月の宮へ
明人に、別に人の世に未練なんかなかった。
友達だってそんな深い繋がりじゃあなかったし、バイト三昧だった明人は、友達と遊び回ることもなく、自然深い繋がりも出来なかったのだ。
しかし、いざ携帯を解約するとなると、迷っている自分がいた。それは本当に人の世との隔絶を意味する。これまでも生き方を、全てリセットしろと言われているようなものなのだ。
「おい、行くぞ。早くしろ。」
父が声を掛け来る。明人はそっとアドレスだけSDカードに保存すると、お守りのように小さな袋に入れて、自分の持ち物の中へ入れた。そこでは服も着物になるのだという。慣れるまで家の中では洋服を着ることを許されているらしいが、父ははなから着物で過ごすと宣言していた。それで、洋服のほとんどは古着屋に売られたり廃品回収に出されたりして、荷物は本当に身軽だった。
家にある家具もリサイクルショップへ持って行ったり、譲りますのコーナーに掲載したりで、今の部屋の中は、がらんとしていた。既に電燈すらなかった。母が、明人の部屋へ入って来た。
「これで最後よ。」
母は、カーテンを外し始めた。明人は立ち上がって、父について携帯ショップへ解約に向かった。
全てをすっきりして、現金は少しは持って行っておいた方が良いと聞いていたので…なんでも、人の世に出掛けるなら出掛けてもいいらしい…貯金も全て降ろして、現金で持っていた。
父と母は飛べるので、宙に浮き、自分は飛べないので父と母に手を持たれ、リュックを背負った姿で、18年暮らしたその部屋に別れを告げた。
人には、神の姿は見えないのだという。自分は今まで、父の力で姿を皆に見せていたのだそうだ。今、ここに浮かんでいる様は、誰にも見えないのだ。明人は、なぜかとても寂しかった。自分は人ではなかったのだ。龍族の神だったのだ。そんなこと、夢物語だと思っていたのに、今は若い父と母を見ていると、現実なのだと思い知らされる。
父と母も、まるで懐かしむようにその町の上をゆっくりと飛ぶと、二人で顔を見合わせ、思い切ったように、一気にスピードを上げて、北にあるという月の宮へと向かって行った。
明人には、変わらぬ山の景色に見えたが、父の表情が固くなった。
「…結界に入ったな。」
母に向かって言う。母は頷いた。すると、一分もしない間に、青銀の甲冑を着た三人が飛んでやって来た。
「信明殿」
父は、懐かしそうに叫んだ。
「李関殿!なんと、ここに駐屯しているのか。」
相手は微笑んで頷いた。
「駐屯というか、我はもうここに属しておるのよ。龍の王がそのように申したので、我もそれを望んだのだ。主が帰って来ると言うので、我が迎えに出ると申した。さあ、息子殿は輿へ」と残りの二人が明人を御神輿のようなものに乗せた。「月の宮の王がお待ちだ。」
信明は陽花に頷きかけて、それに従って下へと降りて行った。
木々の向こう、岩場の中、明人は思わず頭を抱えた。目の前の岩の壁に当たるかと思ったのだ。
しかし、そこはすり抜け、出た先は明るく光る、大きな月の宮を望む空間であった。
月の宮は斜めになった岩場に建てられており、奥に二つの対、その前に大きな本宮、そしてその前にいくつかの小さな対が立ち並び、一番手前には、ぐるりと回りを囲むように、半円の形の壁のような建物があった。一見して、その壁のような建物はダムのようだと明人は思った。
その真ん中にある入り口を抜け、一向は月の宮へと入って行った。
少し上まで登って来た所で、後ろを振り返って李関が言った。
「主らの住む場所は、月の宮の麓にあるあの集落よ」指差す先には、たくさんの屋敷が建っている。「我の屋敷も、あの中にあるのだが、我はもっぱら宮の部屋に居る方が多いの。主の部屋も、軍にあるゆえな。」
信明は頷いた。龍の宮に居た時と同じだ。あの時も、宮に一室を与えられていた…。
さらに奥へと登って行くと、本宮の入り口に着いた。そこを入ると、正面の玉座に、若い王が座っていた。一見して維心と同い年に見えるが、きっと違うのだろうと明人は思った。両脇には、たくさんの神が立ち並んでいた。
「ここは謁見の間だ。」
李関が囁いて前へ出ると、片膝を付いて頭を下げた。父も同じように頭を下げ、母は両膝を付いて顔を隠すように頭を下げる。明人も、慌てて父に倣った。神の世界は頭を下げてなんぼなんだな。
李関が言った。
「王、信明殿、妻陽花殿、息子明人殿をお連れしました。」
その王は頷いた。
「ご苦労だった。」と三人を見た。「三人共、表を上げよ。」
全員が顔を上げた。相手は微笑んだ。
「堅苦しい挨拶は、オレには不要だ。だが、これも慣れなきゃならないことなんで、このようにしている。維心様より大体の事は聞いておるので、後は李関が良いようにしてくれるだろう。」と信明を見た。「信明よ。主が来てオレは嬉しいんだ。李関と共に、軍を良くして行ってもらいたい。」
信明は頭を下げた。
「はっ!」
そして、明人を見た。
「主は何歳になるのだ。」
明人びっくりしたが、答えた。
「はい、18になります。」
相手はうっすら微笑んだ。
「そうか。オレも18までは人だと思って暮らしていた。同じだな。」
明人また驚いた。王なのに?
