浪漫艶話#番外編『若さまと犬』
キングサイズのベッドを前にして、和泉は固まった。
「なに? ダブル……?」
斜め後ろに突っ立っている栄木を振り返る。
「申し訳ありません、若。どの部屋も満室で、この部屋しか用意出来ないという話でして……」
和泉はちらりと窓の外を見やって、ため息を吐いた。
窓に打ち付ける雨音は激しく、晴れていれば一望のもとに見渡せる筈の空港は、白い靄の彼方に消えている。
台風の影響で乗る筈の便が欠航になり、急遽宿を取る事になったのだが、生憎の天候で足止めを喰ったのは和泉達ばかりではなく、どのホテルも満室に近い状態だった。
「……まぁ、しょうがないか」
和泉はくしゃくしゃと頭をかき回した。癖のない黒髪がさらさらと揺れる。
ベッドの隣には、ホテル側が用意した大きめのソファが、そう広くない部屋に不釣り合いな程、窓際を占領している。
予備のベッドも足りないと言うので、苦肉の策で用意されたソファは、確かに中肉中背の人間なら、充分ベッドの代わりになりそうな代物だった。
しかし、和泉も栄木も、長身の部類に入るため、足を伸ばして寝るのは不可能に思われる。
「俺がソファで寝るから、栄木ベッド使っていいぜ」
和泉はさっさと自分の荷物をソファに置いた。
慌てたのは栄木である。
「何を言うんです。私はソファで構いませんから、若がベッドで寝て下さい!」
「お前の方が背が高いじゃねぇか。ソファじゃキツイだろ?」
「そういう訳にはいきませんよ」栄木は深くため息を吐いた。
確かに栄木の方が上背はあるし、歳も上だが、立場としては和泉の方が上司にあたる。
何しろ彼は和泉家の跡取りで、グループ会社会長の御曹司なのだ。そして、栄木は和泉の身辺警護も兼ねて、会長直々に雇われた秘書である。立場上、ここは栄木も譲る訳にはいかない。
いや、それよりも、和泉をソファなんかで寝かせては、栄木の気が休まらない。
「大事な若を、そんな処で寝かせては、会長に申し訳が立ちません。風邪でもひかれたら困りますからね、ベッドを使って下さい」
栄木は、さっと和泉の鞄を持ち上げ、ベッドの脇へ置き直した。
「なんでここで親父が出て来るんだよ。関係ないだろ」
和泉は不満げに唇を尖らせる。拗ねた子供のような仕草も、彼がやると思いの外官能的で、栄木は内心ドキリとした。
しかし、そんな事はお構い無しに、和泉は怒ったように、まくし立てた。
「栄木の方が足は長いし、体の幅だって俺よりあるんだから、俺がソファ使って、お前がベッドで寝る方がよっぽど合理的だろ!」
会長の息子だからと、特別に扱われる事が嫌なのだ。しかし、栄木にとって和泉が特別なのは、何もそれだけが理由ではない。
「だから、そういう訳にはいきませんって、言ってるでしょう!」
栄木は和泉の肩を掴み、強引にベッドの上に座らせた。
大体、この状況に一番困惑しているのは栄木なのだ。あまりに誘惑が多すぎる。
だが、そんな栄木の煩悶を知ってか知らずか、和泉は更にとんでもない事を口にする。
「だったら二人で寝るか? キングサイズだし、二人並んで寝ても問題ないだろ。俺はまあ、細い方だし、寝相も悪くないから安心して……痛いぞ、栄木?」
いつの間にか、和泉の肩を掴んだままの栄木の手に力が込もっていたらしい。
和泉が形の良い眉をしかめる。怒っているというよりは、怪訝な様子だ。
問題大ありだ!
栄木は心の中で、目一杯叫んだ。
どこまでこの人は、人の理性を試すつもりなのだ……?
