「・・・あなた方は、これから消えて無くなるんです。存在すらしなくなります。彼は、もうそれを望んでしまってます」

「なんですってっ? ・・・こらっ! 放せっ! 放せってんだよっ! おいっ! あたしは、望んじゃいないっ! 消えるならお前ひとりで消えろっ! 」

 振り払うどころか、うるさい女は容赦なくバンバンヒルズ男を、殴り、蹴り続けたが、それでも、ヒルズ男は掴んだ手を放さない。

「違いますよ。あなたが消える理由は、彼が掴んでいるからじゃありませんよ」

 見てられずに六地蔵が言った。

「はっ? じゃ何っ? 望まない者を消してしまう理不尽をあんたは認めるのっ? 地蔵菩薩でしょっ、なんとかしなさいよっ! 」

「無理です。私でも・・・。だって・・・」

 六地蔵は、そう言った後、なんとも乾いた笑みを浮かべて、うるさい女に言った。


「あなたが悟りの答えを出してしまったから・・・」


 そう、六地蔵は、これがヒルズ男の仕掛けた罠だと知っていたのだ。

 あの男は、わざと女に答えを言わせたのだ。

 自分と共に、消し去る為に。

 彼女の望まぬ結果に導く為に。


「! ・・・うそでしょ? ・・・ねえ、何それ? 涅槃に行けるんじゃないのっ? 消えるって、どういうことよっ? 」

 やはり、彼女もまた、表面上の答えにしか至っていなかった。

 本質の答えに至り、それに納得できることで、本当に涅槃に行きつくことができる。

 ヒルズ男は、すでにそこに至っていたが、唯一、それを阻んでいた者が彼女の事だった。

 これを入れ知恵したのは、間違いなく六地蔵だろう。

 本質の答えに至らずとも、その者を涅槃に至らしめる方法をヒルズ男に教えたのだ。

「あなたは、自力で答えを解いたから無条件で涅槃に行けるんです。良かったじゃないですか。望みが叶ったんですよ」

「ええ? 涅槃って、あの糸の上じゃないの? それとも、あたしだけ別の方法で行けるの? でも、こいつは? 解いたのは私だけでしょ? 」


「涅槃とは本当の死を知った者が赴く所、本当の死とは無。つまり、涅槃とは無の世界」

 六地蔵の言葉を聞いても、うるさい女は、すぐに理解できていない。

 仕方ない。もう少し、分かりやすく言ってやろう。


「無の世界とは、つまり無いんや。涅槃なんつうのは無い、存在せんのや。あるのは、死を受け入れた時に消えて無くなるという事実や」


 聞いていたのは、当然、うるさい女だけではない。

 糸に群がっていた。亡者たちも聞いていた。

 答えの本質を聞いて、理解が追い付いていない。

「えっ? はっ? はぁっ? どういうことっ? 」


 そして、それはうるさい女も同じだった。

「何よそれっ? ・・・ただ、消える為に、苦労してわざわざ解いたの? えっ? 何? バカなのっ? バカでしょっ? ・・・違うっ、あたしは違うわよっ! バカじゃないっ! あたしはバカじゃないわよっ! 」

