彼氏いない歴20年 ─3─
ガタンと身体に振動が伝わり、ハッと目が覚めた。
「……なんか嫌な夢見てもうたな」
電車の揺られているうちに、眠ってしまったらしい。中途半端な時間のせいか、乗客はまばら。乗り過ごしてやしないかと窓の外を見ると、見慣れた景色が広がっていた。速度を緩め、停まる準備をする電車に急かされるように立ち上がる。
「おっと、これ忘れたらアカンわ」
タイムカプセルから掘り起こしたガラクタ。捨ててしまいたいくらいだが、手紙や恥ずかしいマグカップまであるのでそうはいかない。
よいしょ、と気合いを入れてクソ重い紙袋を手に持ち、ヨチヨチと歩きにくい着物の裾を捌く。ドアの前に立つと、ちょうど電車が停まった。
途中、ポツリポツリと降り出した雨に、大事な振り袖を濡らしてはいけない、と慌てて買ったビニール傘。今はすっかりやんで、邪魔なお荷物でしかない。
捨ててしまっても良かったのだが、貧乏性も手伝って、どうにも捨てるに捨てられなかった。
「物は大事にしやなな」
誰に言うでもなく呟くと、閑散としたホームを抜けて階段に足を掛ける。
自宅は駅から徒歩3分。もう少しで家に着くという安堵感から、アタシは油断していた。というより、全く頭になかった。慣れない着物姿だと言う事も、雨が降って階段が濡れ、滑りやすくなっているという事も。
一歩、また一歩。確実に階段を捉えていた足が突如、空を切った。
───落ちる!
時間にすれば数秒……いや、本当に一瞬だった。それでもアタシには、まるでストップモーションのように一瞬一瞬がゆっくりに感じられた。
手にしていた傘が自分より先に落ちる。その後に、重い紙袋が地面にぶつかる派手な音。そして───
痛みが全身を駆け巡る……はずだった。
「…痛……」
くない?
とっさにギュッと固く目を瞑っていたアタシは、目には見えなかったものの、確かに階段を転がり落ちた……はずだ。それなのに、身体に感じる痛みはなく、コンクリートの冷たい感触すら感じなかった。
───どうなってんの……?
パニック状態の頭の中で、ようやく目を瞑ったままなのに気付く。重なり合っていた瞼をゆっくりと引き離してみると……
「……え?」
アタシは立っていた。
手には傘と紙袋。そして今アタシが立っている場所は、確かにさっき落ちたはずの場所。正確には、落ちる前にそこまで登った階段の途中だった。
狐につままれたかのようにボーゼンと立ち尽くすアタシ。一体どれくらいそうしていたのか……
我に返ったのは、仕事帰りであろうスーツ姿のサラリーマンが横を通り過ぎて行ったから。どうやら次の電車が到着したらしい。通りすがりにジロジロと自分を見ていく30代らしき男性。
そうか、まだ振り袖着たまんまやったな。腑に落ちないまま、残りの階段を昇ろうと足をあげかけると。
「重そうやな。持ったろか?」
若い男性の声が聞こえたが、まさか自分に向かってかけられている言葉だなんて思うはずもなく。今度こそ慎重に、ゆっくりと階段に足をかけた。
ようやく登り終えた時には、うっすらと汗ばんでいた。ここまで緊張しながら階段を上がる人間もなかなかいないだろう。
ふぅっと溜め息をつき、重い紙袋を持ち直そうとした途端。横から手が伸びてきて、ひょいっと荷物を奪った。
「……え?」
それが恥ずかしい物の詰め合わせだとかそんな事よりも、アタシの頭の中を一杯に埋め尽くした相手の顔。
高校を卒業してからは一度も見なかったヤンチャそうな瞳は当時のままで、少し大人っぽくなった表情から目が離せないでいた。
それは初恋の君───峰岸だった。