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笑顔の仮面

 夫以外の男と契りを交わした翌日、メリザンドは自室にこもってぼんやりと過ごした。

 心も身体も疲れ果てていた。


 心には、リュシアンによってつけられ、王によって癒された傷跡が残っている。

 身体には、王に刻まれた愛の感触がまざまざと残っている。


 ──いい意味でも悪い意味でも、夢のような一夜だったわ。


 部屋中に飾られた椿の花を愛でながら、そんな風に思う。脳裏には、夫の冷ややかな眼差しと、王の温かい眼差しが交互に浮かんだ。


 ふとした瞬間、花を叩き落したい衝動に駆られることがあったが、辛うじて押し留めた。花に罪はない。


 人の都合で改良され、美しく育てられ、やがて手折(たお)られる花。終いには醜く枯れ果てる。

 それはまさに、メリザンドの生涯そのものを表しているように思われた。


 夕方、女中のエメにいろいろと尋ねると、王は昼頃に、リュシアンはそのしばらくあとに屋敷を出ていったと教えてくれた。


 エメは、『事情』をなにも知らなかったらしく、泣きそうな顔をしていた。決して、『国王陛下に愛されてよかったですね』などとは口にしなかった。

 メリザンドが、純粋な気持ちでリュシアンを待ちわびていたことを知っているから。昨夜、寝支度を整えながら震えていたことを知っているから。


 メリザンドは、心優しい女中を招き寄せ、そっと抱き締めてやった。たった一晩で、この少女よりもずっと大人になってしまったような気がした。


 公式寵姫として王宮へ上がれば、エメとも離れ離れになってしまう。それはとても寂しいな、と思った。

 

***


 翌日、メリザンドのもとにたくさんの贈り物が届いた。

 今までの比ではない。その豪華絢爛(ごうかけんらん)さといったら、姫君の嫁入り道具かと見紛うほど。


 ひときわ荘厳だったのは、ダイヤモンドの首飾り。数え切れないほどの宝石が滝のようにぶら下がり、きらきらと得も言われぬ輝きを放っている。


 一体、どれほどの値打ちがあるのだろうか。一緒に箱を開けた女中たちは、羨望を通り越して恐怖の眼差しを向けていた。


 メリザンドも、試着さえする気になれず、呪いのアイテムでも見てしまったかのような気分になりながら、箱の中に厳重にしまい込んだ。


 自室には、未開封の贈り物がまだまだたくさんあふれている。これを片付けなくては、休むこともままならない。

 とりあえず別室へ運ばせるか、と嘆息したときだった。


「壮観だな。お前に満足してくださった、ということだろう」


 背後から聞こえた低い声に、メリザンドははっと身体を強張らせた。


「……あら、お帰りでしたの」


 振り向かず、努めて平静な声で言う。


「てっきり、所領に戻られたまま、永遠にお帰りになられないのかと思っておりました」


 自分でも驚くほど、嫌味ったらしい言葉が口から飛び出した。贈り物に占拠された室内に、冷え冷えとした空気が満ちて、女中たちが表情を凍り付かせる。


 しかし背後から聞こえる声は、至極淡々としていた。


「しばらくはこちらに留まる。食事は自室で済ませるから、気を使う必要はない」

「……そうですか。それは助かります」


 気を使うなと言うのなら、わざわざ顔を出さず、誰かに言付ければいいものを。メリザンドはあと少しのところで、生まれて初めての『舌打ち』をしてしまうところだった。


 しかもリュシアンは、なかなか立ち去る素振(そぶ)りを見せない。王からの賜り物を共に検分するつもりなのだろうか……。

 怪訝(けげん)に思っていると、夫はゆっくり口を開く。


「先日の晩はご苦労だった。おかげでわたしの面目も立った」


 メリザンドは目を見開き、ぶるりと震えた。

 その(ねぎら)いは、侮辱に等しい。

 妻を他の男に差し出した夫が、妻に対してかけていい言葉ではない。メリザンドの心は氷点下にまで冷えた。


 一体どんな(つら)をして、そんな恥知らずな台詞を吐いたのだろう。俄然(がぜん)それを確かめてやりたくなり、メリザンドはゆっくりと振り返る。


 たった今帰宅したばかり、という風体のリュシアンが、開け放たれた扉にもたれかかっていた。腕組みして立つ姿は、一枚の絵画のよう。


 かつてのメリザンドだったら、その姿を認めた瞬間、かあっと頬を赤らめていただろう。

 けれどもう、なんの感慨も湧きはしない。


 リュシアンも、憎らしくなるほどに無表情だった。怒りも悲しみも、喜びさえも、その秀麗なかんばせの中には見当たらない。


 彼の緑色の双眸(そうぼう)の中に、少しでも慙愧(ざんき)の念がありさえすれば、メリザンドは彼を許していたかもしれない。


 あるいは、『ご苦労だった』ではなく、『すまなかった』と(こうべ)を垂れてくれたなら……。

 出世は殿方の本懐ですものね、妻を道具にするのは当然ですわ、と、寛大に微笑むことができたかもしれない。

 女の仕事だと割り切って、公式寵姫の役割を全うしようと決意を新たにできたかもしれない。


 けれどそんなことは起こらなかった。

 形だけの夫婦の間に流れるのは、冷え切った空気だけ。

 だからメリザンドは、ただ笑う。くちびるの端を優雅に持ち上げ、よそ行きの笑顔の仮面をかぶる。


「リュシアンさまのためではなく、国王陛下のために誠心誠意ご奉仕したまでですわ。あの御方も、本当にわたしに良くしてくださいましたもの。どちらが本来の夫か、わからなくなるほどに」


 愚弄という名の暴力でリュシアンを打ち据えるが、(こた)えた様子はなかった。それどころか……。


「その表情だ」

「え?」

「陰謀渦巻く宮廷内では、むやみに感情をあらわにするな。今しているような、笑顔の仮面をかぶっていろ」


 予期せぬ助言を受け、メリザンドは呆気に取られた。ぱちくりと目をまたたかせたあと、我に返って再び元の笑顔を作る。


「留意いたします。ですがもう、あなたと交わす言葉はございません」


 ぴしゃりと言い放ち、とびきり優雅に一礼する。先ほどの助言はどうせ、捨て猫に餌をやるような気まぐれの優しさから出たものに違いない。そんなものはもういらない。


「もうお立ち去りくださいませ。ここはわたしの部屋です。夫としての務めを果たさぬ者が立ちいって良い道理はありません。

 ああ、あなたさえお望みなら、わたしは今宵、妻としての務めを果たしましょうか。ただし、すべてを国王陛下へご報告申し上げたいと思いますが」

「……交わす言葉はない、と言いながら、饒舌だな」


 それは間違いなく、リュシアンの反撃だった。無感情だった瞳にわずかな激情が宿り、メリザンドを鋭く貫いている。


 メリザンドは(ひる)まなかった。それどころか、心が激しく沸き立つ。あと一息のところで、声を荒らげ、罵詈雑言を吐きつけるところだった。


 けれど笑顔の仮面は外さない。夫からの最初で最後の助言を、守り抜いてやろうじゃないか。

 ならば、彼にかけるべき言葉は……。


「自室でゆるりとお休みください、旦那さま」


 これ以上会話を続けていても、憎しみが募るだけ。

 リュシアンも感情をあらわにすることなく、無言で去っていった。

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