 彼女にとって、一番認めたくないことかもしれない。


「なに? これで「涅槃」に行けるんじゃないの? 」

 聞いていたスーツ女も、途端にパニクっていた。

「行くて、何処に行く気や? また六道にか? その糸の上には、ほんまに何もないで」

「涅槃じゃないんですかっ? 涅槃て言ったじゃないですかっ? 」

 秘書山本もキレだした。

「えっちょっと待って。てことは? このまま上ったら、もしかして消えるの? あたしたち? 」

 ジャラ女は、まだ大雑把に理解しただけなのだろう。

 いや、糸に群がっている連中は全員そうだ。


 この糸こそ、六地蔵が仕掛けた罠、いや、表現が悪かった、最終試験と言ってもいい。

 本質を理解しているかどうかが一発で分かる。

「消えはせん。その糸を掴んでる限りな。それを掴んでるっちゅうことは悟りの意味を理解してへん証拠やからな」

「え? じゃあっ、あんたはなんで消えないのよ? 掴みに行かなかったってことは解い

たんでしょっ? あんたもっ! ・・・ま・・・まさか・・・この「悟り」はまだ答えに至っていない? まだ先があるの? 」


「ああ、その通りや・・・。答えはその先にある」


「わかったの? じゃ、教えてっ! 」

 スーツ女たちが必死になって聞いて来たが、糸を掴んでいる以上、第一段階すら理解していないのに、その先の答えをたとえ教えても理解には到底至らない。

「あかん。これは教えたらあかんのや。これは自分で答えを出さなあかん」

「いや、消えて無くなるのは、いやっ! 」

 スーツ女は、そう言ったが、大丈夫だ。お前たちが消えることは無い。

 ただ、上辺だけで情報を理解しようとしているから、すっかり彼らはパニックに陥っていた。

「私もいやぁーっ! 」

「先生っ!気が付くと、これ下も無くなってます。放したら、これ落ちてしまいますよ」

パニックが伝染し、糸に捕まる亡者たちは、それぞれにギャーギャー言い出した。

「ギャーギャーうるせえっ! この俗物どもっ! 」

 うるさい女が、キレた。

「たまには人に頼らず、自分で答えを出したらどうなんだよっ? ああん? 」

 この言葉で、亡者たちは一瞬黙った。

 どうやら、彼女はまだあきらめていないらしい。必死に答えを見出そうとしていたが、亡者たちがうるさくて集中できなかったのだろう。

 ひと時の静寂を得て、改めて思考を巡らせてはみたものの、答えは一向に出て来ないようだ。


「・・・悟りの先、全て無からの先なんて無いわよ。・・・なんで、あんたに分かるのよっ? 私が分からないのに、なんであんたみたいな凡人なんかがっ! 」

「ご自分の知恵を過信しましたね。あなたには絶対に解けない。博学のあなたなら知ってるんじゃないですか? 唯一「悟り」を開けるのは欲と因果の起源である人間道のみです。それを断ったのはあなた自身でしょう」

「え、だって戻れないんでしょ? ・・・そうよね? ・・・もしかして、あんた行ったの? 」

「ああ行った。全て見て来た」

 うるさい女は、俺の言葉を聞いても、それが致命的だとは思っていないだろう。

 確かにそうだ。あの女が、例え人間道を見て来たとしても、こうなる結果に全く違いは無かっただろう。

「あなたを消してしまうのは、ご自分のカルマ、つまり「業」ゆえに他ならない。これは私でもどうにもならない」

 六地蔵が言った通りだ。彼女を消すのは彼女自身だ。

 これは、彼女の罪とか、そう言う話じゃない。俺にはよくわかる。

「お前にはおらんのか? 誰もおらんのか? ほんまに一人なんか? 親は? 」

 俺は思わず、そう彼女に問いかけた。

 彼女が消える理由がそこにあると思ったからだ。

 しかし、うるさい女は、この問いかけにも、

「言うなーっ! あんな親になんぞにならん。あんな、無知で、無能で、無価値な人間にあたしはならない。あたしは、唯一無二の存在になりたいの。存在するだけで人がひれ伏す人間になりたいのよ。それのどこが悪いのよっ! 」

そう返して来た。


「その傲りですよ。仏の怒りを買ったのは、その傲慢さです」

 六地蔵が、消える原因をはっきり言った。

「傲慢? 傲慢って言うのならこの女議員はどうなのよっ! こいつの方が、よっぽどっ」

「わかっているでしょう、あなたも。彼女は自分が中身のない愚か者だと自覚しています。だから、箔だけ、名誉や地位だけを求めたに過ぎません。あなたとは、根本的に違います。人は所詮人でしかない。神になろうとしちゃだめです。まして、誰も何も救わない自分自身の為にしか存在しない神は神じゃない。

