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楽しんで頂けたら幸いです。

隣の部屋は書庫になっていて、一日の多くをそこで過ごすようになった。紙とインクの匂いが、荒れた心を落ち着かせてくれる。此処にある蔵書はグランジュ王国では目にした事も無い、古の叡智が詰まっていた。




本を手に取とると、その軽さに驚きを覚える。まるで花弁一枚のようで、片手で持っても質量を感じなかった。そしてそのまま、椅子のある場所へ移動する。




そこは不思議な空間だった。氷で作られたような白く透き通った椅子が一つと、そこへ向けて柔らかな光が天井から投射されている。



椅子に腰かけながら本を開けば、見た事もない言語にも拘らずレティシアの脳裏に直接映し出され、知識が吸収されていく。どんなに分厚い書籍だろうが疲労や眠気、果ては空腹すら感じる事無く、本に没入出来た。最後の頁まで何にも邪魔されず心地良いまま読める場所。



どれだけ時間が過ぎても部屋の様子に変化が無い為、何時から居たのか今が朝なのか夜なのか、レティシアはすぐに分からなくなった。自分が何処から来たのか、何者だったのかなんて考える間も無く次から次へと本を手に取った。読めば読むほど、現実世界と本の中の出来事が入り交じり滲んでいく。



降り注ぐ光の下、椅子の上で本を抱え込み、その世界へと沈んでいった。




◇◇◇




ルーセル王太子殿下と王太子妃の間には、長らく世継ぎが誕生しなかった。それでも側妃を迎える事は無く、民からの支持もあり、国中が二人の将来を果ては王国の将来を祈った。




けれどその甲斐もなく、無情にも八年もの月日が過ぎていった。




そんなある日、オランド侯爵夫人が魔力暴走を起こし、現場となった王都の屋敷にある四阿は瓦礫と化した。当然、リナ夫人も強い衝撃から、治療を余儀なくされた。寝台の上の彼女は、これまでの穏やかな人柄は影を顰め、譫言の様に言葉を繰り返した。



「あの子は…あの子は誰?」

「何か大切な…大切な事を…」

「あぁ…、あぁぁ…分からない…!」



オランド侯爵イニャスも息子のコランタンにも思い当たる事は無く、原因が掴めぬまま日々が過ぎていった。落ち着きを取り戻し始めた頃、漸く自身の足で歩けるようになったリナ夫人が四阿の跡地で悲鳴と共に倒れた。



侍女達の目の前で声を上げると、涙を流しながら蹲ったかと思えば静かに崩れ落ちた。その手に握られたアネモネの花を、病床に臥した間も手放そうとはしなかった。その奇妙な様子から、精神を病んでしまったのだと噂された。あれ以来、彼女は妄想の様な嘘を叫び続けているという。



「イニャス、貴方も知ってるでしょう?コランタンだってそう、あの子よ、白金の髪に紫色の瞳の…!何故、皆忘れてしまったの?…いえ、私だって…思い出せない。思い出せないの…お願い、誰か教え、て」



干からびて色褪せたアネモネの花を見る度に、リナ夫人の悲鳴が部屋に響いた。



その声には言霊が宿ったように、オランド侯爵家から国中へと波紋のように広がっていった。




◇◇◇




この数年で王国を支える貴族の情勢は様変わりした。エドウィージュ王太子妃は後押しした貴族達を重要な地位に就けていた。些か強引ともいえる人事に、当初は反感もあった。けれど彼等は非常に優秀で、国内の整備を徹底し生活水準を大いに引き上げた。その他にも隣国との外交に力を入れ、今では市井にまで外国の資源が流通し、国中が活気に満ちており、反対派も居なくなっていた。




栄える国を前にして、ルーセルは日々の執務に追われていた。休憩する間もなく机に齧き、書類を捌く姿を扉の隙間からエドウィージュ妃が見つめていた。直ぐに踵を返すと、音も無く自室へと歩を進めた。



「…もう十分さね、そろそろ解放してあげようじゃないか」



普段の王太子妃の声色と異なるその呟きは、後ろに控える侍女には届かなかった。






それから数日後、エドウィージュ王太子妃が病気療養を理由に、実家であるヴェスピエ公爵家領地へ向かったという一報が駆け巡り国中に激震が走った。







王太子妃が王都から離れてから数ヶ月、不可思議な事が囁かれ出した。




エドウィージュは国を代表する女性だったにも拘らず、何故か人々の記憶から消えているという。



どうしても彼女の顔は疎か、声すらも思い出せないのだ。



初めは自分だけだと皆が思っていた。忘れてしまったなんて無礼すぎて、不敬罪に問われかねない。誰もが口に出来なかった。




けれど、国中がエドウィージュを忘れてしまったのだという噂がじわじわと広がった。




切欠は王宮の廊下に飾られたルーセル王太子殿下と妃が寄り添う肖像画に、異変が発見された事。ルーセルに変化は無かったが、隣のエドウィージュだけ輪郭までもがぼやけて背景に同化していた。それは皆が何とか思い出せる妃そのままだった。