「王も?!」
相手は頷いた。
「まあオレは特殊であったのよ。しかし、主も今からでも、充分に間に合うということだ。父に似て気も強い。良い軍神になるだろうて。」
明人はピンと来なかった。オレは軍神になるのか…。
「ああ、紹介しよう。」と傍らの美しい女を指した。「これは我が妃、瑶姫だ。」
相手は微笑んで会釈した。あまりに美しいので、明人は頭を下げるのが遅れてしまった。
王は苦笑して、回りを指した。
「我が臣下達だ。追々覚えて行くとよい。我が子が二人居るが、今は学びに出ておるのでここにはおらぬ。また紹介しよう。」
三人は、頭を下げた。王は、李関に言った。
「では、後は頼んだぞ。まずは、屋敷に案内してやるといい。」
李関は頭を下げて、こちらを向いた。
「では、案内する。こちらへ。」
再度頭を下げると、三人はもと来た道を戻って行った。
「さあて、ものになると思うか?蒼。」
青銀の髪に金茶の目の、端正な顔の男が言った。
「なんだ十六夜、来てたんなら、紹介したのに。」
十六夜は笑った。
「これが月です、ってか?」相手はからかうように言う。「いや、まだいい。月の人型がうろちょろするのに慣れるまで、しばらく掛かるだろうからな。とにかく今は、ここに慣れて神を知る事からだろうよ。お前も分かってるだろうが、最初は信じられないもんさ。お前は最初、オレに月なんだと証明しろって言ったじゃねぇか。あれと同じような状態なんだ。いっぺんにいろいろ教えたら、パンクしちまわあな。」
蒼は笑った。
「根に持ってるなあ。まあ、あの時の事を思い出したら、確かにそうだろうな。しばらく気に掛けておくよ。」
李関に案内された先は、部屋が4つほどある屋敷だった。
「家電が欲しいなら、何が要るのか申すように」李関は慣れたように言った。「一息ついたら、昼から宮の方へ学校と、軍の施設の案内に参る。陽花殿は、信明殿が働くのでどちらでも良いが、奉公先を見つけたいと申すなら探そう。どこかへ働きに出た方が、こちらへ慣れるのも早いとは思うが。」
陽花は頷いた。李関はそれだけ言うと、宮の方へ飛んで行った。
明人は屋敷の一室を与えられ、そこへ荷物を置いた。横の天蓋が付いていベットの上には、着物が畳んで置いてある。これを着ろということか。
明人が着て来た服を脱いで着物を羽織り、どうしたもんかとすったもんだしていると、母が入って来た。母はもう着物に着替えていて、明人の様子を見て笑った。
「着物も着れなきゃ、大変よ?王族でもなければ、侍女なんていないんだから。」
母はそう言うと、明人がそれを着るのを手伝ってくれた。しかし、着てみるとそれは想像以上に動きづらい。中に着ている着物だけなら、時代劇の金さんが着ているような着流しみたいなのだが、その上から袿を着なければならないのだ。これが裾が長くて引きずりそうだ。
「男の人は、外に出る時違う着物を着るのよ。だから、これは家に居る時とかの着物ね。ほら、あのズボンみたいなやつあるでしょう?あれを着て、短い着物を着るの。昼から出掛ける時は、あっちに着替えましょう。」
それならもう今からあっちにしたいんだけど、と明人は思ったが、自分は何もわからないのだ。慣れてから口答えしようと明人は誓った。
居間へ出ると、もう父が着物に着替えて座っていた。明人には何もかもがきれいで豪華に見えた。こんな金のかかりそうな家、借りてやって行けるんだろうか。オレはすぐにでも、働けるところがあるなら働いたほうがいいんじゃないか。明人は父の傍に座りながら、言った。
「親父、ここって一体家賃いくらぐらいなんだよ。一軒家なんて高いんじゃねぇのか。こんな着物にしたって、まさか全部ただって訳じゃねぇよな。」
