お茶会、そしてお茶会
「レティシア・シンシパル! 私は今ここで、貴様との婚約の破棄を宣言する!」
レティシアが扇を広げて冷たく見据える先では、王太子クラミスが敵を睨むような目をこちらに向けていた。その隣には柔らかに波打つ栗色の髪の少女が、怯えたようにクラミスに寄り添っている。
「いやですわ、殿下。お気は確かでいらっしゃるの?」
瞳を細めて二人の姿を忌々しく見やれば、びくりと肩を震わせる少女を庇うように一歩進み出たクラミスが声を上げた。
「黙れ、この悪女め! 貴様がこれまでリージアに行ってきた非道な行為、この俺が知らぬと思うてか!」
「非道な行為。まあ、何のことでしょう? わたくしにはとんと心当たりがございませんわ」
だって、と言い、レティシアは扇子をパチンと閉じて嗤った。
「わたくしはただ、身の程も弁えぬ鬱陶しい羽虫を追い払おうとしただけですもの」
「貴様という女は……っ!」
クラミスが憤りに奥歯を噛み締める様が愉快で、そしてそれ以上に不愉快でたまらない。その隣で怯える羽虫もだ。
「ふ、ふふっ。ああいやだ、殿下ったら。まだお目覚めになりませんのね。所詮は男爵、しかも平民上がりの卑しい女など、庇い立てしても何にもなりませんのに」
そう、自分はあんな女とは違う。高貴な血、由緒ある血統の正しき「貴族」なのだ。そしてレティシアはクラミスの婚約者でもあるのだから、不埒な輩を排除して何が悪いというのか。
「さあ、宣言を撤回してくださいませ。殿下にとって必要なのは、その卑しい女ではなく、このわたくしでございましょう?」
「どこまでもぬけぬけと……衛兵! その女を捕らえよ! 己が欲のために男爵令嬢の毒殺をも目論んだ罪人である!」
王太子の言葉に鎧を纏った兵士たちが素早くレティシアを囲み、後ろから腕を拘束される。振り払おうとしても、鍛えられた騎士にレティシアの抵抗など意味をなさなかった。
「無礼な! わたくしを誰だと思っているの!?」
「もはや貴様はただの罪人だ! 衛兵! 罪人の口を塞ぎ地下牢に放り込め!」
命令に従う兵士に轡を噛まされながら、レティシアは憎悪の瞳で二人を睨んだ。
なぜ、なぜ自分が。卑しい身分の小娘の分際で、レティシアの婚約者に手を出した。そして婚約者のある身でありながら、不貞を働いた。
自分はただそんな二人の仲を壊して「元通りに」しようとしただけだ。だというのに、なぜ高貴な身分であり、ゆくゆくは王太子妃となる自分がこのような扱いを受けねばならないというのか。
――呪ってやる。
二人とも、呪って、呪って、呪い殺してやる!
「……、なっつかしー夢……」
ベッドの中で緩慢に瞬きを繰り返し、レティシアはのそりと体を起こした。
婚約から実に四年。今日も王太子となったクラミスとの恒例の茶会があったが、疲労と腹立たしさのあまりに不貞寝を決め込んでから随分と寝入っていたらしい。窓の外の日はベッドに入った時よりも傾いている。
「あの殿下のがまだまともではあったよな……」
こんな夢を見たのは、王立学園への入学が近付いてきているからだろうか。そんなことを考えながらひとつあくびをこぼして、レティシアはベッドのすぐ横にあるベルを鳴らした。
さほど時間を置かずしてやってきた侍女のロレッタに着替えを頼み、レティシアは用意された湯で顔を洗う。さっぱりとしたところで体を締め付けないシンプルなドレスに着替え、散歩にいくと伝えれば、ロレッタが深く頭を下げた。
本来ならば貴族の令嬢というものは、庭の散歩だろうと侍女や専属の護衛を連れていくものだが、レティシアはそういうことをひどく嫌ったため、父ダリオールとの交渉の末、敷地内でも限られた場所のみ一人での散策が許されているのだ。
そのうちのひとつであるバラ園の、その片隅にあるガゼボに向かったレティシアは、大きく息を吐き出して繊細な装飾を施されたベンチに腰下ろした。
「あーあ……」
呟いて咲き誇る薔薇に目をやる。腕利きの庭師が丹念に手入れをしているだけあって、シンシパル家のバラ園も王宮に勝らずとも劣らぬ見事なものだ。
しかし視線を美しい花へ向けていても、レティシアの頭を占めるのはバラでも先ほどまで見ていた夢の内容でもない。
それは他でもない婚約者――王太子クラミスのことだった。
あの王子の性格は月日を経ても相変わらずで、レティシアの誕生日だろうと手紙のひとつも寄越さない。それでいてこちらから贈り物をすれば、次の茶会の折に安物だの自分には相応しくないだのと文句をつけてくる。毎回ひとつはレティシアの何かを貶さねば死ぬ病気にでも罹っているのだろうか。
先ほどまで不貞寝をしていたのだって、茶会でドレスに難癖をつけられた怒りがおさまらなかったためだ。
たかがドレス。けれどそのドレスは王宮に行くレティシアのためにデザイナーが必死に考え、お針子たちが全力を尽くして縫い上げたものである。レティシアを貶すのは許容できなくもないが、そのために王家を含む上流階級の人間の暮らしを支えてくれている者たちの仕事を貶すような真似は到底看過できるものではない。さらにそれが将来国を統治する王太子の発言ともなれば、殊更にだ。
