夢夢、夢みるなかれ
世界は幸福である。
大通りではネオンが輝き、色とりどりの車が路面を行きかう。
街を歩く人々は皆着飾り、一様に笑顔が張り付いている。
恰幅の良い紳士に尋ねれば、「ここはユートピアさ。」と持ち前の笑顔で答える。
赤いドレスの美女に尋ねれば、「ここはアルカディアです。」と扇子で口元を隠し答える。
はしゃぐ子供に尋ねれば、「ここは至って普通の場所だよ。」とつややかな唇で答える。
そんな、理想郷である。
幸福な世界の裏路地に一歩踏み入れば、そこは腐臭と異臭が溜まる世界である。
通称は幸福な世界の「代償」と言う。
狭い路地では裸電球が小さく灯り、色とりどりの残骸が路面を埋め尽くす。
路地を歩く人々は皆辛うじて服を身に着け、一様に目の下に隈を作っている。
腹だけが出ている男に尋ねれば、「ここはユートピアさ。」と卑屈に笑い答える。
赤い血だらけの女に尋ねれば、「ここはアルカディアです。」と鉈で口元隠し答える。
はしゃぐ子供に尋ねれば、「ここは至って普通の場所だよ。」とカサカサな唇で答える。
そんな、理想郷の「代償」である。
世界とその代償の丁度境界線上の側溝を歩くと、黄金でできたバラック小屋にたどり着いた。
何の躊躇も無く金メッキのドアを引くと、そこでは一人の髭を蓄えた老人がパイプを持ちこちらを見ていた。
大通りと路地の境に住む、良く見知った初見の何も知り何も知らぬ賢者に一つ尋ねた。
「この世界は、どちらが幸福な世界なのだろう。」かと。
賢者はひとしきり唸った後、口を開いた。
「経済や物の豊かさを求める者には、路地裏は地獄であろう。何もないからな。
だが、自由や己を知る者に大通りは地獄となる。あれを見なさい。」
賢者が指を指した先では、見るからに好青年が片手一杯の錠剤を泥水色の液体で胃に流し込んでいた。
「幸福な世界には代償が必要だ。そのことを忘れるために、彼らは皆ああして薬に頼る。」
続いて賢者が別の場所を指さした。
そこではプラカードを抱え声を挙げた集団が居た。
しかし、目を向けた数秒後には、後ろからやって来た戦車に次々と潰され、消えて行った。
「幸福な世界では、幸福に疑問を持つと潰されるのだよ。おかげで、好きなことも言えないのさ。」
賢者が腕を組みこちらを向いた。
その眼は真っ直ぐとこちらを見据えていた。
「キミに問う。この世界はどちらが幸福なのだろうか。」
不意な質問に、言葉共に意識まで失った。
目覚ましの音で目が覚めると、耳障りな音がリビングから響いていた。
タイマーのせいか、テレビが勝手についたようであった。
液晶の向こう側では、でっぷりと肥えた芸能人がビーチサンダルのような肉を口に運んでいた。
チャンネルを回したが、皆似たような番組だけが次々に目に飛び込んでくるだけで、一周で電源を落とした。
音のない部屋で、外の喧騒が少しだけ聞こえてきた。
ふと、夢の賢人の言葉を思い出す。
あの世界はどちらが幸福だったのだろうか。
そんなことを思いながら、コーヒーで持病の処方薬を喉に流し込む。
コップを置いて台所の小窓を開けると、ざあとビル風が吹き込んできた。
遥か遠くでは天を衝くビルが巨人の様に鎮座し、その体と同じ色の鈍色の空から人々をただ黙って見下ろしているだけだった。