それはただの悪です」

 彼女も神になろうとしたわけじゃないだろう。

 ただ、自身に求めた存在は、それと同義だった。

 釈迦が生れ出たときに発した、「天上天下唯我独尊」これをそのまま実践してしまったのだ。


 考えとしては、ある意味正しいのだが、彼女は、この意味を曲解したまま、ここに至ってしまった。

 それが、今、自分が消えゆくことになる原因だと未だ気づかぬまま。


「いや、消えるっ! 消えてしまうっ! 」

 ヒルズ男が、ようやく笑顔を浮かべて、抵抗するうるさい女に向かって優しく言った。

「さ、一緒に行こう。ともに「涅槃」へ」

「冗談じゃないわよっ! なんで、なんであんたみたいな負け犬と一緒に! やめて、消えたくないっ! ・・・ね、助けてっ! 地蔵菩薩様っ! ・・・ねえ、あんたっ! 」

 そう言うと、俺に助けを求めるような目を向けて来たが、それ以上に、俺が彼女に向けた目に対して、彼女はヒステリックになって言った。

「やめろっ! あたしをそんな目で見るなっ! 憐れむなっ! 蔑むなっ! あたしは至高の人間よっ! そんな人間を消してしまうなんてっ! ・・・やめて、消えるのは嫌っ! いやぁーっ! 」

 ゆっくり、ゆっくりと 女と男は消えて行った。そこには、ヒルズ男のかつらだけ残っていた。


「うわ! 消えたーっ! かつらだけ残して消えましたーっ! 」

 秘書山本の叫び声と共に、幾万もの糸に群がった亡者たちが、一斉にパニック全開、思い思いにギャーギャー言い出した。

「上には何もない、ただ消えるだけでっ」

「下にも何もない。ただ落ちるだけ」

「これ一体、どうすりゃいいんですかっ! 」

 なにをどうすればいいのかも分からなくなる中、どうやら、ごく少数は理解したのか、消えて行ったりもしている。

 しかし、理解していない連中からすれば、少しずつでも周囲で消えて行くことになれば、さらにパニックに拍車がかかる。

 消えたくない。つまり、本当の死を受け入れたくない。

 本当の死の世界へ誘うはずだった細い蜘蛛の糸は、今や、本当の死を避ける為に縋りつく唯一の命綱のようになっていた。

「バカ野郎っ! 押すなっ! ゆっくり行けっ! こら、揺らすなっ! やめろっ! これ以上、掴まるなっ! バカっ!これ以上はっ! やめろっやめろぉーっ! 」

 その掴まるにはあまりにも心細く、か細い糸は左右に揺れ、そしてついに、


 プツンッ と切れてしまった。


「うわぁーっ! 」

 スーツ女と秘書山本、ジャラ女も、糸に縋った亡者たちは悉く世界に出来上がった大きな穴の底へと落ちて行った。

 誰もが知っているオチの通りの結果となった。


「あ~あ切れちゃいましたね」

 六地蔵は、いつもの人を食ったような笑みを浮かべて言った。

「あいつらは? 」

「それぞれ元々居た下層の世界に落ちていきましたよ。消えて無くなるのが「涅槃」だと分かった以上、二度とこんなことにはならないでしょう」

 ここには、俺と六地蔵しか居なくなった。足元には、消えたヒルズ男のかつらだけが落ちていた。

「彼女も、自分を取り戻しさえしなければ、ただ知識欲の高い少女のまま、この六道で楽しくやっていけたでしょうに」


「おまえ、なぜ、ここの奴らをそんなに守る? 」


「守る? 落としたのに? 」

 六地蔵は、分かっているくせにわざと惚けて見せた。

「人間道で見た幽霊となって現世に残った者、死を受け入れ消え行く者、そいつらと、この六道にいる者との違いがやっと分かった。その上で、なぜお前が俺にそれを見せたのか、ずっと気になっとったんや」