「……ぶん殴りてぇ~~~~」
思い出せばまた沸々と怒りが込み上げ、髪を掻き毟りたい衝動を堪えて頭を抱える。と、その視界に白いものが見えた。顔を動かせばそこにはなぜか、器用に前足を合掌するように合わせて首を垂れる、白ウサギがいる。
「……。拝まないでくれます?」
辟易と言えばウサギはハッとしたように顔を上げて茂みの中に飛び込んでいく。それを見送ってまた深々と息を吐き、レティシアは今にもずり落ちそうなはしたない姿勢でベンチの背にもたれ掛かって天を仰いだ。
クラミスは相変わらず傲慢でこちらを見下すことをやめない。不本意な婚約がそうさせているのかもしれないが、それはこちらとて同じことだ。
――それでも、歩み寄るべきなのだろうか。
王妃教育でも散々「殿下をお支えせねばなりませんから」と言われている。支えるのは構わない。それは――相手の態度にもよるが――全く吝かでないのだ。問題はその「殿下」が、レティシアを共に歩む者ではなく従属するもの、あるいは使い勝手のいい使用人か何かと勘違いしていることだ。
実際に王太子としての教育はほぼ進んでないと聞くし、将来的に政務を任されるようになったら、「こんなものはお前がやればいい」と丸投げしてくるのは目に見えている。
「あんなんが国王になったら、こっちがどんだけ支えたって国が傾くに決まってる」
あの親子の頭ん中どうなってんだ。
そうこぼす耳に、遠くからレティシアを探すアレクシスの声が届いた。
クラミスを殴り飛ばしたい気持ちは一先ず心に秘め、レティシアは現在白い便箋を前に眉根をきつく寄せていた。
恒例となった茶会。その茶会についての礼状を王太子に向けて書かねばならないのだ。面倒なことこの上ないし、どうせクラミスは読みもしないと知っている。正直無駄な行為でしかないのだか、送らなかったとなれば次の茶会でネチネチといやらしく責め立ててくるのは目に見えている。
「はあ……。一回どこかで頭でも強打してくれないかしら」
そんなことを呟きながらもペンにインクをつけ、殊更に丁寧な文字で文章を綴る。
『此度のお茶会も、大変有意義なお時間であったことを御礼申し上げます。』
毎回変わらずにしたためている嫌味である。当然クラミスには通じていない。読んだとしても、彼は言葉を額面通りに――つまり自分の都合のいいようにしか受け取らない男なのだ。
いわゆる社交界の闇というものに、どこまでも疎い。褒め言葉の裏に隠された蔑みや悪意に気付かず機嫌よくしているのだから、よく言えば非常に精神力が強い。悪く言えば単純で浅慮。後ろ盾がシンシパル家でなければ、彼は野心家にとってさぞかし良い傀儡になっただろう。
国王は決して愚かしい人物ではないし、物事を公平に見定める目を持っているが、それはどうやらクラミスには適用されていないらしい。
それとも、レティシアが王太子妃となることで上手くクラミスの舵取りをしてくれるとでも思っているのだろうか。
だとしたら、それこそ大きな間違いだ。
書き終えた便箋を畳んで封筒にしまい、封蝋をする。
「ロレッタ、これをクラミス殿下に」
部屋に静かに控えていた侍女に手紙を差し出すと、彼女は「かしこまりました」と恭しく頭を下げ、手紙を携えて部屋を出ていく。
ドアの閉まる音を聞きながら、レティシアは机に頬杖をつき、すっかり癖になってしまったため息を吐き出した。
「お茶会、ですか」
手紙を書き終えてほどなく、レティシアは母セリーヌに呼ばれて応接室のソファに座った。そこで切り出されたのが、ロアンネル侯爵夫人の茶会に顔を出さないか、というものだった。
「ええ。レティは近頃めっきりお茶会に顔を出さなくなったでしょう? そのせいか、あまり良くない噂を耳にしたのよ」
「あら、欠陥令嬢に上乗せで? 今度はなんでしょう。引きこもってぶくぶくに太ったとか、そんな感じでしょうか」
メイドの運んできた紅茶に口を付けて首を傾げると、穏やかに笑んでいた母の口元が、ひく、と僅かに引きつった。
「さすがにそこまでではないわ。すっかり人嫌いになって、部屋から出ようともしない……そんなところよ」
「妄想癖の強い方がいらっしゃるのかしら。わたくし、きちんと我が公爵家の馬車に乗って王宮に出入りしているのですけれど」
現実の見えないお可哀想な方もいるものなのですね、と笑えば、母が額を押さえて項垂れる。
「……まあ、否定はしないけれど」
「あ、しないんすね」
「レティ、言葉が乱れていてよ」
「すみません、つい」
口元に手をやっておほほ、と笑う。母はなぜか草臥れたような様子で――十中八九レティシアのせいだろうが――紅茶に口を付け、
「ともかく、今度のお茶会にはあなたも参加なさい。同じ年頃の令嬢や令息も招待されているということだから、あなたに好意的な友人の一人でも作りなさいな」
「うげぇ」
「レティ」
思わず舌を出せば強い口調で咎められ、レティシアはむすりと唇を突き出した。
アレクも参加させるから、あなたも必ず参加なさい。
母にそう睨み据えられて、レティシアはうんざりと肩を落とした。