前
楽しんで頂けたら幸いです。
これで、お終いなのでしょう。
私さえ居なければ、貴方が幸せになるのだから。それだけじゃない、国中全てが上手くいくもの。迷いなど無い…そう思っていたはずなのに動揺しているなんて情けないものね。後のグランジュ王国王太子妃たる者が、…いえ、今はもう元王太子妃候補ね。
思わず自嘲気味に乾いた笑いが込み上げて、扇子越しに小さく掠れた声が漏れた。普段であれば、淑女にあるまじき行為、そう咎められても仕方がない。
けれど、どうせ誰も見ていないもの。
こっそりこの場を離れても、きっと一人も気付きはしないはず。此処に居る者全てが一様に王太子とその新しい妃誕生を慶び、湧き上がっているのだから。私の事など思い出しもせず…いえ、まるで初めから存在しなかったかのよう。
大丈夫、分かっていた事よ。覚悟もしていた、…だとしても、実際に目の当たりにすると流石に堪える。
直ぐには無理でもいずれ元に戻るかもしれない、そんな淡い期待を心の何処かでしていたのかもしれない。結局事態は悪くなる一方だった。これほど簡単に人は変わってしまう、抗う術など無いのだと改めて知らされた。どれだけ泣いたか分からない、涙はとうに枯れてしまった。だからもうこれ以上、傷つく事はない、そう思っていたのに。その上から、更に深く抉られていく。
婚約者であるルーセル殿下と顔合わせをしたのは、レティシアが四歳の時。幼い記憶はうろ覚えだけれど、初めて彼を意識した瞬間は今でも思い出せる。
「綺麗な瞳だね、夕焼から夜になっていく空みたいだ」
夜の帳のような髪がサラリと流れた時、宝石みたいな紅の瞳には私しか映っていなくて。私の白い髪を一房指で絡めとり、口づけを一つ落としながら私の好きな色なんだと微笑んだ。
そんな大人びた貴方の行動一つ一つに、私は釘付けになっていた。
あの瞬間、私の心は貴方に奪われた。そう気付いた時、生まれて初めて感じた想いに顔が火照る。けれど、これは政略の縁なのだと、自分に言い聞かせるように頭を振る。それでも、貴方からの思いが形式的なものだとしても、この気持ちを直接伝えたらどんな反応をするのか、不安と同時に楽しみでもあった。私だけは生涯彼を…、そんな想いを胸に秘め、大事に温めてきた。
正式な婚約がなされた日など、嬉しさに興奮した私は夜も眠れなくて、窓から星を数えて過ごした。ひとつ、ふたつ…数が増える度に喜びが増していく。これからは何時でも貴方と一緒に居られるのだと。
流れ星に祈らなくとも見事願いは叶えられた私達は特別で。初恋は実らない、そんな俗信がある中でこの絆は如何なるものも壊せないのだと、今思えば驕りに近い甘やかな感覚があった。
それから十数年、共に学び寄り添い歩んできた。そう思っていた。
けれど穏やかな幸せは、ゆっくりと終わりを告げた。ルーセル殿下と私の間に見えない溝のようなものを感じ始めたのは、件の公爵令嬢が生きていたという知らせが国中を駆け巡った辺りから。ヴェスピエ公爵夫人によく似た真紅の髪と薄紅色の瞳を持つ、まるで大輪の薔薇のように美しいエドウィージュ嬢。社交界は彼女の話題で持ち切りになった。
まだ婚約者の居ない高位貴族の子息達が、俄かに沸き立ったのは当然の事だろう。
時を同じくして、週に二度行われていた殿下との面会が、二週に一回中止になり、週一から隔週へと減り終には顔合わせそのものが消滅していた。減っていく殿下との時間を危惧して、父であるグランジュ侯爵に報告を兼ねて相談したが、その時の父の顔は恐ろしいもので今思い出しても震えてしまう。
「その程度の舵取りが出来ないようでは、将来が思いやられる。分からないのか?これも妃教育の一環、お前1人で何とかしなくてどうする。…こんな下らない事で私の時間を奪うとは…な」
あんなに好ましかった父の碧い瞳には、背筋まで凍りつく苛烈な怒りが滲んでいた。温度の無い氷の様な瞳を向けられすくみ上ったが、それもすぐ背けられた。同時に執務室の扉が四回鳴らされ、来客を知らせれあば話は終いだとそれ以上は取り合ってもらえなかった。
「失礼致します。父上、報告があり参りました」
