After school of the world
その日をさかいにマスターの身体は日を増すごとに衰退していった。一日のほとんど椅子に座り窓の外をみていたのは最小限のエネルギーで生活するためであった。
ベットから立ち上がって窓辺にある椅子まで歩行を試みるマスターを手助けしようと思ったが心配ないと断られてしまった。私は看病らしいことは何もできなかった。マスターは熱を出すわけでもなく痛みを訴えるわけでもなかった。
「進化した科学に縋った罰だな」
マスターの身体はたび重なる無理な不老手術で細胞組織が破壊されてしまったという。そういうケースは珍しくなくそのために痛みを伴わず静かに死を迎えるのだと言った。生身の人間の体では完璧な不死には慣れないのだろう。マスターが動かなくていいようにマスターのそばで食事をした。マスターがリビングの長椅子に座っていればその隣で食事の盆を持ち腰掛ける。マスターが窓辺の一人用の椅子に座っていれば床に座りパンをかじった
「君は人間になりたいかい」
食事の途中でマスターが不意に質問した。
「風の音、太陽の匂いを感じると人間だったらいいのにと思います」
私は何も生み出すことはできない。会話の中で詩のような表現や嘘はつけても人間のようになにかを創造することはできない。
「そうか」
マスターは立ち上がりゆっくりと台所まで歩くと食器棚から一枚の写真を取り出した。
「この写真を見たことがあるね」
私は、はいと頷いた。
「その写真に写る女性は誰ですか」
「私に生きる意味を教えてくれた人だよ」
マスターは彼女の話をした。彼女と一緒に車で廃墟の中を走り回ったこと、廃墟の町から使えそうなものを探し歩いたこと、乗り回した車は燃料がなくなり庭に放置したままになっていること。
マスターが写真の彼女を深く愛していることがわかった。だから彼女が眠る墓の隣に埋葬されることを望んだ。そのために私を作った。マスターが愛した彼女の複製を、人間の死を看取るために。
床に座って食事をしていた私のそばにかじりかけのパンが落ちてきた。マスターが落としたものだった。パンを持っていた右手は小刻みに震えて左手で抑えようとしたが止まらなかった。
「死について理解できたかい」
「わかりません。死とはどんなものですか」
「怖いものだよ。そして悲しいものだ」
私は落ちたパンを盆に載せた。衛生的に良くないので食べることを拒んだ。私もいずれ死ぬことを知っていた。しかし死ぬことを恐怖と感じなかった。私は死について何か大切なことが抜け落ちていた。それを学ばなければならない。
私は外を見た。庭に光が溢れ傾いたポストに影を作った。錆びついた車の隣には野菜の畑がある。畑の周りを小さな蝶が舞う。緑色の葉の陰に茶色の毛玉が隠れているのが見えた。私は立ち上がり裸足のまま外に出た。私の姿を目視したタヌキは一目散に走った。この鬼ごっこはいつの間にか私たちの日常になっていた。
マスターの体は痙攣を起こしてものをよく落とすようになった。今朝も手に持ったコーヒーカップを落として割ってしまった。私は少しでも体にいいものを食べさせてあげたいと思い山菜を採りに外に出た。食料庫にある加工食品より自然の食材のほうが良いはずだ。
森の中をしばらく歩くと崖があった。危険なので近寄らないようにとマスターには言われていたが崖のそばには山菜が多く生えていた。
私は首の上だけを突き出して崖下を覗いた。崖下には川があり、そのずっと手前の崖の上から三メートルほど下に岩壁の出っ張った箇所があった。テーブルひとつほどのスペースがあり草や小さな松もはいていた。そこに茶色の毛玉を見つけた。足場が崩れて崖から落ちたが途中で引っかかり助かったようだ。どうやら足を怪我したらしく自力では登れそうにない。山菜の入った籠を地面においた。遠くで雷の音がした。雲はより一層暗くなり小雨を降らせた。僅かな窪みに足をかけ崖を降りた。足が岩棚の上に着くとタヌキはぶるぶると震え私の腕に潜り込んだ。これまでタヌキには散々困らされてきたが怪我をした好敵手を見過ごせなかった。手の中に僅かな温かみを感じた。どくどくと鼓動が聞こえて私は優しく大丈夫とつぶやいた。頭上で雷の重い音が聞こえて本格的に雨が降り出した。雨が地面を叩いてまるで壊れたピアノような音を鳴らした。その時だった。地面が音を立てて滑り出した。足場が崩れ私は必死に岩棚に生えた松の木に掴まるも堪えきれず真っ逆さまに落下した。先ほどまで私のいた山菜入りの籠をおいた崖の上が一瞬で小さくなり、私はとっさにタヌキを強く抱きしめた。地面に叩きつけられた私は致命傷は負わなかったものの体のいたるところにヒビが入り体内のものが溢れでていた。どうやら崖下に流れる川のそばに落下したらしい。右腕は完全に動かなくなっていたがなんとか家まで戻れそうだった。腕の中に抱いたタヌキはぐったりとして冷たくなっていった。赤い液体がぽたぽたと流れ落ち雨がすぐに中和した。私はできる限り急いで家を目指した。体内のものが飛び出して点々と地面に転がっても構わなかった。腕の中でどんどん冷たくなる。私は無我夢中で動かない足を動かした。雨はさらに強く私たちを打ちつけた。
家に入りマスターを探した。私にまとわりついた水滴が床に広がる。マスターはいつもの窓辺にある椅子に腰掛けていた。私の姿を見ると驚いた様子で立ち上がった。
「この子を早く治してください」
私はこの事態を冷静に説明した。
「早く地下室へ行こう」
私は首を振った。
「この子は治せますか」
腕の中のタヌキを差し出すとマスターは無理だと言った。もう息をしていなかった。
私は元気に畑を走り回って憎たらしく尻尾をふっていたタヌキの姿を思い出した。そして今目の前に茶色の毛皮を赤く染めて糸のように目を閉じて動かなくなったタヌキを見た。マスターが慌ただしく地下室へ行く準備している
「マスター…私は」
言葉が途切れてしまうほど胸の奥にある動力炉が痛かった。私は人間ではないから痛みを感じないはずだ。力が抜けて膝をついた。これが痛みというものだと私は思った。
「私は…」
私の頬を涙がながれた。そんな機能が付いていることを知らなかった。
「もうしゃべらなくていい」
マスターは私を抱きしめて言った。
「私はこの子のことが好きだったんです」
マスターは悲しそうに私の目から溢れ出す涙をふいた。
「それが死というものだよ」
私は学んだ。死とは強い喪失感そして張り裂けそうな不安感だった。