 求めた答えの通りの回答だったのか、六地蔵はさらに問いかけた。


「この六道の亡者が守るに足る魂か、ということですか? 」

「ほんまにろくでもない連中やで、ここの奴らは。果たしたい使命感も、愛し守るべき責任感もない、ただただ自分の欲求を満たす為だけに生を欲するどうしようもない俗物共や。ま、かく言う俺もその一人やけどな」

「人の尻馬にすぐ乗っかって、他人の知恵に縋り付き、答えも出さずただひたすらに貪欲なだけの六道の者たち、私はね、どうしても嫌いになれないのです。いや、大好きなんですよ。・・・人間の本質とはまさにこれです。いいじゃないですか無知で愚かで強欲で、ヘタに知恵をつけて傲慢になるより、ちっぽけな人間という生き物らしいでしょ」


 こいつの上から目線の言動には、正直今でも慣れない。


 ただ、あのうるさい女と違う所は、人を見下しながらも何故か見捨てない所だ。

 こいつの言う通り、本当に好きなのだろう。

「ほんまに、お前はいったいなんなんや? 」

「私は地蔵菩薩。この六道の管理者にして守護者。釈迦と交わした約束の時まで、弥勒が出現し、この罪深き醜く愚かな亡者たち全てが救済されるまで、守り続ける責任があるのです。今、亡者たちに無理やり答えを伝えて消し去ってしまうことに一体何の救いがあると言うんですか。本当に問うべきものは、全くの逆ではありませんか? 」

 六地蔵は、俺に向かって今まで通りの気味の悪い微笑みを見せた。


(こいつ、まだそんな建前を言うのか・・・)


 嘘だ。

 しかも、俺が全てわかっていることを知った上で言ってやがる。

 というより、こいつにそもそも会話など無意味だ。元よりこいつは俺の思考も読み取れる。今となっては、それも当たり前だと理解している。

「・・・まったく、あなたときたら、地位も名誉も、物も金も要らない、痛みも快楽も要らない、あげくに名前も記憶も要らない、ただ、死を認めて、すべて無駄とわかってもなお、生きることのみを強烈に欲している。始末が悪い、一番のわがままだ」

「あら、名前も記憶も必要無いんと違うんか? 」


「答えはとうに出ているようですから・・じゃ、あなたの答え合わせをしましょうか」

 六地蔵は、中空に座した。

「まずは、この世界の正体が何かわかりました? 」

 そこからか・・・。

「これ、いわゆる走馬灯って奴やろ。大分とイメージとは違ったけど」

「ほう・・・。なぜ、そう思ったんです? 」

「時間や。俺らの感じる時間が一人一人まるでバラバラやったことや。物理的に考えてもあり得へん話や。そこで、ここが物理条件を無視して成り立つ世界ってことが分かった。そうとなれば、考えられるは観念的世界ってことになる」


「さすが、賢いですな」

「知識だけは蓄えて来たからな」

「なるほど・・・。ほぼ記憶も取り戻してたんですね。それでも、敢て否定するわけですか。・・・まぁ、いいでしょう。では、これが貴方の言う走馬灯だったとして、こんなに長いもんですか? 」

「アキレスと亀やろ」

「・・・なるほど、正解ですね」


 つまり、どういうことかと言えば、脳が全ての機能を停止する脳死に至るほんの数秒間の中に俺はいると言う事だ。

 確実に死が迫る中で、必死に、その死と抗う為に見えている世界が、いわゆる「死後の世界」ということだろう。

 脳死に至る数秒間で、必死に死を否定し抗う本能的な脳の活動だ。

 それは、まるでアキレスと亀のようで、死という結果に対して、自分が、いやここでは脳が認め、受け入れない限り、死という結果に永遠に辿り着かないということだ。


 数秒間の刹那を永遠に勘違いしたまま生き続けることになる。


 つまり、これは誰のものでもない「俺の中だけにある世界」ということだ。


「ほんまに、すっかり騙された。最後に自分自身に騙されていたとは思わへんかった」

 六地蔵は、特に何も言わず、ただ聞いていた。

 そうだろう。正直、こいつと会話する必要などない。

 心が読めるとか、そういう話でもない。読めて当たり前なのだ。


「お前は、俺や。そして、あのヒルズ男も、スーツ女も、秘書山本も、ジャラ女も、うるさい女も全部、俺が作り上げた単なるイメージや。生前に見た5人の死に当てられたんやろな」

