After school of the world
マスターとの生活がはじまった。この家には水道が通っておらず近くの川に水を汲みに行かなければならない。わたしは川までの最短距離を歩くようにしている。そのため地面に咲いている花を踏まなければならなかった。
今朝は珍しくマスターも同行した。
わたしがいつもの道を進もうとするとマスターはわたしの手をひき散歩道を行こうと誘った。森を突っ切ればすぐにたどり着くのにわざわざ時間がかかる道を歩くことにわたしは理解できなかった。枯れ葉ごしに森の道をたどっていけばマスターは歩いては立ち止まりを繰り返した。木漏れ日を浴びて背伸びしたり耳を澄まして鳥のさえずりを聞いたりしていた。ふだんなら一時間かからない水汲みが倍以上かかって川に到着した。水の音が涼しそうと石が透ける水に右手を浸せば虹のように魚の影が見えた。
「あの魚はなんですか」
「あれはニジマスだ」
渓流をニジマスは身をもの身体でさかのぼっていた。
「綺麗ですね」
マスターがなぜと問うのでわたしは剥がれかけた鱗が太陽光線を反射させ水面に屈折するからだと説明した。身を削ってまで泳ぐ必要があるのか、子孫を残すためであれボロボロに痩せこけてまで泳ぐことに疑問を抱いた。
「そうだな。でもそれが彼らの習性であり生き方なんだよ。川の流れに逆らい身を削って抵抗するからこそ命は輝くんだよ」
私は黙って頷いた。マスターは私の頭をなでて私をそっと抱きしめた。私は無意識のうちにマスターに腕をまわした。
家までの帰り道私はマスターと目を合わせることができなかった。私の中に組み込まれたプログラムがその原因をさがし処理しようとしているが結論は出なかった。どうして?マスター、私はあなたのことをもっと知りたい。
庭の畑にあるいろんな野菜は私が作られるずっと前からあった。マスターが栽培していたのだろうか。その管理を今は私が引き継いでいる。最近森からイタズラ狸や兎が畑に現れては庭の野菜を狙って食い荒らしていた。
今日こそはと私は草むらに潜めて見張った。茶色の毛玉がすぐ目の前を通ったので私は勢いよく飛び出した。捕まえようと腕を伸ばしたがその身軽さで私の腕をするりとかわし尻尾を振りながら一目散に駆け出した。追いかけようとしたが成人女性の身体能力しかプログラムされてない私にはとうてい捕まえることができず、途中で足がもつれて転んでしまった。いつものように窓から外を眺めていたマスターは泥だらけになった私を見るとクスクスと笑った。
「きみもようやく人間らしくなってきたな。」
白衣についた泥を手で落として私はカゴいっぱいに野菜を入れると小走りで台所へ向かった。家に入ってマスターと目があった、マスターはまだ笑っていた。私は自分の体温が無意識に上がっていることに気がついた。むずむずとした気持ちは私の頬を真っ赤に染めた。これが恥じらいという感情なのだろう。心など持ち合わせていないはずなのに胸の奥がくすぐったい。
二人で昼食をとっているとマスターはテーブルの表面を二回ほどたたいて私の注意を引いた。スープを口に運んでいた私が視線を上げるとマスターがフォークでサラダの野菜を突き刺して見せた。狸の引っ搔きあとや兎の歯型がいたるところにある葉だった。
「僕のサラダやスープに入っている野菜は歯型ばかりなのにどうしてきみのは綺麗な野菜だけなんだい」
マスターはニヤニヤしながら言った。
「偶然です」
私は歯型がない綺麗な野菜を口に運んだ。
自分の部屋に戻ると私は今日の出来事を日記に書き込んだ。マスターからプレゼントされたのはのなにも書かれていない一冊の厚い本とペンだった。文字すら読み書きできない私にマスターは丁寧に教えてくれた。今ではある程度の言語を理解できるようになった。本半分が埋まり文章も簡潔になってきた。
日が落ちた。辺りが暗くなり始めて庭に設置された照明が点灯した。白い光が庭のそこらかしこを照らし出すとマスターが貯水槽のそばで歯を磨いていた。私は急いでマスターのもとに向かった。二人で歯を磨いていると光に導かれた蛾の影がちらちらと地面を横切った。
その後はそれぞれが就寝するまでの時間、家のリビングにあるレコードで静かな音楽を聴いた。お互いに眠るのは夜遅くなってからだ。静かに時間が流れる中で私達はオセロを楽しんだ。勝敗は五分と五分で、圧勝もしなければ惨敗もしなかった。私は特別賢くもなく通常の人間と同じだけの機能しかプログラムされてないのだ。
夜の風が家に入ると台所の窓に下がっている金属製の飾りが揺れて音を鳴らす。澄んだ綺麗な音だ
「あの音は、風が作り出した音楽なのですね。好きです。私はあの音。」
マスターが白のコマを黒で挟んで裏返しにしている時私はそう言った。マスターは私の言葉を聞いてふふっと笑い頷いた。
私はハッとした。最初にこの家に来たときには私はあの音を聞いて不規則な高い音としか感じなかった。それがいつのまにそれだけでないことに気づいたのだ。マスターと暮らし始めてもうひと月以上になる。その間私の心は私の知らないうちに変化していた。
その夜マスターが眠りについた後私は一人外に出た。白い照明が夜の暗闇を照らす。白い光が私の前に降り注いで私は自分の変化について考えていた。
いつの間にか私は水汲みのために川まで歩くとき最短距離を歩かなくなった。生えている草や花に気をつけながら散歩道をゆっくり歩いた。以前なら時間とエネルギーの無駄だと思っていた。しかしいまでは周囲を眺めながら歩くことに趣を感じていた。
地下からはじめて外に出たとき太陽は体温をあげ視界を明るくするためだけのものとしか理解できなかった。しかしいまの太陽は私にとって音楽や詩の世界でしか表現することができない深い意味を持っていた。
この世界が愛おしい。
壁の隙間から覗く植物の生えた家や丘に広がる草原、そこにある地下への入り口、どこまでも続くあの空、そこに浮かぶ雲、マスターが苦手で私が好きな苦いコーヒー、たくさんの砂糖を入れて飲むマスターを可愛く思いながら冷まさずに熱いまま舌の上にころがすと口の中にスッキリした苦味が私の心を落ち着かせた。
食事を作り、掃除をする。洗濯をして干して風が運ぶ爽やかな香りを肌に感じて目を閉じる。
私は夜空に手を伸ばした。月に手が届きそうな気がしたからだ。風が木を揺らし葉がざわめいた。この世界が何もかも好きだ。そのことを教えてくれたマスターが大好きだった。
木々の間に見える町の廃墟を見た。明かりはなく暗闇が町を支配していた。