色褪せない想い
かくして、終幕後。
一人で桟敷に残るメリザンドのもとに、再びオルランディがやってきた。彼のあとに続いて入ってきた女の姿を見て、メリザンドは思わず席を立つ。
「エロイーズ……!」
豊かな黒髪を結い上げた、長身の美女。国立歌劇場が誇る歌姫だ。
彼女とは何度か顔を合わせたことがあるため、決して知らない仲ではないが、まさか終幕直後にここへ来てくれるとは思わなかった。
楽屋に詰めかける後援者たちの相手をせねばならないだろうに、それをすべて断ったのなら、後の埋め合わせが大変だろう。
廊下にいるメリザンドの護衛も、予期せぬ歌姫の来訪に顔を赤らめ、扉の隙間からこちらをうかがっていた。メリザンドと目が合うと、ばつが悪そうに笑って引っ込む。
「お久しゅうございます、バルテ侯爵夫人」
優雅に膝を折るエロイーズから、上品な香りが漂った。まとう香水のブランド名を尋ねたい気持ちを押し殺し、メリザンドは柔らかい笑みを口元に浮かべる。
「ええ、お久しぶりですね。来てくれて嬉しいわ」
ほんとうなら、エロイーズの手を取ってキャッキャとはしゃぎたかった。メリザンドを題材にした歌劇が完成した暁には、この至高の歌姫がメリザンド役を演じることになるのだろうか。そんな夢みたいな話、あっていいものか。
――落ち着くのよメリザンド。エロイーズとは年が離れているから、わたしを演じるのは若い歌い手に違いないわ……。でも、わざわざここに来てくれたってことは……期待してもいいのかしら……。
緩みそうになる頬を必死で引き締めていると、もう一人、長身の男性が入室してきた。ぼさぼさの黒髪、よれよれのシャツ、黒ずんだブーツに、曲がった背。
彼が、オルランディの言っていた『一番弟子』か。なるほど、たしかにみすぼらしい……。みすぼらしいが――。
「こ、これは……これはいったいどういうことですオルランディ……」
メリザンドは震える声で尋ねる。台本作家は、ニヤニヤと笑っていた。歌姫も、笑みをこらえきれない様子。
二人が浮かべる笑みは、まさに『してやったり』といったものだった。たとえるなら、サプライズパーティーを成功させた者たちが浮かべる、満悦の表情。
エロイーズがさっと動き、舞台側のカーテンを閉める。桟敷内が外部から遮断されたその瞬間に、『一番弟子』がしゃっきりと背筋を伸ばし、ゆっくりとかつらを取り去った。
「まさか一目で気付かれるとは。愛の力ですかなぁ」
オルランディの揶揄が耳を素通りする。視線も意識も、もはや『一番弟子』に釘付けだった。
「久しいな、メリザンド」
粗末な格好の男の口から流れる美声。緑色の双眸に宿る優しい光。彫像のように整った顔立ち。かつらの下に押し込められて乱れた銀色の髪。
「リュシアンさま……」
数年ぶりの邂逅に、涙があふれた。
メリザンドに歩み寄ろうとしたリュシアンは、不意に足を止める。
「いちおう尋ねるが、それは嬉し涙で間違いないか?」
図星を突かれたメリザンドはぷいと顔をそむける。
「……憐みの涙です。バルテ侯爵ともあろう御方が、そのように粗末な格好をなさって……おいたわしい……」
素直に嬉しいと言えなかったことを後悔した。リュシアンは、メリザンドに会うためにわざわざ平民の扮装をしてきてくれた。銀の貴公子と呼ばれる男が、薄汚れた衣類を身にまとい、オルランディの弟子のふりまでして。
しかし今は感涙に咽んでいる場合ではない。深呼吸して必死に涙を引っ込めた。この程度の感情のコントロールはすでにお手の物。泣きすぎてまぶたを腫らしてしまえば、周囲から怪しまれる。
この場で『なにか』があったのだと、他の誰にも悟られてはならない。
「ではでは、お二人は前方の席へどうぞ」
オルランディは劇場案内人のように恭しく座席を指し示した。それから、エロイーズと目配せし合う。
「我々は後ろの席に下がって、大声でおしゃべりしていますので」
「……ありがとう、オルランディ」
メリザンドは深々と頭を下げた。廊下に控える護衛に、わずかでもリュシアンとの会話が漏れ聞こえないように配慮してくれるらしい。
――しっかりと『借り』を返さなくてはね。
ここまでしてくれたからには、オルランディの創作に誠意をもって協力せねばならない。メリザンドの人生のすべてを知り、それを最高の劇にする。彼のその願いをなんとしてでも叶えてやりたい。
――では、エロイーズに対する見返りは? 彼女は信頼できるのかしら?
ちらりと歌姫を見やると、メリザンドの不安を見透かしたように語りだす。
「バルテ侯爵夫人には、わたしの後援者になっていただきたいのです。今年の創立記念講演の演目は『立ち枯れ森の女王』なのですが、女王役を新人のジャンヌに奪われそうなのです。もちろん、実力で負けたのなら文句はありません。けれど彼女は何人もの男性を篭絡し、彼らの推薦によって役を得ようとしています。支配人が変わってから、そういう不義がまかり通るようになってしまいました」
「いいでしょう、公式寵姫として、あなたを強く支援します。近々、支配人へも『挨拶』にいきましょう」
「ありがとうございます。このご恩は生涯忘れません」
オルランディとエロイーズは廊下側の席に腰を下ろすやいなや、支配人の悪口大会を始めた。双方、ずいぶんと不満が溜まっているらしい。
メリザンドは、再びリュシアンへ視線を向ける。彼は再会の喜びを顔いっぱいにたたえて、メリザンドを見つめてきていた。少女のころから恋焦がれてきたその美しい顔を眺めていると、熱いものがこみ上げてくる。
――まさか、こんなところで会えるなんて。
これらの『すべて』を差配したのは、間違いなく……。
――プルヴェ夫人ですね。ああ、わたしの最高の友。
メリザンドの与り知らぬところでオルランディに接触し、彼なら信頼できると確信し、協力を仰いでくれたのだろう。エロイーズと新人歌姫との確執もお見通しだったに違いない。
胸の奥がさらに熱くなり、引っ込んでいた涙が再びこぼれそうになる。だが今は、友への感謝よりも夫との再会の喜びに浸りたい。
メリザンドがなにか言う前に、リュシアンがゆっくりと口を開く。
「事情はある程度聞いている。大変だったな、メリザンド」
数年もの間、顔を合わせてさえいなかったというのに、彼の心にあるメリザンドへの想いは決して色褪せていない、そう確信できる声音だった。