 そうここも、六地蔵も、あの5人も全てがまやかしだった。

 現世の人間や社会に対して俺自身が感じていたイメージでしかない。


「お前にはおらんのか? 誰もおらんのか? ほんまに一人なんか? 」


 ヒルズ男やうるさい女に投げかけた言葉は、そっくりそのまま自分に問いかけられたものだったのだ。


「あなたは、地位も名誉も物も金も痛みも快楽も、あげく名前も記憶も要らない、ただ、死を認めて、すべて無駄とわかってもなお、生きることのみを強烈に欲している。それは、ポジティブなものではなく、ただ、自分を取り戻したくないだけなんですよね。何が欲しいとか、何を生きがいとするかでもなく、自分の人生、そして生きて来た社会や周囲の人間に対しても何も求めていなかった。全て無かったことにしたかったんですね」


 ああ、さすが俺だ。

 全部、お見通しってわけか。

「で、どうします? あなたは行き場が無いのですが・・・」

「当り前やろ。ここに行き場が無いのは、ここは、俺の生きてた世界そのものやねんから」

「なるほど・・・、確かに」

「でも、真理は確かだった。その点は、礼を言うよ」

「・・・何のことです? 」

「そう言う意味では、俺は二重で騙されとったわけや。色んな意味で思い込まされ取った。世界が6つしかないわけがない。それより、生きていた世界もまた、人の造ったまやかしの世界でしかないことに気が付いた」

「・・・ほう。いつ? 」

「人と動物の違いってところだよ。お前が言ってたろ」

「ああ、そうでしたね」

 この六道には人しかいない。動物はいないのだ。

 それもそのはずだ。人しか持ち得ぬ力で生み出された創造の世界なのだから。

 人の生きる「ろくでもない世界」もまた、人の創造によって生み出された世界なのだ。

 人と言う生き物は、その世界でしか生きられないと、そう思い込まされていた。

 特に島国のこのちっぽけな国であれば、猶更だ。

 そうすることが正しく、安全で、幸せな事だと思い込まされていた。

 確かに正しい事ではある。安全でもあるし、ある意味幸せな事でもある。

 しかし、選択する6つの世界のように、どこにも行き場所を選べないこともある。

 行く場所を見失うと、人は錯覚するだろう。「生きる」場所を見失ったと。

 しかし、それは誤りだ。

 本質を見失っているだけでしかない。

 本質とは何か、この世界における唯一無二の物とは何か。

 本当に、死をもってすれば、この世は全て無価値か。

 命は全ての生物において等しく平等であれば、人の命もまたアメーバーやボウフラと等しく同じ価値と言う事なのか。

 確かにそうだ。命においても大した価値などない。他の生物、他者の糧となる以外に特に価値を見出すことなどできない。

 無駄に命には価値があるといった所で、それは単なる方便でしかないだろう。

 他の生物の命を奪ってでも生きているのに、それに蓋をして形ばかりの体裁を取り繕った所で、現実は変わらない。人は特別な存在でも何でもない。ただの生き物なのだ。

 特別と思わされ、錯覚し、誤魔化されている。

 もう一度言う。

 本来、人の命に価値などない。無価値とは言わないまでも、必要以上に価値はない。

 今日もどこかで命は消え、また生まれてる。

 地球上で繰り返される輪環でしかない。

 では、無価値ならば、誰しも奪った所で罪にもならないか。

 厳密に言えば、罪にはならないだろう。

 人の決めた「法」において罪でも、または「倫理」という面においても罪であっても、真理においては罪とならない。いや、罰はない。

 だから、いかに禁じても人は命を奪う。


 そして、人は自らをも殺す。


 自然界において、糧とする以外、同種のものの命を奪うのも、自らの命を絶つのも、人間位しかいない。

 それは何故なのだろうか。

 法も、道徳も、倫理観も、成熟しきった現代社会においても、それは常に起こる。

 特に、自らの命を絶つ行為に至っては殺人より逆に激増する。


 命に価値が無いからか? 