父と母は顔を見合わせた。
「…明人、お前はまず、神の世界ってのを学びな。神の世界に金はねぇ。それに似たようなものと言えば、金銀や宝玉の類かもしれねぇがな。我らは王に全てを委ねる。命も全てな。その代わり、王は我らの全てを守る。これが神の世界だ。だから、ここを与えられたということは、ここは我らの住家な訳よ。逆を言うと、他は許されねぇ。王がここに住めと言うんだから、ここに住むんだよ。」
明人にはまだピンと来なかった。
「欲しいものとか出来たら、どうするんだよ?」
父は苦笑した。
「一体何が欲しいんだ?我らは元々、何かを食する必要もねぇ。日々王の為に戦うのみよ。王の命に従い、王のために働く。その成果によって、褒美がもらえることもあるし、希望を聞いてもらうことも出来る。だが、王は我ら全てを守るために、多大な力と時間を使っている。神の世界では、未だ勢力争いがあるんでぇ。」と、さっきから見ていた紙を明人に見せた。「見ろ。これが月の宮の組織図だ。こんなもの龍の宮にはなかったが、さすが王は元人だな。一目でわかる。これはな、忠実に力関係を表している。どこでも、序列はその力の強さで決まる。我ら軍神は、攻撃に使う力が強いためにここにいるが」と軍組織の所を指した。「その中でも頂点にいる、李関殿が今一番力の強い神ということだ。ここに重臣たちの位置も書いてある。こっちは知能が高いってことだ。それでこの地位を保っている。そして、その頂点に居るのが、王だ。」
明人は父の指した先を見た。組織の一番上に君臨する、王…。
「…誰でも、力が強いと王になれるのか?」
信明は首を振った。
「王というのは、そんなに簡単なものじゃねぇ。我ら軍神を全て凌駕する力を持ち、我らを統率しなければならない。そして自分の一族を守り、存続させて行く義務がある。我ら全てが滞りなく安心して生きられるように配慮し、他の神の王達とうまく折り合いをつけ、常にすべてを考えて判断して行かなければならない。簡単なことではないぞ。ま、どう転んでもお前には無理だな。」
明人は父を睨んだ。
「そんなつもりはねぇ。オレは面倒なのはコリゴリだ。王ってのがどれほどなのか、ピンとこねぇんだよ。親父、やたらと頭下げるじゃねぇか。」
父は憮然とした。
「これが礼儀ってもんだ。お前な、生きて行くってのがどれほど大変なのか知ってるのか?人の世界も戦場だが、神の世界は真面目な意味で戦場だ。何も知らねぇ上に空も飛べねぇお前なんて一溜りもねぇよ。ここの王はかなり若いが、あの気は半端なかった。絶対に刃向うんじゃねぇぞ。」
明人はとりあえず頷いた。よくわからないからだ。父はそれを察して苦笑した。
「ま、これからわかって来る。実際に訓練場でやり合い出したらわかるさ。お前は多分、士官学校に入るんだろう。ここは元人がほとんどらしいし、お前の話が合うやつも居るんじゃねぇか。」
そこまで話した後、父はふと宮の方を睨んだ。
「…着替えて来い」と父は自分も立ち上がった。「李関殿が来る。そろそろ行かなきゃならねぇ。口のきき方に気を付けな、明人。」
明人は自分が着替え掛かる時間を思うと、慌てて部屋へ戻った。母も駈け込んで来て、着物を着せかけてくれる。明人は幾分身軽になって、居間へ出て行った。
李関が立って、父と話していた。父はなんて素早いのだろう。
「明人、遅いぞ。では、行こうか。」
父の口調が神のそれに戻っている。明人は口のきき方に気をつけろと言われたのを思い出し、黙って頷いた。そして、また父に腰の辺りを掴まれて、飛んで宮へと戻った。途中、庭先で遊んでいる子供が、途中まで飛び上がって、不思議そうに見ているのと視線があった。明人は、まず飛び方を絶対に教えてもらおうと心に決めた。