森の中
森に迷ってしまった。
闇の中、獣たちの音が聞こえている。
喰われてしまうんじゃないか…
そう思ったとき、木々の向こうに、
家の灯りが見えた。
こんな所に、人がいるものかと、
初めは半信半疑だったが、
その家が近づくにつれて、
中から、魚を焼いたり、
茄子を煮たりする匂いがしてきて、
安堵した。
なんていい匂いだろう。
まる一日、何も口にして
いない…
思わず、走り出していた。
少し坂になっていたので、
自分でも信じられないぐらい、
足が早く動き、家の前に来た。
これで、喰われずに済む。
「こんばんは…すいません…
開けてもらえませんか‥
すいません…すいません」
その家のドアを叩きながら、
何度も言った。
辺りの暗闇に、
家の灯りが吸い込まれていった。
獣たちは、どう猛な音をならし、
近づいて来ている。
駄目か、もう、これでお終いかと
目を閉じたときだった。
「お入りなさい。どうぞ…」
ギリギリのところで、ドアが開き、
どこか懐かしい気がする、
初老の男が立っていた。
「ありがとうございます。
すっかり、道に迷ってしまって」
頭を下げながら言った。
「それは、お困りでしょう。
今夜は、泊まっていきなさい。
今、食事ができたところだから、
一緒に食べましょう」
初老の男は、
ゆっくりとした口調で言うと、
奥の部屋に入って行った。
壁に吊されたランプが三つ、
部屋を照らしている。
木々の間から見えた灯りは、
このランプだったようだ。
小さなその灯りが、
森の中では、大きな灯りに
見えていた。
自分の命を救ってくれた灯りだと、
深く感謝した。
「待たせたね。
食事の用意が出来た…
こちらへどうぞ」
男が奥の部屋から顔を見せて言った。
ランプの灯りは、
奥の部屋には届いていない。
男について、部屋に入ると、
隅にあるテーブルの上に、
ローソクが灯されていた。
薄暗い部屋にはいると、
また、懐かしい気がした。
テーブルの上には、
四人分の食事が用意されていた。
男が椅子を一つ引き、
ここへどうぞと手招きをしている。
他に誰がいるのだろうか。
辺りを見渡しながら、
手招きされた椅子に座った。
男は何もなかったように、
皿の料理を取り分けていた。
魚や茄子の他にも、ひじきの煮物、
コロッケやハンバーグやサラダ、
好きなものばかりが、
いつの間にか、並んでいる。
「あの… 誰か別の部屋に…」
男に尋ねる。
「ああ、今は私だけです。
いるとしたら、ネズミぐらいですよ。
どうされましたか…食べてください」
男は、向かいの席に座った。
「はい…いだだきます。
こちらの席はどなたの…」
「ああ…それは、並べているだけです。
いつも、そうするんですよ。
テーブルに、椅子の数だけ
皿を並べていると、
誰かが来て、
一緒に食事をしてくれるんです。
姿は見えないけれど、私には
わかるんです。
後で紹介しましょう。
ああ…失礼、あなたの姿は、
見えてますよ。
うん… あなたも、一緒に食事をしに、
来てくれたんですよ。
ありがとうございます」
男は、ローソクの灯りの中で、
笑っていた。
「……そうなんですか。
じゃあ、遠慮なくいだだきます」
男の言うことが、よくわからなかったが、
とにかく、男に頭を下げ、箸を取った。
素晴らしい味がした。
どの料理も、美味しくて、
ほんとうに、懐かしい味だった。
フフフ、フフフフフ……
…ねえ、おじいちゃん、醤油取ってよ…
…好き嫌いせんと、食べなさいよ…
…それより、ビール、ビール…
男しかいないのに、
何人かの声が、聞こえてきた。
どこから聞こえるんだろう。
皆目、わからない。
森の中で道に迷い、入り込んだ家は、
初老の男が、見えない客人とともに、
晩餐をする家のようだ。
男は、嬉しそうに食事をしながら、
空いてる席の方を見て言った。
「今夜は賑やかだな……
ほら、その女の子は、隣の村で、
盗賊に両親を殺されてな…
こっちの夫人は、そのまた隣の村で、
洪水に巻き込まれたらしい。
そちらの旦那は、そんな二人を助けて、
ここに連れてきたんだ。
旦那とは、子供の頃からのつき合いでね。
ねえ…旦那……」
「おう、もうずいぶんになるなあ。
俺が、砲弾で吹っ飛んだ年からだから、
ざっと、百年にはなるだろうよ。
それにしても、今夜はご馳走だな。
新人さんが来てくれたからかい。
兄ちゃん、いっぱいやらないか。
いけるんだろ」