 いや、命に価値はあると、あれだけ言っているだろう。

 命以上に、何かに価値があると思っていないか? 

 そもそも命とは何だ? 生きるとは何か? 人は何をもって生きている? 


 俺が勘違いし、死を目前としたこの世界に至るまで、すっかり騙されていたのはこれだ。


 人の生きる世界の大部分は、人が創造し造り上げた単なる創造物であって、その価値もまた、人の決めたものだ。

 単なる価値の等しい命を宿す生物でしかない人間にとって、本来必要のない物ばかりだ。

 生きるのに必要なのはただ、太陽と空気と水と植物と他の生き物、それだけあればいい。

 とんでもなく簡単な答えだ。生きるってことは、たったそれだけのことなのだ。

 意味など初めから持ち合わせていない。ただ生まれ、死んでいくだけの存在なのだ。


 ただの思い込みによって振り回されているに過ぎない。

 あの5人の男女のように、地位や、名誉や、生きがいや、金や、欲求が、奪われ、失われても、それは命ではない。人の造り上げた偽りの価値に過ぎないのだ。

 それを失った所で、死にはしない。

 その証拠に、死を前にして、それらは全て無価値だ。

 全てが「無」に帰す死を前にして、あらゆるものはその意味も価値もない。

 

 そして、極めて大事なことは、無に帰すのは「世界」ということだ。


 自分のいない世界は、自分がいないので他人の世界であり、当たり前だが、そこには自分がいないのだ。だから、見ることも、聞くことも、感じることも、思考することも無い。

 人は創造力を持っている。

 だから、その存在することも無い世界であっても容易に想像ができ、そこに自分の存在を無理やり創り出すこともできる。そうやって、自分がいなくともそこに自分がいる様な錯覚を生み出す。いわば、世に言う幽霊とやらの存在とはそう言う物なのかもしれない。


 しかし、現実には存在しない。

 自分のいる世界は、自分がいる時にしか存在し得ない。

 どうあがいても他者の世界を見ることも、聞くことも、感じることもない。まして、思考すること等できようもない。

 「世界」とは、たった自分の存在する期間のみに存在するもので、死して消えゆく儚いものだ。

 つまり、自分にだけにしか存在しない唯一無二のものだ。


 自分の世界が、良いか悪いかは、自分だけの世界である以上、その構成要素でしかない自分以外の存在のせいではない。

 自分だけの世界である以上、その世界のルールも全て、自分で決めればいい。

 必要な理は、単純に生きることだけなのだ。

 他者の世界においては、自分はその者にとって、ただの構成要素に過ぎないのだから、その者にとって良いか悪いかは、そいつの決める事だ。だから、必要以上に気にする必要も無い。


 大事なのは、最終的に全てが無に帰すその時まで、自分だけが存在する世界をどう生きるかなのだ。全て自分で決めていいルールによって世界をより良く生きられるか、ある意味、自分だけの世界を生きている以上、「天上天下唯我独尊」なのだ。

 自分が存在することで、世界が存在する以上、この世界で最も尊いのは、自分一人であるからだ。

 世界は変えられる。自分が変わらずとも、世界は変えられるのだ。だって、自分の世界なのだから。自分の見方、聞き方、感じ方、考え方次第で如何様にも変えられるのだ。


 これが、「悟り」の先の答えだ。


「だぁーいっせえぇーっかぁ―いっ! 」

 