実際、彼女に何かあったのでは誰もがそう思った。けれど王宮からヴェスピエ領に知らせが行く事も、向こうから来る事も無かった。



あれ程、慕われていたエドウィージュは、まるで薄い膜が重なっていくように国中の記憶から薄れていった。





一ヶ月も過ぎた頃には、彼女の存在自体が煙の様に消え去っていた。それに疑問を感じるどころか、思い出す者すら現れなくなっていた。



一人だけになった肖像画のルーセルも、元からそうであったように静かに周囲を見渡していた。




◇◇◇




緩やかに時間が過ぎていき、エドウィージュという存在が消えてから二年年の月日が流れていた。



ルーセルに対して方々から妃を娶れと、ひいては世継ぎをとの声が多くなっていた。周りには妃の座を狙う令嬢達が群がった。けれど自分とは八歳以上も年齢差がある為か、全てが幼さ過ぎて会話すら儘ならない。彼女たちに国母の責任を背負わせるには、あまりにも重すぎた。



しかし距離を置こうにも、茶会に夜会の招待状が後を絶たずに送られてくる。断りを入れる返事も数多く、ルーセルは家名を一覧のように、箇条書きしていた。



ふとインク壷が空になり、右手側の抽斗を漁った。



手元に引き寄せた箱が、存外華やかな見た目に眉を顰めた。



(どこかで…?)



僅かに引っかかる記憶を辿るように、蓋に手を掛けた。



「これ…は…」



艶やかな黒い天鵞絨が敷き詰められた中に、此方に向けて輝きが二つ。




「懐かしいな…こんな所にあったとは…」



紫水晶が夕闇のような光を帯びて、柔らかに煌く。あの瞳によく似た石を、妥協せず探させて良かった。紅石の付いたひと回り小さな輪を手に取る。



「そうか、まだ渡せていなかったのか…」



渡せて



渡せて、いない



一体、誰に?




周りの者が口を揃え、妃を世継ぎをと催促されている私が、揃いの指輪を用意してまで渡したいと想った人など居たはずもないのに。けれどこの指輪を見れば見る程、心がざわついていく。




不意に窓から一陣の風が入り、書類が舞い上がった。ルーセルは慌てて手で押さえ、やり過ごす。それが落ち着くと、心地良い微風が花の香りを運んで来た。




ふと白い髪の少女が脳裏を掠めた。




◇◇◇




黒い色をした魔力は、魔族の白い魔法を無にしてしまう。最大の弱点をまるで自分達の物と思わせる為に、古の魔族は魔力の色を偽り、幻影で暗い色に染め上げた。



思惑通り、人々の中で黒い魔力は不吉かつ未知な物と認識されていく。



そう、本当はレティシアの魔力こそが、唯一魔族に向かえるものだったのに。




かの部屋では、黒い魔法が霧のようにレティシアを包んだ後、大きく広がり壁に吸い込まれて行った。レティシアが本を読み重ねる度に繰り返され、時には黒い幕のようにはっきりと目視出来る事もあった。



それはレティシアが本を読み、感情が揺れる度に繰り返された。




彼女が空間に閉じ込められてから、何年も何年も。




この空間を拵えた者でさえ想像出来なかった現象に、周りを遮断してしまったレティシアが気付くはずもなく。その間も少しずつ少しずつ黒い魔法が蓄積されていった。



白い魔力に抗い、空間の歪みが引き寄せられていった。あるべき所へと。




レティシアが三万七千二百九十一冊めを読み終わったその時。




パチンと泡が弾けたような音と共に、本棚や隣の部屋への扉だけでなく、今まで読んでいた手の中の本までもが、溶ける様に消えていった。残されたのは椅子に座るレティシアだけ。薄暗い部屋の真ん中で、上からの光だけが変わらず、レティシアを照らす様に柔らかく降り注ぐ。