濁声が、話しかけてきた。
夢を見ているのかもしれない。
そう思いたかった。
濁声が、酒を注ごうとして
くれているのか、
男がグラスを持って、宙に向けた。
すると、不思議なことに、
グラスの底から、ビールが
溜まってきた。
泡の天辺が、ちょうどグラスから
落ちそうになるところで、
ぴたりと止まった。
「あなたも、いかがですか。
旦那が注ぎたがってますよ」
「はい……いだだきます」
仕方がなかった。
なんとも、奇妙な夜になってきた。
宙に突き出したグラスには、
男と同じようにビールが溜まり、
その上、グラスからチンと音がした。
グラス同士の小さな乾杯だった。
「さあ……お兄さんもどうぞ、どうぞ」
濁声は、そう言うと、
今度は、いつもお美しいなどと、
夫人らに話かけていた。
注がれたビールを恐る恐る飲んでみた。
少し生ぬるい気がしたが、
それが余計に頭を酔わせた。
その酔いが、自分の記憶のページを
遡らせた。、
そうだ……この森に来たのは、
本を読んでいたからだ。
蔵の中で見つけた、
祖父の蔵書の中にあった、
森の中、という本だ。
それを読んでいるうちに、
えっと……どうしたんだ……
「どうかなさいましたか?」
男が覗き込むように言った。
酔いが、眠りを誘っている。
「ああ……すいません
……
急に、眠くなってしまって」
「そうですか……
では、今夜はこちらにお泊まりに
なってください。
ベッドの用意をして参ります」
男は、ゆっくりと席を立ち、
どこかへ消えていった。
今にも、途切れてしまいそうな
意識の中で、
また、声が聞こえた。
濁声の男だろうか。夫人だろうか。
どちらでもない……
「疲れているようだな。
しばらく、ここで、
過ごしていったらどうだ。
孫が来てくれたと、
ここの主人に頼んでおこう」
「孫……って、お祖父さんなの?」
「そうだ。お前の祖父だ」
幾人か集まっていた中の
一人に祖父がいたのか。
「あの……ここはどこですか?」
顔も知らない、顔も見えない、
祖父の声に聞いた。
「どこって、お前の中に
決まっているじゃないか。
お前という、森の中だよ。
蔵の中で、本を開いたんだろ」
「……はい、開きました。
その後、森にいたんです。
何が起こっているんですか。
お前の中って、どういうこと」
テーブルの料理は、
いつの間にか消えていた。
目にした唯一の男は、
ベッドの用意をすると言って、
姿を消したままだ。
ローソクの灯りが残り少ない。
このままだと……
暗闇に向かっていることを知り、
言い知れぬ不安に包まれた。
「あの……お祖父さん、
ここから出たいんだけど」
祖父の声を呼んだ。
「なんだ……
せっかく来てくれたのに、
もう、幻想に帰るのか」
「なに、 ゲンソー?」
「そう。幻想さ。
お前が帰ろうとする所は、
お前や、他の人々の幻想が、
重なりあっているだけのことだからな。
本の前書きに書いてなかったか。
どこに、ほんとの世界があって、
どこが、幻想の世界か」
「えっ……わかんないよ 。
森の中っていう本を開いて、
線が引かれた字のふりがなを
読んだら、
えっと……変な風が吹いてきたんだ。
それで……気がついたら
森の中だった……」
「そうか……お前は、本のことを
知らずに来たのか。
たまたま、呪文を声にしたようだ」
ローソクの光は、予想通り、
視界を無くしていた。
お祖父さんは、
もう少しここにいたらいいんだと、
何度か、ぶつぶつ言っていたが、
帰りたいよと返すと、
仕方のない奴だと、
紙切れを掴ませてくれていた。
後、何秒かで、消えるだろう
ローソクの光で、
紙切れを照らしてみた。
下我祖理留出芽腕籾御他留
ここから出るための呪文か……
慌てて、読んでみようとしたが、
全くわからない。
火が消え、暗闇になろうとしたとき、
お祖父さんの声がした。
げがそりるでめ~わんもみお~たる~
さあ、言ってみろ。
…げが…そりる…でめ…わんも…みおた…る……
蔵の中に、明かり取りの穴から
光が伸びていた。
ちょうど、目の前の本を照らし、
そこだけが、現実であるかのように
見えた。
なんて、なんて言ったの
げがそりるでめ~わんもみお~たる~
幻想……頭の中で、声がした。
意味がわからないまま、
照らし出され本を手に取ってみる。
重なっていた本は、三冊あった。
表紙の題名は、森の中、
そして、闇の中、人の中……
ページを捲りたくなり、
指先を本に当てた。