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国王との夜 その2

 メリザンドの問いかけに対し、王はしみじみとした様子で語り始めた。


「あれは三年前、国立歌劇場の創立記念演奏会でのことだった」

「はい、その日のことは、よく覚えておりますが……」


 それでも、王に関する記憶はない。おどおどと視線をさまよわせながら、王の言葉を待つ。


「その日、わたしは王族専用席ではなく、11番の桟敷(ボックス)席に座っていた。親しい者たちと共に、仮装用の仮面で顔を隠して、羽を伸ばしていたのだ」


 なんと奔放な、とメリザンドが目を丸くすると、王は子供のようにくすりと笑って続ける。


「上演されていた歌劇は、『騎士と王妃』だったな。すっかり聞き飽きた古典だ。だからわたしは、オペラグラスで客席を覗き見することばかりに注力していた。

 お前がいたのは、14番あたりの桟敷ではなかったか? わたしのいた席の、おおよそ正面の三階席だったはず。

 お前は手すりから身を乗り出して、興奮気味に舞台を見つめていたな」


 次々と語られる思い出に、メリザンドも懐かしい気持ちになりながらうなずく。


「……その通りでございます。なにぶん、劇場へ訪れるのはその日が初めてのことでしたので。お恥ずかしい限りです」

「いや、わたしは、そのときのお前の表情に魅了されたのだ」

「え……?」

「オペラグラス越しにもわかるほどの、きらきらとした表情を浮かべるお前にな。第一幕の盛り上がりどころである『愛の二重奏』が始まると、一段とうっとり聴き入っただろう。そのときわたしは、『天使』を見たと思ったのだ」


 おもむろに王が立ち上がった。メリザンドのもとへ、ゆっくりと歩み寄ってくる。

 いきなりのことにびくびくしていると、王は口元に穏やかな微笑を浮べ、メリザンドの前に膝をついた。


「陛下……!」


 驚くメリザンドの右手を、王は(うやうや)しげに握る。大きくて、骨張っていて……とても温かい手だった。


「わたしの愛しい天使。どうかこの美しい手に、キスをすることを許してはくれまいか」

「……ご、ご随意になさいませ」

「そんな答えは望んでいない。許すか、許さないか、そのどちらかの答えをくれ。お前の心のままの声を」


 己の身分を考えれば、ノーと言うわけにはいかない。

 けれど、一人の女として考えたとき、自然と心に湧いてきた声は……。


「どうか、キスをしてください」


 途端、手の甲に落ちてきた王の口づけは、緑児(みどりご)を愛でるように優しいものだった。

 こんなにも慈愛に満ちたくちびるは、母でさえ持ち合わせていなかった。嬉しさと切なさが胸を締め付ける。


 キスのあと、王はメリザンドの手に頬をすり寄せた。母に愛撫をねだる子供のように、幼気(いたいけ)な仕草だった。


「メリザンド、わたしは三年前、思ったのだ。天の国とは、天ではなく地にこそ在った。死によって至るところではなく、人の心が動くところにこそ在った。

 稀代の歌手が紡ぐ愛の歌の中、そこに陶然と身を委ねる少女の姿に、わたしは信仰を見出した。

 そしてわたしは強く思った。わたしをそんな気持ちにさせた少女を、有象無象の男の物にするわけにはいかぬ、と」

「そ、それは、あまりに畏れ多いことでございます」


 メリザンドは慄然(りつぜん)と答えた。そんな台詞を聖職者に聞かれでもしたら、破門は免れない。


 けれど、胸の奥では心臓が鼓動を速めている。生まれて初めて囁かれる愛に、心が動いている。


 王は少年のような笑顔で、いたずらっぽく笑った。


「今の言葉は、他言無用に頼む。恋に浮かれた男が紡ぐ戯言(たわごと)だと聞き流してくれればよい。

 けれどこれが、噓偽りのないわたしの気持ちなのだ。たとえお前の心に響かなくとも、記憶のほんの片隅にしまっておいてくれないか。わたしの愛しいメリザンド、心から愛しいメリザンド」

「国王陛下……」


 ああ、とメリザンドは両手で顔を覆い、咽び泣いた。

 家族と夫に裏切られた今、王の甘く、優しく、熱い言葉が胸に沁みた。


「あなたのお気持ち、たしかに我が心の深奥(しんおう)に届きました。美しさも豊満さもない、無才な女でも差し支えないのであれば、どうか愛してやってください。わたしも、あなたの愛に精一杯お応えしたいと思います……」


 いずれ心変わりされることがあったとしても、今はこのひとの温もりに身を任せよう。いずれ終わりが訪れる関係だとしても、教義に背く行いだとしも。


「おお、メリザンド!」


 王はすっくと立ち上がり、メリザンドを抱き締めた。


「わたしは今宵のことを決して忘れぬぞ。もちろんお前も、そうなる(・・・・)のだ。我が愛によって……」


 メリザンドの背を優しく撫でる王の手指に、欲望の色が混ざっていく。抱擁の力もますます強まり、もう二度と逃さぬ、と言われているようだった。

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