執事がt開けた扉から入室してきたのは、二つほど年上の兄であるコランタンだった。退室するレティシアは、兄とのすれ違いざまに紺色の瞳を向けられた。
「落ちこぼれが何故ここに」
その顔は先ほどの父と同じ憤怒に染まっていた。
今まで見た事のない家族の表情に二の句が継げぬどころか、震える身体に気付かれない様その場を後にするしか出来なかった。温かで優しい声色でレティシアと呼んでくれたのは幻だとでもいうような何かが歪んでいく錯覚に眩暈がした。慣れ親しんだ屋敷に居るはずなのに、居心地の悪さが纏わりつく。まるで私自身が浸食されているよう不安に、この時は目を逸らせてしまった。大丈夫、偶々機嫌が悪かっただけ、と。
そんな不安をあざ笑う彼のように、侯爵家だけでなく王宮においても私の存在は煙たがられていった。
「お二人が並ぶと、まるで絵画の様で…!」
「殿下の紅い瞳に御令嬢の薔薇が咲いた様な髪…、同じお色をお持ちなのも運命って感じ」
「そうそう、分かるわー。…あぁ、本当に黒い魔女さえ居なければ」
「老婆のような白い髪も気持ち悪いったらないもの」
「邪魔者だと何故分からないのかしら」
妃教育に訪れた際、王宮内に務める侍女達の大きな内緒話で、殿下と令嬢が頻繁に会っている事は自然と耳に入ってきた。しかも陛下に王妃殿下まで受け入れている…と。婚約者の寵愛どころか、王家の信頼すら得られない、可哀そうな偽りの妃候補は家族からも見放されそうだと陰で嘲笑されていたのも知っていた。
今なら分かる。
何があろうとも貴方と私の関係は揺るぎはしない、そう祈るように信じていたのは、私だけだったのだと。
だって最期は、あまりにも呆気ないもので。
「オランド家と結んだ契約を破棄した。これを踏まえ、新たにエドウィージュ・ヴェスピエ令嬢との婚姻を此処に宣言する」
貴方からの婚約破棄は建国祭を祝う会に、衆人環視の中で言い渡された。妃なんて以ての外、臣下どころか自らの視界に入る事すらも許す気は無いと、ハッキリと線を引かれた。そしてこの忌々しい婚約をさっさと破棄し、新しい妃との婚姻を結ぶのだという。成程、道理で二人が雪のように清らかな衣装を身に着けているはずだ。
私との婚約期間で無駄にした時間を少しでも取り戻さなくてはと、婚約すら飛ばして。
婚約破棄に併せ実家である侯爵家も、王族に迷惑を掛けた娘をオランド家から籍を抜き平民に落とすと発表し、会場の異様な熱気に拍車をかけた。
親交のあった令嬢達も、最早、人ですらないと視線すら向けられなかった。友人だと思っていたのは、私だけ。心の痛みが加速する。
お前は要らない、不要だ。この国の何処にも居場所など無い…と。
走馬灯の様に、これまでの思い出が溢れては枯れていく。こんな事になるなら、せめて貴方へ想いを告げてしまえば良かった。終ぞ叶う事は無くなったけれど。
変化は一つだけのはずなのに、レティシアを取り巻く全てが掌から零れ落ちてしまった。同時にレティシア自身も、粉々に壊れていくようだった。
それでも。
それでも私は私の役目を全うする。笑え、笑え、既に身体も心も悲鳴を上げているのに、この茶番が終わるまで泣くなと自分を叱責しながら。
「国王陛下並びに皆様、本日は誠におめでとうございます。加えて、ルーセル殿下並びにエドウィージュ様、お二人の新しい門出をお慶び申し上げます。幸多き日に立ち会えた事、誠に光栄にございます」
渾身の礼をとる。ぐちゃぐちゃな気持ちで今にも倒れそうな自分を、オランド侯爵家令嬢として生きてきた矜持だけで持ち応える。
二人を祝う歓声が、わっと大きく広がった、当然、私の声はかき消され、誰の視界にも入らない。皮肉にも今日まで沢山向けられた蔑みの言葉に拒絶の眼差しも、今は全て無くなった。私という存在が、彼等の意識から消滅した様に。けれど私は気にせず更に言葉を重ねた。
「グランジュ王国よ、とこしえに。…私はこれにて、御前失礼いたします」
まだだ、まだ気を抜くな。涙が零れそうなら上を向け。最後まで足を止めるな。
背後の喧騒は聞こえないふりをしながら、背筋を伸ばし前へ歩を進めた。
3話で終わるので、良かったら次も見て下さい!