 そう六地蔵が言うと同時に、解き放たれるように六地蔵は光を放ち、曼荼羅のようなものが、光に溶けてゆくように広がって行く。


「さぁっ! もう一度生まれ出ずるがいい、人の子よっ! 生きて生きて、生き倒せっ! 全てが無となるその刹那までっ! 」


 薄れゆく意識の中で、俺は光の穴をひたすら落ちていた。

 多分だが、この意識が消えた後、俺は俺でなくなっていくだろう。

 記憶も、自我も、また失われて行く。

 そして、さんざ考えて出した、この「悟り」すら忘れてしまうのだろう。

 全てが「無」になるのは、「死」であろうと「生」であっても、結果、同じことなんだとわかった。




NEXT STAGE   転生


 別に振り返るなと言われたわけじゃない。

 だから、どうせ失われて行くんだし、振り返ってみた。

 光の穴から、人の顔が見える。

 覚えてはいなかったが、恐らく両親だろう。

 それ以降、順調に育って行った。

 そうだ、思い出した。

 俺には確か、年の離れた兄貴がいた。

 やたら出来のいい兄貴だった。すごく面倒見も良かった。

 両親は、そんな気は無かったのかもしれない。ただ、俺が必要以上に意識しすぎただけなのだろう。でも、やはり、俺にとって出来の良すぎた兄貴は自分の無能ぶりをより思い知らされる存在だった。

 優しいし、常に俺の味方をしてくれる兄貴は、嫌いじゃなかった。でも、それが逆に自分の人間性まで否定されている気がしてとても辛かった。


 俺が高校二年になった頃、兄貴は大学を出て、起業した。

 そして、ある時を境に、俺は引きこもった。

 ほんの些細な事だった。詳しい原因は、今となってもまだ思い出せない。いや、思い出したくも無いのだろう。

 とにかく、それからずっと、家から出ない生活を続けていた。

 困る両親に頼まれたか知らないが、兄貴は仕事の忙しい中でも、俺を訪ねて来ては、何かにつけ外へ連れ出した。

 自分の会社の仕事で、在宅リモートで可能なことも持ってきてくれた。

 無理に外に連れ出さず、それでいて外の世界と繋がりを持たせようとしてくれていた。

 今、思えば、少しでも俺の居場所を作ってくれようと頑張ってくれていたのかもしれない。

 そんな中、両親が他界した。

 大阪にあった家は、俺一人ではどうすることもできず。兄貴は、俺を東京に呼んでくれた。

 ただ、東京に来ても、引きこもりは変わらず。たまに外出しても秋葉と神田をうろうろするだけだった。兄貴は結婚していたが、俺を呼び寄せることでもめたのが原因かもしれない。東京に来た頃は離婚していた。

 彼女はいるらしいが、関係はなんとなく良くは無かったみたいだ。

 兄貴の会社は、それなりに順調なようで、大きな事業プロジェクトを任されたようで、それなりにやる気になっていた。

 普段から、面倒見てもらっている分、俺も少しは手伝いたいと思っていた。

 しかし、兄貴は頑なに断った。

 些細な誰でもできる様な仕事を回してもらっていたが、やはり大事な仕事となると、こんな引きこもりの無能にはさせられないと思っていたのだろう。

 どれだけ優しく、面倒見がよくとも、やはり俺は世間様には恥ずかしくて出せない、役立たずの無能の引きこもりで、兄貴も扱いに困っていたのだろう。

 事業がうまく進んだのちに、俺はふと兄貴に捨てられるのではないかと、不安に襲われた。かと言って、何ができるという訳でもない。

 これだけ迷惑をかけて、それに対して何も答えられない無能なお荷物の弟。

 俺の存在が、兄貴にとってはとても大きな「お荷物」になっていると感じた。

 そう思うことが、最近特に多くなった。


 そして、ある日、俺は家を出た。

 しばらくは、ホテルやネットカフェで過ごしたが、その内、お金も無くなり、公園で寝泊まりするようになった。

 ネットカフェにいるくらいまでは、世情はネットでそれなりに知ることもできたが、ホームレス生活となると、さすがに情報には疎くなる。

 兄貴がその時にどういうことになっていたか、想像もできなかった。

(俺はこのままのたれ死んでしまうのだろう。でも、それでもいい)