和泉に全くその気が無いと知りながら、栄木はついそんな事を思ってしまう。
「あんまり聞き分けの無い事を言うと………」
栄木は一思いに和泉をベッドに押し倒した。
和泉の喉が、ひっと鳴る。
「襲いますよ?」
冗談とも思えない栄木の声音に、和泉は目を見開いた。その瞳に怯えの色が見て取れる。
栄木は胸の奥がズキリと痛んだ。
力を弛め、上体を起こそうとした時、和泉は栄木の脇腹を思い切り蹴っ飛ばした。
「ふざけんな!!」
うっ、と呻いてよろける栄木の顔に、更に枕を叩き付ける。
「あーもう、お前なんか知らねぇ! ソファでも床でも勝手に寝ろっ!!」
怒り心頭に発したように、顔を真っ赤にして、和泉はそう言い捨てると、シャワールームへと消える。
後には自嘲気味に苦笑う、栄木のため息だけが残された。
ガシャン、という音がして、栄木は目を覚ました。そこへ飛んで来た置時計を、咄嗟に片手で掴む。
時刻は夜中の3時を少し回ったくらいか。
「や……っ、あ……っ!」
ベッドの中で、掠れたような声を上げ、和泉が天に向かって手を伸ばしているのが見えた。
またか。
また、あの夢が、彼の忌まわしい過去が、彼を苛んでいる。
栄木はソファから起き出し、助けを求めてさ迷う和泉の手を握った。
「若、若! 起きて下さい!」
無意識の状態で発現している和泉の〝力〟が、時計を飛ばし、クリスタルの灰皿を壊していた。電気スタンドもガタガタと揺れている。
「若!!」
強く揺さぶると、和泉は、はっと目を開けた。
「さかき……?」
「はい」
握った手が小刻みに震えている。栄木はその手を両手で包んだ。時計がソファの上にひとりでにゴロリと落ちる。
「またあの夢ですか」
和泉は八歳から十歳まで、行方不明になっていた経緯がある。その間何があったのか、和泉は十歳までの記憶が無い。発見されるきっかけとなった事件の時の、最も悲惨な記憶が、和泉にとっての『最初の記憶』となっている。
恐怖心と共に、その事だけを和泉は鮮明に覚えていた。それ以前にあったであろう、幸せな思い出を全て忘れて。
「すみません。私があんな事を言ったばかりに……」
恐らく、和泉がそんな夢を見たのは、先の栄木の行動にある。
同性に言い寄られたり、迫られるような事があると、決まって彼は悪夢にうなされた。それは、その手の性癖の男達に暴行を受けた、和泉の過去の再現に他ならない。
「栄木のせいじゃない」
掠れた声で呟く彼が尚更痛々しい。
「栄木……」
栄木が何か言う前に、和泉が小さく呼び掛ける。はい、と栄木は顔を近付けた。
「しばらく……こうしててくれるか……?」
「はい。傍にいますから、安心して眠ってください」
優しく囁く栄木の声に、和泉は頷き返して、瞼を閉じた。
彼の寝顔に安らぎが戻るまで、じっと見つめていた栄木は、やがて握るその手にそっと唇をよせた。
「おやすみなさい」
「……き、栄木、おい、栄木!!」
強く肩を揺すり起こされて、栄木は漸く目を覚ました。
目の前にパジャマを着たまま、ベッドの上に座った和泉の姿に、今一つ状況が理解出来ない。
「お前、結局あのまま寝ちまったのか?」
呆れたような和泉の言葉に、漸く自分の足が、感覚を失うほど痺れているのに気付く。どうやらベッドの脇に跪いた格好で、そのまま眠ってしまったらしい。
「何やってんだ。まったく……」
床に座ったまま足を伸ばそうとすると、ビリビリとした痺れが走った。膝から下が思うように動かない。和泉はベッドから降りると、床に膝をついて、栄木の足を抱えた。足先の痺れが全身に回るようで、栄木は低く呻きを漏らす。
「っ……!? 若、構わないでいいですから」
「いいから、じっとしてろ。俺だって少しはこういうこと出来るんだよ」
和泉が手を翳すと、そこだけ空気が陽炎のように揺らめいた。忽ちの内に栄木の足から痛みが退き、感覚を取り戻す。
「ありがとうございます。……若?」
急いで足を戻したい栄木だったが、なぜだか和泉はそのまま栄木の足を擦っている。
早く離してほしい。
鼓動が耳に痛いほど、激しく脈打っている。和泉に聞こえてしまうのではと不安になる。
赤くなっていると自覚出来るくらい、耳が熱い。
「ごめんな……栄木。俺……お前に甘えてばっかりでさ」
どこか頼り無げに俯く和泉に、栄木は胸の奥が疼く。抱きしめてしまいたい衝動に駆られて、慌てて視線を逸らした。
「いいんですよ、そんなのは。私に出来る事でしたら、いつでもお役に立ちますよ」
和泉が、すがるような視線を栄木に向ける。栄木は優しく微笑んでみせた。
「生涯あなたに仕えると決めたのは、私自身なんですから」
和泉の、猛禽類を思わせる鋭い瞳が、丸く見開かれ、薄い唇が半開きになった。
気のせいか、頬が僅かに赤いように見える。
「そんなに驚く事はないでしょう?」
栄木が苦笑混じりに言うと、和泉は呆れたような顔になった。
「……だって、お前……なんだかプロポーズみたいな台詞だったぞ? ――そういう事は、好きな相手に言えよなぁ」
……言ってますけど。
しかし、肝心なその一言が言える筈もなく、栄木は和泉が触れた足首を、そっと擦った。
「なんだ、まだ痺れてるのか?」
また栄木の足を診ようと身を乗り出す和泉に、栄木は慌てて足を引っ込めた。
「いえっ! 痺れてませんっ!!」
痺れているのは、もっと、胸の奥の方なのだと、心密かに思う栄木なのだった。