シーツ
バーは静かだった。ピアノソロのジャズが店内を虚ろに漂い、他に聞こえる音といえば何かの機械の小さな唸りだけだ。俺はカウンター席で手の中のウイスキーグラスを弄びながら、バーテンがグラスを磨いているようすを眺めていた。
「今夜はやけに静かだな」
「こういう日もあるんだよ。この商売をやってるとね。みんな他所に行っちまったのか、それともそそくさと家に帰って寝ちゃったのか」
「あんまり静かでも落ち着かないもんだな」
バーテンは無言で肩をすくめた。
「何時になった?」
俺はバーテンに尋ねた。彼はちらりと腕時計を見た。
「ちょうど12時半だね」
すると隣で男が言った。
「ということは俺たちは月を跨いじまったのか」
スーツ姿で、吊るされたぼろキレのような奴だ。ずっと気配もなくそこに居たので、存在を忘れかけていた俺は突然発せられた言葉にぎょっとした。男はビールをちびちびとやっていた。俺はそいつに言った。
「そういうことになるな。11月よこんにちは、だ」
「月というのは、いつも気が付かないうちに変わっちまうな」
男はビールをひと口啜った。置かれたグラスのビールはまったく減っていないように見えた。ビールをそんな風にしみったれた飲み方をする奴は初めてだ。
「こんな場所にいると余計そう感じるかもな。まるで列車に乗って旅をしているようなもんだ。気が付いたら県から違う県へと移動している」
男はその言葉を反芻しているようだった。そして口を開いた。
「でもよ、列車に乗っていても新しい県に入ったのは実感できるもんじゃないか? 県境には大抵川だったり山があって、列車が橋やトンネルを通り過ぎると何となく今までとは違う場所に来たんだと分かるもんだ」
「それはそうかもしれないな」俺は列車に乗って窓の外を流れる景色を眺めている自分を想像をした。
男は言葉を続けた。
「俺はこう考えるな。月を跨ぐというのはホテルのシーツみたいなもんだ。知らないうちにベッドメークがやってきて、古いしわくちゃのシーツを剥ぎ取るとまっさらなぱりっとしたやつに取り替える。おかげで俺は気持ちよく眠れるって寸法だ」
「面白いたとえだな。もしかしたらそうなのかもしれないが」俺はウイスキーを舐めた。小さくなった氷が澄んだ高い音を鳴らす。「必ずしも綺麗なシーツが用意されてるとは限らないぜ」
「それもそうだ」男はにやりと笑った。口元だけを歪ませる笑いだった。「それじゃあ帰るとするか。ごちそうさん」
男は立ち上がると、よろよろとした足取りで店を出て行った。俺はその後姿が消えるまで眺めていた。
バーはまた静かになった。俺はバーテンに言った。
「今の奴、よく来るのか? 見かけない顔だったが」
するとバーテンはグラスを磨く手を止めて、きょとんとした顔で言った。
「え? 誰のことだい?」
「誰って、俺と話してた男だよ。たった今店を出て行っただろう」
「どうしたんだよ、もう酔っぱらっちまったのか? あんたらしくもない。ずっと店の中には俺とあんたしかいなかったぜ。ほれ見てみろよ」
バーテンは右手を振って店の中を指し示した。俺はスツールと一緒に体を回して店内を眺めた。誰もいない。男が座っていた隣の席を見てみたが、カウンターの上にはグラスどころか雫すらなく、気配は消え失せていた。
「どうやら酔っぱらって夢でも見ていたらしい」
「そういうときもあるさ」
「ところで何時になった?」
バーテンは腕時計を見た。
「ちょうど12時半になったところだね」
「そうか……」
俺は店を出てアパートの部屋に帰った。ベッドは朝起きたままのぐちゃぐちゃだった。俺は服を脱ぐとそのまま布団に潜り込んで寝てしまった。
どこかで何かの機械が小さな唸りをあげていた。