 寒空の中で、凍えながらもその日を生きて行く。

 なんだろう。それでもいい気がしてきた。いや、その方がいい気もする。

 とても、楽だった。

 ホームレスの仲間は、それなりにルールもあったが、みんな、似たような境遇だったこともあって、基本、優しい。

 世間とのつながりを断って、ずっと引きこもっていたのに、ここに来て、また人とつながりが持てるとは思ってもみなかった。

 そして、あの日を迎えた。


 その日の朝も普通に公園のベンチで迎えた。

 ただ、その日は少し様子が違っていた。

 普段、俺みたいな人間とは、目も合わさず、視界にすら入れてこないのに、この日は、なぜか、やたらとチラチラ見て来る。


 落ち着いて寝れたもんじゃなかったから、ベンチに腰掛けてしばらく道行く人々を眺めていた。

 ベビーカーを押す家族連れが目に入った。

 父親は俺よりも年下だ。

 俺も違う人生を歩んでいたら、こんな感じだったのかもしれない。

 いや、俺なんかよりも兄貴だって、俺みたいな「お荷物」が居なければ、こんな家族のようになれていただろう。

 そこへ、どこかで見た女が歩いて来た。

 何処かで見たことがある。どこだったか思い出せない。

 反対から来たスマホ片手にブランド品の紙袋を大量に抱えた女とすれ違った。

 ブランド品の紙袋を持った女がすれ違い様に声を掛けたが、女は無視して歩いて行った。さらに、声を掛けた女はその後コケたみたいだ。


 俺はとにかく見た事のあるこの女の後を追った。


 思い出した。


 この女は、兄貴の元嫁だ。

 その瞬間、全てがはっきり見えた。


 この女は、兄貴を利用していただけだ。

 俺の事なんかは、離婚原因の一つにもなっていない。

 この女の欲しいのは、兄貴の会社であり、兄貴の会社の事業だった。

 そして、自分たちエリートにとって都合の良い結果をもたらす為に、汚い仕事を兄貴にさせて、関わった末端の新人議員含めて切り捨てた。


 兄貴の方は、恐らく彼女の事をまだ愛していたのかもしれない。

 俺が一度も面識の無かった彼女の顔に見覚えがあったのは、まだ家に写真が残っていたからだ。

 彼女の持ち込んだ大きな仕事に、兄貴は期待しつつ、彼女の期待に応える為に、汚い仕事もこなして来たのだろう。

 そして、俺が手伝う事を頑なに拒否していた理由も、俺に汚い仕事がバレる事を恐れていたからだった。

 それに彼女が絡んでいることも知られたくなかったのだろう。

 若くして毛が抜けて行くほど、苦労ばかりしてきて、それでも頑張って来て、最後は愛する人に利用され、裏切られ、切り捨てられた。

 そこにいるはずの肉親である俺にまで出て行かれて、この時の兄貴はどれだけショックであったろう。

 そして、目の前で自分を裏切った最愛の人が無残な事故で死ぬのを見て、全てに絶望したのだろう。

 遺書も無く、自宅のベランダから飛び降りた。


 俺は確かにその真下にいた。

 しかし、止めることも、話しかけることもできなかった。

 俺が死んだのは、兄貴が上から落ちたせいじゃない。

 俺は既にこの時、死んでいた。


 記憶がプツリと、そこで途絶えた。

 自我が消えてゆくのが、自分でも分かる。

「ああ、死ぬというのは、まさにこういう事なのだ」

 それがよく理解できた。


 消えゆく自分とともに、自分の中に新たな自分が生まれているのにも気づいた。

 そして、自分の目に見えるのが、遭った事もない男と女だ。


 なるほど、これが新しい俺だった俺の両親なのだろう。

 

                  了

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