夢か現か、混ざり合う意識の中、レティシアは身じろぎもせず白い椅子の上で揺蕩っていた。




◇◇◇




モーガンは少なくなった赤ワインを一気に飲み干した後、薄く笑った。



「今どき、魅了なんて流行らないさ」



独り言のような呟きに、たまたま居合わせた男が面白そうに尋ねた。



「そうかい?ここ数百年は魅了だけで上手くいってたろ、違うとはいわせねえぜ?」



待ってましたとばかりに、モーガンの瞳が金色に輝いた。



「でも遅かれ早かれ魅了は解ける、そうだろう?」


「まぁ、そうだな。…長くて十年てとこか」



相槌を打つ男と自分用に酒の追加を頼むと、モーガンは頷いた。



「そうさ、十年。それまでに魅了は解けちまう。そうなった後は、どうなるか知ってるかい?」


運ばれてきた酒をちびちびと飲みながら、男は頭を横に振る。



「そういや気にした事がねえな。あそこまで行きゃ、征服は終わったも同然だろう?」


「確かにそうさ、征服は終わる。だが、あれは魅入られてる者だけでなく、周りに至るまで反感が大きすぎるんだ。魅了が解けた時なんて目も当てられない。気付いちまうのさ、何で色々な物を捨ててまで、此奴が好きだなんて思ったのか……とね。そうして失った物の大きさに耐え切れなくなっていく。…するとどうだい、血眼になって探し始めるのさ、嘗て愛していた者をね。それこそ文字通り何もかも捨ててだ。魅了は楽な分、強力だ。一都市まるまる影響される程に。結局、土地は手に入っても、使い物にならない人間が増える。そうなっちまうと国も衰退を辿るのさ。征服後にする仕事が復興てのは粋じゃない、だろ?」



モーガンは一気にまくし立てた。



「そうかい、そいつは知らなかった。確かにそうだな」



男は空のグラスを眺めながら、物欲しそうにこちらに目を向ける。それに気付かない振りをして、モーガンは話を続けた。



「その点、成り代わりは優秀だ。先ず面倒な能力を持っている者を見つける。そいつの場所を頂くのが手っ取り早い。いくら力がある者でも、何かがおかしいと思いながら、取り敢えず様子を窺うだろう。はっきりと異変に気付いた時には既に手遅れ。嘘が国中の真実になっていくのを、成すすべなく静観するしかない。これなら立場を奪われる者一人が犠牲になるだけでいい。十年で効果が消えるのは同じだが、人間の記憶なんざ十年も経てば、改ざんされてなくてもあやふやになるもんさ。…まぁ、奪われる者にとって唯一の救いは、気が狂うか、はたまた内なる殻に閉じこもり、周りとの関わりを遮断して裏切られた事など忘れちまう」



腕を組んで聞いていた男が、ぽつりと言葉を投げかける。



「奪われる者を始末しちまった方が楽だろうさ」



「ダメだ、ダメダメ」



口角を上げクスリと笑いながら、モーガンは大げさに右手を振った。



「その途端に魔法は切れちまう。入れ替わり先が消えれば、元に戻るのは当然さね。空間を捻じ曲げて、奪われる者を囲っておけばいい。これから征服しようっていう奴らに、今まさに侵略中だなんて教えてやる義理はない。全ては水面下かつ確実に進める、それで万事解決さ。…私ら魔族はもっと賢くいくべきだろう?」



一気に酒を煽った後、モーガンは席を立つ。



「何処か任されたのかい?」


背後からの男の声に、振り向かず右手をひらひらと振った。



「グランジュさ!美しい領土をそのまま持って帰ってくるよ」


「あそこの地酒は、中々いいもんだ。…楽しみにしとくとするか、ここで飲みながらな」



背後からの大きな笑い声が心からの声援のようで、今のモーガンには心地よかった。




◇◇◇




知っている。



知っているんだ。とても大事な…。



先程見た少女の幻影へ手を伸ばすように、細かく千切れた記憶を必死に掻き集める。けれど、なかなか思うようにいかない。仕方なく断片的な映像を頼りに、足懸かりを見つけようと試みる。



彩りのある紫の瞳が、脳裏で甦る。あぁ、昔から好きなんだ。夜が近づくにつれて深みを増していく空の色が。



昔から寄り添ってくれた、愛しの…。





…そうだ。



これを渡さなくては。




迷うことなく紫水晶の指輪に口づけを落とすと左の薬指に嵌め、もう一つを力強く握りしめた。紫色の石がキラリと黒く輝き、ルーセルの部屋を闇夜のように照らした。







ぼやけていた視界の焦点が合うように、暗闇に目が慣れていく。夜に浮かぶ満月のように、白い扉が淡い光を放つ。震える手を伸ばし、そっと押した。



逸る心とは裏腹に、扉は緩慢にパチンという小さな音と共に開いていく。




四方を黒く塗り潰された壁に囲まれたような不思議な空間が広がり、暗闇に向けて柔らかな光が天井から投射されている光の先には氷で作られたような白く透き通った椅子が一つ。



椅子の上で蹲るように膝を抱え込み、座っている人が目に飛び込んで来た。瞳は固く閉じられていて、だらりと下がった片手に焦りが隠せない。



気付けば走りだしていた。




動く人の気配を感じてか、白い長い睫に覆われた瞼が震え、そしてゆっくりと開いた。虚ろな視線は余所を向いているが、あの紫色は見間違うはずがない。




意識が記憶が重なった時、私と彼女の視線も交わった。








終わり






最後までお読みいただきありがとうございました!


宜しければ評などおねがいいたします!

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